落語「吉住万蔵」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「吉住万蔵」(よしずみまんぞう)より
■講談から落語になった噺;講談師・邑井貞吉(むらい ていきち)師の持ちネタから円生が教えて貰った噺です。落語家で二代目か三代目の春風亭柳枝が、最初落語としてやっていたものを講談として邑井貞吉が持ちネタとしたものです。有るとき教えてあげるからヤリなさいと云うことで、点取りと言って、人名や地名が間違ってはいけないので書き残したものです。人情話ですからオチがありません。貞吉さんにオチはこの様に付けたいと云いましたら、「それは良いッ。是非おやんなさい」と言ってくださったのですが、昭和40年2月の邑井さんは86歳でお亡くなりになった。生前はこの噺やりませんでした。(円生談)
■笑いの無い噺;前項でも言いましたが、この噺は講釈から来ていますから笑いがありません。上下合わせて、1時間30分掛かる大作です。本筋だけでも1時間近く掛かります。ここでは割愛していますが、噺のポイントポイントで笑いが起こるような、ホッとさせるような噺を挟んでいます。
■新島原遊廓(しんしまばら ゆうかく);明治元年、ノルウェー・スウェーデン・スペインの三ヶ国と日本が条約を結び、築地・鉄砲洲に居留地を作りました。で、この近所に廓が有った方が良いだろうと云うことで、作ったのが新島原という廓です。これを新政府がこしらえるのは難しいので、家田弥兵衛と中田宗四郎の二名が願い人として、届け出ました。家田弥兵衛は吉原・中万字楼の主で、中田宗四郎は仲屋の主の連盟で、どうか廓を許して欲しいと届けましたが、前々から内々で決まっていましたから、即刻許可が下りました。大変繁盛したのですが、場所が京橋では江戸の中心地、これでは具合が悪いと明治4年許可取り消しとなってしまいました。移転料が5万円で花魁は吉原に引き取られ、この場所は新富町となりました。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の屋敷を潰し廓にしたのです。現在の中央区新富二丁目になります。(円生のマクラ)
新島原夜桜之図、歌川芳虎、明治初期
明治元年(1868)から約3年間、現新富町に130軒の遊郭と1700人の遊女がいる大規模な遊郭があった。居留地造成時に家田弥兵衛、中屋宗四郎の両名が5万円の冥加金を上納して、本多隠岐守・井伊掃部頭の屋敷跡に『新島原』と称する外国人向け遊郭を開いています。この遊郭は不人気で1871年(明治4年)には廃止になり、翌1872年、跡地には「新富座」が開場された。
■新富座(しんとみざ);万治3年(1660)木挽町五丁目(現在の銀座六丁目)に創建された森田座を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。浅草の猿若町からここに移転し、明治5年に新富座として開場され、周囲に芝居茶屋も建ち並んで賑わったが、のちに新富座は関東大震災により焼失し、そのまま再建されることなく廃座となった。震災直前の大正11年(1922)の記録では、新富町は料理屋約10軒、待合約40軒、置屋約80軒を抱える三業地(花街)であり、劇場があることから新富芸者は櫓下芸妓として広く知られた。1930年ごろには、料亭は6軒、待合と置屋は60軒以上、芸妓は180名を数えたが、戦後廃れていった。
「市川右団次東京新富座江乗込之図」 明治4年(1871)新富座開場
■高崎(たかさき);現・群馬県高崎市の中核都市。高崎市は、広大な関東平野の北端に位置する、群馬県を代表する都市です。市の人口は37万人を超え、面積は459.16平方キロメートルに及びます。群馬県内では最大の人口を擁する都市。
■熊谷(くまがや);円生は子供時分には”くまがい”と発音してたと言います。埼玉県熊谷市は、東京都心から50~70km圏に位置し、ほぼ平坦で荒川や利根川の水に恵まれた肥沃な大地と豊かな自然環境を有し、その区域は南北に約20km、東西に約14kmで、面積は159.82平方キロメートルです。また、可住地面積は県内第2位です。第65回日本統計年鑑によると、快晴日数は64日と日本一となっていますが、内陸的気候で夏は記録的に暑い。約20万人弱と埼玉県で9番目、県北では最大の人口を有します。
円生が噺の中で言うには、
■忌中(きちゅう);近親に死者があって、忌(イミ)にこもる期間。特に死後49日間。特に通夜、葬儀中の家では玄関先にスダレを下げて、そこに忌中の札を貼ります。
■正夢(まさゆめ);夢に見た通りのことが現実となる夢。その逆が逆夢(サカユメ)。おいねさんが死んでいなかったことでホッとして正夢でなかった事に安心します。
■大見世(おおみせ);吉原遊廓の妓楼には大見世、中見世、小見世があって、大見世は格式最高級の見世です。見世は紅殻(べにがら)を塗った太い格子で通りと接しています。妓楼の入口を入ると細い格子が組まれていますが、これを籬(まがき)と言います。大見世では、総籬で全面が格子になっています。
■中見世(ちゅうみせ);籬が半籬と言って籬の1/4位(上部1/2)が空いています。二分以上の遊女と二朱の遊女が混じっていたので、交じり見世とも言いました。
注:1両の1/4が一分。一分の1/4が一朱です。一朱は現在の金額で約1万円。1文は16円位です。で、高いか安いか。おいねさんが大見世で下位だとしても3分位、中見世ではトップでしたから、2分位でしたでしょう。これは表向きの金額で、遊女に付いてくる新造・禿代、茶屋代、遣り手や若い衆、遊女への心付け、飲食をすれば飲食代、芸者・幇間代が別に付きます。職人辺りでしたら、瞬く間に財産を減らします。
左、半籬の中見世。 右、惣半籬の店構えの小見世。 江戸吉原図聚 三谷一馬画。
■若い衆(わかいしゅう);江戸では”わかいし”、”わけいし”と発音します。若い者。妓夫。店番で、大見世では花魁道中で傘や提灯を持つ役で、客引きから、客の細々とした用をします。接客をこなすのが若い衆で、裏方の飯炊きや風呂番は雇い人です。
■鈴村という茶屋から大口屋の九重と言って上がって;妓楼に登楼するには二つの方法があった。
■見世替え(みせがえ);通常レベルの低い、他の見世にトレードに出すこと。住み替え。
■起請誓紙(きしょうせいし);口約束だけでは客は信じないので、好きで大事なお客に起請(起請文)を書いて渡した。熊野の誓詞の裏に年(年期)が開けたら一緒になると言う起請文を書いて渡した。落語「三枚起請」にその辺りの情景が詳しい。雛鶴も大量に渡していただろう。で、男はコロリと騙されてしまう。
■日本橋小伝馬町(にほんばし こでんまちょう);番頭勝吉の店が有るところ。現・中央区日本橋小伝馬町。江戸時代には、単に小伝馬町と言っていた。江戸通り(国道6号線)に面し馬喰町と石町、本町に挟まれ商業地として賑わった所です。
■馬道(うまみち);台東区浅草寺二天門を出たとこの南北に走る道路。
■通夜(つや);死者を葬る(告別式)前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。おつや。夜伽(ヨトギ)。夜通し死者の冥福を祈ること。
■戒名(かいみょう);出家した修行僧が、仏門に入り戒律の世界に生きる証として与えられる名前です。現在では、在家でも仏教徒が亡くなると、寺院の僧侶によって戒名を授けられます。故人を浄土に導き成仏させるためと言われ、簡単に言えばあの世における名前と言う位置づけです。仏の弟子になる、という意味合いもあります。
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