落語「吉住万蔵」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「吉住万蔵」(よしずみまんぞう)より


 

 明治の初め新島原遊廓が出来たが3年で閉鎖になって、その跡に新富座が出来ました。そこの鳴物師をしていた二十三になる小粋な吉住万蔵が地方公演をするというので一座に加わった。上州を回って、高崎が最後で、ここから江戸に戻ることになった。万蔵だけは贔屓の客に接待されて4~5日泊まって、一人で高崎を発って熊谷に入ります。

 扇屋という宿に泊まりましたが、翌朝凄い雨降りで出ることが出来ません。鼓や鳴り物を調べたりしています。扇屋の娘”おいね”さん、ミス熊谷というような十八になる美女が入って来た。
 「両国のお匠さんにお稽古を付けて貰ったんですが・・・」、「おさらいをしてあげるから、三味線を持って来なさい」、これを聞いてあげると、宿の主人夫婦は大喜びで、娘に酒肴を持たせて部屋にやって来た。「イイ酒だッ。おいねさんに返杯です」、「飲んだことがありませんので・・・」、「何でも初めてと言うことがあります」、「胸の辺りが熱くなりまして・・・」。おいねさんは「声かけてくれる人も無いのです」、「ではこうしたら・・・」、「いけません。およしなさい」。小さな声で色っぽく断ったが、遠くて近きは男女の仲、とにかく怪しき夢を結んだ。

 翌朝、娘がお給仕に出て来た。「おいねさん、昨日のことは忘れてはイヤですよ」、「私よりお師匠さんの方こそ、キッとですよ。いつ来てくれます」、「直ぐには来れませんが落ち着いたら必ず来ます。浮気をしたらいけませんよ」、「お師匠さんの方こそ」と言って、ヒザをキュッとつねった。

 江戸に帰ると連日の忙しさ。お金も入って若い連中は新島原遊廓に出掛けた。梅街小路の杉本という角見世が50銭で遊ばせるという廉価で客が入った。二枚目を張っている”かゆう”と馴染みになって通い詰めた。忘れると言うことは無いが、おいねの事はケロッと忘れていた。
 遊びすぎて金が無くなり、高崎のひいき筋に頼もうと江戸を発った。

 熊谷に入っておいねさんを思い出した。行くと、スダレが下がっていて忌中の札が下がっていた。前の旅籠に泊まって忌中の訳を聞くと、「小さい頃から知っていますが、そんなふしだらな女の子ではないのです。四ヵ月になる腹が親御さんに分からない訳がございません。いくら聞いても言わないので、問い詰めると『はばかりに』と言って降りたまま帰って来ません。探すと井戸に身を投げて亡くなったんでございます」。
 「外が賑やかになりましたね」、「ジャンボンです。江戸ではお弔らいと言います。その行列です」、下を覗くと、ご住職が先頭になって葬儀の列が出ていきます。「おいねさん、すまないことをした。もう少し早く来れば良かった。許しておくれ」、手を合わせて拝んでいたが、食事も食べたく無くなって、早々に布団に潜り込んだ。
 そこに、先程葬儀をしたお寺から迎えが来た。寺に来てみると、住職に言われた「知らないと言われるが、それは失礼をした。しかし、万蔵さんだとすると、3日後には死ぬなッ」、「たった一晩だけなのに・・・」、「今日の仏は成仏しておらん。通夜をしなさい」。住職と墓に来て、墓前で通夜をする。「決して声を出してはいかん。声を出すとたちどころに死ぬ。その時は口の中で念仏を唱えなさい」。
 住職は寺に戻り一人で墓の前に座っています。墓に一人でいるのは恐いもの。その内に丑三つ時になると墓から陰火が出て来て、これが火の玉になって万蔵の頭の上を回り始め、耳元で「悔しい~ィ」、念仏を口の中で一心に唱えて・・・、周りが明るくなり住職がやって来ました。「そうか、ではゆっくりと朝餉を食べて・・・」、「ゆっくりは出来ません」、「それはいかん。3日はここで通夜をせねばならん」。その晩も通夜をしますと、同じように耳元で「悔しい~ィ」、あまりの怖さに、「どうか、勘弁しておくれ」、声を出すと途端に胸ぐらを掴まれ、「勘弁しておくれッ」。
 「チョイと、お前さん」、「えッ」、「どうしたの。大変うなされているじゃないの」。目を開けてみると太夫の部屋。「恐い夢でも見たの」、「夜が明けたんだろう。もう帰る。急ぐんだ」。

序、完

 熊谷まで来てみると、扇屋に”売り店”という札が下がっています。聞くと主人が米相場に手を出して、大損し家族全員江戸に逃げたことが分かった。正夢で無い事が解ってホッとした。でも、江戸と言うだけで、行き先の手がかりは無かった。
 江戸に帰ってきたが、かゆうの所で金を使いすぎて、浅草・馬道の友達の家の2階に逃げ込んだ。今度は新島原は遠くなったが、吉原に近い。若いから早寝も出来ず、吉原に冷やかしに行った。
 大口屋と言う大見世を覗いて行き過ぎると、見世の若い衆が追いかけてきた。「失礼ですが、万蔵さんですか」、良く分からないが、格子の前に戻ると一人の花魁が格子の前にやって来た。「万蔵さんですね。私は熊谷の扇屋のいねです」、「どうしたの、こんな所で。上がれと云われたって、大見世でこのなりじゃ~」、「チョット待って下さい」、2階に上がってなにがしかを包んで、「これで、支度をして、鈴村という茶屋から大口屋の九重と言って上がって下さい」。

 質屋から請け出して、身なりを整え、九重に、「訳を話すのも恥ずかしいことですが、父が相場に手を出して、何も無くなり、千住のおじさんの所に落ち着きましたが、父が病を得て死に、母も後を追うように亡くなりました。その時に治療費や借財が貯まり、ここに身を沈めたのでございます」、「恥ずかしいことは無いよ」、「これからも、寄る辺もございませんから、面倒を見て下さい」、「質屋に行くくらいですから、面倒まで・・・」、「お金は良いのです。時々顔を見せてくれれば良いのです。揚げ代は私が何とかします」。
 見世の主人はこれを見とがめ、今のうちにと見世替えをした。蓬莱(ほうらい)屋と言う見世に移って雛鶴(ひなずる)として出た。中見世ですから前より安く買えた。
 大見世の女でしたから、”掃き溜めに鶴”で客が付いた。その上起請誓紙をドッサリ書いて客を引きつけた。

 日本橋小伝馬町の金物問屋の岡本屋の番頭・勝吉は堅物でしたが、仲間に誘われ吉原で雛鶴に起請文を貰ってから生活がうわずってしまった。友達は心配して、起請文は沢山発行しているから女郎のウソだと言ったが、「俺のヒザに泣き崩れた」と言って、譲らない。友達付きあいも止めて、雛鶴一筋になったが、よく観察をしていると、おかしな事が度々あった。

 「勝つさん、いらっしゃい」、「起請文をくれたな。年が明けたら一緒になろうと言うのは本当だな」、「ウソで無い事は分かっているじゃないか」、「じゃぁ~、俺が死ぬと言ったら、お前も死ぬな」、「死んだってしょうが無いじゃ無いか」、「本当に惚れていたら、一緒に死ななくてはならない」、「お前さんと死ぬんなら、私は本望だから死にますよ」、「本当に死ぬか」、「私を殺すというなら殺して頂戴」。
 まさかと思うから、身体を前に出したら、胸口を掴まれ、持っていた匕首(あいくち)を出して首筋を、またがって胸をメチャメチャに刺して、遅れてはいけないと自分も喉を突いてしまった。見世は大騒ぎになって、医者を呼んだり雛鶴を助けるので精一杯。雛鶴は馬道の方を指して、万蔵に逢いたそうにしている。
 万蔵は飛んで来て「おいね、私だよ。しっかりしておくれ」、「私は無理に殺されました。お前さんには申し訳ありません。堪忍して下さい」、二人共、息が切れました。

 伯父の源六を呼びにやり、勝吉の実父・藤兵衛を呼んで話をすると、「ご迷惑をお掛けしましたが、二人を一緒に葬ってやりたいと思います」、それではと云うことで、勝吉と一緒に長国寺に葬ってやった。戒名を書いて貰い、それぞれが持って帰ろうとしたが、万蔵は源六に「伯父さん、一晩戒名を貸してくれませんか。お通夜をしたいのです」、「それは良いことだ」。
 馬道に帰り、何人か集まり、ご飯粒を紙に付けて壁に貼りまして、下に机を置き、ロウソク、線香を立てシキビを飾り通夜です。夜も深まって友達を帰し、一人で戒名と話をしています。どうしたことか、ロウソクの炎が伸びて、戒名を灰にしてしまった。不思議なことも有るもんだと思い、明日に伯父さんの所に行こうと思った。

 「(ドンドンドン、戸を叩く音)万蔵さん、寝てますか」、「伯父さんですか、今2階から下りますから」、「スイマセン。大変なしくじりをしました。昨日藤兵衛さんが来て、戒名を貰ったのが、勝つのでは無くおいねさんのだったので、交換して欲しいと言うんだ。でも、お前に渡しているので、明日まで待って欲しいと言って、朝一番で届ける事になったんだ」、「そうですか。無いんです。おいねの戒名だとおもって通夜をして、『あの世で二人で仲良く暮らそうね』と言ったら、ロウソクの炎が伸びて戒名が燃えてしまったんです」、「その言葉を聞いたら、勝吉の戒名がヤケルのは当たり前だッ」。

下、完

 



ことば

講談から落語になった噺;講談師・邑井貞吉(むらい ていきち)師の持ちネタから円生が教えて貰った噺です。落語家で二代目か三代目の春風亭柳枝が、最初落語としてやっていたものを講談として邑井貞吉が持ちネタとしたものです。有るとき教えてあげるからヤリなさいと云うことで、点取りと言って、人名や地名が間違ってはいけないので書き残したものです。人情話ですからオチがありません。貞吉さんにオチはこの様に付けたいと云いましたら、「それは良いッ。是非おやんなさい」と言ってくださったのですが、昭和40年2月の邑井さんは86歳でお亡くなりになった。生前はこの噺やりませんでした。(円生談)

笑いの無い噺;前項でも言いましたが、この噺は講釈から来ていますから笑いがありません。上下合わせて、1時間30分掛かる大作です。本筋だけでも1時間近く掛かります。ここでは割愛していますが、噺のポイントポイントで笑いが起こるような、ホッとさせるような噺を挟んでいます。

新島原遊廓(しんしまばら ゆうかく);明治元年、ノルウェー・スウェーデン・スペインの三ヶ国と日本が条約を結び、築地・鉄砲洲に居留地を作りました。で、この近所に廓が有った方が良いだろうと云うことで、作ったのが新島原という廓です。これを新政府がこしらえるのは難しいので、家田弥兵衛と中田宗四郎の二名が願い人として、届け出ました。家田弥兵衛は吉原・中万字楼の主で、中田宗四郎は仲屋の主の連盟で、どうか廓を許して欲しいと届けましたが、前々から内々で決まっていましたから、即刻許可が下りました。大変繁盛したのですが、場所が京橋では江戸の中心地、これでは具合が悪いと明治4年許可取り消しとなってしまいました。移転料が5万円で花魁は吉原に引き取られ、この場所は新富町となりました。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の屋敷を潰し廓にしたのです。現在の中央区新富二丁目になります。(円生のマクラ)

  

 新島原夜桜之図、歌川芳虎、明治初期

 明治元年(1868)から約3年間、現新富町に130軒の遊郭と1700人の遊女がいる大規模な遊郭があった。居留地造成時に家田弥兵衛、中屋宗四郎の両名が5万円の冥加金を上納して、本多隠岐守・井伊掃部頭の屋敷跡に『新島原』と称する外国人向け遊郭を開いています。この遊郭は不人気で1871年(明治4年)には廃止になり、翌1872年、跡地には「新富座」が開場された。
 新島原遊郭は、四方を塀で囲み、仲ノ町と名づけた中央の大通りを灯籠で飾りたてるというように、新吉原町の形式をそのままとりいれたが、大門は木挽町(銀座)側ではなく居留地に接する入船側につくった。むろん外人客の到来を待ちうけようという魂胆からである。郭内に移転した遊女屋は、千住宿が十三軒、内藤新宿が五軒、粕壁宿が四軒、品川宿が三軒、板橋宿が三軒とあるように場末の遊女屋が多かった。
 しかし、外人客の安全を顧慮して大門際に番所を設け、出入する日本人客の武器をあらためるというものものしさがわざわいして、この新島原を訪れるのは新政府の役人や兵隊が多く、居留地の外人も自由な洋妾(ラシャメン)を好んだために当初の目算はまったく外れてしまった。明治四年七月には、にわかに新政府から取払いを命じられた。

新富座(しんとみざ);万治3年(1660)木挽町五丁目(現在の銀座六丁目)に創建された森田座を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。浅草の猿若町からここに移転し、明治5年に新富座として開場され、周囲に芝居茶屋も建ち並んで賑わったが、のちに新富座は関東大震災により焼失し、そのまま再建されることなく廃座となった。震災直前の大正11年(1922)の記録では、新富町は料理屋約10軒、待合約40軒、置屋約80軒を抱える三業地(花街)であり、劇場があることから新富芸者は櫓下芸妓として広く知られた。1930年ごろには、料亭は6軒、待合と置屋は60軒以上、芸妓は180名を数えたが、戦後廃れていった。
 右上図:三代目歌川廣重 画 『東京名所之內 第一の劇場新富座』(現在は京橋税務署が建つ)。

 

 「市川右団次東京新富座江乗込之図」 明治4年(1871)新富座開場

高崎(たかさき);現・群馬県高崎市の中核都市。高崎市は、広大な関東平野の北端に位置する、群馬県を代表する都市です。市の人口は37万人を超え、面積は459.16平方キロメートルに及びます。群馬県内では最大の人口を擁する都市。
 江戸時代には上州・高崎藩の城下町として、中山道六十九次の13番目の宿で、六十九次中4番目に規模が大きい宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いににぎわった。街道筋の田町、本町、新町(現:あら町=11番目の宿)などに市が立ち、その様子は「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われたほどである。鍛冶町には鍛冶職人が、鞘町には刀の鞘師が、白銀町には金銀細工師らが住み、当時の職人の町は今も町名として留めている。

熊谷(くまがや);円生は子供時分には”くまがい”と発音してたと言います。埼玉県熊谷市は、東京都心から50~70km圏に位置し、ほぼ平坦で荒川や利根川の水に恵まれた肥沃な大地と豊かな自然環境を有し、その区域は南北に約20km、東西に約14kmで、面積は159.82平方キロメートルです。また、可住地面積は県内第2位です。第65回日本統計年鑑によると、快晴日数は64日と日本一となっていますが、内陸的気候で夏は記録的に暑い。約20万人弱と埼玉県で9番目、県北では最大の人口を有します。
 江戸時代には、熊谷宿は中山道六十九次中8番目の宿場町で、また、明治初期には熊谷県の県庁所在地となり栄えていきます。

円生が噺の中で言うには、
 江戸から熊谷までは15里34丁有ったと言い、熊谷から高崎までは11里です。昔は一日の行程は10里(40km)が無理が無いと言われていた。ご婦人では7里(28km)が無理の無いところです。それ以上14里でも歩けたのですが、疲れてしまって翌日歩け無いのでは意味がありません。高崎から江戸までは26里ありました。江戸から急いでも2日掛かりで熊谷、そして翌日に高崎です。

忌中(きちゅう);近親に死者があって、忌(イミ)にこもる期間。特に死後49日間。特に通夜、葬儀中の家では玄関先にスダレを下げて、そこに忌中の札を貼ります。

正夢(まさゆめ);夢に見た通りのことが現実となる夢。その逆が逆夢(サカユメ)。おいねさんが死んでいなかったことでホッとして正夢でなかった事に安心します。

大見世(おおみせ);吉原遊廓の妓楼には大見世、中見世、小見世があって、大見世は格式最高級の見世です。見世は紅殻(べにがら)を塗った太い格子で通りと接しています。妓楼の入口を入ると細い格子が組まれていますが、これを籬(まがき)と言います。大見世では、総籬で全面が格子になっています。
 ここには、揚代金が二分以上の呼出(よびだし=上級の太夫、格子がいなくなって、現在トップランクになってしまった遊女)、昼三(ちゅうさん=呼出の下位で、昼の揚代が三分からきています)、附廻し(つけまわし=昼三の下位のランクで、揚代が二分)の遊女がいました。
右図:吉原遊廓「大見世之図」 江戸吉原図聚 三谷一馬画。惣籬の店構え。

中見世(ちゅうみせ);籬が半籬と言って籬の1/4位(上部1/2)が空いています。二分以上の遊女と二朱の遊女が混じっていたので、交じり見世とも言いました。
 小見世では籬が下半分だけしか有りません。ここは一分女郎が一人ぐらいで、あとは二朱女郎以下です。  他に河岸見世があり、局見世(つぼねみせ)と言い、時間で売っていました。ワンコース10分位で50~100文でしたが、”お直し”で、何倍かの料金になりました。

 注:1両の1/4が一分。一分の1/4が一朱です。一朱は現在の金額で約1万円。1文は16円位です。で、高いか安いか。おいねさんが大見世で下位だとしても3分位、中見世ではトップでしたから、2分位でしたでしょう。これは表向きの金額で、遊女に付いてくる新造・禿代、茶屋代、遣り手や若い衆、遊女への心付け、飲食をすれば飲食代、芸者・幇間代が別に付きます。職人辺りでしたら、瞬く間に財産を減らします。

 

左、半籬の中見世。 右、惣半籬の店構えの小見世。 江戸吉原図聚 三谷一馬画。
 中見世の前を狐のお面を被った「狐舞」は大晦日の行事で、この狐に抱きつかれた者は翌年妊娠すると言われ、座敷に現れると、遊女や禿は逃げ回った。

若い衆(わかいしゅう);江戸では”わかいし”、”わけいし”と発音します。若い者。妓夫。店番で、大見世では花魁道中で傘や提灯を持つ役で、客引きから、客の細々とした用をします。接客をこなすのが若い衆で、裏方の飯炊きや風呂番は雇い人です。 

鈴村という茶屋から大口屋の九重と言って上がって;妓楼に登楼するには二つの方法があった。
 ひとつは直に見世に行って、格子越しに女郎をお見立てし、若い衆に話をして上がるか、常連だったら黙って見世に入れば、若い衆が心得ているので、いつもの相方を呼んでくれる。
 二つ目は茶屋(引手茶屋)を通す方法で、大見世側では、費用が増す(高い)ので、全ての支払いは茶屋が責任を取るので安心して客を受け入れた。また、客側は無理を言えるし、見世に対して見栄が張れた。多くの大見世では茶屋を通した客で無ければ受け入れなかった。俗に一見の客は上がれなかった。
 おいねさんは、登楼するためのルートを教えてくれた事になります。

見世替え(みせがえ);通常レベルの低い、他の見世にトレードに出すこと。住み替え。

起請誓紙(きしょうせいし);口約束だけでは客は信じないので、好きで大事なお客に起請(起請文)を書いて渡した。熊野の誓詞の裏に年(年期)が開けたら一緒になると言う起請文を書いて渡した。落語「三枚起請」にその辺りの情景が詳しい。雛鶴も大量に渡していただろう。で、男はコロリと騙されてしまう。

日本橋小伝馬町(にほんばし こでんまちょう);番頭勝吉の店が有るところ。現・中央区日本橋小伝馬町。江戸時代には、単に小伝馬町と言っていた。江戸通り(国道6号線)に面し馬喰町と石町、本町に挟まれ商業地として賑わった所です。

馬道(うまみち);台東区浅草寺二天門を出たとこの南北に走る道路。
 「馬道」という町名は相当古くからあり、すでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣にあったのが北馬道町である。享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺門前街として発展したが、明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和9年(1934)さらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
  町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。
 
 台東区の案内板より。

通夜(つや);死者を葬る(告別式)前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。おつや。夜伽(ヨトギ)。夜通し死者の冥福を祈ること。
 仏教の通夜は故人の成仏を祈ることではなく、大夜(たいや)という故人の現世での最後の夜を共に過ごすために集まった親しい人々が、遺体を取り囲み故人の思い出話を語り合うことであった。

戒名(かいみょう);出家した修行僧が、仏門に入り戒律の世界に生きる証として与えられる名前です。現在では、在家でも仏教徒が亡くなると、寺院の僧侶によって戒名を授けられます。故人を浄土に導き成仏させるためと言われ、簡単に言えばあの世における名前と言う位置づけです。仏の弟子になる、という意味合いもあります。
また、浄土真宗では、「法名」が正式な名称であり、日蓮宗系では、「法号」が正式な名称です。
 寺院から戒名を授かるときは、半紙に名号を書いていただき、白木の位牌にその
紙を張ったり、直接書き出したりします。それをもって、本位牌を作ったり、墓石に彫刻したりします。燃やしてしまったり、無くしてしまっても大丈夫です。お寺さんで再発行して貰いましょう。なにせ、その時代は字が読めない人が大部分だったので、こんな間違いが起きたのでしょう。



                                                            2018年7月記

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