落語「雪の子守唄」の舞台を行く
   

 

 二代目露の五郎兵衛の噺、「雪の子守唄」(ゆきのこもりうた)より


 

 船場に木綿問屋の和泉屋与兵衛さんと言う大店(おおだな)がありました。
 一人娘のお八重さんに付いていた女子衆(おなごしゅ)のお松さんがいました。極普通の十人並よりチョッと落ちる器量です。ここに担ぎ小間物屋の男前の与兵衛がこの店にやって来ていました。
 この与兵衛が不器量なお松さんに恋心を覚えた。付け文を渡すようになった。その付け文を番頭がたまたま拾ってしまったが、出来た番頭で大旦那に相談して仲人になってもらい祝言を上げた。
 表に小さな店を出して、お松さんが店番、亭主がお得意先回り、夫婦仲も誠にイイ。

 仕事が上手く行くようになると、男は遊ぶようになってくる。初めて曽根崎新地に連れて行かれ、小梅という女に馴染んだ。やはりイイ女は違うと気が付き、のぼせ上がってしまった。悪い事は重なるもので、片っ方は綺麗に着飾った美人、方や懐妊して身体はくずれ顔もくずれたのでは、家に帰りたくなくなるが、金は無くなる。家の物は売り払い、商品にも手を付け、裏長屋に引っ込んでしまった。
 悪いときは悪い友達が付くもので、博打の道に引きずり込まれた。三道楽が完成したようなもので、いくら金が有っても足りるはずは有りません。
 お松さんは臨月、赤子の産着を縫いながら、子守唄を「♪ねんねころいち 天満の市で・・・」。亭主はお松さんの頭の櫛まで狙ったが、鼈甲(べっこう)でなくツゲと聞いて諦めたが、その作りかけの産着まで質に入れて賭場通い。勝てるわけが有りません。
 赤子というものは男が留守の時に生まれるものです。でも、与兵衛は敷居が高くてなかなか家に寄りつきません。お松さんやむを得ず赤子を野田の煙草屋の甚兵衛さんに里子に出した。里扶持を付けて出すのが普通ですが、この状態では付けられません。亭主が帰って来ても博打で勝って温かい物を着せるという。金になる物と言って見回しても何も無い。終いにはお松さんの着ている掻巻まで、「寒いから堪忍しておくれ」、無理に引いたので「指の先から血を出して・・・」と、剥がして持って行く始末。質に持って行っても油アカの付いた掻巻は受けられないし、生爪が付いたものはなおダメだというのを無理に借り出し、賭場に行ったが、勝つことは出来ません。

 スッテンテンになった与兵衛に、お松さんが頼みます、「私や子供のことを考えたら博打で勝つことでなく、博打を止めて。そして里扶持をやったことが無いので、里扶持を持って行ってくれないか。その金だったら何とかするわ」、「お前の前だが、曾根崎の女、アレは俺ではなくカネに惚れていたんだ。今やっと分かった。博打も止める。このサイコロは捨てる。二度とサイコロには手を触れんゾ」、「脇道にそれず里親の所に届けてくれるか」、「届けよう」、「怒りなさんなよ。1両有るねん」、「1両ッ」、「お八重さんが『良く尽くしてくれた』とお守りにと1両くれた、大事な小判。位牌の裏に・・・」。「本物や」、「今度何時行けるか分からないので、お釣り貰わんとそのまんま置いてきてちょうだい。野田の極楽橋の袂に有る煙草屋さんの甚兵衛さんに届けてください。あの子は生きてんね、寄り道せんとちゃんと届けてくれるか」、「分かってるッ。届けるぜ」。

 「寒いと思ったら雪が降ってきた。この1両で、取れたら良い正月が過ごせるんだがな~。下寺町のずく念寺で開かれていると聞いたが、寄って行こうかしら・・・」、(♪ねんねころいち 天満の市で ダイコそろいて 舟に積む・・・)、「何処でどいつが唄うのか陰気な子守唄だな~。寄り道せずに里親の所に行こう。寒いから一杯やれるぐらい勝てば良いんだよな。倍にしようなんて思うからいけないんだ。ずく念寺には戻りになるしな~。どうしようかな」、(♪ねんねころいち 天満の市で・・・)、「陰気な子守唄だな~。あの声聞いたら寄り道出来んな。いこいこ。戻らなくても、この先真っ直ぐ行けば鍋島様の蔵屋敷でも場が開いていると聞いたが・・・。そっちに行くか」、(♪ねんねころいち 天満の市で・・・)、「や~めた。極楽橋に向かうより仕方が無いな」、(♪ねんねころいち 天満の市で・・・)、「極楽橋や、子守唄につられて来てしまった」。

 (ドンドンドン、戸を叩く)「チョッとお開けを。長町裏から来ました小間物屋の与兵衛です」、「戸締まりしていませんのでお入りください」、「お初にお目に掛かります。こちらに私の伜がご厄介になっているそうで面目ない。里扶持を持って来ました。お納め下さい」、「ご丁寧に。あんたが来るんだったら、お松さんがわざわざ来なくても良かったのに」、「えッ?お松、来てますか」、「ぼんの横で添い寝をして乳を飲ませていますよ。今も子守唄が聞こえるでしょ」、(♪ねんねころいち 天満の市で・・・)、「聞こえます。あれ、お松が歌っていますか?」。

 (ドンドンドン、激しく戸を叩く)「チョッとお開けを。長町裏からお知らせに来ました。こちらに小間物屋の与兵衛さんが来てますでしょうか」、「どうぞお入り下さい」、「与兵衛さん、長屋で大変なことが起こっています。お松さんがたった今、倒れて亡くなったんです」、「冗談言いなさんな。お松はここに来ています」、「洒落や冗談でここまで走って来れますか」、「分かった。チョッと隣の部屋をお開けさせて貰ってもイイですか」。
 すやすや寝ています赤ん坊のそばに添い寝をするような姿で、油染みたツゲの櫛が一枚。その辺りから、♪ねんねころいち 天満の市で ダイコそろいて 舟に積む・・・。

 



ことば

五郎師匠の自作;上方噺には珍しい、江戸落語風のしっとりした人情噺です。笑いの少ない、この噺を上方落語の大師匠が演じるなんて、まことに思ってもいない快挙です。
 この作品は元々は怪談だったそうですが、昭和49年の初演(ABCラジオ、『パルコ十円寄席』「露の五郎:雪の夜噺五夜」の五作の新作のうちのひとつ)から時を経て昭和60年、五郎師匠はこの作品で芸術祭賞を受賞されます。 そのときには完成された人情噺として、観客がラストに涙を禁じえない名作へと昇りつめていました。 この録音はその受賞後にはじめて高座にかけられたNHK「上方落語の会」第137回の模様を、今はなき大阪厚生年金会館中ホールにて収録されたものです。
 冒頭、先の受賞のことを自虐的に切り出す五郎師匠。 創作落語にして上方最高の人情噺である「雪の子守唄」です。藤山寛美の松竹新喜劇でよく歌われた「天満の子守唄」がこの噺のキーになっています。やっちゃ場と言われる野菜市場があった天満橋付近の大根を船につむ様を子守唄にしたところからも、舞台は冬。現在の天王寺区にある寺と、福島区にある野田の煙草屋の往還にて悩む主人公の与兵衛。

初代 露の五郎兵衛(しょだい つゆの ごろべえ、1643年?(寛永20年)- 1703年秋?(元禄16年))は、江戸時代前期の落語家。京都の人で、元は日蓮宗の談義僧。還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原やその他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物演じた。故に京落語(上方落語)の祖とされる。号は雨洛。晩年に再び剃髪し、露休を号す。著書に『軽口露がはなし』『露新軽口ばなし』『露五郎兵衛新ばなし』などがある。 北野天満宮境内には記念碑が建てられている。

代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、落語家で、大阪仁輪加の仁輪加師。 本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)。上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。
 昭和62年(1987)に亭号の表記を「露の五郎」に改める。平成6年(1994)上方落語協会会長に就任し、平成15年(2003)まで務めた(後任は桂三枝(現:六代目桂文枝))。2005年10月、前名「五郎」の由来である大名跡「二代目露の五郎兵衛」を襲名。同年には歌舞伎の四代目坂田藤十郎の襲名披露もあり、両界そろって数百年ぶりの名跡復活が話題となった。晩年は病に苦しみ、2002年9月に脳内出血、同年11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。平成21年(2009)3月30日、多臓器不全のため77歳で死去。 この落語を演じた師匠です。

子守唄;この噺の主題になっている陰気な子守唄がこの唄です。でも、素直に唄えば明るく聞こえる子守唄です。日本の子守唄は元来、奉公にやられた小さな女の子が赤子を負ぶいながら、故郷や親恋しさにうたう唄ですから、短調の寂しい唄になってしまいます。

     『天満の市』
  ねんねころいち 天満の市で
  大根そろえて 舟に積む
  舟に積んだら どこまでゆきゃる
  木津や難波の 橋の下
  橋の下には カモがいやる
  カモとりたや 竹ほしや
  竹がほしけりゃ 竹やへござれ
  竹はゆらゆら 由良之助

 木津村と難波村は、一世紀近くにわたって、天満市場に対抗する地元の市を開こうと活動を続けていた。その中で、自分たちの主張を示すために作られた唄が「天満の市」であったと、右田伊佐雄は解説しています。当時、木津と難波の両村からは、大阪へ子守娘が多く出ていたので、彼女たちの歌う子守り歌として近畿一円から四国、中国地方へと広まったのではないかと推測されます。大川沿いに、この子守唄の歌碑と像があります。

船場(せんば);大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。

木綿問屋(もめんどんや);木綿織物の卸売を取り扱う問屋。
 江戸時代に入ると、木綿の生産量の増大とともに庶民の衣料の原料としても用いられるようになり、各地の生産地あるいは消費地に木綿問屋が成立した。江戸時代前期には木綿の生産地または集積地にて生産地の荷主と消費地の注文主との間を仲介して商品の管理を行って口銭や蔵敷料を受け取る荷受問屋が、後期には自己資本にて生産地から木綿糸や織物を仕入れて染色などの加工を行って仲買人や小売商に販売する仕入問屋が発展した。
 大坂には西国各地で生産された木綿を受け入れるために生産国単位の引請問屋と江戸など東国各地に出荷するための江戸積木綿問屋が存在した。

女子衆(おなごしゅ、おなごし);女中。一人娘のお八重さんに着いていた女中のお松さんです。

担ぎ小間物屋(かつぎこまものや);荷を担って町中を売り歩く小規模な商いの小間物屋さんを、江戸では「背負い(しょい)小間物」と呼びました。
 この江戸の背負い小間物屋を、「守貞謾稿」から引きますと、『小間物売り 昔は高麗(こうらい)等舶来の物を販(ひさ)ぐを高麗物屋(こまものや)と云ふ。高麗と小間と和訓近きをもつて仮字するか。今は笄(こうがい)・簪(かんざし)・櫛・元結・丈長(たけなが=奉書紙の類)・紅白粉(べにおしろい)、あるひは紙入れ・烟草(たばこ)入れ等の類を賈(あきな)ふを云ふ』とあります。
 担ぎ小間物屋も貸本屋も形態は同じですが、貸本屋は街中では商いをせず相手先(お得意)に行って、貸本を交換したり新本を置いてきたりします。小間物屋さんは当然お得意様もいますが、街中でも商いをしました。
 これらの品物の他に、大小色々な張り形も扱っていました。お客さんは女性ですからね。
 『人間のたけりまである小間物屋』 江戸川柳
 右図:背負い小間物屋。

曽根崎新地(そねざきしんち);大阪府大阪市北区。堂島川と大阪駅戸に挟まれた地区。第二次世界大戦前の曾根崎は、御茶屋などが並び、三味線や小唄が聞こえる京都の祇園のような風情のある雰囲気を持っていた。曾根崎新地は「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄した。

三道楽(さんどうらく);江戸時代の典型的な男の道楽は 「飲む、打つ、買う」 です。 飲むは酒、打つは博打、買うは遊廓で遊ぶことの三つ。どれひとつ取っても、良いことは有りませんが、それが三つもと言うと、家族・友人・職場は無くなります。
 こちらは良い方の道楽で、江戸時代の三大道楽=江戸の道楽には「三大道楽」と呼ばれるものがあった。
 園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽が挙げられる。園芸道楽は、初期はツバキとキクであったが、それにツツジ、アサガオ、ランが加わったという。大名たちなどは競い合うようにして庭園造りに熱中し、庭石や樹木が集められた。
 釣り道楽としては、ほんの軽いものであれば、川に船を浮かべて、女衆とキスを釣った。(本格的には)泊まりがけで行くのが旦那衆の釣りだったという。釣り道楽が深くなると、釣り竿にこり出し工芸品的な和竿が生まれてきた。
 文芸道楽では、俳諧、和歌、紀行文等々各ジャンルがあるが、奥が深く、さまざまな文人を生みだした。また、道楽というのは学問に極まるという。道楽は隠居してからが特に本格的になったという。

野田の極楽橋(のだの ごくらくばし);大阪市福島区野田。大坂の北西方向で、安治川を渡った町で鉄道の駅も有ります。淀川を渡る手前です。極楽橋は野田の街中に入る手前に有る橋。ここに煙草屋さんの甚兵衛さんの店が有りますが、現在は同名の橋が有りません。私は東京に住んでいるので地図から拾っていますが、橋の名が変わっているのかも知れません。どちらにしても安治川を渡らなくてはなりませんので、そこに架かった橋か、その奥に小さな川が有ってそこに架かっていた橋かも知れません。また、噺の中の架空の橋名かも知れません。

里扶持(さとぶち);里子として預けてある家へ出す養育料。
 里子・里親の制度は古く、京都の公卿社会では、幼年の間だけ近郊の農家へ里子に出す風習があった。あずける側は里扶持などといって養育料を出す風があった。武家の間でも家臣や百姓などに里子に出し、京都、大坂、江戸の町屋では子どもを近郊の村々の農家へあずけ、手習いをするころに実家へ戻す風があった。

掻巻(かいまき);綿入れの着物状の夜具。掻巻とは袖のついた寝具のことで、綿入れの一種。掻巻は長着を大判にしたような形状で、首から肩を覆うことによって保温性に富む。夜具なので外には着て出ない。
 江戸と京阪(関西)の文化比較をした喜田川季荘著『類聚近世風俗志 :原名守貞漫稿』より。掻巻は京阪にはなく、江戸で赤ん坊のことを「ねんねこ」と言うことから、「ねんねこ半天」とも呼ばれる、とあります。

下寺町のずく念寺(したでらまち ずくねんじ);下寺町は、大阪府大阪市天王寺区の町名。南海難波駅の東側で、南北に走る松屋町筋の東側に面し、南北に細長い地域で寺が密集した地域。ずく念寺は架空のお寺さんです。ここで賭場が開帳してたと言います。

鍋島様の蔵屋敷(なべしまさまの くらやしき);堂島川の北側、東西にちょうど水晶橋から鉾流橋にかけて大阪高等裁判所の広い敷地があります。この広大な敷地が肥前佐賀藩蔵屋敷跡です。平成23年(2011)、ここから江戸時代最高峰とされる同藩特製の磁器「鍋島」約350点が出土しました。大阪市北区西天満二丁目です。

長町裏(ながまちうら);長町1丁目から5丁目を“日本橋”と改めたのは寛政4年(1792)のことだが、長町といえば劣悪な住環境の巣窟のようにいわれるようになったので、そのイメージを刷新することが改称の理由であったようだ。しかし、呼称が変わっても、その実態はなんら改善されることはなかった。動乱の幕末ともなると、ますます多数の生活困窮者がこの町に流れ込んできて、スラム化はすすむばかり。さらに明治5年には、“日本橋筋”と改称され、いよいよ“長町”の名は消えるが、町の貌はいっこうに変わらず、大阪一の密集地であった。『浪速区史』によると、合邦ヶ辻あたりは、その日暮らしの人や浮浪者の野宿場であったという。
 その後、時代の先端電気街として大いに栄えた。道頓堀に掛かる日本橋、その南側に有る町。

 宿場町として賑う一方、生活貧 困者の巣窟ともなった長町裏(柳原書店発行・摂津名所図会大成)



                                                            2018年6月記

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