落語「心のともしび」の舞台を行く
宇野信夫作
その翌晩、祭りだからと酔ってやって来た。「先生。上がりますよ。傘張り、忙しかったら手伝いますよ。まだ怒ってるんですか?」、「酔った振りして、ちっとも飲んではいないじゃないか」、「・・・、分かりますか。酔った振りしないと、恥ずかしくて来れないんです。死んだつもりでやりますから、もう一度教えてください」、「止めろ止めろ」、「お願いします」、「それ程知りたいのか?」、「そうなんです」、「惣助、聞きなさい。おまえは血の巡りの悪い男だ。私・田島左平太は気が短い。その性格のため、今では浪人をしておる。そちに文字を授けたいが、それが出来ん。許してくれ」、「先生、頭を上げてください」、「わしには出来ん。教えられないのだ。許してくれ」、「分かりました。先生がそれ程言うのなら・・・。私は死んだ方がイイのでしょう。先生達者で・・・、あっしみたいな者はこの世にいない方が良いんです」、「これこれ、待てッ。字を覚えなければ死ぬというのか」、「死ぬだけの訳があるんです」、「訳が有ったら言ってみろ」、「先生、何もかにもぶちまけて言います。聞いておくんなさい」、「何だ」。
「先生もご存じ、私の娘・お種(たね)は十八になります。町内の評判娘です。かかぁは早く死んで、私が育て、自慢の種にしていたんですが、橋向こうの越後屋という油屋の若旦那から、嫁にくれと話が有りました。私は大店(おおだな)のおかみさんになるのだからと喜びました。娘に話したら『いやだ』と言うんですよ。聞いてみると『あすこは大店で、おとっつぁんは無筆で来にくくなるでしょ。無筆のことをいろいろ言われるとおとっつぁんがあまりにも可哀相だ。大きな所より、私と同じくらいおとっつぁんを大事にしてくれるところに嫁に行きたい』と言うんです、先生。あっしはその時初めて目が覚めたんです。有り難いと思って、さっぱりと一かわ鉋(かんな)で削ったような気持になって、博打は止めて、酒もなるべく飲まないようにして稼ぎました。娘もそれが分かったようで、この話を受け入れてくれました。年が変わって嫁に行くことになりましたが、変わらないのは、あっしの無筆なんです。先生の所に来ても覚えられない。娘は亭主の手前、気兼ねをしなければならない。そんなんだったら、いっそ死んだ方が娘のためだ。娘が嫁いだらあっしは抜け殻で、銭も無い、字も読めない、いっそ消えてしまった方がイイと思うんです」。
「さ、始めるか」、「祭り太鼓がウルサいな」、「そんな音は気にするな。『心頭滅却すれば
また火も涼し』と言う。まずは私に付いて読みなさい。『い・ろ・は・に・ほ・へ・と』」、「『い・ろ・は・に・ほ・へ・と』」、「よろしい。もう一度元に戻って『い』これはいと言う字じゃぞ。『ろ』これはろという字じゃ。『は』・・・」、「『い』・・・、『ろ』・・・、『は』、は、は、ですね」、「『ほ』ほじゃぞ。よいな」、「『ほ』、ほ、ほ、」、「『へ』」、「『へ』、へ、へ」、「『と』」、「『と』、と、と。先生、これは『は』ですね」、「そうじゃ。これは?」、「『ほ』」、「これは?」、「『い』」、「これは?」、「『と』」、「出来た」。「『いろはにほへと』、『とへほにはろい』」、「ん、覚えた覚えた」。
■宇野信夫(うの のぶお);(1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎作者、狂言作者。この落語「心のともしび」の原作者。このオチは円生が付けた。
■六代目三遊亭 圓生(6だいめ さんゆうてい えんしょう);(1900年〈明治33年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉9月3日)は、大阪市西区出身で東京の落語家、舞台俳優。本名、山﨑 松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。出囃子は『つくま祭』、のち『正札付』。
五代目三遊亭圓生は継父、五代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。
■無筆(むひつ);文字を読んだり書いたりすることを知らないこと。読み書きのできないこと。無学。文盲。
寺子屋で使われた、元治元年刊 「實語教」 の教本から『いろは』。
■「櫛と言う字を無筆蒲焼きと読み」;
■先生と師匠;講談の方は講釈師とも言いますが、先生と言います。落語の方は、先生と言われるとバカにされているようで、やはり師匠でしょうね。師匠というのは、お花の師匠、手習いの師匠、剣術の師匠で、先生とは言いません。でも、邦楽を教える人は、先生と言いました。やはり、清元や小唄は師匠でしょうね。(円生のマクラより)
■傘張り(かさはり);浪人の内職と言えば、この傘張りが定番です。
■良寛和尚に似た字;(1757/58-1831) 江戸時代中期-後期の僧、歌人、書家。
宝暦7/8年生まれ。曹洞(そうとう)宗。越後(えちご=新潟県)出雲崎の名主の子。備中(びっちゅう=岡山県)円通寺の国仙の法をつぐ。のち帰郷して国上(くがみ)山の五合庵に住み、托鉢の合間に詩歌や書をたのしんだ。詩集に「草堂集」、歌集に弟子の貞心尼編「蓮(はちす)の露」がある。天保(てんぽう)2年1月6日死去。享年74/75歳。俗名は山本栄蔵。字(あざな)は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。
漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』がある。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子貞心尼編『蓮(はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄(かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。
左二幅は東京国立博物館蔵の良寛和尚の自筆の掛け軸。
掛け軸左、一行書 「積徳厚自受薄」(とくをつむはあつく みずからうけるはうすし)。
掛け軸右、「七言絶句」 良寛自詠の漢詩。
大工の惣助が書いた『い』の字は、味わいのある、良寛の字に似ていたのであろう。
■無垢な良寛
■天満宮(てんまんぐう);菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ=陰口)され、大宰府へ大宰員外帥*として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」、「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった。
■亀戸天神(かめいどてんじん);正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして寛文2年(1662)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。本殿の扁額は、御本社である筑紫国太宰府天満宮宮司であった西高辻信貞による揮毫。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」(あずまのだざいふてんまんぐう)、あるいは「亀戸宰府天満宮」(かめいどざいふてんじん)、「本所宰府天満宮」(ほんじょざいふてんじん)と称されていたが、明治6年(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11年(1936)に現在の亀戸天神社となった。
「亀戸藤ノ真盛」 / 豊国画 国立国会図書館蔵
「亀戸藤乃景 」/ 豊国画 国立国会図書館蔵
「亀井戸天満宮境内一覧」 / 広重画 国立国会図書館蔵
亀戸天神、藤が満開の頃。 2017年4月28日。
亀戸天神にある「筆塚」。
亀戸天神正面の鳥居をくぐって目の前にある太鼓橋を渡らず、右に曲がった、右側に有ります。
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