落語「刻うどん」の舞台を行く
   

 

 桂枝雀の噺、「刻(時)うどん」(ときうどん)より


 

 「寒いな~」、「寒いな」、「熱いうどんでも食おうか」、「いいね。熱いうどん」、「いくら持っている」、「8文」、「8文位で外歩くな」、「で、アンタは幾らあるんだぃ」、「シュッシュッと、7文だ。こっち貸せ」、「うどんは16文だ。食べられへん」、「俺の腹の中にある」、「2杯は食べられないね」、「半分ずつ食べるんだ」、「チャンと残しておいて頂戴ね」。
 ウチワをパタパタさせながら「うど~ん~や~う~、そーばやうど~ん」呼び込みをしています。「うどん屋が居る、早くこっちに来い。一杯くれ。寒いな~。え?もう出来た?嬉しいな。もらおう。(後ろの男を制しながら、うどんを食べ始める)イイ出汁(だし)使ってるな、うどんも楽しみだ。(上手そうに熱いうどんをすする)。・・・(後ろの男を制して)分かってるがな、半分だ。(まだ渡さずうどんをすする)何だよ引っ張って、食べたければやるよ」、「いただきますよ。8文出しているのですよ。えッ、これが8文?うどんが2本泳いでいるだけじゃないですか。(うどん2本すすって、汁を飲んだら)もうお終いや」、「もう一杯如何ですか?」、「腹はいっぱいなんだ。細かいんだ、手を出して・・・。いくぜ、ひとつ・二つ・三つ・・・八つ、今なんどきだ」、「え~っと、九つです」、「十・十一・十二・・・十六」。
 「兄貴チョイと待ちぃ」、「15文しか無いと言っていたが16文ちゃんと有ったじゃないか」、「お前も分からないのか。途中で刻を聞いただろ」、「そうか、九つはうどん屋が数えたのか。明日俺もやってみよう」、「お前は出来ないよ。息と間が必要なんじゃ」。

 翌日早めに出て、「息と間だと言ってたから、あいつと同じように言えば、同じになるよな。それで行こう。うどん屋ッ」、「いらっしゃいませ」、「寒いな」、「今日は温かですね」、「話しをしている間にシュシュッとでけんか」、「スイマセン。湯を落としていまして・・・」、「都合があるよな。待たされて待たされて出て来るのは、それもイイが・・・。そうか出来たか」、「昨日は出汁から言ってたな。(親父に向かって)出汁が肝心やで、鰹節を張り込んだ汁は・・・うッ、辛~い。辛いな。(辛くてもうどん誉めてたな)うどんは腰じゃ、(ズルズル)グニャグニャじゃ、おかゆさん見たいじゃ。(後ろの男の袖引かれてる真似を)辛い、おかゆさん見たいじゃ」、「(後ろの男)に、大丈夫半分残す。親父が笑っているよ」、「笑っていません。心細くなって来ました」、「辛い、グニャグニャじゃ。これ8文か」、「他のことはどうでも良いが、値のことはハッキリさせますよ、16文です」、「分かっている。言いなさんな」、「うどんが二筋になって居るだけでしょ」、「アンタが食べたんでしょ」、「最後の汁も飲まなければ。(丼の汁を残らず口へ)ブゥ~~。(吹きだして)辛い」。
 「(これからが楽しみなんだ)、いくでぇ、ひとつ・二つ・三つ・・・八つ、今なんどきだ」、「五つです」、「六つ・七つ・・・」。

 



ことば

刻の数え方(ときのかぞえかた);

  江戸時代と現代の時間の単位の比較(春分と秋分時)
  英数字が現代の時間

 一日は等間隔の24時間(定時法)ではなく、不定時法で日の出から日没までを六等分し、これが昼の一刻(いっとき)。同じように日没から翌日の日の出までを六等分したのが夜の一刻。
 つまり春分と秋分を除けば、昼と夜の一刻の長さが違った。現代なら非常に困る事だが、江戸時代は陽の明かりをたよりに仕事をしているから、この方が便利であったと思う。太陽の動きで大まかな時間が簡単に分かるし、時計を持たない時代にはそれだけで十分実用的だった。
 江戸時代の時間の感覚は実におおらかで、そもそも時計を持っている人間はほとんどいない時代だったから、日の出の明け六つの鐘の音で起き、明るい内に仕事をして、暗くなれば休むまでの事であった。
 童謡に「お江戸日本橋、七つ立ち。初のぼり、提灯・・・」との歌詞があるように、まだ夜も明けない午前4時ごろ旅に出発したのであろう。また、おやつは午後3時頃「8つ半」から来ている。

 江戸時代は時計がわりに刻の鐘が鳴るが、その音の数で何刻(一刻は約2時間)と呼ぶのが普通であった。上の図のように明け方(早朝)の明け六つ、朝五つ、暮れ方の暮れ六つ、夜四つとか言った。その半分を半刻(はんとき=1時間)といい、九つ半とか、八つ半とか言った。
 時間の最小単位は四半刻(しはんとき)で 2時間/4=30分 となります。おおらかな時代ですから、これで十分間に合った事は言うまでもありません。
 落語「時蕎麦」より孫引き。

 この男の大失敗は時間です。12時過ぎに客になっていたら、兄貴分のように1文かすめることが出来ましたが、嬉しくて早めに出たので、九つ(12時)前の四つだったのです。何処かひとつネジが緩んでいたんですね。

うどんと蕎麦(うどんとそば);
 うどん
=(ウンドンの音略) 麺類のひとつ。中力粉など腰の強い小麦粉を塩水でこねて薄くのばし、細く切ったもの。ゆでてかけ汁にひたしたり、つけ汁につけたりして食べる。また、煮込み饂飩は汁に入れて煮る。うんどん。
 細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はなく、細い麺であっても「稲庭(いなにわ)うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」と称してよいと規定があり、これらもうどんの一種類に含まれる。
 現代の中華圏では、日本のうどんを「烏冬」あるいは「烏龍麵」(ウードンミン)と表記するが、いずれも日本語の発音に基づく当て字であり、うどんそのものの起源・由来とは関係がない。
 江戸時代中期までは、薬味はコショウだった。江戸時代後期にトウガラシ栽培が軌道に乗るに連れ、その地位を奪い今日に至っている。

 日本三大うどん=讃岐うどん(香川県)、稲庭うどん(秋田県)、《水沢うどん(群馬県)、五島うどん(長崎県)、氷見うどん(富山県)、きしめん(愛知県)のいずれか》。ずいぶん大ざっぱですが、それでは、”日本六大うどん”、と言えばイイものを。

 蕎麦=(古名「そばむぎ」の略) タデ科の一年生作物。原産地は東アジア北部とされ、中国・朝鮮から日本に渡来。ロシアに多く栽培。多くの品種があり夏ソバ・秋ソバに大別。茎は赤みを帯び、花は白。収穫までの期間が短く、荒地にもよく育つ。飢餓救済食物として栽培された。果実の胚乳で蕎麦粉を製する。
 傾向として、西日本ではうどんを食し、関東では蕎麦を食した。この噺も上方落語ではうどんが主役ですが、江戸では蕎麦が主役です。江戸落語では「そば清」、「疝気の虫」など、蕎麦を扱った噺が有ります。また、江戸落語「うどん屋」(風邪うどん)があります。

 江戸時代前期の江戸の市中においては、まだ麺類としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がきなどの形で食べられていたことから、江戸でも麺類としては人気があったようである。蕎麦きりの元祖は信州そばであり、これが信州から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦きりが普及すると、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたことなどの理由により、確かに、蕎麦が広がったことは事実であるが、現在の関東地方でも、武蔵野や群馬県を中心として、「武蔵野うどん」や「水沢うどん」をはじめとするうどん専門店も多い。
 実際、2004年(平成16年)度のうどんの生産量でも1位は日本全国に向けて宣伝をしている讃岐うどんの香川県だが、2位は埼玉県であり、群馬県もベスト5に入っている。これらの地域では二毛作による小麦栽培が盛んで、日常的な食事であり、かけうどんや付け麺(もりうどん)にして食べられることが多い。
 天正12年(1584)に大坂で「砂場」という蕎麦屋が開業した記録があるなど、近畿地方でも早い時期から蕎麦が食べられており、蕎麦きりも普及していった。近畿地方では「そば屋」よりも「うどん屋」が多いが、京都では近隣の丹波地方で蕎麦作りが盛んだったため蕎麦文化も根付いており、専門の「そば屋」も多い上に、にしんそばは京都の名物ともなっている。「出石そば」をはじめとする近畿北部の蕎麦文化は、江戸時代に信州から導入されたものだという。
 讃岐を除く西日本の大部分の地域では、大阪や京都、福岡、鳴門など腰が弱めでつゆを吸いやすい、柔らかい麺が好まれている。また、関西ではかやくご飯(炊き込み飯で、二番出汁を有効活用したもの)と一緒に供することも多く、うどんは吸い物の感覚として好まれている。一方、蕎麦はツユを吸わせて食べるようなものではないためこのようなつゆとの相性は良くないとされるが、関西のうどん屋や定食屋では慣れ親しんだ、うどんつゆで蕎麦を提供する店も見られる。
 香川県は、全国で県民一人あたり消費量トップである。また人口は都道府県別で40位であるにもかかわらず、うどん用小麦粉使用量で2位の埼玉県の2倍以上の使用量で全国一位となっている。讃岐うどんと呼ばれていて、トッピングや食べ方は多種多様であるが、弾力のあるコシと滑らかな食感が特徴である。

 日本を訪れた外国人旅行者を対象に日本政府観光局が行った調査(2009年。外国人観光客に聞く、満足した日本食はナニ?)では、日本を訪れた外国人観光客が特に満足した食事のアンケートで、寿司、ラーメン、刺し身、天ぷらに次いで5位であり、蕎麦は7位であった。

屋台(やたい);江戸時代、屋根が付いた移動可能な店舗。飲食物や玩具などを売る。当初、蕎麦屋は「振り売り」形式の屋台が多く、寿司屋は「立ち売り」形式の屋台が多かった。
 右写真:深川江戸資料館の蕎麦屋の展示品。江戸ではこの様な形態であったが、上方ではどうであったのでしょう。
 江戸は元々男性の単身赴任者が多い町だったが、明暦の大火以降労働者が流入し外食の需要が高まっていた。それに伴って煮売り、焼売りと呼ばれる料理屋が急増した。店舗で商う場合「店にて売り」と呼ばれたが、大半は担い売りと呼ばれる路上営業の屋台だった。 握り寿司や蕎麦切り、天ぷらといったすぐに提供できる食べ物が屋台で提供された。その後に、おでん、焼き鳥店も出現し、軽食やおやつの外食が広がった。
 屋台は寺社の門前、大店の立ち並ぶ通りなど、人の集まりやすい場所に出現した。江戸の各所に設定されていた広小路や火除地には、床店と呼ばれる移動可能な店舗や屋台が密集し賑わっていた。

 関西の落語家さんが、屋台の丼が発泡スチロールで出来ていて、返却不要で捨てて良いのです。ですから、屋台が次の所に移動、当然居なくなります。すると、誰も居ない所で一人うどんをすすっていると不安になってくるとぼやいていました。やはり横に屋台がないと安心して食べている事が出来ません。

値段(ねだん);寛永6年(1853)の「守貞稿」によると、蕎麦屋(店売り)の値段表から、
うどん・そば16文、
しっぽく(松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などの具入り。落語では鳴門の薄切りが1枚入った物)24文、
あんぺい(鶏卵の入った物)24文、
なんばん(南蛮=唐辛子や葱を加えて煮た具)32文、
小田巻(うどんの入った茶碗蒸し。鶏肉・三つ葉・蒲鉾・椎茸などの具を加え、卵汁をかけて蒸す)36文、
となっています。

 幕末、物価が高騰したため、16文の蕎麦、うどんを幕府に願い出て20文に値上げし、その後再度値上げして24文へ上がった。

花巻としっぽくと掛うどん;江戸落語で出て来るのは、屋台の花巻としっぽくで、花巻はかけそばに細かく切り刻んだ海苔を掛けたもの。しっぽくは具が沢山入った物で有ったが、江戸落語では竹輪または竹輪麩が一枚入っていた。このうどん屋は素うどん、掛うどんだけであったのであろう。
かけうどん;丼に入れたうどんに熱いつゆをかけたもの。主に関東では薬味(主に刻み葱)以外は入れず、具・種物を入れた場合それらは「かけうどん」とは呼ばれない。西日本(香川県を除く)では「素(す)うどん」と呼ばれ、とろろ昆布や薄切りのかまぼこなど何かしらの具材が入ることが多い。右写真。

出汁(だし);大阪ではつゆを出汁(だし)と呼ぶことがあるが、出汁とは昆布や鰹節からうまみを抽出したものであり、つゆは出汁に醤油やみりんなどの調味料を加えたものである。大阪など一部の地域で混同して呼ばれていることが見受けられる。この噺でも・・・。

コシ;コシとは、柔らかくて張力のある状態をいう。すなわち、伸長度のこと。食感の硬いものを“コシ”があると誤認識している場合がみうけられるが間違いであり、歯で噛んだ際に弾力のあるものがコシである。 讃岐うどんの場合、伸長度が1.7倍、例えば5cmのうどんを引っ張り8.5cm以上切れずに伸びる状態を“コシ”があるとしている。



                                                            2018年5月記

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