落語「半分垢」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「半分垢」(はんぶんあか)より


 

 相撲も昔は身体の大きい力士が居たものです。釈迦が嶽という力士は朝豆腐を買いに行って、戸を叩いたら、おかみさんが出て来て釈迦が嶽の向こう脛に頭をぶつけたと言います。大きいので二階の雨戸を叩いていたので、おかみさんはその向こう脛にぶつかった。

 江戸から上方に修行に行っていた関取が3年振りに帰って来た。
 辰っつあんが関取の家にやって来て、「ずいぶん大きくなって帰って来たんでしょうね」、「大きくなりましたよ。『今帰ったよ』と言う声が、割れ鐘のような声でしたよ。驚いて表に出ると、関取の頭が見えないんですよ。二階の屋根の上にあるんですよ。入りなさいと言っても入れないので、格子を外して、はって入って貰ったんですよ。顔なんて、まるで一斗樽(ひとだる)みたいで、目なんかタドンのようで、吐く息は火が出るような勢いで、私なんか後ろに倒されたぐらいです。普通の敷き布団ではダメで、20枚並べてそれでも足が出るんですよ。『俺は可哀相なことをした。道中で牛を三頭踏みつぶしてしまった』と言うんですよ」、「それは凄いですね。今度は皆を連れて来ます」。

 「おいおい、なんでそんなに大きいと言うんだ。それでは化けもんだよ。挨拶しようと思ったが出そびれてしまったよ。出て見ろ、『関取って小さいんだな』と思うだろう。内輪、うちわに言うのが良いんだ。これからは気を付けなさい」。
 「今、辰んべに聞いたんですが、帰って来たんですって?」、「はい、帰って来ました」、「皆を連れて来るから・・・」。

 「おいおい、皆さんが来るんだから、大きな事は言ってはダメだよ。内輪うちわにな・・・。帰り道俺が東海道の三島の宿で、朝雨戸を開けると富士山が見えた。それは立派だったが、宿の女中が来たので『毎日富士山を眺められるのは果報者だな』と言い、土地の物を誉められると、なんて言うだろうとみていると、『いいえ、立派と言いますけれども、朝晩見ていると、さほどではありません』と言った。そしたら、富士山がなおいっそう立派に見えた。『でも、見上げるほど大きいな~』、『大きいと言いますが、半分は雪です』。なおいっそう大きく見えた。内輪にしていなければいけないよ」、「はいッ」。

 「関取が大きくなって帰って来たそうで・・・。たいそう大きくなったでしょうね」、「ええッ」、「大きくなったでしょうね」、「いえ、大きくはならないんです。小さくなって帰って来ました」、「『今帰った』の声は、割れ鐘のようだって・・・」、「蚊の鳴くような声で・・・」、「表に出ると二階の屋根ぐらい有ったという・・・」、「いえ、下駄の歯の間に挟まっていました」、「だって、格子を外して入ったというじゃないですか」、「いいえ、格子の隙間から入って来たんです」、「それじゃ~、はさみ虫だよ。顔なんて一斗樽ぐらいだって・・・」、「いえ、塩せんべいぐらいで・・・」、「目はタドンのようだと・・・」、「いえ、ゴマ塩のようで・・・」、「道中で牛を三頭踏みつぶしたと・・・」、「いいえ、虫を踏みつぶしたの」。

 奥で聞いていた関取が、おかしくなって、出て来た。「この度は、留守中大変お世話になりました。またどうぞお引き立て願います」、「へい、・・・なんだ、関取大きくなったね~、立派になって。おかみさん、何言ってるんだよ、こんなに立派になってるじゃないか」、「立派りっぱと言いますが、朝晩見ているとさほどでは無いんですよ」、「だって大きいじゃないですか」、
「大きい大きいと言ったって、半分は垢です」。

 



ことば

釈迦が嶽;釋迦ヶ嶽雲右衛門(しゃかがたけ くもえもん、1749年(寛延2年) - 1775年3月15日(安永4年2月14日)は、出雲国能義郡(現在の島根県安来市)出身で朝日山部屋及び雷電部屋に所属していた江戸時代の大相撲の第36代大関。本名、天野久富。
 身長227cm、体重180kgの巨人力士。大部分の巨人力士は見かけに反し大した実力を持っていないことが多いが、彼に限っては例外的に力士としての実力も高いことで知られる。当初は大坂相撲で大鳥井の名で看板大関として登場したが、1770年(明和7年)11月(冬場所)の江戸相撲の番付で釋迦ヶ嶽の名で登場した。その場所は6勝0敗1休1預の成績で、次の1771年(明和8年)春場所には6勝1敗1休のいずれも優勝相当成績に値する記録を残している。その後は関脇を4場所(うち2場所は休場)務めた。 釋迦ヶ嶽の人気は並外れた巨体にあった。元来病人のようであり、顔色が悪く、目の中がよどんでいたという。1775年(安永4年)の2月14日(旧暦)、現役中に死去。27歳の若さだった。釈迦の命日と同じであり、しこ名と併せて奇妙な巡り合わせだと評判になった。 その巨体から、東京都江東区の富岡八幡宮には、釈迦ヶ嶽等身碑が建てられている。巨体にまつわるエピソードには事欠かず、摂津国の住吉神社に参詣した帰りに茶店に立ち寄ったが、茶代を払うのに二階の窓へ支払ったと伝わっている。道中で履く草鞋の長さは約38cm、手形は長さ25.8cm 幅13cmだった。しかし、本人は長身が故に何事につけ不自由するので性格も塞ぎ勝ちであり、芝居等の人混みを嫌った。

写真左、深川・富岡八幡宮にある長身碑、釈迦が嶽の頭の先まで届かない。同、手形、小さい手ではないのだが・・・。
右図、柱絵「釈迦が嶽雲右衛門」 湖龍斎画。

江戸相撲に上方相撲;現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織。この他に、京都相撲、名古屋相撲、広島相撲があった。
 興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。 ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷(いかづち)権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋東岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。
 江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。 しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。

 上図:歌川豊国(三代)画「東ノ方土俵入之図」弘化2年(1845)。
 下図:大阪大相撲之図 明治25年(1892)

 

 各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。 1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。
 昭和2(1927)、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回、11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。 この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
 ウイキペディアより 一部削除、加筆。

 

 「勧進大相撲土俵入り之図」 

一斗樽(ひとだる);容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リツトルに当る。その液体(醤油・酒)を入れる樽。

 

 中央の樽が四斗樽、左がその薦被り、右の陶器製の樽が一斗樽。台東区、旧吉田屋酒店にて。ま、大きな顔だこと。杉樽だともう一回り大きくなります。

格子(こうし);細い角材を縦横、あるいはそのどちらかの方向に間をすかして組んだもの。窓に付ける。また、出入口に取り付ける格子に組んだ建具。格子戸=格子を組み込んだ戸。

三島の宿(みしまのしゅく);東海道五十三次の11番目の宿場である。 現在の静岡県三島市にあった。本陣2、旅篭数74。江戸幕府の天領であり、宝暦9年(1759)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていた。江戸から行くと、箱根の峠越えを終えてホッとしたところに右手に現れる富士山。その宿での富士山は素晴らしいものであったろう。

 明治時代の「富士山 湖水」(部分) 写真・江南信國写。

 新幹線に乗っていても、飛行機に乗っていても、富士山が見られたらラッキーな気持になります。
あの芭蕉も富士山を見るつもりが、見られなかったので、次のような句を詠みました。
 「霧しぐれ富士は見ぬ日ぞ面白き」
やせ我慢の句(富士見平に句碑がある)が有名です。誰だって見たいのは同じ。



                                                            2018年1月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system