落語「さんま芝居」の舞台を行く
   

 

 三遊亭金時の噺、「さんま芝居」(さんましばい)より


 

 食べ物にも絶妙な取り合わせが有るものです。カレーに福神漬け、すき焼きに生卵、秋刀魚に大根おろし。

 昔はお芝居というのはなかなか地方では観られなかったものです。
 「宿のおかずは三度三度秋刀魚の塩焼きで飽きちゃった。宿に言ったら今晩は秋刀魚の刺身だとヨ」、「しょうが無いよ。ここは秋刀魚の本場だ」、「江戸に帰って赤身で一杯やりたいよ」。
 「下の道を大勢、人が良く通るな」、「宿の婆さんに聞いてみよう。どうしたんだい?」、「村の鎮守様でお祭りだ~ね。江戸から化け物の名人が来ているから・・・」、「誰が来ている?」、「市川團十郎の弟子で市川怨霊と中村無念蔵が来ている」、「夜はやることが無いから行ってくるか」。

 「ここだな鎮守様というのは」、「何やってんだ」、「『蔦紅葉宇都谷峠』(つたもみじ うつのやとうげ)、珍しいね、文弥殺しだ」。
 「中に入ろうか」。
 幕間と見えて色々な物を売りに来ています、田舎のことですからおセンにキャラメル、アイスクリームでは無く、「え~、握り飯は要らんかね~、え~草鞋は要らんかね~、小田原提灯要らんかね~、ロウソクは要らないかね~」、「おい、すごい物を売りに来るね」、「田舎は夜道が真っ暗になるからね~」。

 舞台の方では柝(き)が入って、定式幕がす~と開きます。舞台は宇都谷峠の殺しの場です。花道から出て来たのが文弥と、伊丹屋十兵衛。舞台の中央の切り株に腰を下ろして、「文弥さん、昨夜護摩の灰に狙われた、それなる包みの中身は?」、文弥が100両というと十兵衛の心が変わって、貸してくれと言いますが、文弥はたった一人の姉が廓に身を売って作ってくれた金で、これを持って京まで上り官位を貰うお金、家の者達が私の帰るのを待っています。これだけは勘弁して下さい。十兵衛、分かったと言い「ここで別れましょう。峠は下るばかり、気を付けて行きなさい」、「ありがとうございます。十兵衛様」、二あし三足進むところ、後ろから道中差しで「エイッ」。「ここで殺されても恨み晴らさず居られようかッ」、「ゴメン、文弥さん」、トドメの二太刀三太刀浴びせて、百両を奪い死体は崖下へ転がし、花道に差し掛かったが、煙が出ない。それでは幽霊が出られない。
 「親方スイマセン、煙の花火を宿に忘れてきました」、「馬鹿野郎メ、早く煙を何とかしろ」、楽屋では道具方が夕飯にしようと秋刀魚を焼いている最中。それを借りて、舞台の袖に持ち出して煙をモウモウと立ち上げた。良い塩梅に煙は出たが客席から「なんだか生臭い煙だな~」、「昔から幽霊が出るときは生臭い匂いがすると言うゾ」、「そこが江戸の歌舞伎の芸の細かいとこだ」。
 「なんだよう~、裏で秋刀魚焼いているじゃないか。何か言ってやろッ」、「ようようよォ、秋刀魚の幽霊、生臭幽霊、精進を忘れたか~」、幽霊役者、大の好物が秋刀魚の塩焼き、お腹が鳴って台詞を間違えた、「ばんめしぃ~」、「『ばんめしぃ~』だってよ。この日本一の大根役者~」、「大根、それをオロシて持って来てくれ」。

 



ことば

三遊亭金時(さんゆうてい きんとき);昭和37年(1962)11月東京都新宿区生まれ。平成30年現在55歳。今徹底的に稽古をすれば父親のように名人の声が掛かるでしょう。
 昭和61年(1986)、大学卒業と同時に父である四代目「三遊亭金馬」に入門。平成元年(1989)に二ツ目、平成10年(1998)には真打ちに昇進。平成12年(2000)にはNHK朝のテレビ小説“私の青空”にて春風和夫役で役者デビュー。平成16年(2004)文化庁芸術祭演芸部門新人賞、平成17年国立演芸場花形演芸大賞銀賞、平成18年国立演芸場花形演芸大賞金賞など受賞多数。落語協会所属。本名は松本 晋平(まつもと しんぺい)。四代目「三遊亭金馬」の実子。
 堀越高等学校、東海大学政治経済学部卒業。趣味は相撲などのスポーツ観戦。

蔦紅葉宇都谷峠つたもみじ うつのやとうげ);「蔦紅葉宇都谷峠」は金原亭馬生の人情噺を原案として二代目河竹新七(黙阿弥)が書いた世話物で、黙阿弥はこれを四代目市川小團次に当て書きしています。
  「因果同士の悪縁が、殺すところも宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血汐の紅葉血の涙、この引明けが命の終わり、許してくだされ文弥殿」の名科白で有名になった作品である。「許してくだされ何々殿」は当時の流行語にもなった。どうしたのでしょう、この金時の噺の中には出て来ません。
 落語「毛氈芝居」(もうせんしばい)」より

 

 歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠」について、『あらすじ
 貧しい家の娘、お菊は弟の文弥が幼い頃、石の上に誤って落としてしまい失明させてしまう。その償いにお菊は吉原へ身売りして、作った百両の大金を文弥にもたせ、京へ上らせて座頭の官位を取らせようとする。
 途中の鞠子宿で胡麻の灰、提婆の仁三(だいばの にさ)は文弥の大金を狙うが、同宿の伊丹屋十兵衛に取り押さえられる。文弥と十兵衛が宇都谷峠まで来たところで、十兵衛は初めて大金のことを知り、自分の主人のために借金を申し入れするが断られてしまう。一度は考えを改めた十兵衛だったが、結局は文弥を殺して金を奪ってしまう。だが、その一部始終を見ていたのが辻堂に身をひそませていた仁三であった。
  実は十兵衛の主人尾花六郎左衛門と文弥の父小兵衛はお家騒動をめぐる旧敵同士。しかも、十兵衛の借金はもとはと言えばお家騒動に絡む金子であった。そんな因果関係をも知らず、十兵衛は百両を元手に江戸で居酒屋を開くが、座頭の亡霊が十兵衛とその妻を悩ませるようになり、さらに落とした煙草入れをネタにして提婆の仁三による強請(ゆすり)が始まる。
 十兵衛は口封じに女房を手に掛けたあと、仁三を鈴ヶ森へ誘い出して殺害するが、かけつけた古今(こきん)や彦三から事実を知り、因果の恐ろしさに切腹して果てる。

 落語「毛氈芝居」には芝居「蔦紅葉宇都谷峠」の事が詳しく書かれています。

宇津ノ谷峠(うつのやとうげ);宇都谷峠は芝居で使われる架空の峠ですが、宇津ノ谷峠をイメージした峠です。静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠。国道1号・旧東海道が通る。標高151m。 中世から交通の要衝として和歌にも詠われ、現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして平成22年(2010)2月22日に国の史跡「東海道宇津ノ谷峠越」に指定された。

 

 上図;東海道五十三次「岡部」(宇都谷峠) 広重画。

 江戸時代に、宿場・参勤交代の制度とともに東海道は整備された。宇津ノ谷峠周辺にも江戸よりに鞠子宿、上方よりに岡部宿が置かれ、峠付近にも間宿(あいのしゅく=正規の宿駅間に設けられた旅人休憩の宿。宿泊は禁止されていた)や商店が立ち並んだ。
 落語「慶安太平記」にも出てくる、昼なお暗い峠で、山賊や物取りが出るのは、朝飯前。

秋刀魚に大根おろし(さんまにだいこんおろし);秋刀魚、今更解説することも無く、ご存じ秋の味覚がいっぱい詰まった魚で、落語「目黒の秋刀魚」でも殿様を虜にしてしまった美味な魚です。安価で栄養価が高く、旨い、こんなにも三拍子そろった魚は他には見つけることが出来ません。(貴方考えていますね、イワシやアジなども旨いし江戸湾の鯨なども安価で旨かった)。庶民の落語の中には、この秋刀魚が出て来ます。先程の「目黒の秋刀魚」、「秋刀魚火事」、この噺「秋刀魚芝居」等が主役の顔をして出て来ます。長屋では秋刀魚を焼くのが当たり前でしたが、季節を感じさせてしまうので「イワシ」を登場させています。
 このアブラが強い秋刀魚に合うのが大根おろし。大根には汁の部分にビタミンCやジアスターゼを多く含む。利用の幅は広く、薬草であり、消化酵素を持ち、血栓防止作用や解毒作用もある。

赤身で一杯(あかみでいっぱい);赤身とはマグロの赤身です。江戸時代秋刀魚と並んでゲスな魚の代表でした。ゲスというのは大漁に捕れて安価な魚を言い、決して不味いとか食べにくいとか言うのとは違います。マグロは、江戸時代に大漁に捕れたときがあり、保存が利かないので、赤身のところだけ醤油に浸けてズケと呼ばれ、にぎり寿司の代表にもなりました。マグロの脂身は、俗に言う大トロや中トロは今のように保存設備がなく捨てられていました。その捨てられる部分を使って、「ネギマ」(葱鮪)が場末の食べ物屋で出されていました。これは、トロのブツ切りを鍋で煮て、そこにブツ切りの長ネギを入れただけの汁です。これがバカウマで病みつきになるのですが、現在はトロが高価で寿司屋でも目の飛び出る程の部位を汁にするのですから、それは贅沢で手が出ません。
 話戻って、秋刀魚のように脂ぎった魚ではなく、マグロの赤身で一杯やりたくなるのも分かります。

鎮守様(ちんじゅさま);その地を鎮め守る神。また、その社。村の守神。鎮守の杜(ちんじゅのもり)、鎮守の社の境内にある森。

市川團十郎(いちかわだんじゅうろう);屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。
 市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。
 團十郎と関わりの深い名跡に市川海老蔵がある。前期の市川團十郎には團十郎 → 海老蔵と襲名する例が目立ち、後期にはこれが逆転して海老蔵 → 團十郎と襲名する例が目立つようになる。
 先代の十二代目團十郎が最初に襲名したのが市川新之助、その子で当代の海老蔵が最初に襲名したのも市川新之助だったため、市川宗家では新之助 → 海老蔵 → 團十郎と襲名するのが通例だと誤解されがちだが、実際にかつて新之助を名乗った者がのちに團十郎を襲名したのは、この十二代目の他には七代目と八代目があるのみである。
 なお團十郎の名跡はその圧倒的な存在感とは裏腹に、代々のうち半数が何らかの形で非業の最期を遂げていることでも知られている。すなわち、初代は舞台上で共演の役者によって刺殺され(満44歳)、三代目は公演先の大坂で病を得て江戸には戻ったものの2か月後に死去(満21歳)、六代目は風邪をこじらせて急死(満21歳)、八代目は公演先の大坂で謎の自殺を遂げ(満31歳)、十一代目は團十郎襲名後わずか3年半で病死(満56歳)、十二代目は白血病を患い、9年間におよぶ闘病の末死去した(満66歳)。代々の墓は青山霊園にある。
ウイキペディアより

幕間(まくま。まくあい);劇場で一幕終って、次の幕が開くまでの間。幕を引いてある間。芝居の休憩時間。

(き);拍子木。舞台に敷かれた板に、拍子木で打ち下ろし、その音響とリズムで舞台効果を上げる技法。

定式幕(じょうしきまく);歌舞伎の舞台の正式の引幕。萌黄(モエギ)・柿・黒の3色の布を縦にはぎ合せたもの。配色は各座によって異なる。狂言幕。
 「定式」とは「常に使われるもの」といった意味。 国立劇場の定式幕 定式幕をはじめとして、歌舞伎の引幕はいずれも上手から下手に引いて閉じるのが普通だが、江戸時代には下手から上手に引いて閉じていた。また上方の芝居で定式幕に相当する引幕は、本来は縦縞ではなく横縞に縫い合わされて作られたもので、上手下手の双方から幕を引いて舞台の真ん中で閉じる形式だったが、明治中頃から江戸と同様の形式となり現在に至っている。

 

 

 江戸市村座の定式幕(黒-萌葱-柿色)。 現在は国立劇場や大阪新歌舞伎座が使用している。中村座の白を萌葱に。

100両(100りょう);現在の貨幣価値に直すと、一両=8万円として、800~1000万円位で生やさしい金ではありません。

官位を貰うお金(かんいをもらうおかね);盲人の位は大きく四つに別れていて、金銭でその位を買うことが出来た。彼らは検校、別当、勾当(こうとう)、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。
 文弥の台詞を借りると、「文弥がわざわざ京までまいりますは、今出川の惣録で今一老(いまいちろう)を勤めまするは、この文弥が師匠にて、もし官位でも取るならば五十や七十の金ならば貸してやろうと言わっしゃるゆえ、この百両に五十両借りて官位を取るつもり。検校千両(けんぎょうせんりょう)、百五十両で取る官位は座頭(ざとう)でございます」。

道中差し(どうちゅうざし);近世の庶民が護身用として旅行中に携帯した脇差。武士の刀よりやや短いが、刀は刀であった。

大根役者(だいこんやくしゃ);金時はがさがさな大根と言っていますが、通常は煮ても焼いてもオロシにしても、主役になる事がありません。大根で食中りはしません。で、どんな事をしても当たらない役者のことを大根役者と言います。また、真っ白な大根はしろ→素人と言われ、どんなに頑張っても黒→玄人にはならないとも言います。



                                                            2018年3月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system