落語「二つ面」の舞台を行く
   

 

 林家彦六の噺、「二つ面」(ふたつめん)より


 

 昔は寄席で一年中怪談噺をしたものです。一朝老人なんかもやっていましたが、ただ、正月の三が日はやりません。

 柳亭西柳(りゅうてい さいりゅう)は弟子の佐太郎に今日の割を持たせての帰り道、追い剥ぎが出てきて、「金を出せィ」。その声を聞いた瞬間、佐太郎は割を持って逃げてしまった。「今日は正月四日、初仕事でしょう。私は何も持っていないので、羽織と小銭しか入っていない財布を、仕事始めの正月にアブレたのでは縁起に触るから」と、渡そうとすると、「ギャー!」と、言って逃げて行った。

 後ろを振り向くと、怪談話の主人公、小幡小平次の幽霊であった。「我々は『恨めしや~』と出て来ますが、年月が過ぎるといつまでも恨めしがっては居なくて、相手の護り神になるんだ。ここで立ち話もなんだから、知り合いの松島町まで行こう。目をつぶって肩にお掴まりなさい」。

 「ここなんだが、寄席の帰りだというと小腹が空いているだろう。何かご馳走しよう。何がイイ」、「寿司が食べたい。特に下品ですがこはだ・・・。こはだ様が好きです」、「頼みますからチョット待って下さい。『光り物を多くしてにぎり二人前』、こうすると相手に通じるんだ。この家は私を殺した太九郎の末孫(ばっそん)だよ。俳句なんかやっていて”駄九郎”(だくろう)と言うんだ。彼の守神になって居るから大丈夫だ。今、人形町で骨董屋をやっているよ、独り者だから部屋使っても大丈夫。
 寿司が来たよ、寿司は上が肴で裏がおまんまだから、『うらめしや~』と言うんだ。ところでネ~、教えてあげたいことがあるのだが、聞いてくれるかぃ」、「何でしょう」、「面を被って出るが、客が文明開化のせいか、笑うね。強がって笑うんだ。面がひとつだから笑うんだ、後ろにもう一つ面を付けてごらん。お客がギョッとして笑うことが出来ない。二つ面にしたら良いよ」、「ありがとうございます。お知恵を拝借いたします」、「遅くなると心配するといけないから、寿司はもう良いかぃ」、「寿司の御代を払わせて下さい」、「やだネ。払わせるぐらいだったら、連れて来ないよ。私も払わないよ、幽霊にオアシは無いからね。太九郎の末孫が払うよ、商売繁盛と手を回しているから・・・。来たときと同じように肩に掴まって目をつぶりなさい。もう西町に着いたよ」。

 「私は師匠が出る時は御客を招くからね、しっかりおやり」。変な切っ掛けで、小幡小平次と仲良くなってしまった。それからと言うもの大入りが続いて、夏になっても幽霊噺のかきいれですが、大入りが続いていたので二つ面は出さず仕舞いです。秋口になって風邪をこじらせ寝込んでしまった。
 「師匠どうでございます」、「ありがとう佐太郎」、「師匠、お願いがあるんですが・・・。カミさんを持ちたいと思うんです」、「一緒になりなさい。居るのかぃ」、「お滝さんの娘のお艶チャンなんです」、「あの子は良い子だよ。長唄の名取りだし、お滝さんは下座だから少し勉強すれば、お前の下座になれる。二人で寄席に行けば共稼ぎで良いよな~。で、話しは届いているのかぃ」、「届いています」、「何時一緒になる」、「せめて、お腹の子供が生まれないうちに・・・」、「えッ、もう仕込んであるのか。結構結構。それでは、今の名前では小さいから・・・、大きな名前に変えなさい。私の師匠柳亭左龍(りゅうていさりゅう)の二代目になりなさい」、「ありがとうございます」、「もうひとつ、小幡小平次さんから笑う客には二つ面を見せろと教わった」、「ありがとうございます。身祝いとして、師匠の好きな寿司を頼んできます。光り物を多くして貰います」。

 「師匠今晩は」、「小平次さん。お聞きの様に佐太郎に全部伝授いたしました。やらないので謝りに行こうと思っていました」、「やだね~、そんな事では無いんだ。前にも言ったが、幽霊はいつまでも恨んで無くて、その人を護る側になるのだ、そしてハクが着いて極楽に行くんだよ。アッしも極楽に行くので、当分会えなくなるが、残った幽霊仲間の寿命が300有るんだ。皆の意見で決まったので使者になって来たんだ。300年の寿命を貰って下さい」。ヒュ~~。
 「行っちゃったよ。長生きはしたいが300年はなァ~。師匠の左龍さんも八十四まで生きたが、長生きをすると退屈だと言っていたが、長すぎるな~、知ってる人は居なくなっちゃうな~」。

 「寿司屋に行って来ました。コハダも入っていますよ」、「300年て分かるか」、「徳川300年でしょ」、「長いな~。小平次さんが今来たんだよ、そして寿命を300年くれたんだ。私みたいに怪談噺しか出来ない貧乏人が寄席に出ていたら、世間の人は笑うだろうな」、「笑う時は、二つ面を見せなさい」。

 



ことば

一朝老人(いっちょうろうじん);三遊 一朝(さんゆう いっちょう、1846年ないし1847年(嘉永元年、逆算) - 1930年11月17日)は、武州所沢(現在の埼玉県南部)出身の落語家。本名、倉片 省吾(戸籍上は倉片圓蔵、かつて三代目橘家圓蔵を名乗っていたためか、いつの間にか戸籍の名前まで圓蔵になってしまっていた)。実弟は同じく落語家で弟弟子の三遊亭圓鶴。
 慶応の初期に三遊亭圓朝に入門し、勢朝と名乗る。明治初年ころに三代目橘家圓蔵(改名と同時に二つ目昇進と推測される)を経て(勢朝の名は後に実弟圓鶴が圓朝の下に入門時に名乗った)、1874年から1875年ころに初代三遊亭小圓朝に改名(改名と同時に真打昇進と推測される)。なお、小圓朝改名については圓蔵時代に刺青を入れたのを師匠圓朝に見つかって圓蔵の名を取り上げられたためとも、旅回りの時に小圓朝を勝手に名乗ったためともいわれている。
 1883年とも言われる年に二代目三遊亭圓楽を襲名して長らく圓楽の名でいたが、1919年4月に橘家二三蔵(後の林家彦六)に圓楽の名を譲り、「三遊一朝」に改名、「一朝」は古い名跡で倉片省吾の一朝は三代目ともいわれる。「一朝老」「一朝爺さん」とも、明治40年代から浅草栄久町に住んでいたことから「栄久町のお爺さん」とも呼ばれた。 落語はそれほど上手くはなかったが、若手の稽古台として、圓楽時代から五代目三遊亭圓生(六代目の義父)・六代目圓生(昭和の名人)親子、四代目柳家小さん(人間国宝の師匠)などの後の大看板となる落語家に噺を教えたことは評価される。師匠圓朝の得意ネタであった怪談噺・道具入り芝居噺は、一朝から彦六、五代目古今亭今輔が教わり、怪談噺も得意で幽霊役は前座の三遊亭圓坊が演じた。
 晩年は、彦六(当時は五代目蝶花楼馬楽)・五代目今輔(当時は柳家小山三)が半年交代で世話をし、彦六の自宅で亡くなった。享年83ないし84。辞世の句は『あの世にも粋な年増がいるかしら』。圓朝門下の中で最も長寿だった噺家である。
 周囲では三遊亭一朝としていたが、本人は「俺は三遊一朝だ」と主張していた。『古今東西落語家事典』では、三遊亭一朝名義で記事が載せられている。

柳亭 左龍(りゅうてい さりゅう);落語の名跡、当代は六代目。
 初代 柳亭左龍 は(文政11年(1828年)8月 - 明治43年(1910年)12月1日)本名、岡本龍蔵。
 二代目柳亭 左龍(りゅうてい さりゅう、安政6年(1859年)1月 - 大正3年(1914年)9月5日)は、怪談噺を得意とした東京の落語家で有名。本名:相沢重五郎。初代の存命中の明治30年代には二代目左龍を襲名している、初代の死後は四代目柳亭左楽の門に移って柳派の中核で活躍した。 晩年は欧米文化の浸透で怪談噺も下火になり端席での活動が中心となった。自宅にて病死。 背中一面に刺青を彫っていた。 高座のすだれが上がると、黒く塗った箱を膝前に置き、両脇に黒塗りの箱筒のロウソクを立てて噺の途中まで燈火も消し高座を真っ暗にし前方の箱から赤と青の色火を燃やす、たじろいた客の前を前座の噺家が幽霊に扮して客席を徘徊するという演出をしている。その時に使ったとされる幽霊のお面が残されている。
 この噺の中の左龍は、モデルであって実話ではありませんので念のため。

小幡小平次(こはだ こへいじ);師匠は役者のコノシロ伝兵衛、その弟子コハダ小平次。どちらも良い魚ではない。小平次、太九郎、太九郎の女房おちか、朝積沼、等については、落語「生きている小平次」で詳細が分かります。この噺「二つ面」は彦六自作自演で昭和38年に芸術祭奨励賞を受賞しています。

  

 小幡小平次の幽霊。

(わり);東京の寄席でいう割(わり)は一日毎の客の入りと演者の格に応じて支払われる給金。
 ・ 興行収入を単純に山分けするのではない。「演者ごとの、客一人当たりの給金」×「有料入場者数」という式にて算出される。いずれにせよ、個々の演者は当日まで自分が実際に貰える出演料の額を知りえない。
 ・ 「割り」の制度は東京にのみ存在し、関西では存在しない。関西では伝統的に月給制が敷かれてきた。さもなくば、予め合意した額の出演料が支払われる。
 かつては、多くの場合、寄席が入場料から一定の歩合を控除し、残金を主任(トリ)を務める演者に渡し、それを主任が取りまとめて翌日の席で手渡していた。興行最終日の分は、通常当面預りとして次回一緒の興行に参加した場合渡すが、相手の一門の者などに託す場合も有った。
 ・ 割りは、現金で手渡されるため、個々の落語家に渡す金額を算出して、その金額の現金を袋詰めしなければ  
  ならない。手作業である。 これを「割を作る」という。
 ・ 格下の落語家が主任をとった場合、自己の負担で、浅いところに出る格上の落語家の割りを割増したという
  ことも頻繁に行われた。この場合、彼(主任)は労働をしたのに赤字になったわけである。
 現在は、割りは協会事務員が作成し、主任自身は一切タッチしない。二日ごとに手渡される。振込制度はなく、落語家自身か代理人が直接出向く。 格上の落語家への割増も行われない。
 定席の割りは、娯楽の多様化、寄席側の取り分割合の増加、寄席の減少に伴う出演機会の減少(一回の興行当たり出演者の増加)により、現在では雀の涙程度の額ともいわれている。
 現在の落語家の主な収入源はお座敷と独演会(ホール等での単独興行)である。前者はマスコミで紹介されないが落語家の生活にとって決定的な意味を持つ。お座敷のギャラは落語家の格に応じて数万から100万程度とされる。一日にいくつも回ることもあり、テレビにほとんど出演しない落語家が裕福なのはこのためである。
 入りの悪い席などでは硬貨が数枚といったこともあり、「労多くして益が少ない」という意味の「割に合わない」という言回しはここから来たという説も有る。
 しかし、一回の出演ごとに芸人のランクに応じた最低額の保障はあるとされている。つまり、観客動員が極端に低い興行の損失は、寄席または協会が負担する。国立演芸場は、当初は完全な割り(最低額保障なし)だった。しかしシステムを変更(既存の寄席と同じく落語協会、落語芸術協会両協会単位の番組編成)してからは、既存の寄席と異なり、割りを全廃している。つまり観客動員に関係なく、内部規定で定まった一定の出演料が支払われる。
 ウイキペディアより

 志ん生なども、弟子を使って割の分配をして夜ごと袋詰めをしたという。(志ん朝談)。
 トリを取ると、この作業や人気のない芸人だと客の入りが少なく、仲間からバカにされるので、プラスして袋詰めするので赤字になることが多かった。トリは名誉ある事であったが、力の無い芸人からは嫌がられた。
 落語「今戸の狐」の中でも割の噺が出てきます。

松島町(まつしまちょう);江戸橋の東側。現在の中央区日本橋人形町二丁目(元吉原の南側)の地。太九郎の末孫が住んでいた。人形町の骨董屋はこの近くです。

文明開化(ぶんめいかいか);明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。
 単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、さらには既存文化を西洋風にアレンジしたものなど多岐に渡り、過渡期的には熱病の如き流行となって様々な社会階層に受け入れられていった。
 学制が発布され、近代的な学校制度が生まれて、高等教育機関も誕生した。鉛の活字による活版印刷を開始し、新聞や雑誌が急速に発達した。明治5年(1872)に太陽暦を採用し、やがて1日24時間制や七曜制も実施。鉄道が開通して、郵便、通信、警察や軍隊などの組織化、四民平等から、自由民権運動が呼ばれ、憲法を作り、国会を作り、民主主義という話し合って決めるというルール作りを実現。断髪令が出されて、ちょんまげ頭はザンギリ頭にかわった。都市では、レンガづくりの洋風建築が建ち並び、舗装された道路を、鉄道馬車や人力車が走るようになった。ガス灯やランプが使われ、洋服を着て帽子をかぶり、靴を履く人も増えた。懐中時計やこうもり傘を持つことは紳士の誇とされ、牛肉・牛乳・パン・西洋料理などが食生活に取り入れられた。右図:文明開化の横浜。
 西洋から入ってきた文化には幽霊は居なくて、精神から来ていると言われ、そのような思想は軽蔑され、落語家が幽霊の噺をすると、御客が笑って新味が出なくなった。

西町(にしまち);師匠が住んでいたところで、いろいろ有りますので、好みのところをお選び下さい。
・ 浅草西町会事務所  所在地: 〒111-0032 東京都台東区浅草1丁目16−8
・ 小島町二丁目西町会 所在地: 〒111-0056 東京都台東区小島2丁目19−1
・ 西町公園 所在地: 〒110-0015 東京都台東区東上野2丁目23−3
・ 朝日信用金庫 西町支店  所在地: 〒110-0015 東京都台東区東上野1丁目2−1
・ 西町太郎稲荷神社 東京都台東区東上野1-23-2 落語「ぞろぞろ」に記述。

寿司とコハダ;握り寿司は、小さな酢飯の塊に寿司種を載せ、両手で握って馴染ませたものである。飯と種の間にわさびを入れることが多い。手づかみ、あるいは箸を用いて、必要が有れば醤油をつけて食べる。寿司としての歴史は浅く、江戸時代に江戸で考案された。1つを「1かん」と数え、「貫」の文字を当てることが多い。
 「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(文政12年(1829年)、握り寿司の文献的初出である。
 『守貞謾稿』によれば、握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には関西にも「江戸鮓」を売る店ができた。

  

左、広重描く「寿司」。 中、右、コハダとコハダを含んだ寿司。

コハダ: 江戸前鮨の代名詞は何かと聞かれれば、「コハダ」だと断言する職人は多い。瑞々しく輝くその姿は数ある鮨ダネの中でも特に美しいものだ。このコハダがとりわけ職人たちに愛されている理由は、「鮨になることで初めて旨さの極みに達する」という特性にある。
 コハダは出世魚で、シンコ(全長5cm程度まで)→コハダ(7~10cm程度)→ナカズミ(13cm程度)→コノシロ(15cm程度から)と成長していく。いわばコノシロの若魚である。コノシロといえば「煮ても焼いても食えない魚」と蔑まれていた時代もあった。噺にもあるように、コハダの師匠はコノシロなのに。
 コハダは、酢と塩で締めることで、えもいわれぬ旨味を引き出すことができる。いわば酢と塩の絶妙な塩梅を楽しむ魚なんです。また酢飯のふくよかな甘みと非常に相性がいい。職人の仕事によってあれほど独特の旨味を引き出すことができる魚は他にはありません。



                                                            2018年6月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

 
 
 
inserted by FC2 system