落語「好きと恐い」の舞台を行く
   

 

 九代目桂文治の噺、「好きと恐い」(すきとこわい)より


 

 若い者が集まったので、話の話題に好きなことと、恐いことを話題にして話し始めた。

 「まずは留めさん、好きなことは?」、「二番目に好きなのは『酒』だな」、「一番を聞いているんだ」、「それを言うの?言うとお前に殴られるから・・・」、「何で殴るんだい。一番好きなのは?」、「お前さんの、おかみさんなんだ」、「かかあを狙ってるんだな。家を空けられなくなった」。
 「赤さんは?」、「南京豆」。「定さんは?」、「天麩羅の揚げカス」。「もっと高い物がないのか? 金チャンは?」、「私は電車。都電で、雷門から銀座行き、に乗るんだ。映画が終わる3時頃、若い奥さんが急いで帰るときに、一緒に乗るんだ。隣が塞がっているときは、空くまで待っているんだ。浅草橋で隣が空いたので、向こうから来るお婆さんを突き飛ばして、腰掛ける。電車が発車するときは奥さんが俺にぶつかる。停まるときは俺が奥さんにぶつかり、発車するときは奥さんが俺にぶつかる。15円で人の奥さんに寄っかかれるんだ。だから電車が一番好きなんだ」、「大した野郎だな。今に警察に捕まるよ。こんなのが出るからダメだ。好きなのは止めて、恐かった話をしよう」。

 「留さんはなんだ?」、「家主なんだ」、「何処が恐い?」、「家賃催促が恐いんだ」。「金チャンは?」、「今朝炊いた御前」、「どうして?」、「コワクテ、コワクテ食べられなかった」、「そんな恐いことじゃ無くて・・・、山道が恐かったとか、狸に化かされて恐かったとか、夜道が恐かったとか、芝居のお化けが恐いとか、有るだろう」。
 「留さんは?」、「狸」、「狸~ぃ?」、「この人は狸に悪さしたんだ。何処で?」、「新宿の先、幡ヶ谷(はたがや)の手前代々幡(よよはた)にいた」、「笹塚の手前だな」、「そうそう、京王線の代々幡に住んでいて、閑静な所だった。震災後そこに引っ越した、後ろに水道の土手があった。新宿発の9時過ぎの最終電車で、駅を降りると数軒の店が並んでいるだけで、その路地を入ると一面の大根畑で、左側はドブだ。歩いていると、向こうから提灯がやって来た。見るとお婆さんで、避けたらお婆さんも同じ方に避けたので、これはいけないと思って反対に避けたら、お婆さんも同じ方に避けた。ぶつかったはずみで、お婆さんドブにはまってしまった」。
 「お婆さん怒っただろう」、「怒ったね。何で私をドブに突き落としたんだね。兄さん、助けてくださいよ」、「俺は両手を着いて謝った。両手を出しなさい、引き上げてあげますから・・・。思いっ切り引っ張ると、お婆さんの腕が抜けて尻餅をついてしまった。」、「ひでぇ事しやがるな」、「腕はニカワで着くかと思って、『お婆さん、勘弁してくださいよ』と、腕二本を持って家に帰って来た。ナムアミダブツと言いながらよく見たら大根二本だった」。「なんだそれは?」、「お婆さんは狸で騙された。大根畑の大根を抜いていた」。

 「おれは、狸を謝らせた。『もう二度と悪さをしませんから許してください』、と言わせた」、「どこで?」、「埼玉県の越谷だ。仕事で長逗留していたら、食べ物を買ってきたときに悪さするので、俺が狸の家に行って説教すると、二度と悪さしませんから、この土地に置いてくださいと謝った。その証拠に見たい物が有るからそれを見せろと言った」、「何を見せろと言ったんだ」、「狸の八畳敷きを、ここに広げて見せろ。狸は言ったね『私はメンだから有りません』」、「馬鹿なことを・・・」、「そしたら狸は『私は化かすことは得意ですから、お見せしましょう』と女に化けた。『木の影で見ていなさい。これから来る男を騙しますから・・・』。男は狸の女に袖を引かれ、納屋の中に入って行ったが、戸をピタリと閉めてしまった。中の様子を見たいから、節穴から覗くと中は真っ暗、何も見えない。覗いていると頭の上で、何かバサバサとするんだ。その時 『危ないよ馬に蹴られるよ!』。馬の尻の穴を覗いていたんだ」、「何だよ、テメェも騙されていたんじゃないか」。

 「加藤の旦那、何か?」、「私の恐い話を聞いたら、夜便所に行けないよ。若い頃で、行徳(ぎょうとく)に行ったときだ。明治25年頃で、高橋から車蒸気に乗って小名木川から中川を通って、船堀から三角、江戸川に出て行徳に出るんだ。朝一番に出て昼過ぎに着くんだ。伯父さんの所で吞んでいたら帰りの船を忘れてしまった。翌朝大事な客が来るので帰らしてもらうと、南行徳を出たのが8時頃、今井橋の所に来ると10時頃だったかな。今井橋は今より長かった。その中央辺りまで来ると・・・」、「そろそろ恐くなってきたぞ」。
 「身投げの女がいる、『待て~』と言うと飛び込まれるから、後ろから行って抱き止めた。『金のことか? 言い訳が出来ないようなことだったら解決付けてやろう』、『助けると思って殺してください』、『助けたり、殺したりは出来ない。お前には死神が取り憑いている。飛び込むなら、俺が橋を渡り終えたら飛び込みな』、『早く行ってください』。
 まだ橋を渡り終えないときに、江戸川に飛び込んだ音がした・・・。ナムアミダブツと三遍唱えて、今井橋から一町半も行くと、後ろから濡れた草履でベチャ、ベチャ。『先程、助けてくれると言った御方』、浅い所に飛び込んだんだろう、死にきれなくて、額は切れて血が流れ、髪はザンバラ、着物はずぶ濡れ。金の持ち合わせは無いし、関わりになってもまずいので、地蔵の裏に隠れた。行き過ぎた女が道に誰もいないので戻ってきた。地蔵の前に来て『先程助けてやるとおっしゃった御方はここにいますか~』、と言われたときは恐かった。『俺だッ。お前は未だ死ねないのか』、腕二本を持って・・・」、「また大根かい?」、「俺が殺してやるから来いと、今井橋の中央まで来て持ち上げて、江戸川に投げ込んだ。ぶち込んだのは良いが、私が手を離せばよかった」、「なにッ?」、「離さないから、身投げと一緒に川の中に落ちた」、「ドジだね~」、「運が悪いというか、杭に顔をぶつけて目と鼻の間に火花が飛んだよ。そしたら足を火傷した」、「何だか話が変だな。目から火花が出てなんで足が火傷するんだィ」、「アンカを蹴飛ばしたんだな」、「川ん中にアンカがあるかい」、「有る訳無いだろう。寒い晩に寝られないから、アンカを入れて寝たんだ。その時の夢の話なんだ」、「なんだぃ、ずいぶん長い夢見たね~。本当のこともあったんでしょう」、「そうだね。起きたら、腰の周りが冷たかったよ」、
「それじゃ~、寝小便しちゃったんじゃ~ないか」。

 


 この噺「好きと恐い」は、上方版「饅頭恐い」の前半部分に当たります。上方版「饅頭恐い」の最後に一人シラ~ッとした男が、私の一番恐いのは「饅頭」であると発言します。その饅頭に関した部分をカットしたのがこの噺です。上方版「饅頭恐い」は日頃から人望もなく皆から浮き上がっている、その男に仕返しのためにみんなが考えたことは・・・。次の噺、上方版「饅頭恐い」をご覧下さい。


ことば

九代目桂 文治(かつら ぶんじ);(1892年9月7日 - 1978年3月8日)。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。 周囲の薦めにより前名翁家さん馬から九代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要なことから嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。またロセンが大きいことでも知られた。 稲荷町(現:台東区東上野)の長屋に住み、三代目柳家小さん門下だった八代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分であり家も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠四代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。
落語「大蔵次官」を演じています。

 ドケチの逸話 落語界屈指の吝嗇(りんしょく=ケチ)家であり、師匠小さんの弟子七代目立川談志(自身もケチで有名であった)、彦六の弟子林家木久扇(芸人では珍しい節約家)をして賞賛せしめるほどの「ケチの文治」として有名で、数々の「ドケチ」の逸話を残す。
・ 寄席の席亭に「毎週、これこれの日は早く高座に上がらせて下さい」と要請。刺身好きな文治、アメ横の魚屋の特売日に、早く高座を上がって帰りたかったのである。 なお、買ってきた魚は、当時としては珍しい電気冷蔵庫に入れていた。
・しかし自分のではなく、隣に住む友人の彦六宅の冷蔵庫である。彦六にとってはいい迷惑である。
・新聞は毎日、彦六宅で読んでいた。
・呼ばれたお座敷で出されたご馳走を腹一杯喰いまくってから寄席に回ってきたが、食い過ぎで腹痛を起こして楽屋で七転八倒しだしたので、噺家仲間が「今日は休んで帰ったらどうですか? タクシー呼びますよ」と言うと、文治いきなりしゃんとなり「いいえ地下鉄で帰ります」。
・もっともこの逸話には続きがある。仕方ないので若い前座に荷物を持たせ、地下鉄の駅まで送ってやることになった。駅で別れ際に「取っておきなさい」と文治の渡した小さな包みを、前座が後で開いてみると、中身はタクシー代よりも多額のチップだった。「ドケチ」と言われてはいたが、単なる吝嗇家ではなかった。
・普段から大切な義理事への出費は惜しまず、むしろ他人よりも多く包むことを厭わなかったという。「美学のある吝嗇家」であった。
ウイキペディアより

都電(とでん);東京都経営の路面電車。東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例及び東京都電車条例に基き東京都交通局が運営している路面電車。通称都電(とでん)。2016年4月現在、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ荒川線12.2kmの1路線のみが運行されている。 前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となった。 最盛期(1955年頃)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、1974年に荒川線の恒久的な存続が決定し今日に至っている。

雷門から銀座行き(かみなりもんから ぎんざゆき);都電蔵前線(22・31系統)始発駅・雷門(浅草寺正面) - 駒形二丁目(駒形橋) - 厩橋(うまやばし) - 蔵前(蔵前橋西) - 浅草橋駅前(現・JR浅草橋駅前) - 浅草橋(京葉道路交差点)が延伸され、その後22系統は、
 南千住(始発) - 駒形二丁目(Yの字で雷門から来るのと合流) -  浅草橋 - 小伝馬町 - 室町三丁目 - 日本橋(白木屋前) - 通三丁目(東京駅八重洲前) - 京橋 - 銀座四丁目- 新橋(現・JR新橋駅前、終点)。
右写真:雷門前の並木通りにある中央分離帯の所に都電の停留所があった。現在は地下駐車場になっています。今の雷門は改修工事中でシートに覆われていて、正面の絵は写真です。

浅草橋(あさくさばし);東京都台東区浅草橋一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武線、東京都交通局(都営地下鉄)の両駅。台東区の駅で最も南に位置する。 JR東日本の総武本線支線(運転系統は中央・総武線各駅停車)と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。
 都電の時代には、浅草から来ると、最初の国鉄(現・JR総武線)接続駅で、多くの人が乗降したのでしょう。
右写真:JR浅草橋駅前の江戸通り。植栽された中央分離帯がある辺りに、都電の浅草橋駅前停留所があった。この地下には都営浅草線が走っていて、この真っ下に浅草橋駅が有り、JRと連絡しています。

新宿の先、代々幡(よよはた);現在、汎称地名としての「幡ヶ谷」(幡ヶ谷地域)。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、現行行政地名では幡ヶ谷に加えて、いずれも渋谷区の本町、笹塚が含まれる。
 地形は武蔵野台地上の平坦な部分が大半を占めるが、北部の本町四丁目から幡ヶ谷三丁目、笹塚三丁目にかけては、かつてあった神田川の支流に沿って浅い谷になっていて、明治の頃には湿地帯をなしていた。また地域の南縁に昔の玉川上水(水道の土手)が流れていたが、現在は暗渠化され、甲州街道に並行した水道道路として整備されている。
 文治が代々幡(よよはた)と言っているのは、大正4年(1915)に代々幡村から町制を施行して代々幡町となった。1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに大正12年(1923)の関東大震災等を契機に宅地化が進んだ。昭和初年までは人通りも少ない農業地帯であり、通行人が狸に化かされた怪談話が伝わるほど淋しい地域だった。
 京王線の代々幡駅は幡ヶ谷駅と初台駅の間にあったが、1945年に廃止され、現在はありません。

ニカワで着く;獣・魚類の骨・皮・腱・腸などを水で煮た液を乾かし固めた物質。ゼラチンを主成分とし、透明または半透明で弾性に富み、主として物を接着するのに用いる。
 にかわはその特徴である温度差によるゾル(液体)⇔ゲル(固体)の変化を利用して、紙や木等を瞬間的に接着します。古くからは墨、墨汁、漆器、仏具、家具等があげられ、現在では、マッチ、研磨布紙、バフ、貼箱、事務用品、上製本、紙管等に使用されています。

越谷(こしがや);埼玉県南東部の市。もと奥州街道の宿駅で市場町。鴨の猟場がある。東京の衛星都市。人口34万人(2017年5月現在)。江戸時代には、日光奥羽街道の宿場、越ヶ谷宿として栄えた。東武伊勢崎線(東京スカイツリー線)が南北に通り、日光奥羽街道で言う、千住、草加、越谷と江戸から3番目の宿場であった。
 右図:歌川広重の「武蔵越かや在」。『富士三十六景』より。

狸の八畳敷き(たぬきのはちじょうじき);狸を語るときに必ず出て来るフレーズで、子供の頃には「たんたん狸の金玉は風に吹かれてぶうらぶら」などと唄ったものだが、その真偽についてはいまだ解りません。ま、誰も解らないことなのでしょう。また、犬みたいな動物が化けるなんて・・・、もっと解りません。
 化ける仲間に、狐もいますが、いまだ化けたところは動物園でも見たことはありません。確実に化けて出るのは人間の女性でしょうね。これは恐い。
 右図:国芳画 「狸の八畳敷」

夜便所に行けない;戦前まで、江戸でも地方でも、便所は屋外に建てられていました。今のように室内にあって、照明も明るく、水洗式の便座に座っていると、なんで恐いのかと我が子供も聞いたことが有ります。
 当時屋外の便所は、暗くて風が吹けばガタガタと音を立てますし、化け物が揺すっているようにも思えます。汲み取り式ですから臭く、下から化け物が見ていて、時には手が出て来ると言われたものです。子供達は夜になって便所に行きたいときは母親を起こし、一緒に付いて行ってもらったものです。で、恐い話を聞いたら、大人だって便所に行けなくなると脅かしているのです。

高橋(たかばし);東京都江東区の北西部に位置し、深川地域内にあたる。小名木川の北岸にあたり、北から東にかけて森下、南では小名木川を跨いで白河と接する。町名は小名木川に架かる橋梁・高橋に由来する。この橋梁は小名木川に架けられており、東京都道463号上野月島線が通る。橋長は43.8m。
右写真:小名木川、高橋にある船乗り場。奥が船堀方向。

車蒸気(くるまじょうき);外輪蒸気船。江戸から隅田川を渡り、高橋、小名木川から中川を通って、船堀から新川で三角(さんかく)、江戸川に出て行徳に出るんだ、と噺の中でも語られていますが、和船で塩、魚、雑貨などを運んでいましたが明治に入って、鉄道が完全に引かれる前は蒸気船が運航して荷物も客も運んでいました。

 

左、小名木川を行く外輪蒸気船。  右、昭和22年の三角。左右に伸びる川が新川。右方向に江戸川が流れる。

行徳(ぎょうとく);千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名である。昭和中期までは市川市南部に加えて浦安市の元町地区(当代島・北栄・猫実・堀江・富士見)と船橋市沿岸部及び東京都江戸川区東篠崎を指す本行徳を中心とした広域地名でもあった。現在では、一般的に旧東葛飾郡行徳町の江戸川放水路以南、旧南行徳町の全域を指して使われる。江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった。
 行徳には、かつて行徳塩田と呼ばれる広大な塩田が広がっていたことで知られています。 行徳での塩の生産は戦国時代には行われていたが、徳川家康は万が一の際に江戸城が必要とする塩を確保するために行徳塩田を保護した。以後、江戸幕府は塩田の保護とともに江戸と行徳を結ぶ街道や水路の整備を行った。 水路の整備は高橋から始まる小名木川の掘削、船堀から江戸川までの新川の掘削を行い、江戸と行徳を一本で繋いだ。
落語「泣き塩」に詳しい。

 

 江戸川の河岸に有った行徳の新河岸風景 市川歴史博物館蔵。明治時代の蒸気船もここに停泊しました。

今井橋(いまいばし);東京都江戸川区と千葉県市川市を結ぶ旧江戸川に架かる東京都道・千葉県道50号東京市川線の橋である。
 現在の橋は1979年に完成。 それまでは現在の橋の50mほど上流側に1951年(昭和26年)完成
の片側一車線のコンクリート製の橋があった。しかし、交通量の増加により老朽化が進み、付近に慢性的な交通渋滞が起こること、さらに橋脚の間隔が狭く、川を航行する船が衝突して修繕工事のために片側車線が閉鎖されることがたびたびあったため、架け替えが行われた。旧橋は歩道用として残す案もあったが、航行する船の問題もあり撤去された。今でも一部残された橋脚の跡が干潮時に干上がった砂地に見られる。
 右写真。この杭に頭をぶつけ目から火が出て、足を火傷した、と言うところです。
 この旧橋を渡ると、京葉道路(千葉街道)に架かる小松川橋まで一本道で行けた。

江戸川(えどがわ);関東地方を流れる一級河川。利根川水系の分流(派川)です。流路延長59.5km(旧江戸川河口より)、流域面積約200km2。流域は、茨城県、千葉県、埼玉県、東京都の1都3県におよぶ。
 現在でも天然うなぎが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっているほか、汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地のひとつでもある。
 この川に架かっていたのが今井橋です。

一町半(1ちょうはん);長さの単位。1町=109m。1.5町=約160m。



                                                            2017年12月記

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