落語「廓の穴」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「廓の穴」(くるわのあな)より


 

 昔は吉原に”冷やかし”に行ったものです。これは花魁の顔を見て吉原の中を一周して来るもので、花魁の顔見たさだけで、上がるわけでは有りません。
 なぜ冷やかしと言ったかというと、吉原の近所には淺草紙を作る所が多かったので、作るには古紙が玉になって居るので水の中に入れて冷やかしておくのです。ほぐれるまでには時間が掛かるので、その間、吉原見物をして時間を潰した。次の日も同じように花魁の顔を見に、冷やかしに出掛けます。これが一般の言葉になったと言います。
 これには冷やかしの形が有って、七五三・五分回しと言う幅の狭い着物で、三尺を下の方に締めまして、やぞう(拳固)を胸元にしまっていました。これは喧嘩のためで、ぶつかったりすると、この拳固を出して殴ります。これを貯蓄拳固と言います。この格好で吉原中を回りますが、中見世以下が面白かったようです。小見世、切り見世、悪(わる)が下とか羅生門河岸等と名の付いたところが有ります。羅生門河岸の女郎は、顔の魅力で客を上げられないので、腕ずくで引っ張り上げる為に名が付いた。熊と相撲を取ったという女郎やカバがベレー帽を被ったような女郎がいます。また、そのような場所も回るのが冷やかしです。

 「源さん、こっちおいでよ。回ろ、まわろ~ォ~~」、「又来たよ。いけ好かない野郎だ。棚卸しばかりしてサ。原ドン、今晩は上げちゃうから、後ろから押しておくれよ」、「眠気覚ましにやりますよ」、「居た、いた、並んでいるよ」、「冷やかしてばかりしてないでお上がんなさいな」、「凄い力だよ、痛い、イタタタ、ネジったら壊れちゃうよ」、「いかがですか、お上がりなさい」、「よせよ、前で引っ張って、後ろで押すの。引っ越しの荷物が坂に差し掛かったんじゃね~ャ。源ちゃ~ん捕まっちゃったよ~。たすけて~」、もう放しはしません。帳場に座っている者はすました顔で「いらっしゃいませ」、いらっしゃったんじゃない、引きずり込まれたのです。

 田舎の人が格子前で、ポカンと口を開けて中を見ています。まるで死んだ蛤のように、紐の切れた巾着のように、満員電車の車掌のカバンのように、口が開けっ放しになって居ます。この様な客を見つけると若い衆は黙って見ていません。
 「如何ですか?」、「なんだけぇ?」、「一晩の御愉快で、お気に召したら如何ですか。御散在は掛けませんので・・・。イヒヒヒ」、「馴れ馴れしく声を掛けるところは、巾着切りかね」、「いえ、ここの若い衆です」、「頭が禿げているが・・・」、「吉原では幾つになっても”若い衆”です」。
 「あまっ子は何か悪い事をしたからか、親兄弟の為に奉公ぶっているのか」、「(咳払いをして)自分からと言う者も居ないわけでは有りませんが、大抵は親兄弟の為に身を沈めるのでしょうな」、「親の為にか・・・、ウーウ~」、「泣いてはいけません。格子に掴まって鳴くのは鈴虫か松虫ぐらいです。笑ってお上がりください」、「おらに笑えってか」、「ご機嫌が治りましたか」。
 「あすこのあまっ子は・・・」、「お目が高いです。あの子は当家の御職です」、「夜食か」、「夜食ではなく、一番売れる子です」、「名前は?」、「金山(きんざん)です」、「こっちゃの娘は・・・」、「吾妻さんです」、「向こうが金山、こちらが吾妻、真ん中で煙を吐いているのは浅間山か」、「口が悪いな。煙草を吸っているんです。上がらないのなら向こうに行って下さいよ。お上がりになるんでしたら、お高くないところで1円では如何ですか」。
 「1円。ちょっくら調べてみよう」、「しゃがんで調べるより、上がってから調べたら如何ですか」、「2階に上がってから無いと言うんじゃしょうが無い」、「でしたら、お宿まで貰いに伺いますから」、「遠いんだ。筑波山の麓なんだ」、「入費倒れになってしまいます」、「有った、有ったよ。小さけな50銭銀貨が二つ有れば良いのか」、「1円で一晩中自由になるんです。安いもんじゃないですか」、「”山椒は小粒でもヒリリと辛い”と言うよね。銭ってものは重宝な物だね」、「お宝と申しまして、こんな結構な物は有りませんな」、「アハハハ。これを見たらたまんないな、若い衆さん」、「お上がりを願いましょう」、「イヤー、銭の方が尊くなったよ。帰るとしよう」。ひどい奴が有ったものです。
 冷やかし穴探しでございます。

 



ことば

正蔵の話だと、同じ題名の噺ですが中身が少し違います。

 冷やかし客が、格子の中の7人の女が並んでいるのを見て、右から4人目が良いという客と、左から4人目という客が居る。人によって好みが違うんだなと感心していると、どちらも同じ女なのです。明治になると本人が並んでなく、写真になった。修正が激しく別人のようになってしまいます。
 若い衆(わかいし)の話、店全体を任されている男衆(おとこし)で、歳取っても若い衆です。妓夫(ぎゅう)と言い、昔は金が足りなくなると、家まで一緒に着いてきました。牛が朝には馬となる、と言いました。
 オバさんの話、2階に上がると応接間のような引き付けが有ります。そこで、天麩羅蕎麦をおごらされ出費がかさむ。でも断れない。30杯の天麩羅蕎麦頼んで、中身が入っているのは、客と花魁の分、それとオバさんと別人の2人分、後は蓋が付いていて中身は空っぽ。蓋を取って確かめる事も出来ず、オバさんのチップになってしまいます。
 後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)時に、背中を思いっ切り叩かれる。そのアザを帰って来てからみんなに見せて喜ぶ奴が居る。
 大引け時に、金棒引きが、リズム良く歩いて行きます。
 切り見世になると、羅生門河岸にはベレー帽を被ったブルドックのような女がいます。店前が狭い道なので、客が両方から来ると見世前で、見世を背中ですれ違います。その時に襟首を捕まえて、見世に引きずり込まれます。
「花魁、そんなに引っ張ったら腕の色が変わっちゃうよ。若い衆、そんなに押すなよ。九段坂で大八車を押しているんじゃないんだよ」、見世ではすまして、「いらっしゃいませ」、来たんじゃない。放り込まれたんです。

 この噺は、時間が無いときや、軽く逃げたいとき、または吉原の噺のマクラに使ったりします。噺が起承転結しているわけではなく、吉原のああ言う事もあるよ、こう言う事も有るよと言う、見て来た事の断片噺です。

吉原(よしわら);俗に仲。浅草の北、千束にあり、新吉原と呼ばれ、江戸町1・2丁目、角町、京町1・2丁目の五丁町から出来ていた。揚屋町、伏見町は入らない。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有った(元吉原)が、江戸の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転させられた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、(先代)円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ、吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカになってしまった。「仲」とも、品川の南に対して「北」とも言う。

冷やかし(ひやかす);広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。
 志ん生は、「冷やかし」の語源を噺の中で説明しています。「近くに紙すき場があり、紙屋の職人が古紙を水に浸して、紙の冷やける間一回り廻ろう、ってんで冷やかしという名前がついたんですな」と。落語の噺なんてまゆつばでしょうと思っていたら、広辞苑にも大言海にもこんなにも堂々と載っているのでは信じるほかありません。客の約七割が冷やかしで有ったと言います。
  私は、「ウインドーショッピング」だと理解しております。
 『素見が七分買うが三分なり』 江戸川柳
 天明2年吉原の廓内を歩いている連中の七割が素見、いわゆる冷やかしであった。しかし、その七割が賑やかさを演出したのかも知れません。決して紙屋の職人だけが冷やかしで有ったのではありません。また、吉原だけではなく、他の岡場所等でも、状況は同じでした。しかし、花魁から見れば、
  『つらいこと素見にばかり惚れられる』 柳多留
 指名して貰って初めてお客様、お客でない相手に惚れられても・・・ねぇ。
  『おかしさは素見の女房りん気なり』 柳多留
 吉原に行ったと言うだけで、女房はなんで焼き餅を焼くのでしょう。

花魁(おいらん);人を騙すのが商売だが、尾っぽが無くてもできるので「お(尾)いらん」(志ん生説)。江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。娼妓。女郎。

御職(おしょく);その遊女屋で一番上位の遊女。初めは吉原に限られたが、後には岡場所でも言われるようになった。御職女郎。

淺草紙(あさくさがみ);古紙・ぼろきれなどを材料にして漉(す)き返した下等の紙。落とし紙(トイレットペーパー)や鼻紙などに用いる。元禄年間(1688~1704)に浅草の山谷(さんや)辺りで多く製造されたところからいう。
左:王子・紙の博物館のご協力で所蔵品の提供写真(著作権が紙の博物館にありますのでご注意下さい)
「浅草紙」 明治30年(1897)頃/漉き返し紙/約175×235㎜
明治30年代初期の封書の中に入っていたもので、漉き返し紙のため、髪の毛や新聞紙、ゴミなどが混入している。
大量に生産されていたが、使い捨てされてしまうもののため、現存品が少ない。落語「蛙の女郎買い」より孫引き

張り見世(はりみせ);角町の先は羅生門河岸と言って、落語「お直し」に描かれる最下等な場所です。その近くにある見世ですから大した所ではありません。遊郭で、娼妓が格子をめぐらした店先に居並んで客を待つこと。また吉原でも格式の低い小見世に限ったもので、三浦屋楼、角海老楼、大文字楼、稲本楼など大見世は、引手茶屋を仲介しないと、あがれない仕組みになっていて、上位花魁は格子内には出ません。
 明治中期(1903年)から東京ほか、地方の遊廓でも格子の中で客待ちをするのは廃止され、かわりに店頭に肖像写真を掲げた。正蔵が言っている、本人が並ばなくて、写真が並ぶようになった、とはこの事です。
 ここで気に入った遊女を指名しますが、それを「お見立て」と言います。

 

 天才絵師・葛飾北斎の三女、葛飾応為筆 「吉原格子先之図」

七五三・五分回し;江戸時代には、粋(イキ)で鯔背(イナセ) な若者が身幅の狭いキモノを着用してキモノの裾から足のすねや下帯(フンドシ)を散らつかせて歩くのが大変流行した事がありました。
 男物のキモノ寸法を後身幅 を7寸。前身幅を5寸。衽(おくみ)巾を3寸。を基準にそれぞれの身幅に5分づつ加算して、後身幅を7寸5分に。前身幅を5寸5分に。衽巾を3寸5分に。仕立てる事を『七五三、五分まわし』(又は七五三、五分増しとも)云うのです。
 男物キモノの身幅の標準寸法(後身幅8寸前身幅6寸5分衽(おくみ)巾4寸)より各身幅を更に女性物より5分づつ狭くするのですから、歩くと足の脛(スネ)は丸出しに成りますが、これが、当時の若者や職人が着用した流行だったのです。 このキモノに極端に短い3尺丈の帯を前結びの片締めすると昔はヤクザの姿です。なぜ?短い3尺の帯を前片結びで行なうのかは、賭場等で役人に追掛けられて逃げるとき、背後からキモノを掴まれた際に前片結び目が楽に解けてキモノが簡単に脱げて逃げられる事から来ていると云われています。

  

 上図:冷やかしの格好。地廻りとも言われ、喧嘩をふっかけては吉原中を闊歩していました。懐には”やぞう”を作り、七五三・五分回しの着物を着ています。いくら流行だからと言って、今になってみればツンツルテンの着物の何処が良いのでしょう。三谷一馬画。

やぞう;(弥蔵)、ふところ手をして着物の中で握り拳(コブシ)をつくり、肩のあたりを突き上げる姿形。江戸後期、職人・博徒などの風俗。右上図の右側の男が、寒いからでは無く袖の中でゲンコツを握り締めています。

羅生門河岸(らしょうもんがし);ほとんどの客は茶屋を通さず仲之町通りから横町に入り、手頃な遊女を選ぶ。横町には「張見世」と呼ばれる格子のある店が並んでおり、客は外から遊女を選び、中に入るのである。
 さらに銭のない客は、おはぐろどぶ沿いにある二つの河岸に行く。「浄念河岸」と「羅生門河岸」である。ここに並んでいるのは、吉原でも最も安い遊女のいる見世がある。これらの見世は時間を区切って銭で遊ぶことが出来たので「切見世」あるいは「銭見世」とも呼ばれた。
 日没後見世を開き、大門が閉まった後も木戸が開いていたので、午前2時頃まで営業していた。午前2時「大引け」の拍子木が打ち鳴らされ、賑わっていた吉原もこれを境に静まった。
 大見世に行く連中の取巻き連中が時間をつぶすのにつかわれていた。武家でも主人が大見世で遊んでいる時に、下僕が遊ぶ場所でもあった。
 名の由来は、源頼光の四天王の一人、渡辺綱が羅生門で鬼の片腕を切り落としたという故事に基づき、素見(ひやかし)の客の腕を無理に引き、時には着物の袖をもぎとるところから、羅生門河岸だという。
落語「お直し」より
右図:「羅生門」 奥村政信筆 東京国立博物館蔵

棚卸し(たなおろし);決算や整理のため在庫の商品・原料・製品などの種類・数量・品質を調査し、その価格を評価すること。近世には、正月上旬に吉日を選んで行なったが、現代は会計上決算前に行う。
 そこから、他人の欠点などを一々指摘すること。冷やかしに、常々悪口を言われていたのでしょうね。

引っ越しの荷物が坂に差し掛かったんじゃね~ャ;正蔵は同じ事を、九段坂で大八車を押しているんじゃないんだよ。と言っています。九段の坂はきつくて坂下に車の後押し屋がいたほどです。

若い衆(わかいし);若い者、妓夫(ぎゅう)太郎、若い衆(江戸訛りで、わかいし)と呼ばれ客引きからお客の世話までこなした。歳を取っていても”若い衆”と言う。芸者さんでも、どんなに年取っていても、”お姉さん”です。たとえ歯がガタガタ言ってもです。客の支払いが足りないと家まで付いて行って集金までした。
 「宵に格子ですすめた牛(ぎゅう)は、今朝はのこのこ馬になる」と言われた。

巾着切り(きんちゃっきり);スリ。江戸時代末期になると女夫(めおと)巾着といって守袋と銭入れを兼ねたちりめん製のものが考案され、婦女子の間に人気をよんだ。当時巾着に金銭を入れたところから、これをすりとる者を巾着切りといい、また絶えず人について歩いている人のことを腰巾着とよぶ言葉さえ生まれた。民間の俗信として除夜の鐘の打ち終わらぬ間に巾着をつくると金に不自由しないといい、正月の子どものお年玉としてこれをつくる風習があった。

後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ);男女が一夜をともにした翌朝の別れ。平安時代、まだ男女が通い婚だった時代に、お互いの衣と衣を重ねて一夜を共にした(当時まだ掛け布団はなく、衣を体の上に掛けて寝るのが一般的だった)翌朝、別れるときにそれまでひとつに重ねていた衣を別々に身につけることから転じて、愛を交わした男女が別れる朝の、辛い余情のこと。実に色っぽく、また美しい言葉です。吉原でも別れの朝を言います。

大引け時(おおびけどき);遊郭で、午前二時のこと。見世を閉める時刻。 この時刻から大戸を閉めて、客は取りません。この時刻になると冷やかしも帰っています。売れ残った女郎はお茶を引いたと言います。回しを取った女郎は、まだ見世の中を走り回っています。

引き付け(ひきつけ);見世に上がって最初に通される部屋。おばさんの采配で、ここで相方や料金などの打合せをします。相方の女性に比例した心付けを弾みます。渡さないと後でへんに意地悪をされます。円生は源泉徴収だと言います。

おばさん遣り手。見世で遊女を取り締まり、万事を切り回す遊女あがりの年増女。普通は女郎を卒業した女がなるので、大学出の女性はやらない。やり手と言うが、貰いたがる女。



                                                            2018年6月記

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