落語「二人酒」の舞台を行く
   

 

 六代目三升家小勝の噺、自作「二人酒」(ににんざけ)より


 

 『酒の無い国へ行きたい二日酔い また三日目に帰りたくなる』。酒飲みはなかなか止められないものです。

 酒飲みのクセにもいろいろ有って、笑い上戸に泣き上戸、怒り上戸は代表的なクセです。
 後引き上戸が御座いまして、一本飲むと、もう一本飲みたくなります。戦争直後は困りましたね。一本しか飲ませてくれない。
 「帰ろうか」、「もう一本、もう一本飲もうよ。まだ三本だよ」、「おでん屋の規則で、酒の量が無いから皆で吞んで貰おうとなると、一本なんだな」、「なんでおでん屋の肩を持つんだ。友達の肩を持たないのだ」、「酒を飲むと陰気になるな、悪い上戸だ」、「俺は憂国の志士だぞ」、「シシが虎になったらしょうが無い」。
 「この酒も、君の方が余計に飲んだんだぞ」、「分かった。もう一本貰ったから、これを飲め」、「怒ったのか。まぁまぁま、きみから呑めよ。細かいことは言わないから、コップでやれよ。ぐっと、グッとやりな。イイ飲みっぷりだなぁ~。うんッ?酒が残ってないよ。皆コップに注いじゃったんだ」、「キリが無いから帰ろうよ」、「君が飲んじゃったんじゃ無いか。可哀相だからもう一本。貰って来るよ」、「僕はお猪口一杯でイイから、後は君が呑めよ。この一杯が旨いんだ。んッ、もう無くなったよ。無いと前に飲んだ酒が無駄になっちゃうような気がするんだ」。
 「今日は人が来るんだ、酔っていたらマズいんだ。この辺にして帰ろうよ」、「あと一本、キュッとやって、スッと帰ろうよ」。「(友人の方が酔いが回ってきた)分かった。分かったよ」、「なんだ、吞むだけ飲んで帰ろうというのか? 君は俺の後輩だろ。君はそんなに薄情だったのか。僕は君を親友だと思って付き合ってきた。ここだって、まだ20本や30本吞もうと言うのと違うよ。(泣き上戸になって来た)僕はウルサいよ。酒飲みは、何のかんのと言って迷惑だろう(絡み上戸になっている)。この位の酒で・・・、ウエェ~ン」、「分かった解った、僕が悪かった。これ一本もらったから呑めよ」、「エッ、ヘヘヘ、怒らないか?」、「怒らない。では、お先に。この一杯が吞みたいんだ。旨いな!この一杯で止めちゃうんだ。切り上げのイイ酒」。
 「へへへ、酔ってきたぞ。もう一杯吞もうか」、「え? もう一本吞むか? バンザ~ィ。下戸には分からんねこの気持。僕もコップで吞むよ。・・・もう少~しゆっくり吞もうか」、「もう一本持って来い」、「え?もう一本? もうよそうよ、規則以上吞んじゃったから・・・」、「誰が決めた規則だ」、「今度ゆっくり吞むから、今日はこれで帰して・・・」、「(けんか腰で)オイ、もう一本持って来い」、「悪い酒だな。今日はこれで帰ろう。今日は僕が勘定持つから・・・」、「勘定ッ、オイ、コラ、勘定持つと言ってるな」、「何だよ・・・、言ったよ」、「じゃ~、払っておけ」。

 



ことば

配給制度;戦時経済下に行われた統制配給をいい、日本ではとくに第二次大戦から戦後一時期にかけて行われた。この意味の配給制度は、第一次大戦中のドイツで最初に実施されたといわれている。日本では、昭和13年(1938)綿糸配給統制規則によって国内綿糸の消費量が規制されたのに始まり、以後、昭和14年(1939)の電力調整令、昭和15年(1940)の砂糖・マッチの切符制、昭和16年(1941)の米穀配給制、昭和17年(1942)の衣料総合切符制と続き、日用品から生産資材に至る、副食、酒、マッチ、煙草、木炭、衣料などの生活必需品などほとんどの物資が統制配給の対象となった。消費物資を統制配給する代表的方法は、各世帯に人数に応じた切符をあらかじめ交付しておき、それと引き換えに物資を渡すものであり、これを切符配給制(切符制度による配給)といった。統制配給の象徴ともみなされ、形を変え形骸(けいがい)化しながら昭和56年(1981)の改正(需給調整に転換)まで残っていたのが、昭和17年(1942)の食糧管理法(食管法)であった。統制配給は、物資の絶対的不足の条件下で実施されたため、いわゆる闇(やみ)取引を誘発し、さまざまの不正を生み出した。また、戦争の激化により配給条件さえ満たされないことも多かった。戦後経済の復興とともに統制は順次撤廃され、現在では存在しない。

 酒の配給制度 お酒は、昭和16年5月から配給統制が行われ、一世帯当り1ケ月酒4合、ビール2~4本、但し冠婚葬祭については一回1升、入営、出征の場合は2升の特配がありました。
洒の配給は平等割でしたので、いったん配給を受けてから、ゆずり合ったり物々交換によって、ほかの必要品を手に入れる手段としたので、愛酒家にとっては有難くない結果を招き、いわゆる闇酒の横行となり値段はつり上がり、水増しのいかがわしい酒が現われたりしました。
 終戦後のことでしたが、酒飲みたさのあまり、少し位は大丈夫だろうと思って、工業用や、試験室や理科実験室からメチールアルコールを持ち出して飲み、不覚にも命を落した人が何人かありました。
 こんなことから、窮余の策として「どぶろく」と言う密造酒作りが流行した

 世の中が落ちつきを取り戻していくと、食料品の生産量も増加し、厳しい統制下に置かれた物品も市場に出まわるようになる。そのため統制する必要もなくなり、再び自由に物品を売買することができるようになった。
 昭和31年(1956)の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記され、日本は短期間に驚異的な復興をとげた。
 酒類自由販売のポスター。ヤミ酒や密造酒に手を出さないよう呼びかけている。戦中より続いていた統制制度も、世情の安定に伴い徐々に緩和や撤廃されていった。酒類への統制は昭和24年(1949)5月に解除され、自由販売されるようになった。同年7月には酒類配給公団が廃止され、酒造会社は自由に出荷・販売できるようになった。
 志ん生の噺の中に、「酔った男が通りかかったので、声を掛けてみた。『知っているのか?』、『知らない男だよ』、『なんて声を掛けたんだ』、『今時何処で、そんなに酔わせてくれる所が有るんだぃ』と」。
そのぐらい、飲み助は吞みたかったのです。
また、吞んだ1升瓶の空瓶を縁の下に転がしておいた。その空瓶を酒屋に持って行ったら、また呑めた。

六代目三升家小勝(6だいめ みますやこかつ);(1908年8月3日 - 1971年12月29日)は、東京出身の落語家。本名、吉田 邦重。生前は落語協会所属。出囃子は『井出の山吹』。通称「右女助の小勝」「糀谷の師匠」。夫人は舞踊の花柳一衛。
 神田錦町の電機学校(現:東京電機大学=北千住)卒業後、東京市水道局(現:東京都水道局)に勤務し金町浄水場の技師を務める。当時の落語家の中では珍しいインテリ出身であり、協会の幹部候補だった。 昭和5年(1930)3月、叔父の友人「中村さん」の紹介で、曲芸の春本助次郎を通じて八代目桂文楽に入門。文楽の「文」と中村の「中」から一字ずつ取って「桂文中」と名乗り、常磐亭で初高座。昭和6年(1931)3月、「桂文七」で二つ目に昇進する。昭和11年(1936)5月にキングレコード専属となり、最初の吹き込みレコードを発売。このレコードに収録された自作の新作落語『水道のホース屋(のちの『水道のゴム屋』)』がヒットする。昭和12年(1937)5月、「二代目桂右女助」を襲名、真打昇進。明るくスマートな芸風で、高座でもレコードでも人気を博す。 太平洋戦争中2度応召に遭い、寄席の高座やレコードの吹き込みも中断された。戦後も新作落語を高座にかける一方、古典落語にも力を入れ、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌と並んで「両刀使い」と称された。昭和31年(1956)3月、「六代目三升家小勝」を襲名。師匠・文楽が昭和46年(1971)12月12日に没してからわずか17日後の同月29日、後を追うようにして死去。享年63。

 

 「居酒屋」 江戸東京たてもの園にて。 この居酒屋は『鍵屋』と言って下谷坂本町(台東区下谷)にあった。昭和24年(1949)に営業を始め、町の人に愛され著名人も通った。

左図:「居酒屋鍵屋」酒井不二雄画 1969年5~6月写生。東京おもかげ画帖より

上記たてもの園の復元された写真ではなく、現在盛業中の店内を描き写したものです。
 酒井不二雄氏の言葉で、「安政大地震の時に建てられたと言うから、都内でも最古の建物の一つである。上野の彰義隊が出入りしていて、柱に刀傷も残っているから、まさに文化財的価値がある。天井の自在鉤は鉄の鐙(あぶみ)をかけ、土間の腰掛けは樽。すすけて黒光りする店内は明治の情緒である。居酒屋は戦後に開店した。この店も、道路拡張し、環状三号線が出来たので姿を消した」。 

私の知っている喧嘩上戸;喧嘩したくて何にでも絡んでくる奴。吞んでいるからと、こっちはなだめながら吞んでいるのだが「オイ、この間のことは何だッ」、「何のことだぃ」、「とぼけるんじゃ無いよ」、「何が・・・」、こうして延々とクダをまかれます。もう二度と一緒に吞みたくない酒飲みです。どの友達にも同じ事を言って、飲み友達がいなくなります。酒は楽しく飲むものなのに・・・、ねぇ~。
 逆に酒を飲まない喧嘩上戸。酒を飲むと心が開いてきて、言わなくて良いことを言ったり、会社の上司の悪口を言ったりするものです。この席に一人酒を飲まないのが入っていて、翌日、あいつは、あんな事を言った、悪口を言っていた。と言いふらすのです。これも仲間を無くしますね。
 『酒癖の悪いヤツほど、飲み会を断らない』。

酒の濃さ;戦後の酒が無い時代は知りませんが、同じ怒られるのでも、水割りなどの割った酒では「この酒薄いのではないか?」と私の若い頃は言われたものです。最近は逆に「誰だ。こんなに濃くしたのは・・・。薄めて来いよ」です。酒飲みも酔うことより、楽しく吞むことが出来るようになりました。
 私の飲み友達は、”酒は飲むもので、酒に飲まれるな”を実行しています。

勘定;勘定が払えなくてグズグズいつまでも飲んでいるのがいます。金馬演じる落語「居酒屋」の主人公ではありませんが、勘定となると、トイレに行って帰ってこない奴。勘定が済んだ頃に「悪いッ、悪い」と言いながら戻ってくる奴。本当に悪い奴です。一回は見過ごしますが・・・。
 会費制で飲んで、会計の時幹事さんが集金して、その合計をカードで払い、ポイントと現金を自分のものにする幹事。その事を言うと、「良いだろう。彼の手間賃だ」。最近はここまで鷹揚になって来ています。時代が豊かになったからでしょうね。
 割り勘制の時、必ず出るのが「俺は飲まないのに、あんなに飲む奴と同じ割前じゃ割が合わない」。今の若い人達は酔うために飲んではいませんので、料理も適当につまんでいます。実はこの料理の方が酒よりも単価が高くて、料理・肴食いの方が、正直料金がかさむのです。最近は大人の世界でも、烏龍茶しか飲まない人でも割り勘で帰って行きます。その集まりが楽しいからで、その場の参加料です。
 それよりは、会社で社員旅行や新年会・暑気払いなどの飲み会があっても、時間外であって、飲んでいるより、自分のしたいことを優先し、参加しない奴が増えました。コミュニケーションは死語になりつつ有ります。ノミニケーションも死語です。

酒の無い国へ行きたい二日酔い また三日目に帰りたくなる
 二日酔いは、過度の飲酒により、翌日まで頭痛やめまい、吐き気など、気分の悪い状態が続くことを二日酔い(宿酔【しゅくすい】)といいます。二日酔いは、アルコールを代謝する過程で出る有害物質、アセトアルデヒドが血液中に残留していることが原因で起こります。
 代謝しきれないアルコールの摂取は、アルコールを分解する際にできる有害物質、アセトアルデヒドを代謝しきれず、体内に残ってしまうと、頭痛やめまい、吐き気などをもよおします。また、アルコールを代謝する際に大量の水分が消費され、脳を保護する髄液が減少する低髄液圧症候群となり頭痛を感じることもあります。
 
 予防法として、
 ・お酒を飲む前に肝機能を高める食品やサプリメントをとる。
 ・二日酔いを防ぐおつまみを一緒に食べる。枝豆やじゃがいも、おくらや長いも、なめこなど、梅や、しじみやゴマも有効な食材。
 ・水分を補給する。身体に吸収されやすいスポーツ飲料など。
 ・お腹にカイロを貼る。肝臓の機能を高めるため腹に使い捨てカイロを貼る。
 しかし、大事なことは、適量を知り、それを超える量やペースにならないよう、気をつけて飲むことが、最善の予防法になります。落語の噺のような時代だったら、二日酔いも無かったでしょう。
飲み過ぎは解ってはいるのですが・・・。それが分かっていれば二日酔いにはならない。

 では、なってしまったら、
 ・二日酔いを軽減させる食品をとる。 胆汁の分泌を促し、代謝機能を助けるアミノ酸やビタミンB12が豊富なシジミ、浅蜊。マイタケやお酢を使った料理も肝機能を高め代謝を促します。
 ・お茶やコーヒー、果汁100%ジュースで水分を補給する。カフェインは、二日酔いの頭痛を和らげ、肝機能を高める働きをもっています。お茶にはカフェインに加えて、アルコールの吸収を抑える効果もあります。また、果汁100%のジュースでは、アルコールの分解によって不足している水分と、肝臓の働きのエネルギーとなる糖分を手軽に補うことができます。水分を補給することで、体内に残るアルコールが尿として排出されますので、水分は多めにとる。
 ・最後には市販の薬を使う。

 それによって、二日酔いが軽減されてみると・・・、やはりその世界に戻りたくなるのが酒飲みです。

 『酒がいちばんいいね。酒というのは人の顔を見ない。貧乏人も金持ちも同じように酔わせてくれるんだ』。古今亭志ん生。

 『神はこの世を六日間で創り給うた。そして七日目には二日酔いを与え給うた』。写真家のロバート・キャパ。

 最後に一言、『いい酒は朝が知っている』。 それには、『もう一杯、と思う頃合でグラスを置くべし』。



                                                            2017年10月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system