落語「武助馬」の舞台を行く 立川談志の噺、「武助馬」(ぶすけうま)より
■武助馬にまつわる、江戸落語の元祖を襲った悲劇
『市村芝居へ去る霜月より出る斉藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み煙草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼みけり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤庄太夫と私、花が一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。
あくまで、甚五兵衛の馬は“いゝん”と鳴いただけなのだが、詐欺師二人がこの咄が騙しの手口のヒントと言ったために、悲劇が始まる。
どうやら鹿野武左衛門は、この金もうけに一枚かんで、団右衛門らに頼まれて、南天と梅干の効能書「梅干まじないの書」を書いたらしい。そうでなければ、暗示を与えたぐらいで島流しの重罪に問われるはずがなかろう。もっとも噺家の武左衛門が、そんなに腹の悪い男とは思われないので、おそらくは八百屋惣右衛門らにおだてられて一筆書いてしまったものであろう。 流罪か牢獄だったのかは不明なので別として、江戸落語は武左衛門の事件以来、しばらく停滞する。
■コレラ:日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ文政5年(1822)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、安政5年(1858)から3年にわたり大流行となった。
安政5年(1858)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。文久2年(1862)には、残留していたコレラ菌により大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万人~数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
■馬の足(うまのあし・馬の脚);芝居で、作り物の馬の中にはいって、足になる役。ひとりが前足、ひとりが後足となる。転じて、下級の役者。へたな役者をあざけっても言う。
「堺町馬のかほみせ」 正徳6年(1716)に「鹿の巻筆」が再販。国立公文書館蔵
■嵐璃寛(あらし りかん);上方の歌舞伎役者の名跡で五代目まである。二代目 嵐璃寛(2だいめ あらし りかん、天明8年〈1788年〉 - 天保8年6月13日〈1837年7月15日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は伊丹屋、俳名は里鶴・玉山・璃珏。
初代嵐猪三郎(璃寛の芸名は名乗らなかった)の門人で、寛政12年(1800)、二代目嵐徳三郎を名乗り大坂の竹田芝居で初舞台。その後実力が認められて中芝居にも出演するようになる。文政2年(1819)に嵐壽三郎と改名したが、すぐにもとの徳三郎に戻る。文政5年9月、二代目嵐橘三郎を襲名。文政11年(1828)8月に二代目嵐璃寛を襲名した。
当り役は『雁金五人男』の雁金文七、『八犬伝』の犬塚信乃など。背が低い割りに目が大きかったので、徳三郎の名から取って「目徳」のあだ名があった。時代物、世話物いずれもよくしたが特にじっと苦難に耐え忍ぶ辛抱立役に巧さを出し、最後の舞台では二代目尾上多見蔵と共演したとき、見物の受けを狙おうと動きすぎる多見蔵にくらべて璃寛はじっと腹で芝居をし、当時の評判記『役者ひめ飾』にも「ゑらいちがふたものじゃと一統かんしん(感心)しました」と書かれるほどであった。
天保8年6月に死去し本葬が7月3日に執り行われたが、そのときは角の芝居と中の芝居の関係者70人ほどが、揃いの橘の紋をあしらった帷子を着て警固し、ちょうど芝居も休みの時分だったので、門人や四代目中村歌右衛門をはじめとする人気役者たちが残らず参列した。それを見物しようと多くの野次馬が集まり、筆紙に述べがたい騒ぎだったという。門人に三代目嵐璃寛がいる。
■桃栗三年(ももくりさんねん);桃栗三年柿八年。
芽生えの時から、桃と栗とは3年、柿は8年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ。
■忠臣蔵五段目の猪(ちゅうしんぐら 5だんめのいのしし);歌舞伎仮名手本忠臣蔵・五段目山崎街道の場。
家老・斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では山賊である。「さっきから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と、定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付け上がる。サアその金をここへまき出せ」。老人が自分の娘の婿(早野勘平)のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を谷底に蹴り落とした。
■五段目余話
■菅原伝授手習鑑の配所の牛(すがわらでんじゅてならいかがみ);『菅原伝授手習鑑』とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。
『菅公牛上の図』 小林清親(きよちか)画
■芝翫(しかん);中村 芝翫(なかむら しかん)は、歌舞伎役者の名跡。定紋は祇園守、替紋は裏梅。屋号は初代と二代目が加賀屋、三代目以降が成駒屋。
「芝翫」は三代目中村歌右衛門の俳名に由来する。三代目歌右衛門(右図)は文化15-6年 (1818 -1819) の短い期間これを名跡として名乗っていた。かつては歌右衛門の前名として使われていたが、七代目は襲名後この名を終生通し、人間国宝となった。以後、現在まで歌右衛門とは系統が分かれている。
■一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき);浄瑠璃の一。並木宗輔ほか合作の時代物。宝暦元年(1751)初演。一谷の戦に、熊谷次郎直実が平敦盛を討って遁世し、また、岡部六弥太が平忠度を討ったことを脚色。「熊谷陣屋」の段が有名。後に歌舞伎化。
■土間の花道よりの席;江戸時代の芝居の客席は、中央に枡席があって、左右に2~3階席が設えられていた。料金は両サイドの席より、中央の枡席の方が安かった。旦那は武助の馬が良く見えるように、花道側の席を確保した。下図の赤線枠の中、豊国画。
■花道(はなみち);歌舞伎小屋(劇場)で、舞台の延長として客席を縦断して設けた、俳優の出入する道。もと俳優に贈る花を持って行くための道として、両側に竹の埒(ラチ)を結ったものに始まるなど、名の由来については諸説ある。舞台に向かって左方のを本花道、右方のを仮花道という。上図参照。
■贔屓(ひいき);気に入った者に特別に目をかけ、力を添えて助けること。後援すること。後援者。パトロン。
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