落語「喜撰小僧」の舞台を行く
   

 

 八代目春風亭柳枝の噺、「喜撰小僧」(きせんこぞう)より


 

 「焼きもちは遠火に焼けよ 焼く人の胸も焦がさず味わいも良し」と言われるように、焼きもちは焼き方が難しいようです。

 「定吉を呼んでおくれ」、「旦那さんはどちらにお出掛け?」、「田中さん家です」、「どうも、おかしいので後を付けてください」、「旦那は先程出掛けましたから見付かりません」、「足が遅いから大丈夫です」、「やんなっちゃうな。こんな遅くに。番頭さん、表は開けておいてくださいね」。
 「居た居た、あすこを右に曲がれば田中さん家なんだが。・・・、あれ~、真っ直ぐ行っちゃった」、「誰だ!ポストの影に隠れたのは。定吉じゃ無いか。どうしたんだ?」、「寝ぼけていました」、「そうでは無いだろう。家の奴に頼まれて探りに来たな」、「お前だから、本当のことを言おう。付いてきなさい。おい、お開け!」、「あら、旦那様。お連れの方がいらっしゃるようで・・・」、「店の定吉で、気が利くから連れてきた」。

 「ま~ぁ、お入りなさい」、「私はいつものお酒をお願いするよ。定吉には、そこにある餡ころ餅を包んであげなさい。家に帰ったらこう言いなさい、『確かに田中さんに行きました。入口で見付かって、旦那さんは碁のお相手をするので、遅くなるから先に寝ていなさい、との言付けです』と。後はベラベラ喋るのでは無いぞ」、「ありがとうございます。餡ころ餅に心付け。あら~、100円も入っています」、「番頭さん達は下戸だから、その餡ころ餅を分けて上げなさい」、「定さん、ちょくちょく遊びにいらっしゃい」、「はい、日に3~4回」、「そんなに来る奴があるかッ。たのむぞ~」、「お休みなさい。お楽しみに」。

 「運が向いてきたな。これで家に帰ったらおかみさんが『ご苦労だったね。これはお小遣いだから・・・』と、100円はくれないだろうな。おや、表が閉まっているよ。あれだけお願いしたのに・・・。そうだッ、計略を使って、『(ドンドンドン)旦那様のお帰りッ、(ドンドンドン)旦那様のお帰りですよ』」、番頭眠い目をこすりながら店の者も起こして、表を開けた。
 「旦那はどうした」、「後からお帰りです」、「悪いやつだ。騙すなんて・・・、ゴメン、ゴメン、今日はわしが悪かった、定吉が出掛けているのを忘れてしまった。懐が膨らんでいるのは何だ」、「旦那様のお土産です。皆さんで分けて食べてください」。
 「へ~ぃ、定吉帰っております。直ぐにそちらに・・・」、「おかみさんただ今戻りました」、「遅いじゃ無いか」、「旦那さんはどちらに・・・」、「田中さん家です」、「本当かい」、「良いお家ですね」、「そうらしいね」、「家に入るところを旦那に見付かってしまったんです。『誰だ』と言うので、お使いでこの近所に来ていたもので・・・、と誤魔化しました」、「では、私が使いに出したことは分からなかったね。気が利くね。それで・・・」、「『今日は碁のお相手があるから、遅くなるので、先に寝て良い』と言ってました」、「焼きもちが過ぎて言ってるのではありませんよ、店に行って言うんではありませんよ。お休みなさい」、「何かお忘れではありませんか?」、「何もありませんよ。ご苦労様でした。アッ、定やチョッとお待ちなさい」、「どうもありがとう」、「何か貰おうと、手を出すんではありません。按摩を頼んだが未だ来ないんだ、チョッと肩を叩いておくれ」、「えッ!私がやるんですか。今大事な用が済んだばかりですョ。店に小僧がイッパイいるじゃないですか」、「店の小僧は按摩が皆ヘタ。お前が一番上手。・・・、なんてたたき方をするんですか。痛いじゃないか」、「私は按摩では無いですから。(小さな声で)向のお姉さんは、綺麗で親切だったな、『小僧さんは可愛い』なんて、今に追い出されるのも知らないで・・・」、「何をグツグツ言ってるんだい」、「黙っていると眠くなっちゃうです」。

 「おかみさん、お店(たな)のお嬢さん綺麗ですね」、「言葉に気を付けなさい、良いご器量だと言いなさい」、「お幾つになります?」、「確か、今年お十三(おじゅうさん)だと思ったね」、「女のクセに、おじいさん。私はおじゅうし(十四)。踊りも上手ですね。踊りの会をおかみさんに連れられて観ましたが、良い踊りでしたね。皆さんも誉めていました。舞台は桜見物の帰りなんですか? 『♪ 世辞で丸めて浮気でこねて小町桜の眺めに飽かぬ~』テトトン」、「あ痛タタ、この子は何をするんだい」、「手が滑っちゃったんです」、「呆れたね。お前は私を茶にしたね」、「はい、ただ今やったのが喜撰で御座います」。

 



ことば

八代目春風亭柳枝(しゅんぷうてい りゅうし);(1905年12月15日 - 1959年10月8日)は、戦後活躍した東京出身の落語家。本名は島田勝巳。東京本郷の生まれ。音曲師である四代目柳家枝太郎の子。温厚篤実な性格で、何を言われても「結構です。」と言うので「お結構の勝っちゃん」と呼ばれた。客に対しても丁寧な物腰で語る芸風に人気があった。ただ、それは普段のときであり、酒が入ると一変。酔うと(酒が入っていない時の物腰の柔らかさとは裏腹に)人格が変わって荒れるのが欠点だったと言う。 入門から睦会所属だった。1937年の睦会解散後、落語協会に入会した。

■この噺に似た落語に、小僧さんが主役の「悋気の独楽」(お妾さんの解説有り)、権助さんが主役の「権助魚」、「一つ穴」があります。どれも、旦那が出掛けるので奥様が後を付けさせます。お妾さんの家は分かりましたが、旦那の言い付け通り対処するのですが、どこかが違っています。夜出掛けるときは寄席だけにしておいた方が良さそうです。
 この噺の「喜撰小僧」は、もともと大阪落語「悋気の独楽」で、その前半を、四代目古今亭志ん生(鶴本勝太郎=俗に鶴本の志ん生)が東京に持ち帰って一つの噺に改作したものです。

喜撰(きせん);お茶の銘柄喜撰と、踊りの喜撰を掛けたオチになっています。

 * 茶、「茶にする」、まじめな応対をしない。ちゃかす。ばかにする。
 上喜撰(じょうきせん)は、緑茶の銘柄(ブランド名)。宇治の高級茶。本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。 喜撰は六歌仙の一人、歌人の喜撰法師に由来する。
 1853年、ペリーによる浦賀への黒船来航(蒸気船)とかけた狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」で有名。良いお茶《喜撰》を四杯も飲めば眠れなくなると、当時、お茶の特性を歌われたものです。幕府の狼狽ぶりを皮肉ったもの。

 * 踊り、軽妙な調子で、桜の枝を担ぎ、花道から登場する。 茶汲み女のお梶(小野小町=右図)に見とれて茶碗を落とした喜撰はふたりでクドキの踊り、最後は、花道から大勢のお迎え坊主が出て「住吉踊り」となり、喜撰は両肌脱ぎから悪身の振り、中央で合掌で終わる。その時に詠われる歌が『♪ 世辞で丸めて 浮気でこねて 小町桜の眺めに飽かぬ 彼奴にうっかり眉毛を読まれ ・・・ 』。
 歌舞伎舞踊の一。清元・長唄掛合。五変化「六歌仙容彩(ロツカセン スガタノイロドリ)」の一。1831年(天保2)初演。喜撰法師に茶汲み女がからむ。喜撰法師=平安初期、弘仁(810~824)頃の歌人。六歌仙の一。山城国乙訓(オトクニ)郡の人。出家して醍醐山に入り、のち宇治山に隠れて仙人となったと伝える。確かな作は「わが庵は」の歌1首のみ。

 「住吉踊り」 新板大道図彙・季(せき)ぞろい 葛飾北斎画 東京国立博物館蔵。

世辞で丸めて 浮気でこねて;口先だけの世辞と色気とで巧みに人を操る。

黒船来航;日本へもアヘン戦争などでの蒸気船の活躍の情報は、オランダ風説書や輸入書物によって少しずつ伝わっていた。1843年(天保14年)には幕府がオランダ商館長に、蒸気船の輸入や長崎での建造を照会するなどしていた。 実物の蒸気船が日本を訪れたのは、1853年の黒船来航が初めてである。1853年7月8日、浦賀沖に現れた4隻のアメリカ海軍の軍艦は、2隻の外輪蒸気フリゲート「サスケハナ」(右図)、「ミシシッピ」が、帆走スループの「サラトガ」、「プリマス」を曳航して江戸湾内へ侵入してきた。来航した黒船のうち2隻が蒸気船であった。
 翌1854年、ペリー提督は再び3隻の外輪蒸気フリゲート「ポーハタン」、「サスケハナ」、「ミシシッピ」と帆走スループ「レキシントン」、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「サラトガ」、「サプライ」の5隻、外輪汽帆補給艦「サザンプトン」、計9隻が浦賀沖に現れた。
  ここで分かるように狂歌に詠われた黒船(蒸気船)は4隻ではなく、2隻の外輪船と2隻の帆船が江戸湾に入ってきたのです。でも当時の江戸っ子を含め関係者一同、ビックリ仰天したのは間違い有りません。

 嘉永7年(1854)横浜への黒船来航図 東京国立博物館蔵。

按摩(あんま);なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。
 戦中までの文学作品には、杖・黒めがね・あんま笛の三点セットを身につけて街を流して歩く視覚障害者である盲人のあんまさんの姿がよく見られた。
 按摩は中国発祥の手技療法で、按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味がある。 按摩は西洋発祥のマッサージなどとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている。
 『守貞謾稿』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24文、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)。
 肩たたきや肩もみ、足裏に乗ったりは、家庭でも行われる。 私も親の肩たたきはしたものです。

 落語「柳の馬場」に座頭、検校の解説があります。



                                                            2017年11月記

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