落語「心のともしび」の舞台を行く
   
 

 宇野信夫作
 三遊亭円生の噺、「心のともしび」(こころのともしび)


 長屋で細々と傘張りをして暮らしている浪人・田島左平太がいた。そこに大工の惣助が訪ねて来て、昨日の無礼は勘弁してくれと頼み込んで「字を教えて欲しいと、再度懇願した」、「よせよせ、昨日言った様に、お前と字とは合わないものだ」、「一字一句頭に入れるから、教えてください」、「断る。貴様ほど物覚えの出来ないのはいない。あきらめろッ。小一年前、銭湯で卑猥なウタを唄っていた奴がいた、のぼせて倒れたのを助けたのが始まりで、付き合いが続いている。気が合うのか夜ごと遊びに来るが、文字を教えてくれと言うまでは良かった。教えても、覚えられない。もう、止めろッ
」、「字の読める奴に、良い仕事が出来ない。親父も私も無筆ですが、それが間違っているのが分かった。どうぞ、教えてください」、「じらさんと言うなら教えてつかわす」。
 「読むから良く聞け。い・ろ・はにほへと」、「ゆっくり読んでください。覚えられません」、「最初の三字だけ読んでみろ」、「いろは」、「良く読めた。では、書いてみろ。字を書くのだ」、「い・・・」、「ははは、良く書けた。味わいあって、自由奔放で良寛和尚に似た字だ。では、『ろ』の字を書け」、「?・・・、こうだったかな~」、「バカ、こんな字は無いッ」、「勘弁してください」、「読めないのに、字を書かしたのがいけなかった」。
 「読んでみろ。この字は何だ」、「???『い』」、「違うッ」、「・・・『ろ』」、「違うッ」、「・・・『は』」、「ばか!順に行けば当たるッ。これは?」、「ど忘れしたんで・・・、チョット待って下さい。・・・え~と」、「『にぃー』だ。ばか。お前には覚えられない。帰れ、帰れ。帰らないと切るぞ」、「あっしを切るというのですか?」、「そうだ、真っ二つにする」、「あっしみたいな人間は生きていたってしょーが無い。切ってください」、「本当に切るぞ」、「切ってください」、「ふてぶてしいやつだ。帰れ、帰れ」、「帰りません。死んでも、ここを動きません」、「なにッ~」、「イテテ、何するんです」。襟がかみ掴んで、外に放り出した。すごすごと帰るより無かった。

 その翌晩、祭りだからと酔ってやって来た。「先生。上がりますよ。傘張り、忙しかったら手伝いますよ。まだ怒ってるんですか?」、「酔った振りして、ちっとも飲んではいないじゃないか」、「・・・、分かりますか。酔った振りしないと、恥ずかしくて来れないんです。死んだつもりでやりますから、もう一度教えてください」、「止めろ止めろ」、「お願いします」、「それ程知りたいのか?」、「そうなんです」、「惣助、聞きなさい。おまえは血の巡りの悪い男だ。私・田島左平太は気が短い。その性格のため、今では浪人をしておる。そちに文字を授けたいが、それが出来ん。許してくれ」、「先生、頭を上げてください」、「わしには出来ん。教えられないのだ。許してくれ」、「分かりました。先生がそれ程言うのなら・・・。私は死んだ方がイイのでしょう。先生達者で・・・、あっしみたいな者はこの世にいない方が良いんです」、「これこれ、待てッ。字を覚えなければ死ぬというのか」、「死ぬだけの訳があるんです」、「訳が有ったら言ってみろ」、「先生、何もかにもぶちまけて言います。聞いておくんなさい」、「何だ」。

 「先生もご存じ、私の娘・お種(たね)は十八になります。町内の評判娘です。かかぁは早く死んで、私が育て、自慢の種にしていたんですが、橋向こうの越後屋という油屋の若旦那から、嫁にくれと話が有りました。私は大店(おおだな)のおかみさんになるのだからと喜びました。娘に話したら『いやだ』と言うんですよ。聞いてみると『あすこは大店で、おとっつぁんは無筆で来にくくなるでしょ。無筆のことをいろいろ言われるとおとっつぁんがあまりにも可哀相だ。大きな所より、私と同じくらいおとっつぁんを大事にしてくれるところに嫁に行きたい』と言うんです、先生。あっしはその時初めて目が覚めたんです。有り難いと思って、さっぱりと一かわ鉋(かんな)で削ったような気持になって、博打は止めて、酒もなるべく飲まないようにして稼ぎました。娘もそれが分かったようで、この話を受け入れてくれました。年が変わって嫁に行くことになりましたが、変わらないのは、あっしの無筆なんです。先生の所に来ても覚えられない。娘は亭主の手前、気兼ねをしなければならない。そんなんだったら、いっそ死んだ方が娘のためだ。娘が嫁いだらあっしは抜け殻で、銭も無い、字も読めない、いっそ消えてしまった方がイイと思うんです」。
 「偉い!侮ったのが拙者の過ち。感服いたした」、「感服されても・・・」、「イ~ヤ、そちは人の持たん物を持っている。真心だ。人として一番大事なものだ」、「あっしみたいな者でも、恥になりませんかね」、「誇りになる。改めてわしから頼みがある。今日から改めて師匠として欲しい。また、お前の師匠としてくれ」、「えッ、あっしに字を教えてくれるんですか」、「今日から師匠でもあり、わしがお前の弟子でもある」、「おだてっこ無しにして下さいよ」、「お前から学ぶものがある」。

 「さ、始めるか」、「祭り太鼓がウルサいな」、「そんな音は気にするな。『心頭滅却すれば また火も涼し』と言う。まずは私に付いて読みなさい。『い・ろ・は・に・ほ・へ・と』」、「『い・ろ・は・に・ほ・へ・と』」、「よろしい。もう一度元に戻って『い』これはいと言う字じゃぞ。『ろ』これはろという字じゃ。『は』・・・」、「『い』・・・、『ろ』・・・、『は』、は、は、ですね」、「『ほ』ほじゃぞ。よいな」、「『ほ』、ほ、ほ、」、「『へ』」、「『へ』、へ、へ」、「『と』」、「『と』、と、と。先生、これは『は』ですね」、「そうじゃ。これは?」、「『ほ』」、「これは?」、「『い』」、「これは?」、「『と』」、「出来た」。「『いろはにほへと』、『とへほにはろい』」、「ん、覚えた覚えた」。
 「へへへぇ、これもみんな先生のお陰です」、「いいや、お前の一心が通じたのじゃ。これからは天満宮を一身に信仰いたせ。いっそう上達をいたそう。よいか」、「有り難うございます。天満宮てえのはなんです?」、「天神様だ。世にあるときは菅原道真公と申され、書道の名人という。この神に一心に祈願をこめ、念ずれば一層、上達をいたそう」、「へえ、だけど、天神さまは字が読めなかったってぇ言うじゃありませんか」、「馬鹿なことを言うな。誰がこんなことを言った」、
「でも、無実(無筆)の罪で流されたって言います」。

 



ことば

宇野信夫(うの のぶお);(1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎作者、狂言作者。この落語「心のともしび」の原作者。このオチは円生が付けた。
 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。
 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、昭和19年(1944)まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。六代目三遊亭圓生とも交友が深かった。
 昭和8年(1933)、『ひと夜』でデビュー。昭和10年(1935)、六代目尾上菊五郎のために書いた『巷談宵宮雨』が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、昭和28年(1953)、二代目中村鴈治郎、中村扇雀(現:四代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を脚色・演出し、現在も宇野版が上演され続けている。昭和40年(1965)、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、昭和52年(1977)まで続いた。
 昭和47年(1972)、日本芸術院会員。昭和60年(1985)、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全4巻があるほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する著作が多数ある。
 国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。
ウイキペディアより一部修正。

 宇野信夫創作落語では、「江戸の夢」、「霜夜狸」があります。

六代目三遊亭 圓生(6だいめ さんゆうてい えんしょう);(1900年〈明治33年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉9月3日)は、大阪市西区出身で東京の落語家、舞台俳優。本名、山﨑 松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。出囃子は『つくま祭』、のち『正札付』。 五代目三遊亭圓生は継父、五代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。

無筆(むひつ);文字を読んだり書いたりすることを知らないこと。読み書きのできないこと。無学。文盲。
 識字は日本では読み書きとも呼ばれる。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解できる(読解する)ことを指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)ことを指す。この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつ。
 1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は、「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。日本の識字率は極めて高く、江戸時代に培われた高い識字率が明治期の発展につながったとされる。
 近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、1877年に滋賀県で実施された一番古い調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は男子89%、女子39%、全体64%であり、群馬県や岡山県でも男女の自署率が50%以上を示していた。 また、1881年に長野県北安曇郡常盤村(現・大町市)で15歳以上の男子882人を対象により詳細な自署率の調査が実施されたが、自署し得ない者35.4%、自署し得る者64.6%との結果が得られており(岡山県の男子の自署率とほぼ同じ)、さらに自署し得る者の内訳は、自己の氏名・村名のみを記し得る者63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を白書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、公布達に加え新聞論説を解読できる者2.6%となる。したがってこの調査では、自署できる男子のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度であった。
 近世の正規文書は話し言葉と全く異なる特殊文体によって書かれ、かなりの習熟が必要であった。近世期「筆を使えない者」を意味する「無筆者」とは文書の作成に必要な漢字を知らない者を意味しており、簡単なかなを読めることはどの庶民の間でも常識に属し、大衆を読者に想定したおびただしい平仮名主体の仮名草子が発行されていた。
 義務教育開始以前の文字教育を担ったのは寺子屋であり、かなと簡単な漢字の学習、および算数を加えた「読み書き算盤」は寺子屋の主要科目であった。寺子屋の入門率から識字率は推定が可能であるが、確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現・滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。

 寺子屋で使われた、元治元年刊 「實語教」 の教本から『いろは』。

■「櫛と言う字を無筆蒲焼きと読み」;
 櫛(くし)の字は、良く見ると蒲焼きに見えてきます。
「堪忍の四字だと、無筆知った風」、これは間違いで「堪忍の二字だと、無筆知った風」と言う。堪忍は漢字で書くから二字で、平仮名の”かんにん”の四字は間違っている。言い争いになって二字だという方が怒ってしまった。言い間違った方が笑い出し「いくら字が読めるからと言っても、堪忍が出来ないようでは読めないのと同じだ」。
(円生のマクラより)
 落語の「目薬」でも、粉薬の使い方を読んで、目尻を女尻と読み間違え、大変なこと(?)になってしまいます。

先生と師匠;講談の方は講釈師とも言いますが、先生と言います。落語の方は、先生と言われるとバカにされているようで、やはり師匠でしょうね。師匠というのは、お花の師匠、手習いの師匠、剣術の師匠で、先生とは言いません。でも、邦楽を教える人は、先生と言いました。やはり、清元や小唄は師匠でしょうね。(円生のマクラより)

傘張り(かさはり);浪人の内職と言えば、この傘張りが定番です。
 傘張りは浪人ばかりではなく、藩に仕官している武士もしていました。藩から貰う扶持(給金)だけでは暮らすのが江戸時代大変だったからです。 傘張りの他、玩具作り等手細工、機織り、障子貼り、小鳥の飼育、小間物売り、盆栽、町道場の師範、役者・・・数えれば限りありません。作家活動する者や浮世絵師もでてきます。
 この話の前段で、傘張りより、釣り針の針先にヤスリを掛ける方が率が良いと誘いがありましたが、強情っ張りの先生、笠問屋の主人に仇をなすのはイヤだと断ってしまいます。

良寛和尚に似た字;(1757/58-1831) 江戸時代中期-後期の僧、歌人、書家。 宝暦7/8年生まれ。曹洞(そうとう)宗。越後(えちご=新潟県)出雲崎の名主の子。備中(びっちゅう=岡山県)円通寺の国仙の法をつぐ。のち帰郷して国上(くがみ)山の五合庵に住み、托鉢の合間に詩歌や書をたのしんだ。詩集に「草堂集」、歌集に弟子の貞心尼編「蓮(はちす)の露」がある。天保(てんぽう)2年1月6日死去。享年74/75歳。俗名は山本栄蔵。字(あざな)は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。
 『うらを見せおもてを見せて散るもみぢ』(辞世)
 デジタル版 日本人名大辞典+Plusより

 

 漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』がある。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子貞心尼編『蓮(はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄(かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。

左二幅は東京国立博物館蔵の良寛和尚の自筆の掛け軸。

掛け軸左、一行書 「積徳厚自受薄」(とくをつむはあつく みずからうけるはうすし)。

掛け軸右、「七言絶句」 良寛自詠の漢詩。
 意味は、町中の托鉢を済ませると、八幡宮辺りをぶらつく子供達が、「去年来た僧がまたやってきたぞ」と、はやしたてるといったもの。托鉢僧は自分になぞらえている様に感じられる。

 大工の惣助が書いた『い』の字は、味わいのある、良寛の字に似ていたのであろう。 

無垢な良寛
 良寛(1758~1831)は内気で愚直な性質だった。越後国出雲崎(新潟県出雲崎町)の名主の家に生まれたが、融通が利かず、「昼行灯(ひるあんどん)」と罵られたあげく18歳で跡取りを放棄して出家。家を捨てた。
 安永8年(1799)、22歳のときに大忍国仙(たいにんこくせん)を慕って備中国(岡山県)玉島の円通寺に入門。
 以来ひたすら禅の修行に励み、33歳で印可を受けた。だが、国仙和尚の逝去を機に諸国行脚に出る。国仙和尚は良寛のために小庵を残したが、そこに留まることはなく、寺を捨てた。
 すでに生家は傾いていた。父は自殺を図り、弟もその後を追っていた。跡を継いだもうひとりの弟は、公金をめぐる訴訟などであえいでいた。そんななかでの故郷という針のむしろに身を置いた。
 良寛がみずからの境涯を記した漢詩にはこのようなことが書かれている。
 「立身出世をいとい、天の真理に身を任せる。懐にはわずかな米、炉端に一束の薪あるのみ。悟りか迷いかなどと問う者もおらず、世俗のしがらみも知らない。夜、静かに雨音を聞きながら、草庵の中で両足を伸ばすだけ」。
 ただの無一物となった良寛は、国上山(くがみやま)中腹の庵に居を構えた。そこにはたった一個の鉢があるだけだった。良寛はその鉢で煮炊きをし、食器とし、顔や手を洗った。そしてそれを抱えて托鉢に出かけ、お布施の米が5合になったら庵に帰った。このため、その庵は五合庵と名付けられた。
 師の国仙和尚は、良竟に印可を与える際、こんな言葉を送っている。
 「良や愚の如く 道転(みち・うた)だ竟(ひろ)し謄々(とうとう)と運に任せよ」
 おまえもとうとう愚者となったか。されば真如の大道を、宿命のままに悠々と歩め・・・、そういう意味だろう。大愚良寛たるゆえんである。
 人の世の無常を知った。立場やしがらみがとりまく世俗に真実はなく、高邁な教説を垂れる坊主の世界もひと皮むけぱもうひとつの俗世だった。
 家を捨て、郷土を捨て、寺をも捨てた。そして、何者かであろうとするこころを捨て去った。良寛はどこにも所属せず、何も為さず、何も持だなかった。漢詩や詩歌に通じ、書に秀でていたが、漢学者にも歌人にも書家にもならなかった。のみならず、経も読まず、説法もせず、葬式もしなかった。
 あるとき、床下で育ったタケノコが床板を持ち上げているのに気づいた。良寛はすぐさま床板を外し、竹の成長を見守った。ついに天井に届くと、今度は屋根を壊した。おかけで雨や雪が降り込んだが、気にせず夜は星を仰ぎながら過ごした。
 ある月夜の晩、五合庵を訪ねてきた客のために良寛はひとっ走りして酒を買いに出かけた。しかし、いつまでたっても帰ってこない。しびれをきらせた客が探しに出かけると、途中の大きな木の下で放心しているように月を眺めている良寛がいた。
 良寛の子ども好きは有名である。行く先々で子どもを集め、一緒になって嬉々として遊んだ。「もういいかい」「まあだだよ」・・・、かくれんぽの鬼になった良寛。いつまで待っても「もういいよ」の声がかからず、目をつむったまま夜更けまで待ったこともあった。<子どもらと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし>。
 融通無碍にいのちが躍動する。まさに禅の心身脱落の境地である。
 良寛は多くを語らない。ただ、瞳に愁いと慈しみを湛え、微笑んでいる。やがて良寛は、何もしないことで人びとのこころに火をともす、ふしぎな存在となった。
 良寛の訪問を受けたある人は、こんなことを書いている。「師(良寛)我が家に訪れ、何日か滞在することがあった。するといつのまにか和やかな気分が家中に満ちて、帰っても数日のうちは、和やかな雰囲気が残った。師とただ話をしているだけで、心中清らかな気分を覚えた」。
 最晩年、良寛のこころを潤したのは貞心尼(ていしんに)との恋だった。
 貞心尼は。武家の家に生まれ、医者に嫁ぐも夫の裏切りにあい、若くして剃髪した女性であった。詩歌をことのほか愛し、一途に純真なるものを追い求める孤独なこころをまばゆく照らしたのが良寛だった。その評判を聞き、書跡にふれ、思慕の念を募らせた貞心尼は、良寛にまっすぐな想いをぶつけた。
 「いかにせん学びの道も恋草の茂りていまは文見るも憂し」(貞心尼)
 良寛70歳、貞心尼30歳。良寛は最初はややためらいがちに、やがてそれを受け入れ、そして自らわき上がる想いを隠さず表出した。「君や忘る道やかくるるこのごろは待てど暮らせど訪れのなき」(良寛)
 まさか道を忘れてしまったのではないか・・・、何もかも放下したはずの良寛が。おろおろする心情を隠そうともしない。天真に任せ、人間本来の姿に還っていく良寛がそこにいた。彼はこんな辞世の句を残している。
 『うらを見せおもてを見せて散るもみじ』。

天満宮(てんまんぐう);菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ=陰口)され、大宰府へ大宰員外帥*として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
 *大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権
 官である。初代は弘仁元年(810)の阿保親王、二代目は承和4年(837)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変
 による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873)に任じられ
 た三代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。

 天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」、「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった。
 道真が亡くなった後、平安京で雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件で大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが相次いで亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷神)と関連付けて考えられるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。 道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でる。参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。
 道真が梅を愛し、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」 (拾遺和歌集) と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅紋、梅鉢紋、星梅鉢などが多く使用されている。また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使としており、境内に臥牛像など撫牛が置かれている。(右、亀戸天神・臥牛像)。 有名なのは太宰府・北野の二つで、太宰府天満宮は道真の墓所・祀廟の上に造営され、北野天満宮は道真が好んだという右近の馬場に朝廷が道真の怨霊を鎮めるために造営された。

亀戸天神(かめいどてんじん);正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。 当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして寛文2年(1662)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。本殿の扁額は、御本社である筑紫国太宰府天満宮宮司であった西高辻信貞による揮毫。 古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」(あずまのだざいふてんまんぐう)、あるいは「亀戸宰府天満宮」(かめいどざいふてんじん)、「本所宰府天満宮」(ほんじょざいふてんじん)と称されていたが、明治6年(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11年(1936)に現在の亀戸天神社となった。
 落語「狸賽」に写真多数あり。

 

 「亀戸藤ノ真盛」 / 豊国画 国立国会図書館蔵

 

 「亀戸藤乃景 」/ 豊国画 国立国会図書館蔵

 

 「亀井戸天満宮境内一覧」 / 広重画 国立国会図書館蔵

 

 亀戸天神、藤が満開の頃。 2017年4月28日。
 

 亀戸天神にある「筆塚」。
筆塚は、書家や書道に励む人達が筆の労に感謝すると共に、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。筆塚説明板より

 亀戸天神正面の鳥居をくぐって目の前にある太鼓橋を渡らず、右に曲がった、右側に有ります。
 手前の箱は賽銭箱ではなく、使い古された筆を納める為のものです。大工の惣助さんも筆を何本も使い潰すぐらいになったら、ここに納めましょう。その時は、無筆という言葉が、抜け落ちています。 

 



                                                            2017年10月記

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