落語「菅原息子」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円馬の噺、「菅原息子」(すがわらむすこ)より


 

 お芝居に凝る方がおります。お芝居で声を掛けるのは屋号です。新派では名前で呼びます。
御客は観劇の帰り道、その役者そのものになっています。

 道を歩いていると、犬が寝そべっています。芝居心が出て、「あ~ら、怪しや~なァ~、名人腹の懺悔により、ただのネズミじゃ~あんめ~、この鉄扇を食らわぬ内、消(け)~てなくなれ。けッ、けッ、けッ、ドブネズミ」とやった。犬は足で押さえられていたから、悔しくてワンワンワン。「芝居心のない犬だな~」、犬にそんな心は無い。

 この若旦那が家へ帰って来ると、(菅原伝授手習鑑)源蔵を気取って、「女房殿、今帰ったぞ」、「出ませんわ」、「どうしたんだ」、「出ませんたら。まぁ~、貴方。何時も来る、物もらいに良く似ているので・・・」、「大事な亭主が物もらいに似ているなんて」、「いえ、物もらいが・・・」。
 「お芝居の口調で言ってるんだから、芝居口調で対応してくれよ」、「芝居嫌いだから、イヤッ」、「そうかッ、妻でない、女房でない」、「チョット待ってよ。しょうが無いからやるわよ」。「女房殿今戻ったぞ」、「もういいの」、「え、え、『もういいの』はいらない」、「ケチ(こち)の人ッ」、「ケチとは何だ。何でも買ってやるじゃないか」。
 「女房殿、膳部が一脚多い」、「神田のオバさんが見えたの」、「とにかく食べてよ」、「有り難い、有り難い、お膳を持って来てくれるのはありがたい。これは何だ」、「鮑のフライ、赤貝の生」、「酢だね。死に貝と生貝。風味変わるなどと、身代わりの赤螺(あかにし)その手は食わぬ」、「食べない?」、「食べる」、「なんだ。この人お芝居に夢中になって、頭に蚊が止まってるわ」、パンと潰して、「はかなき最後。女房死骸をかたづけろ」、「好い加減にして、片づかないから食べてよ」、「これは豆腐とカレイじゃないか。お平(浅く平たい椀)は何だ?豆腐か。平は豆腐、皿のカレイの焼き魚、何とてナスは何故漬けなくなるらん」、「早く食べてよ」、「真ん中のは何ッ」、「御味御汁」、「お椀の蓋をとるとケムが出たよ。今蓋を取ると、にわかに湯気立ち上がりしは、凶事のしるしか吉事のしるしか、何にせよ怪しきこの場の・・・」、お膳をひっくり返してしまった。

 これを見ていたのがお父っつぁん。芝居が大嫌い。「箒(ほうき)を持ってなんとする」、「これで殴る」、「この箒で、私を折檻とな、父上、手向かい御免」、打ってくるところ、若旦那体をかわして、前に来るところ、襟首を捕まえて庭にポイ。「まぁ~、お父様を投げて・・・」、「女房喜べ、せがれが親父に、ま、勝ったわやい」。

 



ことば

菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ);人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。
 学問の神として広く崇敬を受けていた天神様こと菅原道真の姿を見せたこと、また三つ子を貴族が使う牛車の牛飼いとして配置し、庶民にも貴族の政争の影響が及ぶ様を描いたこと、そして劇的な展開を備えたことにより本作は初演当時大当りし、翌年の延享4年3月まで続演されるほどで、同年2月には江戸堺町の肥前座でも上演され、これも大当りを取る。また歌舞伎で初めて上演されたのは竹本座の初演からわずか二ヶ月後の延享3年10月の京都浅尾元五郎座であった。のちに翌延享4年5月、江戸の中村座と市村座で歌舞伎として興行され、中村座では8ヵ月にわたる大当りとなっている。
 義太夫浄瑠璃の人気を大いに高め、この初演から一年以内に上方と江戸の双方で人形浄瑠璃と歌舞伎の両方が初演されるという、当時としては驚異的な記録となった作品であり、江戸肥前座での初演に際しては、今でいう「割引券を配布するキャンペーン」を市中の寺子屋に対して行ったこともあり、いよいよ本作の評判を高めた。後世『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』と共に、義太夫浄瑠璃の三大名作と評価され、歌舞伎においても義太夫節に合せて演じられる義太夫狂言の傑作の一つとされる。今日でも四段目の「寺子屋」を中心によく上演される人気の演目である。
右錦絵:「寺子屋」での松王丸の姿を描く。四代目中村芝翫の舎人松王丸。豊原国周画。

 人形浄瑠璃では浄瑠璃の本文通りの段組みで上演され、歌舞伎では通し狂言は稀で、人気のある場面が単独で上演される事が多い。その際、演目名も以下のように『菅原伝授手習鑑』とは別の通称が用いられている。
  二段目の切・杖折檻の段~丞相名残の段 → 『道明寺』(どうみょうじ)
  三段目の口・車曳の段 → 『車曳』(くるまびき)
  三段目の切・茶筅酒の段~桜丸切腹の段 → 『賀の祝』(がのいわい)
  四段目の切・寺入りの段~寺子屋の段 → 『寺子屋』(てらこや)

四段目『寺子屋』あらすじ
(寺入りの段) 
京の外れ、北嵯峨の芹生(せりよう)の里にある武部源蔵(たけべ げんぞう)の寺子屋では今日も近在から百姓の子供たちが集まり手習いをしているが、源蔵は村の集まりがあって留守にしていた。そんな中で菅秀才(かんしゅうさい=菅丞相の実子)が、これもほかの子供とともに机を並べて手習いをしており、よい歳をしてへのへのもへじなど書いている十五の”よだれくり”をたしなめたりしている。そこへ、同じ村に暮らしているという女が子供を連れ、下男に机や煮染めの入った重箱などの荷を担がせて訪れる。源蔵の妻・戸浪(となみ)が出てきて応対する。聞けばこの寺子屋に寺入り(入門)させたいとわが子を連れて来たという。子供の名を小太郎といった。戸浪は小太郎を預かることにし、母親は後を頼み隣村まで行くといって下男とともに出て行った。

 右浮世絵:「寺子屋」 二代目中村仲蔵の松王丸(左)と、二代目中村のしほの松王丸女房・千代。寛政8年(1796)7月、江戸都座。初代歌川豊国画。 

(寺子屋の段) 源蔵が帰ってきた。だがその顔色は青ざめている。ところが戸浪が小太郎を紹介すると、その育ちのよさそうな顔を見て機嫌を直した。戸浪は子供たちを奥へ遠ざけ、源蔵になにかあったのかと尋ねると、ついに菅秀才捜索の手が源蔵のもとへ迫ってきたのだという。村の集まりというのは嘘で、行った先で待ち構えていたのは藤原時平の家来春藤玄蕃と事情を知り尽くした松王丸であった。この村はすでに大勢の手の者が囲んでいる、この上は菅秀才の首を討って渡せと言われ、帰って来たのだった。
 もはや絶体絶命かと思われたが、源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えた。「そこが賭けだ。生きた顔と死んだ顔は、顔つきが変わるものだ。良く似た小太郎の首、まさか偽首とは気が付くまい」。もしこれが偽首と露見したらその場で松王はじめ手の者を斬って捨て切り抜けよう、それもだめなら、小太郎の母親も刃に掛けて・・・。しかし今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。
 やがて菅秀才の首を受け取りに、春藤玄蕃と松王丸が来た。松王丸は病がちながら、菅秀才の顔を知っているので首実検のためについて来ている。

 

 子供達を調べる松王丸。松王丸と春藤玄蕃が菅秀才の首を受け取りに寺子屋に着くと、村人達が自分の子供の首が切られたら大変と迎えに来る。子供を調べて返すと松王丸は源蔵に菅秀才の首をとせまる。国芳筆。

 村の子供たちをすべて帰したあとです。いよいよ菅秀才の首を討つ段となり、源蔵は首桶を渡された。「おかしいぞ、さっき出て行った子供の数は八人だった。机の数が一脚多いではないか」、「それは、秀才様のお机とお文庫です」。
 源蔵は奥で小太郎の首を討ち、それを首桶に入れて出てきて松王丸の前に差し出す。張り詰めた空気の中、松王丸は首実検した。ためつすがめつ、首を見る松王丸。
 「ムゥ、コリャ菅秀才の首討ったわ。紛いなし相違なし」。
 松王丸は玄蕃にそう告げた。玄蕃はそれに満足して首を収め、時平公のところへ届けようと手下ともども立ち去る。松王丸は病を理由に、玄蕃とは別れて駕籠で帰って行く。あとに残った源蔵と戸浪はひとまず安堵した。
 だが今度は小太郎の母親が、小太郎を迎えにやってきたのである。
 致し方ないと源蔵は、隙を見て母親に斬りかかった。源蔵の刀をかわした母親は涙ながらに言った、「菅秀才のお身代り、お役に立ってくださったか」と。
 そこに松王丸も現われる。「梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらむ」と、菅丞相(かんしょうじょう)の歌を唄いながら、「女房喜べ、せがれはお役に立ったわい」。小太郎とはじつは松王丸の実子、その母親とは松王の女房千代だったのである。松王丸はじつは菅丞相に心を寄せ、牛飼いとして仕えながらもそれに仇なす時平とは縁を切りたいと思っていた。そして菅秀才の身替りとするため、あらかじめ小太郎をこの寺子屋に遣わしていたのだった。松王丸はなおも嘆く千代を叱るが、源蔵夫婦と菅秀才は小太郎のことに涙する。松王丸が駕籠を招き寄せると、中から菅丞相の御台所が現われ菅秀才と再会する。以前、北嵯峨で御台を助け連れ去った山伏とは、松王丸であった。
 松王夫婦が上着を脱ぐと葬礼の白装束となり、御台が乗ってきた駕籠に首のない小太郎のなきがらを乗せ、野辺の送りをする。悲しみの中、皆は小太郎の霊を弔う。
 「いろは書く子をあえなくも、ちりぬる命ぜひもなや、あすの夜たれか添乳せん。らむ憂(う)い目見る親ごころ、つるぎと死出の山けこえ、あさき夢見しここちして、跡は門火にえいもせず」。
 御台所と菅秀才は河内の伯母・覚寿(かくじゅ)のもとへ、松王夫婦は火葬地の鳥辺野(とりべの)へとそれぞれ別れてゆく。

*:ちなみに平安時代には寺子屋は当然無かった。これは当時の作劇において時代考証に対する意識が薄かった事と、寺子屋や教育に熱心な家庭では「天神さま」の像を祀る習俗があり、江戸時代の観客にとっては「天神さま」とのつながりが深い場所であったことによる。 この場でのクライマックスは松王が首実検で小太郎の偽首を見る場面である。舞台中央平舞台に松王が首桶を前にし、上手には玄蕃が、下手では刀を握りしめた源蔵と戸浪が松王を見つめ、その様子を伺っている。
 以上「菅原伝授手習鑑」四段目、ウイキペディアより、加筆修正。

  

 寺子屋より、左、寺子屋に戻ってきた小太郎の母千代と右、首桶を持って出て来た武部源蔵。国貞筆。

 
この噺「菅原息子」は、すべて芝居「寺子屋の段」のパロディーです。

 ・ 「女房殿、今帰ったぞ」、源蔵が我が家寺子屋に戻ったときの台詞。

 ・ 「まぁ~、貴方。何時も来る、物もらいに良く似ているので・・・」、菅秀才と小太郎とが、都会の子供らしく利発そうで似ているので。

 ・ 「女房殿、膳部が一脚多い」は松王が、寺子屋から帰る子供の数より、手習い机が一脚多いので、これは管秀才のものに違いないとわざと言い立て、小太郎を身代わりにするきっかけにしようとする場面のセリフ、「机の数が一脚多い」から。

 ・ 「生貝と死貝」も同じく、松王が源蔵に言う「生き顔と死に顔は相好の変るなぞと、身替わりのにせ首、その手は食わぬ」から。

 ・ 「はかなき最後。女房蚊の死骸をかたづけろ」、首のない小太郎のなきがらを乗せ、野辺の送りをする松王夫婦。

 ・ オチの「せがれがおやじに… 」、松王丸が女房・千代に言うセリフ、「女房よろこべ、せがれ(小太郎)がお役に立ったわやい」のもじりです。

赤螺(あかにし);赤西と書くのは間違い。アッキガイ科の巻貝。殻高は約15cm、殻口の内面が赤いのでこの名がある。表面は淡褐色で、3列の大小の突起列がある。日本各地の暖かい浅海の砂泥底にすむ。卵嚢を「なぎなたほおずき」という。肉は食用。紅螺。辛螺。
 右図:赤螺。
 赤螺は身替わりになる貝で、「サザエのつぼ焼き」の中身はアカニシであることがしばしばある。 なお、この仲間は安価で味が良いため代用品にされることがあり、「ロコガイ」(アワビモドキ)がアワビの代用品であることは有名です。
 また、(財布の口を開かないことを、赤螺が殻を閉じて開かないのにたとえ)、けちな人をあざけっていう語。

お平(おひら);平皿・平椀(ヒラワン)の略。底が浅くて平たい椀。また、それで出す料理。

鮑のフライ(あわびのふらい);鮑(あわび)=ミミガイ科の巻貝のうち大形の種類の総称。マダカアワビ・メガイアワビ・クロアワビ・エゾアワビなど。貝殻は耳形で厚く、殻長10~20cm。暗褐色または帯緑褐色、内面は真珠光沢がある。殻表に管状に立ち上った4~5個の呼吸孔がある。日本各地の岩礁に棲む。貝殻はボタンや螺鈿(ラデン)の材料。肉は食用、乾燥した半透明の良品を明鮑、不透明のものを灰鮑という。串貝。水貝。石決明。
 この鮑をフライにしたもの。

赤貝の生(あかがいのなま);赤貝=フネガイ科の二枚貝。貝殻は長さ約10cmで箱形、暗褐色のけばだった皮をかぶる。放射肋は42~43条。体液にヘモグロビンを含み、肉は赤みを帯びるのでこの名がある。肉は食用で美味。北海道南部から九州までの内湾・内海などの、水深10mくらいの砂泥底に分布。魁蛤。蚶。
 赤貝の生は、ヌタで食べると絶品。寿司・刺身も良いが、やはり酢味噌で和えたヌタが最高。

劇場から出ると;役者そのものになっています。例えば任侠の映画で、高倉健ばりに肩をいからして劇場から出て来ます。また、『男はつらいよ』シリーズでは、渥美清の寅さんになったような気分で街中に出て来ます。映画だけでなく、芝居でも同じ事なのですが、家庭の中までは持ち込まないと思います。

芹生(せりよう);源蔵の寺子屋が有った地。京都市左京区大原の西方の地の古称。京都府東部、京都市右京(うきょう)区の北部にあたる旧京北(けいほく)町の一地区。大堰(おおい)川の支流の灰屋(はいや)川最上流に位置する。集落南部の芹生峠(約710メートル)を越えて京都市左京区貴船(きぶね)へ通じ、かつては薪炭(しんたん)などの林産物が京都へ送られた。集落の北部には、浄瑠璃や歌舞伎で有名な『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段で知られた武部源蔵隠栖(いんせい)の邸跡があると伝えられるが、その地区の住民は離村し廃村となっている。灰屋川の渓谷はハイキングコースとなっている。

門火(かどび);葬送の際、または婚礼の輿入(コシイレ)の送迎の時、門前でたく火。



                                                            2018年5月記

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