落語「出世夜鷹」の舞台を行く
   

 

 三笑亭夢丸の噺、「出世夜鷹」(しゅっせ よたか)。別名「ちり塚お松」より


 

 吞む・打つ・買うは、男の三道楽でして、特に吉原で遊女を買うというのは当たり前の時代がありました。

 吉原の万字楼に瀧川という花魁がいました。歳十九で絶世の美女だったのです。瀧川がお客におねだりしたのが、額で、金金具を使った30両もする立派なもので、これを浅草寺に奉納しましたら、すごい人気になりました。
 境遇は全く桁違いの夜鷹のお松はその噂を聞いて、男衆(おとこし)に頼んだ。「花魁が額を揚げたのなら、私も揚げたいゎ」、「止めとけよ。30両も掛けた額だぞ。お前は夜鷹だろォ。こんな板ッ切れみたいなの」、「好きなお酒を良いと言うだけ吞ませるから、お願い揚げてきて」。その額を抱えて浅草寺の瀧川の額の下に引っかけてきた。面白いもので、”長者の万灯、貧者の一灯”という言葉があるように、その対比に人気が益々上がった。

 「竹、浅草寺の花魁の額観たか? その下に夜鷹が額を揚げたんだ。見に行こうや」。
 「花魁の額は素晴らしいけれど、なんだぃ夜鷹の額は・・・。弱い者の味方をしたいが、雲泥の差だな」、「両方とも、中に字が書いてある。読んでみろ」、みんな字が読めなかった。そこにお侍さんがやって来たので読んでもらった。「花魁の額は、『増鏡清き流れの世すがにも雲井の空に宿る月影』と詠っておる。花魁というのは身を沈めておるのに、増鏡清き流れの・・・、と詠っているが増長しておる。つまらないウタで、額だ」。
 「では、夜鷹の額はどうですか?」、「そのウタは『田毎とあるにも辛き辻君の顔サラシナのウンの月影』とある。ん?ん!立派な額じゃな」。
 「様子がおかしくなってきたぞ」、「額という物はウタが良くなければならない。この額は夜鷹の勝ちじゃな」、「本当ですか。では皆にしゃべちゃおう」。江戸中でこの評判が広がりだした。困ったのが万字楼の主。見世に傷が付くのを恐れ、夜鷹のお松の所に行って、2枚の額を下ろさせて貰った。
 お松は昼間から、歌を詠んでは紙にしたためていた。夜鷹じゃないかと、さげすまれて、
  『塵塚の塵に交わる松虫の声は涼しきものと知らずや』、
塵塚とはゴミためです、そこにいる松虫もゴミにまみれているが涼しげな声で鳴く。身体は汚れているが心までは汚れていない。とお松は歌った。そこで付いたあだ名が”掃き溜めのお松”、喜んで良いのか、悲しんで良いのか。

 お松達夜鷹がいる住まいに、向井良悦という御殿医がやって来た。見つけた半紙に、
  『小夜衣今宵はたれと契るらん幾夜定めぬツマを重ねん』、
「そうか、一夜の妻と着物の褄(つま)を掛けているんだ。これは誰の手だ」、「お松が書いたんです」、「ではこれを貰っても良いかぃ」。

 「良悦、近う寄れ。堅苦しいことは抜きじゃ。市中に何か面白いことはないか?」、「お殿様、持って来ました。これで御座います。触らずそこからお読みください」、「『小夜衣今宵はたれと契るらん幾夜定めぬツマを重ねん』、なにか意味ありげなウタじゃな」、「これをしたためたのは人間では御座いません。鷹で御座います」、「何という鷹じゃ」、「う・・・、夜鷹と申します」、「その夜鷹はどんなところに姿を現す」、「夜になりますと材木の影などに・・・」、「どんな声で・・・」、「う~~ん、『チョト兄さん・・・』」、「その夜鷹が見たい」、「滅相もありません」。
 その時は、誤魔化して下がってきたが、合う度に「その夜鷹を見てみたい」。腹を決めて、お松を養女のような姿で殿様の前に、「その様なことで有ろうと、思っておった。女、そのような立場でありながら、文字を書き、歌を詠うとはあっぱれである。屋敷に奉公に上がれ」。夜鷹のお松が歌三昧で暮らすことになった。
 夜鷹のお松の、出世のお話で御座います。

 



ことば

夜鷹と遊女(よたかとゆうじょ)
夜鷹;ヨタカ目ヨタカ科の鳥。小型の鳩ぐらいで、全身灰褐色。口は(蛙の口のように)大きく、扁平。昼間は樹枝上か地上に眠り、夕刻から活動して飛びながら虫を捕食。東アジアと南アジアで繁殖し、冬南方に渡る。蚊吸鳥(カスイドリ)。蚊母鳥。怪鴟。
右写真:ヨタカ。広辞苑

 え? この夜鷹では無い!ですか。
 夜に材木の影で、チョッと兄さんというのは、江戸で、夜間、路傍で客をひく下等の売春婦の称。つじぎみ。根無草、「地にたたずむ夜鷹は客をとめんことをはかる」。
 頭から手拭いをかぶり、手には御座を丸めて、黒い着物で、夜間に暗い往来で客引きをしていた私娼、つまり個人経営の娼婦で、夜に活動することから夜行性の鳥「ヨタカ」に因んでいます。街娼のことを、江戸では夜鷹(よたか)、京都では辻君、大坂では惣嫁(そうか)または白湯文字(しろゆもじ)などと呼んだ。

 また、夜鷹蕎麦の語源は、夜間を主な仕事の場としている彼女達が好んで食べたから、という『守貞漫稿』の説や、夜仕事に出るところからいわれ、『客二ツつぶして夜鷹三ツ食い』と言う一句があります。24文だった夜鷹の代金2人分=48文あれば夜鷹そばが3杯食べられると言う意味で、夜鷹そば、街娼の夜鷹いずれもが安価であったことを物語っています。ただし、これは表の値段で、心付けを弾んで100文位だったでしょう。安いだけで病気というお土産をもらうことが多かった。現代では完治する病気ですが、当時は死に繋がる大変な病気です。
 夜鷹については、落語「秋葉っ原」をご覧下さい。

 『田毎とあるにも辛き辻君の顔サラシナのウンの月影
 田毎(たごと)の月:長野県更級郡冠着山(カムリキヤマ=伝説では姨捨山)の山腹の、段々に小さく区切った水田の一つ一つにうつる月。
 辻君:夜鷹のこと。
 お侍さんが言うには、こやつ田毎の月と有るのは信州の生まれだな、サラシナと有るのは顔をさらすのと更科と故郷の地名を入れ、ウンの月影とは雲の月影と自分の運を掛け言葉にしておる。

 『塵塚の塵に交わる松虫の声は涼しきものと知らずや
 塵塚(ちりづか):ゴミため。
 ゴミためにいる松虫もゴミにまみれているが涼しげな声で鳴く。身体は汚れているが心までは汚れていない。

 『小夜衣今宵はたれと契るらん幾夜定めぬツマを重ねん
 小夜衣(さよごろも):夜具。よぎ。
 夜ごとマクラを共にする相手にも、その時は妻となって相手している。一夜の妻と着物の褄(つま)を掛けています。

  

 どちらの夜鷹も綺麗すぎて、こんなはずでは・・・。左、二八蕎麦と夜鷹 豊国画。 右、「江戸名所百人美女-大川橋里俗吾妻はし」 歌川国貞画。

遊女;宿場などで歌舞をなし、また枕席に侍するのを業とした女。あそびめ。遊君。吉原以外の宿場で客引きをする女達で、江戸時代、正式には飯盛女と言われた。
 それが時代をくだると、安土桃山時代以降、遊郭が公許されてからの公娼・私娼の称。女郎。娼妓。
 吉原で客の相手をするプロの女性。江戸後期では3000人を越えた。

吉原万字楼(よしわら まんじろう);新吉原江戸町二丁目久喜万字屋が有りますが、ズバリ万字楼は見当たりませんが・・・。ま、何処でも良かったのでしょう。

 吉原;新吉原と呼ばれ、江戸町、揚屋町、角町、京町から出来ていた。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有ったのが、都心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転してきた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと、言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、先代円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ遊廓。
 右図:新吉原の賑わい 豊久画

花魁(おいらん);狐・狸は尾があって騙すが、男を騙す遊女は尾がなくても騙せるので、オ・イランと言った。これは落語家が冗句で言うことで本気にしないで下さい。
 太夫と言う名称は、吉原最高級の遊女で初期の頃には大勢いたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、享保(1716~)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなった。太夫というのは、料金が高いので豪商、大名相手の遊女で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの遊女。 文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。志ん生いわく借金の断りもできた?万能選手。
 太夫という階級が無くなって、花魁が最上級の遊女となった。太夫ほどの見識は無かったが、それでも一芸に秀でた花魁は何人もいた。

 粧(よそおい)太夫歌碑(台東区浅草2-3、浅草寺内・浅草神社境内鳥居脇。右写真) 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船をしぞおもふ」を骨太の字で「保農々々登明石能浦廼朝霧迩・・・」と彫られた碑が建っています。蕋雲(ずいうん)女史の万葉仮名で書かれた柿本人麻呂の歌で、女史は文化年間(1804-17)吉原・半松楼の遊女で粧太夫といいました。ありあまる才能に恵まれ、特に歌、書には秀でたものがあり、蕋雲の号を贈られた程の人物です。女史は人麻呂を慕い文化13年(1816)8月浅草神社(三社様)に献納したものです。

更科(さらしな);更級郡。信濃国及び長野県にかつてあった郡。現在の長野市の一部と千曲市の一部。ソバの産地としても知られ、かつては「更科」、「更級」とも綴ったが、「級」「科」は共に段差を意味する古語。
歌ことば、信濃国の枕詞。姨捨(姨捨山)や月と共に詠われる。

長者の万灯、貧者の一灯;金持ちが見栄をはったり、儀礼的に多くの寄進をするよりも、貧しい人が真心を込めてする寄進のほうが尊いということ。
 金持ちが捧げる多くの灯明より、貧しい者が真心を込めて供える一つの灯明の方が、仏は喜ぶという意味。
大事なのは量や金額ではなく、誠意の有無だという教え。『阿闍世王受決経』にある以下の故事に基づく。
 阿闍世(あじゃせ)王が釈迦を招待したとき、宮殿から祇園精舎へ帰る道を、たくさんの灯火でともした。
それを見た貧しい老婆が、自分も灯火をしたくてなんとかお金を工面し、やっと一本の灯火をともすことができた。
阿闍世王がともした灯火が消えた後も、老婆がともした一本の灯火は朝になっても消えなかったという。

浅草寺(せんそうじ);推古天皇36年(628)3月18日早朝、宮戸川(隅田川)で、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の漁師が漁労中網に観音像を掛けて引き上げ郷司土師中知(はじのなかとも)に見せる。土師は自宅を寺とし出家して礼拝した。後、大化元年(645)勝海(しょうかい)上人が観音堂を建立本尊を秘仏とした。奈良朝には既に大伽藍を形成していた。平安期には慈覚大師が本尊を模してお前立ち本尊と御影版木を作る。江戸期には幕府の祈願所としてさらに大きくなり、現在に至る。全国に浅草寺の観音像出開帳としての観音は慈覚大師作前立ちご本尊だと言われています。
 浜成・竹成・土師の三人を祀るのが、浅草神社。俗に三社様と言う。浅草のお祭りとは実は三社様のお祭りです。
 金龍山浅草寺;昭和20年3月10日戦災で消失した旧本堂(国宝)と同形態で、昭和33年10月鉄筋コンクリート造りで本瓦葺き(現在はチタン瓦葺き)
の本堂が再建された(上写真)。350坪有りその中に観世音菩薩を祀る宮殿がある。この宮殿の中には、慈覚大師作前立ちご本尊、他に徳川家康、家光、等の観音像が奉安されています。
 観世音菩薩は俗に身の丈1寸8分(5.5cm)の金無垢の観音像といわれ伝わっているが、浅草寺発行の図録、寛文縁起絵巻によると、20cmぐらいの金色の観音像として、描かれている。寸とは「短いこと。また、わずかなこと」、の例えに使われるように、語呂の良さと、小さいことを表す表現法ではなかったかと思われます。
 参道(今の仲見世)以外にも各子院には多くの堂社が有り、浅草寺は神仏のデパートと称されていました。ですから、浅草寺に行けば、あらゆる信仰の対象が用意されていたのです。

松虫(まつむし);バッタ目マツムシ科の昆虫。体長約25ミリメートル、淡褐色で、腹部は黄色。本州以南に分布し、林縁や河原に多く、8月頃「ちんちろりん」と鳴く。鳴虫として飼われる。古く、鈴虫のこと。平安時代、鈴虫と松虫と名称が入れ違っていた。右、松虫 広辞苑

御殿医(ごてんい);御典医。江戸時代、幕府・大名お抱えの医者。



                                                            2017年11月記

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