落語「貝野村」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「貝野村」(かいのむら)
■大坂(おおさか);江戸時代から明治に変わるまでは「大坂」と表記されていましたが、明治新政府が出来てその後は「大阪」と書かれるようになりました。この概略でも「大坂」を使っています。
■船場(せんば);大阪市中央区の地名。大阪の商業中心地区にあたる。豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城時に、大勢の家臣団や武士がこの地に集まり、武器・武具から食料・生活用品などが大量に必要となったので、平野や堺、京都、伏見から商業者を強制的にこの周辺に移住させ、急速に城下町の整備を進めた。平野町、伏見町といった町名はその名残りである。その後、船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地となり栄え始めた。
江戸時代には「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心となった。また、順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えた。大坂の町人文化の中心となったところ。
浪花名所図会 「船場の順慶町夜店の図」 歌川広重画 国立国会図書館所蔵
南船場4丁目にある交差点は「井戸の辻」と呼ばれています。その由来は、その名の通り、辻に井戸があったから。
■丹波の貝野村(たんばのかいのむら);貝野村はかつて新潟県中魚沼郡にあった村ですが、丹波には実在していません。で、これはフィクションで架空の村名を使ったお噺です。
小南氏の出身地はまさに丹波で京都に出るのに当時3時間ほど掛かったと言います。小南氏の本「落語案内」に『私の村では小学校を出るとほとんどの者が京大阪に出て、丁稚奉公に行きます。これは出さなくてはいけないので、村長さんの娘でも行儀見習いに出すのです』。
■なで肩で、腰は柳腰;江戸時代の典型的な美女の体型。代表美人の笠森お仙(かさもり おせん)は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和5年(1768)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。
■庄屋(しょうや);江戸時代の村役人である地方三役の一つ。村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。このように支配階級の末端としての面と被支配階級の代表者としての面を共に持つ。庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくない。基本的に豪農・富農・大地主など、村の有力者が庄屋となった。
■十八里(18り);距離単位で1里は約4km。18里=72km。現在の福知山線で丹波大山駅まで約17里、1時間半でお釣りが来ます。通常急いで歩いて行けば、ざっと18時間掛かりますが、山道だともっと大変。
■手水(ちょうず);社寺で、参拝前に手を清める水。
また、便所の異称。この噺では、朝起きたときに、手・顔などを洗う湯水。あぁ~あ、その水を飲んでしまったなんて。西洋料理でもフィンガーボールと言うのが有り、エビ・カニなどの甲殻類やデザートの果物など、手で食べるのが前提の料理を食べたあと、指先を洗うための水で、レモンが浮いていることも有ります。だからって、飲んでは恥をかくだけです。
■長頭(ちょうず);七福神の一人で福禄寿(ふくろくじゅ)。子宝に恵まれる、財産に恵まれること、健康を伴う長寿三徳を具現化したもの。七福神の寿老人と同体、異名の神で福禄人(ふくろくじん)とも言われる。この人(神)は飛び抜けて頭が長い。こんな長頭の人が部屋に入ってきて、意味も無く頭を回したら、それはそれはビックリするでしょう。
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