落語「幽霊の辻」の舞台を行く
   
 

 小佐田 定雄作
 桂枝雀の噺、「幽霊の辻」(ゆうれんのつじ)より


 

 恐い物見たさと言うことがあります。お化け屋敷、遊園地のジェットコースター、ゴキブリ、色々なものがあります。

 貴方は足が速いからと、今日中に堀越村まで、この手紙を届けるように頼まれたが、平らなところなら楽に届けられるのだが、峠があるところでは時間が掛かる。
 「もう少しだと思うが、峠の茶屋で聞いてみるか」。

 「婆さん、堀越村まで今日中に行けるかいな?」、「若い貴方なら行けますから、こちらにいらっしゃい。お教えしましょう。一本道で下りですから、大丈夫です。途中に見える小さな池を『水子池』と言います。この辺りの村で、死産やとか、産まれても、じきに死んでしもたりな。そう言う子はな、お葬式出す余裕ありゃせん。小いさな木箱へ仏さん入れましてな、人知れず、あの池へ沈めますんじゃ。あの池の辺りを日が暮れに通りますとな、池の中から『ホギャ、ホギャ』と言うような声が聞こえたりな、また小っさい子どもが遊んでますと、友達欲しがりますのじゃろ、その小っちゃい子どもを池ん中へ引きずり込むちゅう話ありましてな、誰言うとなく『水子池』。その池があることをちょとお知らせしておきます」、「そんな事聞きとう無いわい」。

 「その先のこんもりした森が御座いますじゃろ。そこに『首無し地蔵さん』が有ります」。
 「何かいわれがあるのかぃ?」、「昔、この辺りにな追い剥ぎが出ましたんじゃ。庄屋さんの十六才の一人娘が、この追い剥ぎにかどわかされましてな。庄屋屋さん、村の若い衆集めて山狩りしました。その時なぁ怪しげなお侍が一人通りがかったんじゃ。『追い剥ぎはこいつじゃ』ちゅうて捕まえてしもた。『わたしゃそんなことしやせん』ちゅうが、庄屋さん、娘かどわかされたんで頭に血が上っていますので、そのお侍の首を、持ってる草刈鎌で、ゴキッ! いてしまいなはったそうじゃ。二三日すると、ホンマもんの追い剥ぎが見付かったんじゃ。『あのお侍間違いやったんじゃ』ちゅうことなったんやが、もう手遅れじゃ。庄屋さんも、頭の中に花が咲いて半月余りでコトッと逝てしまいなはった。『何とかその恨みをば鎮めにゃいかん』ちゅうので、鎌でこうやりましたところへ地蔵さん建てましたんじゃが、よほど恨みが強かったんじゃろ、日が暮れにそこを通りますと言うと地蔵さんの首がポッと抜けましてな、宙をばケラケラ笑いながら飛び回りまして、通る人の腰にガボッと噛みよる。『首無し地蔵さん』と言いますじゃ。ちょとお知らせしておきます」、「それもその道のねきにあるのんかいな。それ通り過ぎたら、堀越村?」。

 「それ通り過ぎますと『父追橋』、細い川が『うさぎ川』じゃ。昔は大きな流れの激しい川で、何べん橋架けても流れますのじゃ。巫女さんが言うには『竜神さんが住んでいなさる。橋架けたいならば、人柱立てんならん』 っちゅうことなった。下の村の与作ちゅう男がいまして、この男、ちょっとパッパラパーで、この村で一番役に立たんやつ人柱にしたら、役立たずが片付くし人柱ができる。それが与作だが、本人ビックリして逃げよったんやが、改めて人選することも出来ず、与作の嫁さんと子供が人柱になる事になった。子供は可哀相じゃないかいな。『わしゃ何にも悪いことしとりゃせん、堪忍してくれ父っさん』ちゅうて、逃げ回るのん無理から沈めて人柱。橋ゃ架かり、流れも緩やかな川になりましたが。与作に似た歳の者、貴方ぐらいの人がその橋んとこを日が暮れに通りますとな、川ん中から『父っさん、わしゃ何も悪いことしとりゃせんわい、堪忍してくれぇ』ちゅう声がする。川ん中覗くとその嫁さまがニッコリと笑ろて『あなた~』と言う様な顔するらしいなぁ。それが『父追橋』じゃ。ちょとお知らせしておきます」。

 「それで、なにかいッ・・・」、「怒らないでも良いでしょう。それで森は越しますですね。チョイと行きますと四つ辻になっています。そこが『幽霊(ゆうれん)の辻』と言います。そこに『首くくりの松』が有ります」、「ついでのことや、聞こうじゃないか」。
 「ま、そこに坐って聞きなさい。堀越村の娘さんで、駆け落ちをしましたが、相手の男が悪い男で遊女に売られたんです。あの勤めっちゅうものは辛いこと、余りの辛さに耐えかねて村へ戻って来たが、そんな体んなって親の元へ帰るわけにもいかず、ちゅうて今さら大坂へ戻るわけにもいかず、思いあぐねてその松で首くくりましたが、チョイチョイそこに娘が出ると言います。そこが『幽霊の辻』と言います」。
 「未だ何かあるんかッ」、「そこを越えていくと堀越村です。陽も落ちましたので、提灯を貸しましょう」。 
 「あれだけ、ちょとお知らせしておきます、と言うくらいなんだから、見送りなんかしてくれてもイイのに・・・」。

 「(幽霊が出そうな三味線とドロが入る)のっけ『水子池』や、この池やなぁ~。池の中から声がするらしいな~、うわっぁぁ~、恐いな~。・・・でも何にも無いじゃ無いか。
 峠から見たら小さな森だったが、大きいな~。『首無し地蔵さん』、首から上が飛んで・・・、カポッとかぶりつくと言ってたな。あッ、あの地蔵さんやな。わぁぁ~、横をすり抜けた・・・が、何も起こらなかった。なんやあの婆さん、好い加減なこと言ってるのじゃ無いかィ。
 次が、『父追橋』か、可哀相な・・・、嫌がる子供をなぁ。見ぃでも良いのに水ん中覗きたくなると言うが・・・、覗いてみると、わぁぁぁ~、あの婆さん、恐がりと分かってあんな話を・・・、何も無いじゃ無いか。
 あと一つだけやな、『幽霊の辻』だけやな。『首くくりの松』が有ると言ったな。恐い恐いと思うから恐いんじゃ。恐くない恐くないと思えば、恐くない。やっぱり恐いよ~~」。
 この男、脱兎のごとく駆け出しました。『幽霊の辻』まで来ると、十六七の娘が、「おっさん」、「出たぁぁぁ~」、「おっさん、何が出ましたんや」、「何言ってるんだ、この女ッ(あま)。娘やないか。気ぃ付けッ。いつものわいと違うんや。あの婆さんに脅かされて、ここまで来たんじゃ。幽霊の辻の、首くくりの松から突然出て来たら、おら、きっちり幽霊やと思てビックリしたやないかい、気い付け、アホッ!」、「ほんだら、おっさん。わたいが幽霊やないと、思てなさるのか?」、と言うなり、
女の姿が・・・、スッと消えました。

 



ことば

小佐田 定雄(おさだ さだお);(1952年2月26日 - )は、日本の演芸研究家、演芸作家、落語作家、狂言作家。関西演芸作家協会会員。本名、中平定雄。大阪府大阪市生まれ。1974年に関西学院大学法学部卒業。妻は、弟子のくまざわあかね。落語「雨乞い源兵衛」、「貧乏神」も、彼の作です。
 関西学院大学法学部では古典芸能研究部に没頭。 卒業後サラリーマンをしながら落語会通いをする。1977年に桂枝雀に宛てて新作落語「幽霊の辻」を郵送したことで認められ、落語作家デビュー。1987年まで二足のわらじでサラリーマンを続けていたが退社し本格的に落語作家に転進。以後上方の新作や滅びた古典落語などの復活、改作や江戸落語の上方化などを手掛ける。
 落語作家の小佐田定雄氏が「幽霊の辻」を昭和52年に二代目桂枝雀師のために書き下ろした上方新作落語で、小佐田氏の落語作家としての処女作です。

水子(みずこ);出産後あまり日のたたない子。あかご。流産した胎児。水子という呼び名は、生まれて間もなく海に流された日本神話の神・水蛭子より転じたものとされる。
 “水子”は本来「すいじ」と読み、元々は死亡した胎児だけでなく乳児期、幼児期に死亡した子供を含む概念に過ぎなかったが、1970年代頃から水子供養の習慣が広まっていき、占い師などが水子の崇りを語って水子供養を売り物にしていった。その背景には、檀家制度が破綻し経営が苦しくなった多くの寺院が経済的利益のために大手墓石業者とタイアップし、水子供養を大々的に宣伝し始めたことが大きく影響している。
右写真、芝・増上寺水子地蔵の列。

追い剥ぎ(おいはぎ);通行人をおどかして衣類や金品などを奪うこと。また、それをする者。山賊。海賊。
 落語「鈴ヶ森」に追い剥ぎの説明があります。

山狩り(やまがり);犯罪者などが山へ逃げこんだのを大勢で捜索すること。

首無し地蔵(くびなしじぞう);頭が無くなって胴体だけになった地蔵。この噺では首を切られた恨みから空中を飛んで噛み付くという。
 各地で仏様やお地蔵様が破壊されている像がありますが、その大半は明治初期の廃仏毀釈による民衆の暴挙による騒ぎの結果だとされています。 それまでの日本は本地垂迹説で神道と仏教が仲良く合同で奉られている事が多かったのですが、明治になり神道は神道で独立すべきであると国が統制するよう各地に命令を下した、それを民衆が仏教を廃絶せよと命令が下ったと思い込んで各地の寺や仏像などを破壊したワケです。 江戸時代の仏教は幕府によって保護され堕落の一途をたどっていましたから民衆から非常に嫌われていた、それが明治になって仏教への保護が無くなったものですから民衆は喜んで鬱憤晴らしに各地の地蔵や仏像を破壊してまわった。
 右写真:世田谷区代官屋敷に保存されている首無し地蔵

庄屋さん(しょうやさん);(荘園の事務をつかさどった荘司・荘官の遺称) 江戸時代、領主が村民の名望家中から命じて、郡代・代官に属させ、1村または数村の納税その他の事務を統轄させた村落の長。むらおさ。畿内西国方面では庄屋、東国方面では名主(ナヌシ)、北陸・東北では肝煎(キモイリ)と呼ぶことが多い。身分は百姓。

人柱(ひとばしら);架橋・築堤・築城などの難工事の時、神の心を和らげ完成を期するための犠牲(イケニエ)として、生きた人を水底・土中に埋めたこと。また、その人。転じて、ある目的のために犠牲となった人。

人身売買(じんしんばいばい);日本における最古の人身売買の記録は古く、「日本書紀」天武天皇五年(676)に、下野(しもつけ=現・栃木県)の国司(こくし=律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官)が、百姓が凶作のため、子を売る事を認めて欲しいと願っていると言う記事があります。
 大化元年(645)の大化改新以降、集権は「人身売買」と言う制度を禁制としていたのです。
 そして、すでにこの時代には、『人身売買』が、公ではないにしろ、行われていた事。子供を売ればお金になると言うシステムが出来上がっていた、と言う事です。飛鳥時代からあった全国的な人身売買禁止は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代と様々な中央集権を通じて受け継がれ、豊臣秀吉の全国統一によって、定制となり、さらに徳川家康公が、大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させた元和二年(1616)には、江戸幕府として「人売買」を禁止する高札が出されています。

 一、 武士の面々、若党の儀は申すに及ばず中間、小者に至る迄、一季居一切抱へ置くべからざる事、
 一、 人売買の事、一円停止たり、若し売買濫(みだ)るの輩は売損買損の上、被売者は其の身の心ら任すべし、併びに勾引売に付ては、売主は成敗、売らるる者は本主へ返すべき事、
 一、 年季の事、三ケ年を限るべし、但し三年を過ぐれば双方曲事たるぺき事、

 以上で、武士は一季居(雇用期間が一年契約の者)の部下を雇ってはいけない、人売買は一円(日本全国の意)禁止とする、百姓、町人などの年季奉公は、最長で三年契約とする、と言う事です。
 しかし、江戸時代には『人身売買』が無かった訳ではありません。江戸時代には、幕府公認の遊女町が、江戸の吉原を始め、全国に二十五カ所、その他、非公認の岡場所などは無数にあり、そこで働く女性たちの多くは、おおむね非合法な「奉公契約」により、奉公していたのです。つまり、貧困にあえぐ者がお金を借り、そのお金を働いて返すと言う名目で、借り主の娘などが、遊女屋で働く、と言う契約です。借りた分のお金を全額返済できなけれ
ば、いつまでも働き続けなければならないので、幕府の定めた「最長三年」ルールなど無視されます。また、働いて借りたお金を返せれば良いのなら、別に遊女にならなくても、女中奉公でも、荷を担って売り歩く商人になって
も良さそうなのですが、やはり、女性として一番てっとり早く、良い賃金が稼げる遊女と言う商売に、無理矢理就職させられる訳で、当人には、職業選択の自由はありません。

堀越村(ほりこしむら);『お玉牛』など、上方落語の舞台として多く登場する典型的な田舎。
「紀州(和歌山)と大和(奈良)の国境、または大坂から奈良に入る国境で、山また山、草深い」堀越村であった。落語界の架空の村ですから、一見有りそうですが、地図を開いても出て来ません。



                                                            2017年11月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system