落語「茶代」の舞台を行く
   

 

 柳家喬太郎の噺、「茶代」(ちゃだい)より


 

 旅を続けて江戸にやって来た、地方出のお供連れのご主人。旅の途中では茶店に茶代を二、三文ずつ置いてきたが江戸ではそうはいかない。六文か八文位は置かなくてはならないだろうから、「茶店で『おい、八助行こう』と言ったら八文を、六助と言ったら六文を置きなさい」と、お供の者に言っておいた。
 毎日あちこち江戸見物をしていたが、今日は浅草の観音様に来ていたが、夕立が降ってきた。茶店の主人に聞くと、「吉原もイイですね」、と言ってくれた。雨の中濡れて行くにはビショビショになってしまうので、貸し傘はないかと聞くと、無いと言う。お供の者に「俺はこの店で待っているから、宿に帰って宿の傘を借りてくるよう」に言い付けた。
 お供の者が出て行くと間もなく夕立が上がってしまった。床几に腰掛けているだけで雨跳ねが着物の裾に当たって汚れてしまった。茶店のご主人が親切に拭いてくれた。ここで一人待っていてもしょうが無い、目的の吉原に早く行きたい。
 「これあるじ、八助が傘を取りに行ったが、八助が戻ったら、先に行っている、茶代は八助が払ってくるように」と頼んで、出て行った。それを奥で聞いていた女将が「はて、あの男はこの間六助と呼んでいたが、今日は八助、おかしい」、そこで亭主は「ははぁ、これは六助と言ったら六文の茶代、八助と言ったら八文の茶代を払えと言うことだな」と感づいてしまった。
 そこにお供の者が傘を持って戻ってきた。「旦那様は吉原に先に行かれた。百助が来たら茶代を払ってこいとおっしゃった」、「え、百助?(財布を覗いて)困った、三十二助しかない」。

 



ことば

■珍しい小話で、あまり演じられないが、昔の小話を掘り起こし喬太郎達が高座に掛け始めた。原話は安永5年(1776)江戸版”鳥の町”に載っている「茶代」。

(たび);江戸を中心に、東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道の五街道が有った。その中でも、京都と江戸を結ぶ東海道は一番の街道だった。東海道は宿場が整備され、道も整備され、江戸後期になると一般庶民も参詣という名目で伊勢まで足を延ばし、京大坂見物を楽しんだ。また、地方の人達も江戸、京大坂に観光目的で、街道を行き来していた。
 今の旅と大きく違っていたのは、駕籠や馬、船が有ったが、原則交通機関が無く歩いて目的地まで行ったと言うことです。東海道では五十三の宿駅があったが、全て泊まっていたわけではなく、通常京都まで約2週間で到着していた。

茶店(ちゃみせ)と茶代(ちゃだい);旅の途中の茶店は一休みするには格好の場所で、熱いお茶を貰い、名物の団子や餅を買って食べ休んだが、お茶代は気持で置いてきた。今の心付け、チップのようなもので、旅人の心次第であった。噺の中にもあるように、旅の途中では二、三文でも良かったのでしょうが、大都会の江戸ではそうもいかず六文か八文位は置かなくてはならないだろうと思っていた。

 

 「江戸の盛り場」 江戸東京博物館蔵。 江戸で日に千両が落ちるところ、吉原、芝居(猿若町)、両国広小路(夏場)、日本橋魚河岸の四ヶ所。

江戸見物(えどけんぶつ);江戸時代は馬喰町が江戸の宿泊地であった。ここを中心に北は寛永寺、浅草、芝居の猿若町、吉原があり、西に江戸城、南に西本願寺、愛宕山、増上寺、芝から品川、東に川を渡ると本所、深川、辰巳等。どのコースを行っての2~3日はたっぷり掛かるでしょう。

 「江戸名所之絵」(江戸鳥瞰図) 鍬形蕙斎画  江戸東京博物館蔵。  中央左右に流れるのが隅田川、上流から吾妻橋・両国橋・新大橋・最下流が永代橋、その向こうが佃島。隅田川に合流する縦の川が神田川、中央奥が江戸城、奥に富士山が望めます。

浅草の観音様(あさくさのかんのんさま);金龍山浅草寺のこと。落語「大神宮」、「付き馬」をご覧下さい。

 「東京名所・浅草観世音之図」 左から本堂、中央に仁王門、後ろに五重塔、右に参道の仲見世。

貸し傘(かしがさ);見世、宿、吉原、大店などでお客さまのために名入りの傘を貸した。

  

 「絵本隅田川・両岸一覧」御竹蔵の虹・新柳橋の白雨 北斎画。ここにも名入りの貸し傘が描かれています。

吉原(よしわら);吉原については、落語の噺の中で語っていますが、落語「五人廻し」で代表して語って貰いましょう。

 「吉原之図」。江戸東京博物館蔵。左側に大門があって、中央の通は桜が植わった仲之町、右奥が水戸尻。



                                                            2018年3月記

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