落語「出世夜鷹」の舞台を行く 初代三笑亭夢丸の噺、「出世夜鷹」(しゅっせ よたか)。別名「ちり塚お松」より
■夜鷹と遊女(よたかとゆうじょ)
え? この夜鷹では無い!ですか。
また、夜鷹蕎麦の語源は、夜間を主な仕事の場としている彼女達が好んで食べたから、という『守貞漫稿』の説や、夜仕事に出るところからいわれ、『客二ツつぶして夜鷹三ツ食い』と言う一句があります。24文だった夜鷹の代金2人分=48文あれば夜鷹そばが3杯食べられると言う意味で、夜鷹そば、街娼の夜鷹いずれもが安価であったことを物語っています。ただし、これは表の値段で、心付けを弾んで100文位だったでしょう。安いだけで病気というお土産をもらうことが多かった。現代では完治する病気ですが、当時は死に繋がる大変な病気です。
『田毎とあるにも辛き辻君の顔サラシナのウンの月影』
『塵塚の塵に交わる松虫の声は涼しきものと知らずや』
『小夜衣今宵はたれと契るらん幾夜定めぬツマを重ねん』
どちらの夜鷹も綺麗すぎて、こんなはずでは・・・。左、二八蕎麦と夜鷹 豊国画。 右、「江戸名所百人美女-大川橋里俗吾妻はし」 歌川国貞画。
遊女;宿場などで歌舞をなし、また枕席に侍するのを業とした女。あそびめ。遊君。吉原以外の宿場で客引きをする女達で、江戸時代、正式には飯盛女と言われた。
■初代 三笑亭 夢丸(しょだい さんしょうてい ゆめまる);(1945年〈昭和20年〉10月4日 - 2015年3月7日。69歳没)は、落語芸術協会所属の落語家。本名、坂田 宏(さかた ひろし)。
神奈川県横浜市出身。横浜市立金沢高等学校卒業。身長172cm。血液型はA型。出囃子は『元禄花見踊』。
■吉原万字楼(よしわら
まんじろう);新吉原江戸町二丁目久喜万字屋が有りますが、ズバリ万字楼は見当たりませんが・・・。ま、何処でも良かったのでしょう。
吉原;新吉原と呼ばれ、江戸町、揚屋町、角町、京町から出来ていた。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有ったのが、都心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転してきた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと、言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、先代円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ遊廓。
■花魁(おいらん);狐・狸は尾があって騙すが、男を騙す遊女は尾がなくても騙せるので、オ・イランと言った。これは落語家が冗句で言うことで本気にしないで下さい。
粧(よそおい)太夫歌碑(台東区浅草2-3、浅草寺内・浅草神社境内鳥居脇。右写真)
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船をしぞおもふ」を骨太の字で「保農々々登明石能浦廼朝霧迩・・・」と彫られた碑が建っています。蕋雲(ずいうん)女史の万葉仮名で書かれた柿本人麻呂の歌で、女史は文化年間(1804-17)吉原・半松楼の遊女で粧太夫といいました。ありあまる才能に恵まれ、特に歌、書には秀でたものがあり、蕋雲の号を贈られた程の人物です。女史は人麻呂を慕い文化13年(1816)8月浅草神社(三社様)に献納したものです。
■更科(さらしな);更級郡。信濃国及び長野県にかつてあった郡。現在の長野市の一部と千曲市の一部。ソバの産地としても知られ、かつては「更科」、「更級」とも綴ったが、「級」「科」は共に段差を意味する古語。
■長者の万灯、貧者の一灯;金持ちが見栄をはったり、儀礼的に多くの寄進をするよりも、貧しい人が真心を込めてする寄進のほうが尊いということ。
■浅草寺(せんそうじ);推古天皇36年(628)3月18日早朝、宮戸川(隅田川)で、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の漁師が漁労中網に観音像を掛けて引き上げ郷司土師中知(はじのなかとも)に見せる。土師は自宅を寺とし出家して礼拝した。後、大化元年(645)勝海(しょうかい)上人が観音堂を建立本尊を秘仏とした。奈良朝には既に大伽藍を形成していた。平安期には慈覚大師が本尊を模してお前立ち本尊と御影版木を作る。江戸期には幕府の祈願所としてさらに大きくなり、現在に至る。全国に浅草寺の観音像出開帳としての観音は慈覚大師作前立ちご本尊だと言われています。
■御殿医(ごてんい);御典医。江戸時代、幕府・大名お抱えの医者。
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