落語「貝野村」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「貝野村」(かいのむら)


 

 大坂の船場に伊勢屋さんという繁盛している大店が有った。店の者20人ぐらいと大旦那と若旦那がいた。若旦那は22歳、それはイイ男の上、仕事に励んでいた。
 この店に丹波の貝野村から”おもよ”さんという歳は十八の女中が勤めに来た。このおもよさんは田舎から出てきた娘とは言っても、べっぴんさん。背が高く八頭身で色白でえくぼが出て、眉毛は三ヶ月型、眼はパッチリと黒眼がち、鼻は高からず低からず、高いと剣があるのですがおもよさんは、埼玉県も千葉県もなかった。口は小さくご飯粒が横に入らなかった。なで肩で、腰は柳腰で、着物を着せると着物がズドンと落ちてしまう。そんな美人ですから、奥で、大旦那と若旦那の世話をしていた。
 おもよさんが今小町、若旦那が今業平なので、楽しい生活をしていたが、若旦那は仕事で九州に出掛けてしまった。おもよさんは実家でお母さんが病気で帰して欲しいと、帰ってしまった。

 手が無くなったので、次に来た女中さんも名前がおもよさん。でも、背がスラッと低く、クッキリと顔は黒く、鼻は後ろに高く、その替わりおでこが出ていて、口は大きかった。鳩胸出っ尻で仕事に励んだ。
 そんなことは知らない若旦那が九州から帰ってきた。風呂好きの若旦那は、おもよさんに背中を流してもらうのを楽しみにしていた。いくら待っても来てくれないので、膳の前に座るとおもよさんは来たが、全くの別人。
 郷に帰ってしまったおもよさんの事を考えると、病気になって頭が枕から上がらなくなってしまった。
医者に診せても首をひねるばかり、様態は悪くなって、明後日の昼12時までしか持たないと宣告された。虫の息の仲で「おもよ」とうわごとを言っている。親も分かって、「恋煩い」には、貝野村まで使者を出して連れてくることだった。簡単に言うが、女中さんと言っても相手は庄屋の娘。

 十八里の道のりを貝野村まで来てみると、先方でもおもよさんが病気で寝ていた。山向こうの医者に診せたら明日の昼までしか持たないと診断されていた。本人に聞いたら「どうしても、行きたい」という。駕籠を仕立てて大坂へ。
 二人とも元気になって、結婚式を挙げた。里帰りだと貝野村に夫婦揃って出掛けた。

 夫婦に、使者に立った熊さん夫婦と女中さんの5挺の駕籠が貝野村に着いた。
 カラスカァーで夜が明けて、田園地帯の朝の風景を眺める2人。手水を使いたいからと人を呼んで、「手水を二つ回して」と、お願いをした。いつまで経っても手水が来ない。
 庄屋さんでは手水が分からなかった。お寺で聞くと「長頭とは長い頭だから、その頭を回すように」と教えてもらった。村はずれの市兵衛さんが頭が長いので、部屋で頭を回してもらった。おもよさん、バカバカしいやら恥ずかしいやらで、若旦那を連れて大坂に帰ってしまった。

 庄屋さんでは、これからも有ること、手水とはどんな物か調べたい。大坂の宿に泊まって、朝「手水回せ」と言って調べれば分かると、大坂に二人で出て宿に泊まった。
 朝、早速「手水を回してください」と頼んだら気持ちよく持ってきてくれた。見るとアカ(銅)の金だらいにお湯が八分目と盆の上には房楊枝と歯磨き粉とお塩が乗っていた。連れを呼んで、長い頭と大違いだと怒ったが、使い方が分からない。連れは「これは飲むものだ。味付けして食前に一杯飲む」、塩と歯磨きを入れて溶かすと泡が出た。二人して飲んだら、腹がブカブカになった。そこに相棒用の手水が来た。
 ビックリして、もう飲めないので、「お姉さん。これは昼から回してくれ」。
 

 



ことば

大坂(おおさか);江戸時代から明治に変わるまでは「大坂」と表記されていましたが、明治新政府が出来てその後は「大阪」と書かれるようになりました。この概略でも「大坂」を使っています。

船場(せんば);大阪市中央区の地名。大阪の商業中心地区にあたる。豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城時に、大勢の家臣団や武士がこの地に集まり、武器・武具から食料・生活用品などが大量に必要となったので、平野や堺、京都、伏見から商業者を強制的にこの周辺に移住させ、急速に城下町の整備を進めた。平野町、伏見町といった町名はその名残りである。その後、船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地となり栄え始めた。 江戸時代には「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心となった。また、順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えた。大坂の町人文化の中心となったところ。

 

 浪花名所図会 「船場の順慶町夜店の図」 歌川広重画 国立国会図書館所蔵  南船場4丁目にある交差点は「井戸の辻」と呼ばれています。その由来は、その名の通り、辻に井戸があったから。
 順慶町の夜店は大坂の名物で、曲亭馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』にも「順慶町の夜見世こそめさむるわざなれ。暮より四ツ時(午後10時)までは十町余両側みな商人なり。故にかひ物には夜出る人多し」とあります。
順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊郭へ至る新町橋が架けられ、夜市で賑わっていた。

丹波の貝野村(たんばのかいのむら);貝野村はかつて新潟県中魚沼郡にあった村ですが、丹波には実在していません。で、これはフィクションで架空の村名を使ったお噺です。
丹波;丹波国は古くより京都の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの直接支配を受けた。安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。

 小南氏の出身地はまさに丹波で京都に出るのに当時3時間ほど掛かったと言います。小南氏の本「落語案内」に『私の村では小学校を出るとほとんどの者が京大阪に出て、丁稚奉公に行きます。これは出さなくてはいけないので、村長さんの娘でも行儀見習いに出すのです』
 大正9年(1920)、京都府北桑田郡山国村井戸(現在の京都市右京区)に、三男として生まれる。小学校を修了したのちの昭和8年(1933)、14歳で京都市今出川寺町の印刷店に奉公し、1年後に京都市内の呉服問屋にうつった。呉服問屋では、すぐに東京日本橋に移された。17歳の5年後には付き人がいる番頭になっていた。若いときから秀でていたのでしょうね。

なで肩で、腰は柳腰;江戸時代の典型的な美女の体型。代表美人の笠森お仙(かさもり おせん)は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和5年(1768)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。
落語「牡丹灯籠」に詳しい。
 右図:「笠森お仙」 春信画

庄屋(しょうや);江戸時代の村役人である地方三役の一つ。村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。このように支配階級の末端としての面と被支配階級の代表者としての面を共に持つ。庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくない。基本的に豪農・富農・大地主など、村の有力者が庄屋となった。

十八里(18り);距離単位で1里は約4km。18里=72km。現在の福知山線で丹波大山駅まで約17里、1時間半でお釣りが来ます。通常急いで歩いて行けば、ざっと18時間掛かりますが、山道だともっと大変。

手水(ちょうず);社寺で、参拝前に手を清める水。 また、便所の異称。この噺では、朝起きたときに、手・顔などを洗う湯水。あぁ~あ、その水を飲んでしまったなんて。西洋料理でもフィンガーボールと言うのが有り、エビ・カニなどの甲殻類やデザートの果物など、手で食べるのが前提の料理を食べたあと、指先を洗うための水で、レモンが浮いていることも有ります。だからって、飲んでは恥をかくだけです。

長頭(ちょうず);七福神の一人で福禄寿(ふくろくじゅ)。子宝に恵まれる、財産に恵まれること、健康を伴う長寿三徳を具現化したもの。七福神の寿老人と同体、異名の神で福禄人(ふくろくじん)とも言われる。この人(神)は飛び抜けて頭が長い。こんな長頭の人が部屋に入ってきて、意味も無く頭を回したら、それはそれはビックリするでしょう。
右図:台東区入谷鬼子母神の「福禄寿」。



                                                            2015年3月記

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