落語「武助馬」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「武助馬」(ぶすけうま)より


 

 「どうしたい。しばらくぶりだな~。武助じゃないか」、「遠方に行っていたもので・・・」、「ヒマいただいた後は何やっても巧く行きませんで・・・、」、「好きなことをやっていれば良いんだよ」、「芝居が好きで」、「そうだったね」、「本場上方の璃寛(りかん)の弟子になりました」、「嵐璃寛は良い役者だ」、「私はミカンと言う名前になりました。三年経ちましたが役が付きません」、「桃栗三年と言うぐらいで実が成るよ」、「春に役がもらえて嬉しくて眠れませんでした」、「どんな役を・・・」、「忠臣蔵五段目の猪の役を」、「猪の役で寝られなかったのかい」、「その次は菅原伝授手習鑑の配所の牛をやりました」、「猪の後は牛かい」、「通行人や家来の役で台詞がないので、江戸に戻ってきました」、「誰の弟子になった」、「芝翫(しかん)の弟子になりまして、一貫五百と言う名をもらいましたが、本名の武助で出ています。で、御贔屓の程お願いします」、「いいよ、いいよ、分かった」。
 「今度、一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)に出ることになりました」、「あまり役者は出ないが何を・・・」、「馬になって歩いています。前足が熊右衛門さんと言う方で13年やっています。私は後ろ足です。ぜひ観に来てください」、「馬の足を観に行くのはな~」、「役者は何時でも観られます。馬の足だから粋なんです」、「ご祝儀替わりに行ってあげよう」。
 御贔屓というのは有り難いもので、土間の花道よりに席を買い占め、ご祝儀に花や食べ物を差し入れた。

 「武助さん、ご苦労さん」、「本日は有り難うございます。楽屋連中も喜んでいます」。
 幕もだんだん近づいてきますが前足の熊右衛門さんがいません。「一杯吞んで奥で寝ていたよ」、「起こさなくても、時間が来れば起きるよ。役者なんだから・・・。お客が来て一杯どうだというので吞んでいたら、食べたくなってお前の差し入れの鰻飯を食べたら美味かった。馬の頭を被るよ」、「フラフラしないでください。だいじょうぶですか? あッ、一発やりましたね。こもっちゃって臭いのなんの・・・」、「すぐ消えるよ」、「親方が来たので背中に乗せて舞台に・・・」。
 花道に出ると、お客は待っていて「待ってました!」、馬の上には声が掛かりますが、武助には掛かりません。「馬の足にも誉めてやってくれ」、「待ってました。馬の後ろ足」、「いよッ、日本一」、「待ってました。武助馬」。やろう喜んで、熱演で頑張った。後ろ足で「ヒンヒン」と跳びはねて、乗り手は落ちそうになってしがみついているのがせ~いっぱい。花道から本舞台に上がったので、ここぞとばかり「ヒヒ~ン」といなないたが、客席は大笑い。一幕メチャクチャにした。

 「後ろ足は武助か。ここに呼んでこい。」、「お疲れさん。贔屓もこれだけ来てくれると、親方も喜んでくれるでしょう」、「何言ってんだ。怒っているからこっちに来な」。
 「お疲れ様ッ」、「馬鹿野郎ッ。今日のザマ~はなんだ!」、「嬉しかったので、飛び上がってしまいました。乗りにくかったのはお詫びします」、「跳ねるのは、お前が嬉しいからだ。それじゃないんだ、お前、いなないたなッ。お前は後足なのになんで鳴くんだ」、「後足で鳴いて・・・?、でも、熊右衛門さんは前足でオナラをしました」。




ことば

武助馬にまつわる、江戸落語の元祖を襲った悲劇
関山和夫著 『落語名人伝』 白水ブックスから引用。
 元禄6年(1693)の4月下旬に、江戸でソロリコロリ(コレラ)という悪い病気が流行した。一万余人の人々が死んだという。妙な流言蜚語が江戸市中に飛び、大騒ぎとなった。そのころ、あるところの馬が人間のことばを使って「南天の実と梅干を煎じて飲めば即効がある」といったという、とんでもないデマが飛んだ。おまけに、その由をしたためた「梅干まじないの書」という小冊子が印刷され、その本がまた飛ぶように売れた。そして、南天の実と梅干の値段はたちまち騰貴して二十倍、三十倍にまではねあがった。人心を乱すことはなはだしかったのでついに6月18日付で町奉行能勢出雲守から江戸市中へ触書を出して、厳重に取りしまることになった。
 いろいろ詮索した結果、その流言の犯人として神田須田町の八百屋惣右衛門と浪人の筑紫団右衛門の二人が逮捕されたが、この両人は、馬が人語を発したというのは、噺家の鹿野武左衛門が書いた『鹿の巻筆』第三「堺町馬の顔見世」の咄からヒントを得て、梅干と南天の実の値上げを考え、「梅干まじないの書」を出版したことを告白した。八百屋と浪人が悪巧みをするヒントになった咄とは次のような内容だった。
(下記:「堺町馬のかほみせ」 正徳6年(1716)に「鹿の巻筆」が再販。国立公文書館蔵)

 『市村芝居へ去る霜月より出る斉藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み煙草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼みけり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤庄太夫と私、花が一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。
 されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、”いゝん”といいながら舞台うちを跳ね廻った』。
 ここに出てくる伊藤庄太夫というものは、当時の座頭か人気者であろうと思われる。

 あくまで、甚五兵衛の馬は“いゝん”と鳴いただけなのだが、詐欺師二人がこの咄が騙しの手口のヒントと言ったために、悲劇が始まる。
 結局、元禄7年3月13日に筑紫団右衛門は主犯として江戸市中引廻しの上、斬罪に処せられ、八百屋惣右衛門は従犯として流罪(または獄死)となった。気の毒なのは噺家の鹿野武左衛門で、彼も伊豆大島へ流されてしまった。『鹿の巻筆』の板木は焼かれ、版元の本屋弥吉も江戸追放、「梅干まじないの書」も焼却された。この鹿野武左衛門の大島流罪については延広真治が著書『江戸落語』でも疑問を投げかけている。

 どうやら鹿野武左衛門は、この金もうけに一枚かんで、団右衛門らに頼まれて、南天と梅干の効能書「梅干まじないの書」を書いたらしい。そうでなければ、暗示を与えたぐらいで島流しの重罪に問われるはずがなかろう。もっとも噺家の武左衛門が、そんなに腹の悪い男とは思われないので、おそらくは八百屋惣右衛門らにおだてられて一筆書いてしまったものであろう。

 流罪か牢獄だったのかは不明なので別として、江戸落語は武左衛門の事件以来、しばらく停滞する。

 出獄後の武左衛門については不明なところも多いが、延広真治は前掲の書で、京阪に上った可能性を指摘している。服役中の疲労が元で出獄後まもなく元禄十二年(1699)八月に五十一歳で亡くなったという説もある。いずれにしても、事件前の人気、名声とはかけ離れた世界にいたことだろう。
 しかし、武左衛門の功績は小さくない。その一つが、今に残る噺の素材を残してくれたことだ。

コレラ:日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ文政5年(1822)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、安政5年(1858)から3年にわたり大流行となった。 安政5年(1858)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。文久2年(1862)には、残留していたコレラ菌により大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万人~数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
 コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実、明治元年(1868)に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は2~3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。明治12年(1879)と明治19年(1886)には死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。明治23年(1890)には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥール号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。また明治28年(1895)には軍隊内で流行し、死者4万人を記録している。

馬の足(うまのあし・馬の脚);芝居で、作り物の馬の中にはいって、足になる役。ひとりが前足、ひとりが後足となる。転じて、下級の役者。へたな役者をあざけっても言う。

 

「堺町馬のかほみせ」 正徳6年(1716)に「鹿の巻筆」が再販。国立公文書館蔵 

嵐璃寛(あらし りかん);上方の歌舞伎役者の名跡で五代目まである。二代目 嵐璃寛(2だいめ あらし りかん、天明8年〈1788年〉 - 天保8年6月13日〈1837年7月15日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は伊丹屋、俳名は里鶴・玉山・璃珏。 初代嵐猪三郎(璃寛の芸名は名乗らなかった)の門人で、寛政12年(1800)、二代目嵐徳三郎を名乗り大坂の竹田芝居で初舞台。その後実力が認められて中芝居にも出演するようになる。文政2年(1819)に嵐壽三郎と改名したが、すぐにもとの徳三郎に戻る。文政5年9月、二代目嵐橘三郎を襲名。文政11年(1828)8月に二代目嵐璃寛を襲名した。 当り役は『雁金五人男』の雁金文七、『八犬伝』の犬塚信乃など。背が低い割りに目が大きかったので、徳三郎の名から取って「目徳」のあだ名があった。時代物、世話物いずれもよくしたが特にじっと苦難に耐え忍ぶ辛抱立役に巧さを出し、最後の舞台では二代目尾上多見蔵と共演したとき、見物の受けを狙おうと動きすぎる多見蔵にくらべて璃寛はじっと腹で芝居をし、当時の評判記『役者ひめ飾』にも「ゑらいちがふたものじゃと一統かんしん(感心)しました」と書かれるほどであった。 天保8年6月に死去し本葬が7月3日に執り行われたが、そのときは角の芝居と中の芝居の関係者70人ほどが、揃いの橘の紋をあしらった帷子を着て警固し、ちょうど芝居も休みの時分だったので、門人や四代目中村歌右衛門をはじめとする人気役者たちが残らず参列した。それを見物しようと多くの野次馬が集まり、筆紙に述べがたい騒ぎだったという。門人に三代目嵐璃寛がいる。
右図:二代目嵐璃寛の小割伝内。天保3年(1832)9月、大坂中の芝居『払暁浦朝霧』(ほのぼのとうらのあさぎり)より。春江斎北英画。部分。

桃栗三年(ももくりさんねん);桃栗三年柿八年。 芽生えの時から、桃と栗とは3年、柿は8年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ。
 JAグループ福岡に実際に実が成までの年数が記されています。l

忠臣蔵五段目の猪(ちゅうしんぐら 5だんめのいのしし);歌舞伎仮名手本忠臣蔵・五段目山崎街道の場。
   

上図:「五段目」北尾政美画。

 家老・斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では山賊である。「さっきから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と、定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付け上がる。サアその金をここへまき出せ」。老人が自分の娘の婿(早野勘平)のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を谷底に蹴り落とした。
 だがそのうしろより、逸散に来る手負いの猪。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送る。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。 定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人(義理の父)より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。
 五段目は落語「中村仲蔵」に詳しい。

五段目余話
 猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役に出ることになり、楽屋で待機していたらうっかり寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花道から舞台に向って走り出したらちょうど四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し芝居がめちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」(猪)に聞こえてしまったのである。
 ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも「成田屋」や「中村屋」のように声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋ッ!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
 また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていたらしい。十七代目中村勘三郎の話によれば、ある猪役の役者は本舞台に行くと、大道具の松の木に手をかけ「向うに見えるは芋畑、芋でも食ってくれべえかぁ」といって見得をしたという。
 与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。
「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」。
 与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。
 落語「中村仲蔵」より転載
右写真:歌舞伎に登場の猪。国立演芸場の猪。

菅原伝授手習鑑の配所の牛(すがわらでんじゅてならいかがみ);『菅原伝授手習鑑』とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。
 四段目(筑紫配所の段)、白太夫は筑紫に下り菅丞相のそば近くに仕え、丞相は配所で心静かに配流の日々を送っていた。今日も白太夫が引く牛の背に乗りながら、安楽寺へと参詣に向う。寺に着くと住職が丞相を出迎え、ちょうど梅の花見時でもあったところから、梅の花を見ながらのもてなしを丞相は受けるのであった。

 

 『菅公牛上の図』 小林清親(きよちか)画

芝翫(しかん);中村 芝翫(なかむら しかん)は、歌舞伎役者の名跡。定紋は祇園守、替紋は裏梅。屋号は初代と二代目が加賀屋、三代目以降が成駒屋。 「芝翫」は三代目中村歌右衛門の俳名に由来する。三代目歌右衛門(右図)は文化15-6年 (1818 -1819) の短い期間これを名跡として名乗っていた。かつては歌右衛門の前名として使われていたが、七代目は襲名後この名を終生通し、人間国宝となった。以後、現在まで歌右衛門とは系統が分かれている。
 初代中村歌右衛門の子。大坂に生まれ、天明8年(1788)3月に10歳で加賀屋福之助を名乗り、京都の都万太夫座で初舞台を踏む。翌年には大坂中の芝居に出る。 寛政2年(1790)10月、父歌右衛門が死去し、翌月に父の門弟が名乗っていた歌右衛門の名跡を譲り受け襲名する。享和元年(1801)11月より立役となり、二代目嵐吉三郎と競い合い大坂で人気を二分した。文化5年(1808)江戸に行き、中村座に出て大当りを取る。その後踊りの名手三代目坂東三津五郎と競い合い江戸でも人気を博す。 文化15年(1818)2月に中村芝翫を名乗るが、翌年大坂で歌右衛門の名に復し以後立役をつとめる。文政8年(1825)に一度引退興行を行なうが、すぐ舞台に復帰する。評判記には文政10年(1827)に「無類」、天保3年(1832)には「古今無類総芸頭」を受ける。しかしこの頃から病気がちになり、天保7年(1837)門下の二代目中村芝翫に歌右衛門の名を譲り、自らは中村玉助と名乗った。その二年後大坂で没す。享年六十一。

一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき);浄瑠璃の一。並木宗輔ほか合作の時代物。宝暦元年(1751)初演。一谷の戦に、熊谷次郎直実が平敦盛を討って遁世し、また、岡部六弥太が平忠度を討ったことを脚色。「熊谷陣屋」の段が有名。後に歌舞伎化。
 二段目(組討の段)平家の軍はほとんどが船に乗り、八島へ向けて退こうとしている。須磨の浜の波打ち際、敦盛もその船を目指し沖に向って馬を走らせる途中、声を掛けたのはこれも騎馬の熊谷直実。引き返して勝負あれとの熊谷の言葉に、敦盛は引き返し、熊谷と一騎討ちの勝負に及ぶ。やがて互いは得物も捨てて組み合ううちに馬より落ち、最後は熊谷が敦盛を組み伏せた。しかし熊谷は、覚悟を極め自分の首をとれとしおらしくいう敦盛を憐れみ逃がそうとするが、その様子を平山武者所が、離れたところから手勢を率いて見ていた。わざわざ組み敷いておきながら平家方の大将を逃がすとは、熊谷には二心あるに極まったと声高に罵る。敦盛は自分の回向を頼み、熊谷はやむを得ず、ためらいながらも「未来は必ず一蓮托生」と願い、敦盛の首を討ち落とした。 平山に深手を負わされ倒れていた玉織姫は、敦盛を討ち取ったというのを聞き何者が敦盛を討ったのかと弱々しく声をかける。熊谷はそれに気づいて姫のそばに駆け寄る。熊谷は姫が敦盛の妻であるというので、せめてものことに討ったばかりの首を姫に抱かせるが、姫はもはや目も見えず、敦盛の死を嘆き悲しみながら息絶えた。都以外のことを知らぬ貴公子や姫君のかかる最期の無惨さに、敵方である熊谷も涙するのだった。熊谷は敦盛と姫の死骸を馬の背に乗せ、首を片手に抱え馬を曳きながら自らの陣所へと帰る。

 
 上図:「組討」 熊谷が沖へと向う敦盛を呼び戻すという場面。四代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛。嘉永3年(1850)5月、大坂中の芝居。五粽亭広貞画。

土間の花道よりの席;江戸時代の芝居の客席は、中央に枡席があって、左右に2~3階席が設えられていた。料金は両サイドの席より、中央の枡席の方が安かった。旦那は武助の馬が良く見えるように、花道側の席を確保した。下図の赤線枠の中、豊国画。

 

花道(はなみち);歌舞伎小屋(劇場)で、舞台の延長として客席を縦断して設けた、俳優の出入する道。もと俳優に贈る花を持って行くための道として、両側に竹の埒(ラチ)を結ったものに始まるなど、名の由来については諸説ある。舞台に向かって左方のを本花道、右方のを仮花道という。上図参照。

贔屓(ひいき);気に入った者に特別に目をかけ、力を添えて助けること。後援すること。後援者。パトロン。



                                                            2017年10月記

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