落語「今戸焼き」の舞台を行く
   

 

 八代目三笑亭可楽の噺、「今戸焼き」(いまどやき)より


 

 ご亭主が競輪競馬に行っている留守に、奥様が芝居見物に行くのは、お互い楽しみが有って良いことですが、亭主が真っ黒になって仕事をして帰って来たのに、奥様が芝居というのはいただけません。

 「お~い、今帰ったよ。何処行っちゃったんだろう。お隣の奥さんに聞いてみるか、隣も居ないよ。カミさん連中がベチャベチャ話していたのはこのことだな。芝居は頭っから終いまで見てくるし、映画なんて2度も3度も観直してくるんだから・・・。掃除もしていないし、煙草の火も無いじゃないか。台所で七輪で火を起こすなんて事じゃカミさんなんて要らないんだ。昔の人は上手いこと言ったね、『60年の不作だ』って、今更変えるにも禿げちゃ出来ないし、都々逸でも上手いこと言ったね『よせば良かった舌切り雀 チョイと舐めたが身の因果』、舐めちゃったよ。今は悲しき60歳。
 年も違うが半公のところは良いよ、『今日は寄ってくれよ。一杯吞もうや』で、付いて行ったら、『今帰ったぜ』、カミさんが座敷を泳ぐようにして出て来て『あら、疲れたでしょうね』、惚れた女房に言われたら悪い心もちはしね~や、『湯にするの、食事にするの?』、『腹空いたから飯食っちゃおうじゃないか』、『浴衣に着替えると良いわ』。半纏のホコリをはたいて衣紋掛けに掛け、長火鉢の前にドッカリとあぐらをかいた前にお膳が出て布巾の片っぽが燗徳利で飛び出しているね、それを銅壺に入れて『良いマグロがあったので買ってきたの。味見てちょうだい』、『中トロで美味いよ』、『まぁ~嬉しい。不味いと言われたらどうしようと思っていたの~』、あのカミさん艶っぽいね。『お前も一つ食えよ』、『私はいいの、貴方は疲れて帰って来たんだから、たんと食べて。ビタミンBが不足すると脚気になるから』なんて、じゃれているから『俺はどうなるんだ』、『一緒に来たんだな』、『俺だって女房がいるんだよ』と、帰って来たら・・・。
 『今帰ったぜ』、『モォ~、帰ったかい』、『モォ~、とは何事だい』、と言ったら、『ウシ(家)の人だもの』。『湯行くから手拭い取れや』、不思議そうな顔して『アンタも湯入るの?』、『当たり前だ、俺だって入るョ』、『湯銭持っているかい?』、小銭ぐらい無いと言えないから『持ってるよ』」。
 「銭湯から帰ってくると、お膳の布巾が片っ方上がってる、燗徳利だなと思うから、持つ物は女房だなと思った。布巾を取ると空の丼ばかりで、『香々でも出してこい』と言ったら『あ~~ぃよ』だって、出してきたキウリだってワタだくさんでしまっていない。その上塩をけちったから生だ、文句を言えば『贅沢を言うんじゃ無いよ。キリギリスをごらん』」。

 「チョッと遅くなっちゃったね。最後の一幕は良かったわね」、「亭主に謝っちゃおうと思ってるんだよ」、「それだからダメなのよ。甘やかしては駄目。お花さんは『亭主は月に4~5回お仕置きしなくちゃダメだって』。あの人は乱暴だよ、キセルで叩いちゃうんだって、そしたらラオが折れちゃったんだって。『高いものになっちゃった』、だから、今度は亭主を壁に押しつけて、ワサビおろしで顔を擦るんだって」、「そんな事出来ないよ。ま、謝っておこうと思って・・・」、「その方が無難だよ。マズかったら私が飛んでいってあげるから」。
 「あら、お帰りなさい。火が無かったでしょ」、「・・・」、「どうしたの?」、「・・・」、「お前さん。しょうが無いじゃ無いの・・・。貴方の方が先帰って来ちゃったんだから。何か取ろうかと思っていたのよ。怒った顔はデレリとした顔より締まってて良いわよ。もう一週間怒っていたら」、「目が疲れちゃうよ。何処行ってたんだ」、「芝居!」、「軽いね。言うことが。行くなとは言わないが、手間を掛けさすなよ。自分で火を起こして飯を食うぐらいだったら、カミさんなんて要らないんだ。芝居と言ったら後がウルサいんだから。あの人は吉右衛門さんに似ていますね。三吉さんは宗十郎さんに似てますね。言われるたんびに肩身の狭い亭主だって居るんだ」、「似ているからさぁ~」、「ものにはついでと言うこともある。夫婦には人情がある・・・」、「貴方のことを誉めないからと怒っているの。自分の亭主を誉めるとなんだから、相手の亭主を誉めると、おかみさん連中がアンタのことを誉めると思って・・・。あんただって似ているよ」、「催促したからだって・・・ふざけるなぃ」、「大丈夫、似てますよ」、「誰に似ているだぃ」、「お前さん、福助!」、「あの役者のか?」、「今戸焼きの福助だぃ」。 

 



ことば

福助(ふくすけ);福助は一説に、享和2年8月(1802年9月)に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルであった。もともと身長2尺(60cm)足らずの大頭の身体障害者であったが、近所の笑いものになることを憂いて他行を志し、東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物に出たところ、評判が良く、江戸両国の見せ物に出された。江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。見物人のなかに旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助をとせがんで、旗本某は金30両で香具師から譲り受け、召し抱えた。それから旗本の家は幸運続きであるのでおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚し、永井町で深草焼をはじめ、自分の容姿に模した像をこしらえ売りに出し、その人形が福助の死後に流行したという。 
 注:雪ノ下(ゆきのした)は神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある町名。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。

歌舞伎俳優福助;四代目中村福助、後の五代目中村歌右衛門。屋号は、東京の福助は成駒屋、大阪の福助は高砂屋。 「福助」は、三代目中村歌右衛門の幼名・福之助に由来する。名跡も同様に、当初は「歌右衛門」の前に襲名する前名だった。 明治になって「福助」が二系統に割れると、東京では「歌右衛門」と「芝翫」双方の前名となり、大阪では「梅玉」の前名となって定着した。
 成駒屋四代目 中村福助 =初代の養子、1866年 - 1940年。実父は幕府金座役人。
  初代中村兒太郎(児太郎=こたろう) → 成駒屋四代目中村福助 → 五代目中村芝翫(しかん) → 五代目中村歌右衛門(右写真)。

 1875年(明治8年)四代目中村芝翫の養子となり、初代中村兒太郎として2年後甲府三井座『伊勢音頭恋寝刃』で初舞台。1881年(明治14年)『須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の桂子で四代目中村福助を襲名。生まれついての美貌と品のある芸風で東京・大阪で人気を集め、新進気鋭の若手として注目される。1884年(明治17年)『助六所縁江戸桜』では三浦屋揚巻に抜擢され、九代目市川團十郎の助六の相方をつとめる。以後、團十郎や五代目尾上菊五郎の相方を務める。1887年(明治20年)には井上馨邸で行われた天覧歌舞伎もつとめ、歌舞伎の次世代を担う旗手としての存在を確立する。

今戸焼き(いまどやき);今戸焼きは、素焼きの土器を今戸焼と総称したくらい盛んに製造されたもので、焙烙(ほうろく)、人形、灯心皿、瓦燈(かとう)、土風炉(どぶろ)、豚の蚊やり、七輪 、火鉢、猫あんか、植木鉢、招き猫、狸、稲荷の狐、鳩笛など高級品はないが素朴な味わいで人気が高い。瓦職人が余技で焼き始めたともいう。
 不細工な顔形を今戸焼きの福助とか今戸焼きのお多福とか悪口にした。噺の亭主は役者だろうと思ったら、今戸焼きの不細工な福助だなんて・・・。
 落語「今戸の狐」より孫引き。

初代三笑亭 可楽(さんしょうてい からく);(安永6年(1777年、逆算) - 天保4年(1833年1月21日))は、落語家で、通称、京屋又三郎。
 最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは江戸・馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人のアマチュアの噺家と共に江戸の下谷稲荷社で寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。
 一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には三笑亭可楽に改名した。その後は東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約3mm)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。
 弟子(門下)は「可楽十哲」と呼ばれそれぞれ初代朝寝房夢羅久、初代林屋正蔵、初代三遊亭圓生、初代船遊亭扇橋など門弟数十人が確認されており、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。
 落語「今戸の狐」より孫引き。写真も墓所もここに有ります。

八代目三笑亭 可楽;(1897年〈明治30年〉1月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月23日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名、麹池 元吉(きくち もときち)。出囃子は『勧進帳』。所属は日本芸術協会。文化放送専属。1940年4月に六代目春風亭小柳枝となり、1946年5月に八代目可楽を襲名。師匠と名前を度々変えていることからも分かる通り、長く不遇であった。また人気が出た晩年も、日本芸術協会会長六代目柳橋との衝突から長期休業したり、報われなかった。 芸風は極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかった。しかし、熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。彼らの多くは現役ミュージシャン、それもジャズマンで、著名なところでは小島正雄、北村英治、フランク永井などがいた。独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。可楽の十八番『らくだ』、『今戸焼』(この噺)が絶品。『二番煎じ』、『反魂香』、『うどんや』、『岸柳島』、『鰻の幇間』などの演目を得意とした。ただ無精な性格ゆえに十八番の『らくだ』の他、『芝浜』や『子別れ』のような小一時間もかかる大ネタでも他の落語家に比べて短く切り上げていた。それまで日蔭の世界の芸人だったが、1962年に内幸町イイノホールで開催された精選落語会のレギュラーのひとりに抜擢され(他には八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生、五代目柳家小さん、八代目林家正蔵(彦六))、やっとスポットライトを浴びた矢先、1963年の暮れに体調不良を訴えて入院、胃の手術を受けるも1964年に食道癌で死去。享年六七。
 ウイキペディアより転載加筆。
 イラスト;山藤章二「新イラスト紳士録」より、らくだの可楽。

芝居(しばい);興行物、特に演劇の称。歌舞伎、人形芝居。ここでは歌舞伎を指しています。

七輪(しちりん);(物を煮るのに価7厘の炭で足りる意からという) 焜炉(コンロ)のひとつ。多くは土製。右図、広辞苑。

長火鉢(ながひばち);長方形の箱火鉢。ひきだし・猫板・銅壺(ドウコ)などが付属し、茶の間・居間などに置く。
右写真:長火鉢。深川江戸資料館の展示品

銅壺(どうこ);銅・鋳鉄などで作った湯わかし器。竈(カマド)の側壁の中に塗り込み、または長火鉢の灰中に埋めるなどして、そばにある火気を利用して、中に入れた水がわくようにしかけたもの。その湯で燗を付ける。
右側の長火鉢に埋め込まれた銅壺。

60年の不作(60ねんのふさく);一生の不作。悪妻は一生の不作とも。60年は当時として長生きのことで、その全て(一生)が不作になるような連れ合いで、自分だけでなく子供にも影響してくる。

燗徳利(かんどっくり);酒の燗をする徳利。当時の日本酒は燗をして飲むのが普通であったので、日本酒を飲むには必需品であった。

ビタミンBが不足すると脚気;脚気は、ビタミンB1が不足して起こる疾患で、全身の倦怠感、食欲不振、足のむくみやしびれなどの症状があらわれます。古くは江戸から昭和初期まで多くの死者を出しましたが、ビタミンという栄養素について研究が進んだ現在では脚気にかかる人はほとんどみられなくなった。しかし、インスタント食品中心の生活をしている現代人に再び脚気予備軍が増えているといわれています。
 江戸時代、江戸では白米を食べることが当たり前で、脚気になりやすかった。脚気のことを江戸病と言って、江戸を離れて療養すると直ぐ治ってしまうと言われた病気。将軍でも脚気にかかり難儀をしたと伝わっています。
 半公のカミさんは脚気について良く分かっていて、料理の苦労をいとわなかった。

ラオが折れる;煙草を吸う道具にキセルが有ります。キセルは煙草が入る火皿と、吸い口が金属で出来ていて、それを繋ぐのがラオという竹材です。ラオスから輸入された竹なのでラオと呼ばれています。ここが折れたら交換して貰うより他に手が有りません。まぁ~、手荒な奥様だこと。

吉右衛門(きちえもん);初代中村吉右衛門。=(1886年(明治19年)3月24日 - 1954年(昭和29年)9月5日)は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。大向うからの「大播磨」(おおはりま)の掛け声で知られた。
 1897年(明治30年)、母方の祖父である芝居茶屋萬屋吉右衛門に因んで初代中村吉右衛門の名で初舞台を踏み、終生その名で通した。 子供歌舞伎の中心として初代助高屋小伝次、初代中村又五郎らとともに将来を嘱望され、九代目團十郎の保護を受けた。長じて1908年(明治41年)、六代目尾上菊五郎と共に市村座専属となり、若手の歌舞伎役者として人気を博した。市村座では菊五郎との共演が評判を呼び、「菊吉時代」「二長町時代」を築いた(下谷区二長町に市村座があった)。 1921年(大正10年)、市村座を脱退。のち松竹に移籍。芸の幅も広く、菊五郎とともに当代の名優と称され今日の歌舞伎に大きな影響を残した。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員。1951年(昭和26年)に文化勲章を受章した。さらに1953年(昭和28年)11月、東京歌舞伎座において昭和天皇、香淳皇后ご臨席による天覧歌舞伎で「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」の佐々木盛綱を演じ、名実ともに戦後歌舞伎の頂点を成し晩節を飾った。
 右写真:初代中村吉右衛門。『菅原伝授手習鑑』の武部源蔵。

宗十郎(そうじゅうろう);七代目澤村宗十郎。(1875年(明治8年)12月30日 - 1949年(昭和24年)3月2日)は歌舞伎役者。女形、立役。本名は澤村福蔵。屋号は紀伊國屋。俳名に高賀。東京市出身。一説には東本願寺法主の隠し子とも言う。二代目澤村訥升の養子。
 1881年(明治14年)澤村源平で初舞台。1892年(明治25年)大阪で十一代目片岡仁左衛門の引きたてを受け、三代目澤村訥升(とっしょう)を襲名する。1911年(明治44年)歌舞伎座で『高野山』の苅萱道心役で七代目澤村宗十郎を襲名。女形、立役を得意とした。江戸和事というべき古風な芸で、独自の台詞回しとともに観客の好悪が激しかった。ために、戦前期までは、近代歌舞伎の流れから外れて不遇をかこっていた。戦後、その芸風が珍重され、宗十郎歌舞伎の名で再評価が高まる。その矢先、姫路の巡業先で『仮名手本忠臣蔵』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。 鷹揚な性格で、被るべき鬼女の面を忘れて舞台に立ってしまい、止むなくそれらしい顔をしてごまかしたというエピソードが伝わっている。 当り役は『神霊矢口渡』のお舟、梅の由兵衛、『助六』の白酒売、鈴木主水、苅萱道心、『明烏』の時次郎、『伽羅先代萩』の頼兼、『蘭蝶』など。宗十郎代々の家の芸に自らの当り役を加えた高賀十種を定めた。実子は五代目助高屋高助、五代目澤村田之助、八代目澤村宗十郎がいる。



                                                            2018年1月記

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