落語「雪の子守唄」の舞台を行く 二代目露の五郎兵衛の噺、「雪の子守唄」(ゆきのこもりうた)より
■五郎師匠の自作;上方噺には珍しい、江戸落語風のしっとりした人情噺です。笑いの少ない、この噺を上方落語の大師匠が演じるなんて、まことに思ってもいない快挙です。
■初代 露の五郎兵衛(しょだい つゆの ごろべえ、1643年?(寛永20年)- 1703年秋?(元禄16年))は、江戸時代前期の落語家。京都の人で、元は日蓮宗の談義僧。還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原やその他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物演じた。故に京落語(上方落語)の祖とされる。号は雨洛。晩年に再び剃髪し、露休を号す。著書に『軽口露がはなし』『露新軽口ばなし』『露五郎兵衛新ばなし』などがある。
北野天満宮境内には記念碑が建てられている。
二代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、落語家で、大阪仁輪加の仁輪加師。
本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)。上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。
■子守唄;この噺の主題になっている陰気な子守唄がこの唄です。でも、素直に唄えば明るく聞こえる子守唄です。日本の子守唄は元来、奉公にやられた小さな女の子が赤子を負ぶいながら、故郷や親恋しさにうたう唄ですから、短調の寂しい唄になってしまいます。
木津村と難波村は、一世紀近くにわたって、天満市場に対抗する地元の市を開こうと活動を続けていた。その中で、自分たちの主張を示すために作られた唄が「天満の市」であったと、右田伊佐雄は解説しています。当時、木津と難波の両村からは、大阪へ子守娘が多く出ていたので、彼女たちの歌う子守り歌として近畿一円から四国、中国地方へと広まったのではないかと推測されます。大川沿いに、この子守唄の歌碑と像があります。
■船場(せんば);大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。
■木綿問屋(もめんどんや);木綿織物の卸売を取り扱う問屋。
■女子衆(おなごしゅ、おなごし);女中。一人娘のお八重さんに着いていた女中のお松さんです。
■担ぎ小間物屋(かつぎこまものや);荷を担って町中を売り歩く小規模な商いの小間物屋さんを、江戸では「背負い(しょい)小間物」と呼びました。
■曽根崎新地(そねざきしんち);大阪府大阪市北区。堂島川と大阪駅戸に挟まれた地区。第二次世界大戦前の曾根崎は、御茶屋などが並び、三味線や小唄が聞こえる京都の祇園のような風情のある雰囲気を持っていた。曾根崎新地は「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄した。
■三道楽(さんどうらく);
■野田の極楽橋(のだの ごくらくばし);大阪市福島区野田。大坂の北西方向で、安治川を渡った町で鉄道の駅も有ります。淀川を渡る手前です。極楽橋は野田の街中に入る手前に有る橋。ここに煙草屋さんの甚兵衛さんの店が有りますが、現在は同名の橋が有りません。私は東京に住んでいるので地図から拾っていますが、橋の名が変わっているのかも知れません。どちらにしても安治川を渡らなくてはなりませんので、そこに架かった橋か、その奥に小さな川が有ってそこに架かっていた橋かも知れません。また、噺の中の架空の橋名かも知れません。
■里扶持(さとぶち);里子として預けてある家へ出す養育料。
■掻巻(かいまき);綿入れの着物状の夜具。掻巻とは袖のついた寝具のことで、綿入れの一種。掻巻は長着を大判にしたような形状で、首から肩を覆うことによって保温性に富む。夜具なので外には着て出ない。
■下寺町のずく念寺(したでらまち ずくねんじ);下寺町は、大阪府大阪市天王寺区の町名。南海難波駅の東側で、南北に走る松屋町筋の東側に面し、南北に細長い地域で寺が密集した地域。ずく念寺は架空のお寺さんです。ここで賭場が開帳してたと言います。
■鍋島様の蔵屋敷(なべしまさまの くらやしき);堂島川の北側、東西にちょうど水晶橋から鉾流橋にかけて大阪高等裁判所の広い敷地があります。この広大な敷地が肥前佐賀藩蔵屋敷跡です。平成23年(2011)、ここから江戸時代最高峰とされる同藩特製の磁器「鍋島」約350点が出土しました。大阪市北区西天満二丁目です。
■長町裏(ながまちうら);長町1丁目から5丁目を“日本橋”と改めたのは寛政4年(1792)のことだが、長町といえば劣悪な住環境の巣窟のようにいわれるようになったので、そのイメージを刷新することが改称の理由であったようだ。しかし、呼称が変わっても、その実態はなんら改善されることはなかった。動乱の幕末ともなると、ますます多数の生活困窮者がこの町に流れ込んできて、スラム化はすすむばかり。さらに明治5年には、“日本橋筋”と改称され、いよいよ“長町”の名は消えるが、町の貌はいっこうに変わらず、大阪一の密集地であった。『浪速区史』によると、合邦ヶ辻あたりは、その日暮らしの人や浮浪者の野宿場であったという。
宿場町として賑う一方、生活貧 困者の巣窟ともなった長町裏(柳原書店発行・摂津名所図会大成)
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