落語「近江八景」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭円歌の噺、「近江八景」(おうみはっけい)より


 

 男の道楽は、飲む・打つ・買うです。その中でも一番いいのが、意外ですが、博打です。何故かというと博打の親分は有っても、女郎買いの親分はいません。女の道楽は一番にお芝居見物です。男の道楽と女の道楽を比べると、女性の道楽が勝っています。何故って、お芝居に行く数日前から回りに吹聴しています。いくら女郎買いが好きだって、4~5日前から言いふらすことはありません。

 女郎買いが進んでくるとあばたもえくぼで女の全てが良く見えてきます。
 「兄貴、俺の女を占って貰いたいんだ。付き合ってくれよ」、「ヤダよ。男がゴム手袋のような手を出して・・・。で、何を・・・」、「あの女の一件だ。来年の年期(ねん)が明けたら一緒になろうと言うんだ」、「その位言わなければ、御客は通ってこないよ。世辞愛嬌、手練手管と言うだろう。今に深みにはまるから、見世を変えろ、女を変えろ」、「焼くなぃ」、「お前だから言うが、あの女には真夫(まぶ)がいるんだ」、「有るとも、それは俺だろう」、「大変な熱だな~」、「でも止めとくよこの話。友達を無くするから・・・」。

 「頼むから教えてくれよ」、「だったら言うが、用事で近くまで行ったので、吉原のいつもの見世に上がったんだ。いつまでも台の物を突いていられないので、はばかりに行ったんだ。すれ違う男がいて、部屋に戻ると女が来ていて、『今すれ違った男、イイ男だったろう』、と言われたが、『良く見ていなかったので分からない。お前の真夫(まぶ)かい』、『違うわよ紅梅さんの真夫なの。血道を上げて尽くしてんの』。お前の相方は何て言う女だ」、「紅梅」、「紅梅って二人いるのか。女の真夫を良く見ようと廊下で見ると、こしらえが渋いんだ。女にはチョイと甘そうなところが有って、男が惚れるようないい男なんだ。そしたらお前の顔が浮かんだら、ゾーッとしたね。洗濯石鹸で顔を洗ったら税務署が来たような顔だ」、「ヒデェ~こと言うね。占い者に見てもらって良い占いが出たらどうするッ?」、「逆立ちして町内を歩いてやるよ」。

 「先生見ておくれ」、「はい、おいで・・・。あなた方は女出入りで来たな。それも素人では無いな。女郎という女か?」、「その通りだ。一昨年の二の酉にみんなで上がったんだ。直ぐに裏を返して、通う内に回りの女郎が『紅梅さん良い人が来てるんだね』、『そうなの。ありがとう』と如才がないよ。汗臭い寝間着ではなく、箪笥から洗いざらしの寝間着を出してくれるんだ。紅梅がね『あちきは来年3月に年期が明けるの、その時は引き取ってくれるかぃ』、『アア、良いよ』、『そんな事言ったっておかみさんがいるんだろう』、『いるもんか』。ちゃんと約束が出来ているんだ」。
 「で、何を見て貰いたいな」、「この女のことで・・・」、男の相談を聞いて算木と筮竹(ぜいちく)を動かし、「易は出ました。沢火革(たっかかく)と出た。火が、新たな燃えるものを求め、勢いよく燃え盛るということで、春には女は来るな」、「やい、女は来ると出たぞ。あったかくだ、二人で寝れば暖かくなる」。「いや、待て。四爻(しこう=六十四卦を構成するうち、下から4番目の爻)に変爻(へんこう)があり、水火既済(すいかきせい)と出ている。この卦自体はよいのだが、つまり照らし合わせると、女が来るには来るが、スキを見て、別の男のもとへ逃げられてしまう、ということが出ている。結局はあきらめた方がよいだろう。この縁談はいかん、出来ん、私が請け合う」、「変なこと請け合うなよ。女からの惚れた手紙だ、読んでみてくれ」。
 「粗末な紙だが・・・『1円50銭也、腹掛け股引二品 本品は本月30日限り、相流し候』」、「おっとっと、流し候まで大きな声で読んじゃったよ。質屋の利上げの紙じゃないか。こっちだよ」、「書いたな~、どれどれ、『恋しき君の面影をしばしがほどは見いもせで 文の矢橋の通い路や 心かたたの雁ならで われから先に夜の雨 濡れて乾かぬ比良の雪 瀬田の夕べと打ち解けて かたき心は石山の月も隠るる恋の闇 会わずに暮らすわが思い 不憫と察しあるならば また来る春に近江路や 八つの景色にたわむれて 書き送りまいらせ候 かしく』」、「どうだい」、「近江八景を読み込んでくるとはなかなかの女だな」。

 「この文によって易を見て進ぜよう、『この文から判断をすると、女が顔に『比良の暮雪(ぼせつ)』ほどお白粉を付けているのを、お前は一目『三井寺』(みいでら=『三井の晩鐘』のように遠くから見ている)より、わがものにせんとこころみて、心は『矢橋』に(矢のように)はやるゆえ、『唐崎の夜雨(やう)』と濡れかかっても、先の女が『(石山の)秋の月』(飽きている)だ。文の便りも『かたたより』(片便り=手紙が一方通行になっている)、気がソワソワと『浮御堂』。根がドウラクカン(道楽と『堅田の落雁』をかける)の強い女だから、どうせセタイ(瀬田と世帯をかける)は持ちかねる。これは『粟津の晴嵐』(会わず)とおし』」、「何だい、つまらない」、「おいおい、見料を置かんか」、「八景に膳所(ぜぜ=銭)はいらない」。

 



ことば

原話は、1781年(安永10年)に出版された笑話本『民話新繁』の一編「鞜の懸」。上方落語の演目として成立し、東京へは四代目春風亭柳枝が持ち込んだという。

算木(さんぎ);または算筹(さんちゅう)。中国数学や和算で用いられた計算用具。縦または横に置くことで数を表した。算木に基づく算木数字も使われた。算木を用いた計算法を籌算(ちゅうさん)という。
 中国では紀元前から算木が使われていた。1954年、湖南省長沙の左家公山15号楚墓で、戦国時代の算木が四十数本発掘された。文献の記録はさらに古く、老子には「善く数える者は籌策(ちゅうさく)を用いず」とある。13世紀にそろばんが使われるようになるまで、算木で計算を行った。算木はそろばんと異なり高次の代数方程式を解くことができたが、中国ではそろばんの普及により解法が失われた。江戸時代の日本の数学者はそろばんと並んで算木を用い、数学の発展に貢献した。

筮竹(ぜいちく);易占において使われる50本の竹ひごのようなもの。長さは35cmから55cm程度のものが多く、両手で天策と地策に分けるときに扇形に開きやすいよう、手元に当たる部分をやや細く削ったものもある。算木とともに、易者のシンボルとして知られている。竹でないものもすべて含めて筮(めどき)と呼ぶ。 『繋辞伝』に「蓍之徳圓而神卦之徳方以知」とあることから、古くは蓍(シ=めどぎ。キク科の多年草であるノコギリソウを指す)の茎を用いていたことが分かる。しかし、『繋辞伝』は蓍という植物の神秘を説くものではない。周易の基本は数にあるので筮の材質は何でも良い。蓍の精油は西洋において媚薬として知られていたものであるが、無論、易の神秘の西洋魔術を混同すべきではない。ほかにメドハギも使われたという。 筮の数は大衍の数、即ち50であるが、占いに用いるときは一を太極に象(かたど)り、49を用いる。大衍の数の由来には定説がないが、天数25と地数30の和より天地に共通する五行を除くという鄭玄の説が尤もらしい。

近江八景(おうみはっけい);日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。

 石山秋月 (いしやま の しゅうげつ) = 石山寺(大津市)。
 勢多(瀬田)夕照 (せた の せきしょう) = 瀬田の唐橋(大津市)。
 粟津晴嵐 (あわづ の せいらん) = 粟津原(大津市)。
 矢橋帰帆 (やばせ の きはん) = 矢橋(草津市)。
 三井晩鐘 (みい の ばんしょう) = 三井寺(園城寺)(大津市)。
 唐崎夜雨 (からさき の やう) = 唐崎神社(大津市)。
 堅田落雁 (かたた の らくがん) = 浮御堂(大津市)。
 比良暮雪 (ひら の ぼせつ) = 比良山系。

 ○ 江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂版 東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834)頃、版元・保永堂によって刊行された。全8図。 

 

 石山秋月= 石山寺(大津市)。 勢多(瀬田)夕照= 瀬田の唐橋(大津市)。

 

 粟津晴嵐= 粟津原(大津市)。 矢橋帰帆= 矢橋(草津市)。

 

 三井晩鐘 = 三井寺(園城寺)(大津市)。 唐崎夜雨= 唐崎神社(大津市)。

 

 堅田落雁= 浮御堂(大津市)。 比良暮雪(下絵)= 比良山系  

浮御堂(うきごどう);近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。先代の堂は昭和9年(1934)に室戸台風によって倒壊、現在の堂は昭和12年(1937)に再建されたもので、室戸台風の直後に竜巻も近くで発生している。昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。広重の「堅田の落雁」のバックにも描かれた御堂。


○ 近江八景の地名を全て含んだ狂歌として、江戸後期の文人・大田南畝が詠んだと伝わる以下の狂歌が知られている。 乗せたから さきはあわずか たゝの駕籠 ひら石山や はせらしてみゐ  

「のせた(瀬田)から さき(唐崎)はあわず(粟津:あはづ)か たた(堅田)のかご ひら(比良)いしやま(石山)や はせ(矢橋)らしてみゐ(三井)」

この歌は、大田南畝が京へ上ろうと瀬田の唐橋に来た時、「近江八景の題目8つの全てを31文字の歌の中に入れて詠んだら駕籠代をただにしてやる」と駕籠屋に問われ、歌ってみせたものとされている。この逸話は講談によって広まり、ここでは無いが、落語『近江八景』の枕となる小噺の中でも紹介される場合もある。
落語「蜀山人」に詳しく載っています。

○ 松尾芭蕉が紀行文「奥の細道」の作成のため、敦賀に立ち寄った際詠んだ句、
 『国々の八景更に気比の月』の「国々の八景」は「近江百景」だとされている。
 『月清し遊行のもてる砂の上』
 『ふるき名の角鹿や恋し秋の月』
 『月いつく鐘は沈る海の底』
 『名月や北国日和定なき』
福井県敦賀市の気比神宮の境内には、以上五句が刻まれた、「芭蕉翁月五句」の句碑があります。  

女郎買い(じょろうがい);女郎を揚げて遊ぶこと。

 これほど遊里が多かったことについて、江戸は女にくらべて男の数が多く、配偶者にめぐまれない男が多数いたからという説がある。たしかに江戸時代の初期には都市建設にともなう職を求めてどっと労働者が流人し、男の数か極端に多い時期もあったが、中期以降は男女の数にさほど不均衡はない。男が多かったからという説はあたらない。
 もっとも大きな理由は、当時の社会には売春に対する罪悪感がなかったからであろう。江戸の人々は売春に対して寛容であり、おおらかだった。野放図、破廉恥ともいえよう。江戸の男は人目をはばかることもなく、公然と女郎買いをした。多くの女郎屋が寺院や神社の門前など繁華な場所にあったから、人目をはばかりようもなかった。伊勢神宮の門前にすら古市という遊里があった。
 もちろん、世の中には息子が女郎屋に行くのを厳禁する親や、亭主の女郎買いに激怒する女房もいたが、「男の女郎買いはしかたがない」というのが一般的な社会通念だった。「女郎買いは男の甲斐性」という考え方も根強かった。武士も庶民も、女郎買いに後ろめたさはほとんど感じていなかった。
 もうひとつは、現代にくらべて娯楽が少なかったことがある。
 遊里や遊女を。題材にした歌舞伎、浄瑠璃、文芸作品、絵画、音曲は数多い。とくに吉原は着物の図柄や髪型などの流行の発信地でもあった。遊里を抜きにしては江戸文化や習俗は理解できないし、男と女の関係も焦点がずれてしまうであろう。
  永井義男氏の「江戸の性の不祥事」から抜粋。

年期(ねん);”ねんき”(年期、年季)と書いて”ねん”と発音します。江戸時代、女郎屋では10年を期間と定めてあった。

  『十年で極楽へ出る篭の鳥』 柳多留
 俗にいう苦界を読んだ句だが、仏教用語を転用した苦界は、本来は表向きの場の意味の公界(くかい)で、江戸時代における雇用の最長期間である十年間の遊女の年季を称した。
 遊廓の勤めを公界といったのは、正式の手続きによって年季を書き込んだ傾城請状(身元保証の証文)を入れた勤めの意味で、もぐりの私娼とは異なることを表現していた。表向きの期間で、実際には十年では自由の身には成れなかった。客を取らない禿(かむろ)時代はただ働きで年数には入らない。年期が明けてもお礼奉公が1~2、3年はあるので、禿時代を除いても12~3年は篭の鳥だった。年期明けが二十七八になった。江戸時代では中年増と言われる年齢です。

  『泥水を洗って白い足袋をはき』 柳多留
  『二十八からふんどしが白くなり』 柳多留
 吉原の遊女は裸足だったので、素人になると足袋も履き、緋縮緬の腰巻きが白に変わった。
  『あべこべさ足袋を履いたらひびが切れ』 柳多留
 嬉しい悲鳴であった。かといって、家事が何も出来ない娘は、
  『美しいばっかりの嫁二十七』 柳多留
 
興津 要著 「江戸吉原誌」から抜粋。

真夫(まぶ);間夫とも。女郎の一番愛しい人。
 遊女浦里における時次郎(明烏)、遊女三千歳(みちとせ)における直二郎(天衣紛(くもにまごう)上野初花)、お杉と芳次郎(文違い)、松葉屋の瀬川と善治郎(松葉屋瀬川)、等々・・・。遊女が真情を尽くすことが真夫だから、真夫が来る日は、営業上の客は邪魔者扱いされる。

吉原(よしわら);まずは、江戸が出来たのは家康が慶長8年(1603)に江戸に幕府を開きました。人家もまばらな寒村でしたから、各地から商人、労働者、武家が江戸に入ってきて繁栄を極めるのですが、男連中が主ですから、自然春を売る女達も集まってきました。当然、江戸の各所に無差別に傾城(けいせい)町が出来上がっていきました。
 慶長17年(1612)頃、庄司甚内(甚右衛門)が代表となって、幕府に傾城町の設立を願い出たのです。許可願いを出した6年後の元和3年(1617)3月、葺屋(ふきや)町に二丁(218m)四方の地面を下付されて傾城町免許の沙汰があって、甚右衛門はそこの総名主に命じられた。この地をアシが生い茂るのでアシ屋町と言ったが、縁起を担いで吉原と言った。ここの郭内には160軒の揚屋と妓楼があって、遊女は太夫(たゆう)・格子(こうし)・端(はした)の三階級。人数は千人近くいました。ここを元吉原と言います。
 その約40年後、明暦2年(1656)10月町奉行所に呼び出され、浅草の北側日本堤に5割増しの土地と金一万五百両を得て、移転を命じられ、翌年明暦の大火があり遅れたが、移転が完了し、ここを新吉原と呼ばれることになります。後年吉原と言えば新吉原を指します。落語の世界でも新吉原が舞台で、単に吉原と言います。また江戸の中心から見て北に有ったので、北廓、北、仲之町を約して中とも言われました。郭内は江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角(すみ)町の五丁町の他に揚屋(あげや)町が出来ました。ここの出入りには大門(おおもん)口しかなく、正面の奥まで続く道を仲之町と言った。

台の物(だいのもの);吉原で仕出し屋から来る台に飾られた料理。

はばかり;便所。トイレ。

二の酉(にのとり);吉原の裏にある鷲(おおとり)神社の祭礼で、11月の酉の日に開かれ通常2回だが、3回の年もあり、この年は火事が多いと言われる。熊手(かっこみ)に縁起物を飾り商売繁盛を祈願して、買って帰り店に飾られます。深夜まで熊手を求めて参拝者が訪れますが、裏の吉原に寄り道していく善男が大勢いて、この日は大変混雑します。

裏を返す(うらをかえす);遊廓では初めて登楼することを、初会と言います。二度目に上がることを裏を返すと言い、三度目から馴染みとなります。現在でも、飲み屋さんに行って「ここは、馴染みの店なんだ」、と言うときは、最低でも3回以上通ってないと、この言葉は使ってはいけません。

沢火革(たくかかく);改革、改新の時。大きな変化を表すことから、守りきれない運気にあるとされています。例えば夫婦仲や恋人との関係であれば、改善しようと努力しても、まったくラチがあかず、むしろ状況が悪化することも考えられるでしょう。倦怠期を解消すべく、刺激を与えても無駄な努力に。しかし、思いきって離れてみると、問題がきれいさっぱり解消されることもあります。また、正しい方向に向かおうとしている変化であれば、周囲は賛成し、力を貸してもくれるとも言えるでしょう。

四爻(しこう);六十四卦を構成するうち、下から4番目の爻。「悔いはなくなり、誠意をもって改める。吉」。改革に取り組む時が訪れました。誠意をもって実行に移せば成功します。

変爻(へんこう);変爻と変卦とは、占ってでた卦が表、変卦が裏にあたります。表面にあらわれたことだけでなく、裏に秘められたこともみるためです。略筮法で三度目に別に筮竹を数えて得た爻が変爻になります。
変爻というのは、変化する爻のことで陽は陰に、陰は陽に変化します。

水火既済(すいかきせい);「既済」は完成、すでに済(ととのう。)の意味。「水火既済の時、小事は通じる。貞正であれば良い。最初は吉でも終わりは乱れる」。 水 火既済の時は功成り名遂げた時で、とりあえず今はいい時といえましょう。しかし、完成は乱れの始まりであり、完成した状態をどうすれば維持できるのかを心 すべきです。すなわち、新規に始めることは避け、今以上のものを求めないことが大切です。人間にとって実に難しいことなのですが、そう心がけるべきです。 あなたがサラリーマンであるならば、これ以上の出世を望まず、また、独立などの冒険は避けるべき時です。完成をみたとたん、面白味が失せ、だらけてくるものですが、「治に居て乱を忘れぬ」よう、気持ちを引き締め備えることです。

 沢火革、四爻、変爻、水火既済、どれも易の言葉、事象です。私は全くの素人で、この件についての意味は広辞苑にも載っていませんし、インターネットから引いていますが、腑に落ちていません。読めば読むほど分からなくなります。皆さんも「易にはこんな言葉があるんだな~」、位の理解で十分だと思います。その道に進むのではないでしょうから・・・。

腹掛け股引(はらがけ ももひき);職人が仕事につくときの定番衣料品です。作業服を質に入れたら、どうやって仕事に出るのでしょう。着替えの片方を質入れしたにしても、女郎と遊ぶ金が有ったら、質屋から出しなさいよ。
 腹掛け:腹の部分を保護し、エプロン状のその前には大きなドラエモンポケットがついています。それを”どんぶり”と呼び、銭や小物類を入れておきます。小銭を無造作に取り出して支払うことを、どんぶり勘定というのはここから出ています。
 股引:”ももひき”と言っても、防寒用のズボン下ではありません。職人が履く現代のズボンで、腰回りはフリーサイズになっていて、付属したヒモがベルト替わりとして使います。ピッチリしたサイズでズボンのようにブカブカしていません。職人だけでなく、目明かしや、棒手振り、商人、下働きも股引を履きました。

見料(けんりょう);人相・手相などを見てもらう時に支払う料金。

膳所(ぜぜ);膳所(ぜぜ)は滋賀県大津市にある地名。旧・膳所町。難読地名として知られる。
 滋賀県大津市の中心市街地の一部。旧町名。 1933年大津市に編入。江戸時代は本多氏6万石の城下町。現在は住宅地で、琵琶湖にのぞむ旧本丸跡は公園となっている。地名は、古くは陪膳浜 (おもののはま) と呼ばれ、かつて宮中の食卓に魚を供する地であったことに由来。琵琶湖に臨み、近江八景の一つ「粟津の晴嵐」で知られる。 全国で『所』を、せ・ぜ、と読む地名は、奈良の御所市をごせし、ここのぜぜの2件だけだそうです。
 オチの『ぜぜ』は、(幼児語) ぜに(銭)と上記地名を掛けたもの。



                                                            2018年1月記

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