落語「万病円」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「万病円」(まんびょうえん)より


 

 天下の往来を侍が七分を歩いていて、残りの三分を農工商が歩いていた。落語家が歩くところは無かった。

 「俺は帰る(けえる)ぞッ。湯船の中でふんどし洗っている奴が居る。注意しろッ。俺は職人だ、身体を清めて出掛けるのに・・・、他の湯屋に行くから湯銭返せ」、「本日はお返ししますが、明日から気を付けますから、御贔屓よろしくおねがいします」。「オイ、番頭。そこで何やってるんだッ。湯船の中でふんどし洗ってるんだ。小桶に汲んで洗うが良いじゃないか。暖まっていると、誰か手拭いを流したと思って引っ張ると、ググッと引っ張り返すじゃないか。他の湯屋に行くから湯銭返せ」、「本日はお返ししますが、明日から気を付けますから、御贔屓よろしくおねがいします」。「お~、湯銭返せ。汚くて入っていられね~ヤ」、「顔を見せてください。後で払うと言って貴方から未だ貰っていませんよ」、「でも、くれるんだったらくれよ」。
 「アッ、洗ってら。旦那様、お洗濯ですか?」、「主(あるじ)か、広くて洗濯がしやすい」、「湯船の中で洗濯すると湯が汚れますので・・・」、「なに、汚いだと。もそっと前に出ろ。ここでは湯に入るとき、逸物を外して入るのか」、「取り外しが出来ないものですから・・・」、「そのまま入るだろう。現物が汚いか、それを包むふんどしが汚いか、どっちだ」、「妙な理屈でございますな~」、「では、明日から来て洗うぞ」、「それはご勘弁下さい」、「湯銭は如何ほどじゃ」、「6文いただきます」、「大きいが釣りはあるか。5両判だ」、「それは・・・。ついでの折にお支払い下さい」、「ついでは無い」、「お屋敷に伺います」、「肥後の熊本だ」、「それは伺えません」。
 「ははは、気持ち良くなったな。風呂上がりは空腹になるな。何か無いかな」。

 「餅屋があるな。これも良いな。許せよ」、「いらっしゃいませぇ~」、「これは何だ」、「ウグイス餅です」、「鳴くか」、「色、形が似ています」、「いくらだッ」、「4文です」、「これは何だ」、「唐饅頭です」、「ひとつでも十饅頭か」、「ひとつでも煎餅と申します」、「いくらだ」、「4文です」。「この白くて丸いのは?」、「大福です。4文です」。「ウグイス餅は粉が散るな。蕎麦饅頭は遠くに有ってもそば饅頭か。これはキンツバか、ゴミが入っておる」、「ゴミではなく、潰し餡です」、「こちらは腰高饅頭か。いろいろ有るな。代はここに置くぞ」、「旦那、4文しか有りません。4つ召し上がりましたので、シシの16文になります」、「黙れ、先程まとめて買うが負からぬかと言った折『幾ら召し上がっても4文です』と言った。小僧で分からなければ主人を出せ、主人で分からなければ町役だ、町役がダメなら奉行所だ」、「旦那に知れたら怒られてしまいます。ようございます」、「もっと食べても良いのか?」、「ダメですよ」、「また来るぞッ」、「もう来なくて良いですよ」、「小僧、べそをかき始めたな」。

 「古着屋が有るな。古着屋は口が悪いと言うが入ってみよう。許せよ」、「いらっしゃいませ」、「古着一式何でもあるか?」、「何でもあります。無い物は有りません」、「布団は有るか」、「三幅(みの)ですか、四幅(よの)ですか」、「三角のだ。あぐらをかいたときに使う」、「それは有りませんナ」、「綿入れの蚊帳は有るか?」、「蚊帳に綿は入れませんナ」、「衣(ころも)の紋付きは・・・」、「衣には紋は付けません」、「『ない物は無い』と言ったが、無い物ばかりじゃないか」、「無い物はございません。ここに有るものだけです」、「何だッ」、「有るものだけです。ヘヘヘッ」、(場内拍手と笑い声)、「袷(あわせ)の綿入れは有るか」、「袖口、裾回しに綿が入って、胴は袷になっています」、「有ったか。では閉まっておけ」、「おからかいでなく、お求め願います」、「いくらだ」、「働きまして、2分2朱と200です」、「負けて、200にしろ」、「承知しました。では2分と2朱になります」、「200だけにしろ」、「旦那、全く無くなってしまいます。枝を払うと言うことはありますが、幹を払うことは出来ません」、「値が決まらないのは、度しがたし。また来るぞ」。「何だいあいつは、『盗人あり~』」、「侍に対して盗賊の汚名を着せたな」、「値が折り合わなかったので『もそっとう~』と申し上げました」、「聞き違いと言うことで帰る」、「屁をお嗅ぎなさい~」、「今度は許さんぞ、『屁を嗅げ』とは許せん」、「いえ、旦那さんがお帰りになりますので『へ~お帰り』と申しました」。「これはいかん。古着屋には参ったな」。

 「紙屋だな。何でも揃っておるか」、「何でもあります。無い物は有りません」、「古着屋と同じ事を言う。福の神は有るか」、「はい、どうぞ」、「漉き返しだな」、「これでお筆は執りません。皆様、下の物を拭くときに使います。で、フクの神(紙)」。「風の神は有るか。扇子を出したな」、「『開かねば扇も風の蕾かな』と申しまして、風の神でございます」。
 「薬も置いてあるな。えちなか・とみやま・はんごんたんとは何か?」、「越中富山の反魂丹です」、「相撲取り顔役とあるが・・・」、「相撲取り膏薬です」、「目が描いてあって薬とは?」、「目薬です」、「人間首より上に効くとは・・・」、「殿方が遊びすぎたときの瘡(かさ)に効きます」、「金文字で『万病円』とは何か?」、「万病に効く薬です」、「黙れ、病の数は四百四病と心得る」、「数ではございません、名を集めたものです」、「無かったら承知せんゾ、言ってみろ」、「子供の百日咳を入れると五百四病で」、「足らんゾ」、「殿方の病で疝気(せんき)を入れると千五百四病」、「未だ足りない」、「ご婦人に産前産後が」、「大きいのが出て来たが万には足らんぞ」、「一つで腸満(=兆万)がございます」。 

 



ことば

三代目 三遊亭金馬(さんゆうていきんば);(1894年10月25日 - 1964年11月8日)は東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれ。家業は洋傘屋であった。大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名は加藤 専太郎(かとう・せんたろう)。出囃子は「本調子カッコ」。 初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳(後の三代目三遊亭圓馬)にも多くを学んだ。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある。 当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーであった。
 入門して2年にも満たない大正4年(1915)、二つ目に昇進し、二代目三遊亭歌笑を襲名。大正8年(1919)末には三遊亭圓洲に改名し、翌年には入門から6年、26歳で真打に昇進した。師匠と反りが合わなかったにもかかわらず、後に名人上手と呼ばれた同時代の八代目桂文楽や六代目三遊亭圓生、五代目古今亭志ん生らと比べても異例のスピード出世である。大正15年(1926)4月、31歳で三代目三遊亭金馬を襲名、昭和5年(1930)にはニットーレコード専属の噺家になり、以降、多くの落語をレコードに吹き込んだ。昭和9年(1934)には東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝系以外の寄席には出演しなくなった。
 昭和29年(1954)2月5日千葉県の佐倉へタナゴ釣りの帰り、総武線の線路を歩き鉄橋を渡っているときに列車にはねられ、それがもとで左足を切断。奇跡的にも一命を取りとめた。半年後に退院し、高座にも復帰したが釈台(見台)で足を隠しての板つきであった。出と引っ込みの時は必ず緞帳(どんちょう)を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけたが、これは自分の大好きな釣りのせいだと思われたくない、という金馬の意地でもあった。そのおかげで事故後も変わらぬ金馬節を楽しむことができた。昭和31年(1956)、第7回のNHK放送文化賞を受賞。 昭和39年(1964)に肝硬変のため死去。70歳。
 出っ歯で頭髪が少なく、研究熱心で故事に通じた金馬は「やかんの先生」とも呼ばれていた。その蘊蓄を盛り込んだ著書『浮世断語(うきよだんご)』は、芸界を描いた書籍のなかで傑作の一つといわれている。

万病円(まんびょうえん);江戸時代にあった、万病に効果があるという丸薬。

五両中判(5りょうちゅうばん);五両判(ごりょうばん)とは天保8年(1837)8月に鋳造開始され、同年11月末に発行された五両としての額面を持つ小判型の金貨。発行が天保年間のみであったことから天保五両判(てんぽうごりょうばん)あるいは中判(ちゅうばん)とも呼ばれる。
 表面には鏨(たがね)による茣蓙(ござ)目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「五兩」下部に「光次(花押)」の極印、さらに中央左右に丸枠の桐紋が打たれ、裏面は中央に花押、下部の左端に座人の験極印、吹所の験極印さらに右上に「保」字が打印され、丸枠の桐極印を除けば小判と同形式である。右図。
 含有金量の小判に対する不足は両替商を始めとする商人に直ちに見抜かれ、市中での評判はすこぶる悪く、ほとんど流通せず短期間で少数の発行にとどまった。天保14年(1843)8月17日までに鋳造停止となり、天保の改革の行き詰まりによる弘化元年(1844)の保字金銀鋳造再開の際も五両判については再開されることが無かった。
 そのため今日、現存するものは稀少であり、かつ状態の良いものが圧倒的に多い。 安政3年(1856)10月末をもって通用停止となり、五両の額面の通貨として江戸時代を通して唯一のものとなった。
 ちなみにこちらの天保五両判金の買取価格は、90万円から120万円にものぼります。

湯屋(ゆや);上方では風呂屋、江戸では湯屋と銭湯のことを言いました。昔の風呂は水蒸気を満たした、今のサウナ形式が一般的で、江戸期になって湯を入れた「水風呂(すいふろ)」が生まれた。江戸の町は井戸がほとんどなく、水不足のため、湯を入れた風呂は贅沢(ぜいたく)だった。水蒸気を満たした風呂では、熱くなった蒸気が逃げるので、入口は低く作り、出入りの人はかがんで通らなければならなかった。ここを「石榴口(ざくろぐち)」というのは、昔の金属の鏡を磨くのに石榴が必需品だったので、この入り口にも「鏡要る(かがみ入る)」という洒落だと言う。
 江戸の職人は綺麗好きで、髪結いに出掛け、湯にも入ってから出掛けました。帰って来たらまた湯屋に出掛けました。朝風呂は常識で、また上方と比べ熱い湯に縮こまりながら、やせ我慢をして入っていました。その湯船のお湯は、交換せずに御客が入っていましたので汚く、底が見えなかったと言います。で、上がり湯は綺麗な湯を貰いました。
 

 左:柘榴口の奥の湯船。 右:洗い場で湯が切れたのでしょうか並んで待っています。腎禺湊銭湯新話より。

 落語「浮世風呂」より。ここで細かく湯屋について解説しています。

三幅・三布(みの);並幅(ナミハバ)の布を3枚縫い合せた幅。 「みのぶとん」の略。
三幅蒲団・三布蒲団(みのぶとん)、三幅(ミノ)の大きさに作った蒲団。ふつう敷蒲団に使う。みの。

四幅蒲団(よのぶとん); 表裏ともおのおの4幅(4布)の布で作ったふとん。よの。

衣の紋(ころものもん);僧侶の着る衣服。法服。僧衣。僧衣には家紋は付けない。そんな僧衣は元々無い。

反魂丹(はんごんたん);食傷・腹痛等に特効のある懐中丸薬。江戸時代、富山の薬売りが全国に売り広めた。江戸では、芝田町(タマチ)のさかいや長兵衛売出しのものが「田町の反魂丹」として名高い。

疝気(せんき);漢方で腰腹部の疼痛の総称。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態。あたはら。しらたみ。疝病。
『悋気(りんき=やきもち)は女の苦しむところ、疝気は男の苦しむところ』と、昔から言われた男の病。

百日咳(ひゃくにちぜき);百日咳菌により、主として幼児に起る伝染病。痙攣(ケイレン)性の咳を発し、咳の最後に笛のような声を発して深く息を吸いこむ。この発作が日に数十回に及び、夜間に多い。ワクチン注射による予防が有効。一度かかれば、終生免疫を得る。

(かさ);皮膚病の総称。できもの。また、梅毒(バイドク)の俗称。この噺の流れからすると梅毒でしょう。

腸満(ちょうまん);腹腔内に液体またはガスがたまって腹部の膨満する病症。多くは腹膜炎・腸閉塞・肝硬変症・卵巣嚢腫などによる。

ウグイス餅(うぐいすもち);餅または求肥(ギユウヒ)に餡を包み、青黄粉(アオキナコ)をまぶした菓子。色・形を鶯に似せる。右図、広辞苑

4文(しもん);物の値段。江戸時代は4文の倍数で商われることが多かった。今の100円均一ではありませんが、4文で団子や餅、酒のつまみなどを商っていた。また、8文、16文など多く使われ、有名な蕎麦の値段は16文でした。1文貨の上に4文貨の貨幣が発行されていたので、使いやすかったのでしょう。

唐饅頭(とうまんじゅう);小麦粉に砂糖・鶏卵をまぜてこねた皮種を、方形・円形・小判形・三味線胴形などの焼き型に流し込んで中に餡を入れ、両面から焼き上げた菓子。下図、広辞苑

大福(だいふく);中に餡(アン)を包んだ餅菓子の一種。大福餅。

  

左、唐饅頭。 中、大福。 右、蕎麦饅頭。 広辞苑

蕎麦饅頭(そばまんじゅう);上皮を蕎麦粉で造った饅頭。

キンツバ;金鍔焼。水でこねた小麦粉を薄くのばして小豆餡(アズキアン)を包み、刀の鍔のように円く平たくし、油をひいた金属板の上で焼いた菓子。文化・文政(1804~1830)の頃江戸で流行。今は、四角く切った餡を、小麦粉を薄く溶いた液につけ、平鍋で焼く。きんつば。
 銀鍔焼、粳米(ウルチマイ)の粉を練って小豆餡(アズキアン)を包み、油をひいた金属板の上で焼いたもの。天和・貞享(1681~1688)年間に京都で売り出され、金鍔焼の元祖といわれる。ぎんつば。
右図、広辞苑

腰高饅頭(こしだかまんじゅう);丈高にふっくら作ってある饅頭。

町役(ちょうやく);町役人。江戸幕府直轄都市および城下町などで、町奉行の支配下に、各町々の民政に当る町人。通常、家持ち・名主・家主(大家)などが務める。微妙に職務は違うが、名主・月行事、町年寄・町代、検断・肝煎(キモイリ)など都市により呼び名を異にする。

奉行所(ぶぎょうしょ);武家の職名。政務を分掌して一部局を担当する者。鎌倉・室町時代では評定衆・引付衆の称、安土桃山時代では大老の下の参政の職、江戸時代では勘定奉行・寺社奉行・町奉行など。
 江戸幕府の職名。寺社・勘定奉行とともに、三奉行と呼ばれた。江戸・京都・大阪・駿府など、幕府の重要都市に置かれ、現在の都知事・警視総監・消防総監・地検・地裁の所長まですべて兼任している存在で、その権力は絶大でした。町奉行という名称自体は江戸時代以前からあった。江戸時代においては、ただ「町奉行」と言う場合、江戸の町奉行のことを指した。その他の町奉行は遠国奉行として、「京都町奉行」というように、必ずその地名を冠して呼んだ。江戸の武家地・寺社地を除く町地を管轄し、町人に関わる行政・司法・治安・消防等・市政一般を担当した。与力・同心を配下とし、3人の町年寄を通じ江戸惣町を支配した。
  町奉行は役職としては老中支配に属し、旗本の中から優秀な人材が登用された。重要な職であるうえ、配下の与力・同心が親子代々世襲していたことなどがあり、少禄でも優れた人材であれば、抜擢されることが少なくなかった。忠相や遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)も、その良い例といえる。

 江戸の町奉行所には、北町奉行所と南町奉行所がありました。
北町奉行所;現在の東京駅八重洲口北辺りにあった奉行所で、南町奉行所(数寄屋橋北)と対になって仕事をこなしていた。場所の目印として、八重洲口北側の大丸入口の外側に銘板が埋め込まれています。
 遠山金四郎は遠山左衛門尉景元といい、北町奉行として有名ですが、南町奉行としての在任期間の方が長い。北は39ヶ月、南は倍以上の86ヶ月、通算123ヶ月(10年3ヶ月)であった。この数字は奉行の延べ人数、99人いたが再任された者が居たので、総人数は91人で、平均在任期間は79ヶ月(6年7ヶ月)、この数字からしても長い方でした。在任最短記録は松浦越中守の5日、最長は神尾備前守の281ヶ月(約20年)です。
南町奉行所は現在、千代田区有楽町2-7。”マリオン”が建っている北側(有楽町駅寄り)にありました。ご存じ大岡越前が居たことで有名です。ちなみに大岡越前は神尾備前守より早い就任で14代目、19年半務めた。
 江戸の町を半分ずつ管轄したのではなく、月番制で、月番と非番があり、交代で1ヶ月おきに執務した。

綿入れの蚊帳(わたいれのかや);着物に綿入れを使うのは冬の寒い時期です。蚊帳は夏の物。季節が違いますから、そんな品物は元々ありません。

袷の綿入れ(あわせのわたいれ);表裏を合せて作った衣服で、裏地つきの着物が袷です。裏をつけて中に綿を入れた防寒用の衣服が綿入れで、それは別々の着物です。古着屋さんが言う、「袖口、裾回しに綿が入って、胴は袷になっています」は、誠に上手い表現です。

2分2朱と200(2ぶ2しゅと200);1両の半分が2分。1分の半分が2朱です。200とは200文のこと。

古着屋(ふるぎや);江戸ではリサイクルが浸透していて、古い物は壊れるまで使い、壊れたら修理をしてまた使った。着物は反物で買い、それを仕立てて貰い初めて着物になった。その着物が何らかの事情で着なくなると古着屋に出して、次の顧客がそれを買い求めた。古着屋は古着だけではなく、仕立て下ろしの新品の着物も扱っていた(今の既製品の衣料品)。その着物が古くなって着られなくなると、オシメにしたり、雑巾にしたり、コヨリにしたり、下駄の鼻緒にしたり、火を移す素材にして、最後の最後まで使い込まれた。
 江戸で有名な古着屋街と言えば、芝日影町(落語「江島屋騒動」)で、現在の港区新橋2~6丁目、第一京浜国道西側に平行する道が、俗に言う芝日陰町です。古着屋が多くて集まっていた。
 また、柳原は、柳原土手と言われ、神田川の南岸万世橋の所にあった、筋違い御門から浅草橋御門までの土手を言った。ここには柳が植えられ並木になっていたので、その名が起こった。

 

 上図:「柳原」歌麿画 吾妻遊び「上巻」 寛政2年(1790) 落語「鼻利き源兵衛」より孫引き。
 落語「五月雨坊主」、「法事の茶」にも柳原土手の絵が有ります。

漉き返し(すきがえし);本来は、供養の目的で故人の書状をすきかえして作った紙。のち、反故(ホゴ)紙などをすきかえして作ったものをいう。宿紙(シユクシ)。還魂紙。浅草の北側に漉き返しの紙製造屋が多く有った。その為、この再生紙(落とし紙)を淺草紙とも言われた。

四百四病(しひゃくしびょう);人間の病気はすべて合わせて404あるとする説で、疾病の総称。仏説に、人身は地・水・火・風の四大(シダイ)から成り、四大調和を得なければ、地大から黄病、水大から痰病、火大から熱病、風大から風病が各101、計404病起るという。これら404病のうち、風大、水大によって起こる202病を冷病に、地大、火大による202病を熱病に二大別することもある。
 恋わずらいのことは、四百四病の外(ホカ)という。



                                                            2018年3月記

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