落語「化け物娘」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「化け物娘」(ばけものむすめ)。別名「浅井の化け物娘」より


 

 本所の割り下水に浅井久之信(きゅうのしん)と言う旗本が住んでいた。年頃になったらどんな綺麗な娘になるであろうという3歳の娘が居た。親は楽しみにしていたが疱瘡にかかって、二目と見られないようなアバタ顔になってしまった。そして、五つの時囲炉裏に落ちて、熱湯をかぶり囲炉裏の火にあぶられ、助からない方がイイと思ったが、寿命が有ったと見えて身体は治ったが、顔がグチャグチャになって、目も鼻も口も何処に有るか分からない状態になってしまった。
 七歳の時、奥様はその気苦労で亡くなってしまった。殿様も昼間見ても震えが来るほどで、外に泊まるようになってしまった。半蔵松葉という大見世に高窓(たかまど)と言う花魁が、御客ではない親身な対応で接客した。400両という金で身請けをして、後添えにした。
 娘も十七にもなると、家の者が見ても怖がるので、女中も飯炊きも居着かず薪割りから掃除までこなし、買い物に行っても、並んでいる客がいればみんな逃げてしまう。娘を見て倒れる者や寝込んでしまう者まで出る始末。

 暮れも押し迫って、風呂屋の二階で藤八拳をやっていた。そこに傘屋の職人で二十三になる伊之助(いのすけ)が来ていた。イイ男で藤八拳も上手いので殿様は贔屓にしていた。住むところが定まらないので、殿様の屋敷に間借りする事になった。買い物を手伝ったり、自分の傘張りをしたりしていた。
 その晩は、凄く寒く玄関に寝ていたが、我満が出来ず、布団を引き摺って、中之口まで来て寝たが寝付けず、奥様から声が掛かった。「そこは寒いから、娘の部屋は暖かいから、そこで寝なッ」、「(腹の中で)冗談じゃ無いヤ。あんな化け物の所なんて。(奥さんに向かって)暖かくなってきました」、「化け物のような娘だけれど、風邪を引くよりいいだろう」。
 しぶしぶ奥の八畳間に。「お嬢様、失礼をします」、顔がこうではなければ旗本のお姫様、こんな見ず知らずの男を・・・、背中を向けて小さくなっていた。伊之助は温かいところに来たもので、死んだように寝てしまった。

 朝になって目が覚めると、娘は起きて働いている。煙草が吸いたくて煙草盆を見ると、火がいけてありキセルには煙草がつまっていた。「こんなに気を付けてくれて、どうしてだろう。夕べ、ひょっとしたら・・・。手を出してしまったのか」、そう思うと、ゾッとした。
 そこに帰って来た殿様が、「夕べ、娘と寝たんだって、勇気がある奴だな。今晩も寝てやれ」。毎晩毎晩一緒に寝ていたが、その内、伊之助が夜になるのを楽しみにしだした。
 「伊のさん。私、お前さんの種を宿して四月になるんだけれど、おっ母さんに知れると大変だから、何処か連れて逃げて・・・。お腹の子はお前さんの子だよ。ヤダと言ったら、死んで化けて出るからね」、「化けなくても良いよ。それで十分だ。伯父が阿部川町にいるから相談に行こう」、やだけれども手を引いて夜分尋ねた。

 「伯父さんこんばんわ」、「遅くに来たな。入れヤ。吉原に行くところ友達と離れて帰って来のは良い事だ。お前はそっぽが良いのだから、若い娘を引っかけろ。金は掛からないんだから。この間、お前が世話になっている浅井様に挨拶に行って、お茶をご馳走になったが、その娘が凄かった。昼見ても凄いのだから夜もそこに居るというのは偉いな。どうせだったら色を持て」、「その色なんですが・・・。今夜伯父さんに相談が有って来たのです。寒い晩が有って、奥さんが娘の所で寝ろというので寝ました」、「あの化け物とか?」、「身体は何でもないのです」、「で、どうしたんだ。ハッキリ言え。ひょっとして”ひもじい時の不味い物なし”と言って、テメエ、あの化け物を退治したんではないか」、「そうなんです」、「そうだ、大変な野郎だ。婆さんに話したら三日食事が出来なかったのに、岩見重太郎のように化け物退治したのか。よせよ、そー言うのは、女なんだから子供でも出来たらどうするんだ」、「出来たんだ。四月になるんだ」、「ちょくちょく行っていたんだな。逃げてくれと言われたらどうするんだよ」、「連れて逃げてと言うから、連れてきたんだ」、「ここに連れて来たのか?」、「私の後ろに立っているんです」、「何故それを先に言わない。チキショウ。お嬢さんこっちにお入りなさいまし。夜薄っ暗いところで見れば、そんなに悪くは無いヤ」。

 この娘のそばには伊之助は居られないので、姿をくらましてしまった。この娘が「おのれッ、伊之助」と言って、割り下水に身を投げて死にました。この死霊が方々に出ますので、周りの人は怯えたそうでございます。本所七不思議のひとつ、浅井の化け物娘という古いお話です。 

 



ことば

■この噺のマクラに本所七不思議が有ります。落語「本所七不思議」にその詳細があります。
 最後に、志ん生は本所七不思議のひとつ、浅井の化け物娘という古いお話だと言っていますが、化け物娘は七不思議の中には入っていません。
 でも、可哀相な娘です。顔の目鼻口が良く判らなくなって、頭もツルツルで後ろにわずか300本ほどの毛が有り島田に結っていると言います。ここまで化け物だと言わなくても良いものです。朝は早くから起きて、一仕事していますし、薪割りから買い物までしています。顔さえまともなら可愛いかった子供時代から十七になれば器量好しのお姫様です。
 あの、野口英世も、幼い頃、囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負った一人です。

 可哀相な娘はもう一人います。落語「遠山政談」に出てくる娘で、下総の四街道の出で、”お染め”という十七になる娘です。この娘も三つの時、疱瘡を患い治ったが顔中ヒドイあばただらけになってしまった。その上、七歳の時、部屋で遊んでいると、切ってある囲炉裏に落ち、自在鉤に吊されていたヤカンの熱湯を頭からかぶってしまった。二目と見られない顔になってしまった。それに背が低くて横に大きく転がった方が早い体格であった上に、少々頭が弱かった。この娘が奉公に出たが・・・。

本所の割り下水(ほんじょわりげすい);墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割り下水と言い、今の春日通りの本所二丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までの割堀です。
 南側を南割り下水と言い、今の亀沢一丁目から大横川までがそうですが、どちらも大横川から東の横十間川まで繋がっていました。横十間川は今でも水をたたえていますが、両割り下水は既に埋め立てられて道になっています。既に言いましたが北割り下水は”春日通り”となっていますし、南割り下水はJRの北側、葛飾北斎が生まれた所なので”北斎通り”と呼ばれています。

 

 上写真:下水工事が完了した「南割り下水」昭和4年 TOKYO下水道物語 東京都下水道局出版より
まだまだこの状態で下水道として利用されました。北割り下水は同じ頃暗渠になりました。 

  特別に南とか北と言わない時は南割り下水を言います。この噺でも南割り下水が舞台になります。割り下水は道路の中央を開削された割堀で、川(堀)ほど広くなくドブより広いもので、4尺(1.2m)から1間(6尺=1.8m)の川幅が有りました。両側は当然道路になって居ました。下水ですから、よどんで汚かったと言われています。
 この割り下水の回りには北斎を始め、三遊亭円朝河竹黙阿弥が住んでいました。
 円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢3-20)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り、明治9年から明治28年まで19年間住んだ。 庭は、割下水から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、円朝の生涯のうちで贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。 この後、新宿に移り住みます。
 道路を渡ったその前、マンション前(亀沢2-11)に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。河竹黙阿弥(文花13年(1816)~明治26年1月)は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。
第48話「お若伊之助」より
 墨田区の話では、圓朝住所跡は平成25年標柱を破棄し隣の町名・亀沢2-12が正確な住居跡で、その北側の小公園内に案内看板が新に立てられた。よって前説明を訂正します。なお、河竹黙阿弥の住所地は変更が無く、これも標柱から案内看板に変更になっています。

 北斎は、宝暦10年(1760)9月23日に本所で生まれ、嘉永2年(1849)4月18日に90歳で没した。「冨嶽三十六景」などの作品で知られる浮世絵師・葛飾北斎は、江戸本所割下水 (現在の墨田区亀沢)に生まれました。
当時としてはたいへん長生きをした人で、90年の生涯をひたすら絵の勉強についやしました。一生のうちに93回の転居をしたと伝わりますが、その多くは、本所・向島・浅草などの隅田川に近い場所でした。晩年は、娘の栄(えい)との気ままな二人暮らしだったといいます。

この北斎通りは本所七不思議の舞台の中心地です。
 「津軽屋敷の太鼓」  北斎通り、上屋敷は亀沢2丁目緑公園一帯。
 「消えずの行灯」
「燈無蕎麦」  南割り下水付近=北斎通り。
 「足洗い屋敷」  本所三笠町=北斎通り、亀沢4丁目12付近。

【北斎の画室】弟子の露木為一が描いた「北斎仮宅図」をもとに再現。北斎は娘の名を呼んだことがなく、いつも「おうい」と連呼したので彼女は「応以」という雅号を自らつけて以て快としたというのだから流石に大北斎の娘だけのことはあった。右の写真は、彼が83才の時に娘の栄と住んでいた時の画室を再現したもので、壁にかかる書「北斎仮宅図」には次のような添え書きが載っている。

卍(まんじ..北斎のこと)常に人に語るに、我は琵琶葉湯に
反し九月下旬より四月上旬迄
炬燵(こたつ)を放るることなしと、如何
なる人と面会なすといへとも
放るることなし。画(か)くにも又可如
飽く時は、傍ら枕を取りて眠る。
覚れば、又筆を取
夜着の袖は無益也とて不付。

《江戸東京博物館「模型で見る江戸.東京」》より
この項、落語「化け物使い」より孫引き。

疱瘡(ほうそう);痘瘡(トウソウ)すなわち天然痘の俗称。または、種痘およびその痕のこと。いもがさ。もがさ。豌豆瘡(エンドウソウ)。
 医学が発達していなかったので、疱瘡神(ほうそうがみ)に祈った。疱瘡の神。これに祈れば疱瘡を免れ、または軽くすむとした。
 天疱瘡は、免疫は通常、体にとって通常よいことをしている免疫が、間違って自分を攻撃してしまうのが自己免疫疾患です。天疱瘡の場合は、皮膚、口腔粘膜、食道などの粘膜の表面にある接着をつかさどる蛋白(デスモグレイン)に対して自己抗体が産生されてしまい、蛋白の接着機能を抑えるため、水疱ができ、その水疱が簡単に破れてびらんが生じてしまいます。顔・喉・口中だけでなく、全身に発疹が出ます。
 致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症です。

囲炉裏(いろり);屋内に恒久的に設けられる炉の一種。伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のこと。主に暖房・調理目的に用いる。
右写真:囲炉裏。

半蔵松葉(はんぞうまつば);文化11年春(1814)『吉原細見』で見ると、吉原角町に有った、松葉屋半蔵です。同名の”松葉”と言う見世が有ると、主人の名前を取って、半蔵松葉と言います。吉原では大見世で通った見世です。
 落語「柳田角之進」にも出てきます。
 番頭に紛失した50両の濡れ衣をおわされ、娘を吉原の半蔵松葉に身を落とし、父親にその金を作ります。その後、誤解が解け、さっそく、半蔵松葉から娘”きぬ”さんを身請けしてきて、娘に詫びたが、娘も父上の為ならと快く応じた。
 また、落語「松葉屋瀬川」にも出てきます。出会いのシーンです。
 松葉屋の瀬川という十八になる花魁(おいらん)、後光が差す様な”い~~ぃ女”、花を活けて善治郎に軽く会釈してニコッとして出ていった。

藤八拳(とうはちけん);拳の一種。二人相対し、両手を開いて両耳のあたりに挙げるのを狐、膝の上に両手を置くのを庄屋、左手の拳を握って前に出すのを鉄砲(狩人)といい、狐は庄屋に勝ち、庄屋は鉄砲に勝ち、鉄砲は狐に勝つとする。庄屋拳。きつね。幕末、嘉永・安政の頃、二人一組の藤八五文薬の「藤八、五文、奇妙」と交互にいう売り声を狐拳の掛け声に用いたといい、一説には吉原の幇間藤八より起るともいう。

中之口(なかのくち);玄関を入って最初にある部屋。中之口部屋は、御殿の実質的な玄関で、城などでは家老の詰所としても使われました。

煙草盆(たばこぼん);喫煙に必要な火入れ、灰落し、たばこ入れ、きせるなどをひとつにまとめたたばこ盆は、刻みたばこの喫煙に便利なようにと改良され、機能的に優れたものとなっていきました。盆形以外に箱形のものも作られるなど、さまざまな意匠が考えられ、なかには、装飾的な調度品として、蒔絵(まきえ)が施された美しいものも見られます。
右写真:煙草盆。

阿部川町(あべかわちょう);浅草阿倍川町。台東区西浅草三・四丁目一部で、菊屋橋交差点の北側は合羽橋商店街と言って厨房機器なら何でも揃うという街です。その商店街を挟む道が新堀川があったところで、今は暗渠になって南に下っています。菊屋橋の南側に位置する街ですが、道の西側にあった街です。

 落語「富久」に、旦那の店が火事だというので、ここから掛けだした幇間の久蔵さんであった。
 落語「柳田角之進」では、馬道の万屋さんと懇意になり、毎夜碁を楽しんでいた。彼の住まいがやはりここです。
 落語「おすわどん」で、呉服商の上州屋徳三郎さんが住んでいた。後妻のおすわどんが巻き込まれる事件。
当時は、この街には貧乏人が多く住んでいた。

吉原(よしわら);今更言うのもなんですが、俗に仲。浅草の北、千束にあり、新吉原と呼ばれ、江戸町一・二丁目、角町、京町一・二丁目の五丁町から出来ていた。揚屋町、伏見町は入らない。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有った(元吉原)が、江戸の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転させられた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、(先代)円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ、吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカになってしまった。「仲」とも、品川の南に対して「北」とも言う。

ひもじい時の不味い物なし;空腹の時は何でもおいしく食べられる。

岩見重太郎(いわみ じゅうたろう);伝説的豪傑。筑前小早川家の臣で、諸国を周遊して勇名を挙げ、天橋立で父のかたき広瀬軍蔵らを討ち、豊臣秀吉に仕えて薄田隼人(ススキダハヤト)、または、薄田兼相となったという。
 薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(1590)天橋立にてついに広瀬を討ち果たした。
 大阪市西淀川区野里の住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている。この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた。悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃(からびつ=物を入れる大きな箱)に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い、6年間そのように続けてきた。7年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性をさらうとされる大きな狒々(ひひ)が死んでいたという。

本所七不思議のひとつ、浅井の化け物娘;志ん生はその様に言っていますが、最初に言ってように化け物娘は七不思議の中には入っていません。



                                                            2018年6月記

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