落語「明日ありと」の舞台を行く
   

 

 六代目三遊亭円窓の噺、「明日ありと」(あすありと)より


 

 「やァ~、大工さん。ご精が出ますな」、「あ~、ご隠居。褒められると、面目ねぇ」、「今日はその辺にして、もう、お上がりんなったら、どうですな?」、「いえ、まだ、片付けが、残ってますんで・・・、後片付けも仕事の内でして・・・。今日のことは今日の内にやっといたほうが、あとが楽ですんで」、「なかなか厳しいもんですな」、「大勢の仕事場でも、あっしゃ、上がるときゃァ、後片付けがちゃんと出来ているか、どうか、見回ってから、上がることにしてますんで。今日のことは今日の内にやるようになりましたんで、ヘェ」。
 「そうですか・・・。では、その片付けが終わったら、声をかけてくださいな。お茶をいれますから」。

 「旦那ッ。どうも、今日はこれで上がらせてもらいますッ。また、明日、伺いますんでッ」、「ご苦労さまでしたな。お茶をいれましょう。お上がんなさい」、「いえ、仕事着で汚れますんで・・・」、「そのようなことは気になさらないで。どうぞ」、「さいですか。じゃ、遠慮なく・・・」。
 「(奥へ)おいおい。支度をしておくれ。
 大工さん、今日は、あなたに教わりました。最前、あなたがおっしゃいましたな。『後片付けも、仕事の内』、『今日のことは、今日の内にやっておく』、私もそういうことを知らなかったわけじゃないのですが、歳をとりますと、疲れが先に出ましてな。ついつい、大事なことをおろそかにしてしまいます。今日は、あなたに教わりました」、「あっしは、そんな大それたことをしたわけじゃねぇんで・・・。亡くなった親方によく言われましたんで。あいすいません」。
 「以前、浅草の通覚寺の住職に、聞かされたことを思い出しました。大工さん。あなた、親鸞上人をご存じでしょう」、「しんらん…? 会えば、わかりますが・・・」、「これは恐れ入りますな。会えるもんなら、あたしもお会いしたいですな」、「『そいつは、まったく、知んらん』なんてぇと、笑われそうですね」。
 「面白いことをおっしゃる。真宗の開祖親鸞上人です。その親鸞上人が得度をお受けになったときのことです。親鸞上人は伯父に連れられて、京都の青蓮院にやってきました。百人一首にも選ばれてます、慈円僧正の剃刀で得度を受けるつもりでした。ところが、辺りはもうすっかり暗くなっておりました。
 『暗くなりましたから、あなたの得度は明日にしましょう』と、こう言われたときに、親鸞上人は、

  『明日ありと 思ふ心の 徒桜(あだざくら) 夜半に嵐の 吹かぬものかは』

と、こうおっしゃいました」、「あゝ、そうですか。やはり、手元が暗いと、剃刀で傷を付けますんで。そんときの、お呪(まじな)いですか」。
 「お呪いじゃありません。道の歌、と書きまして、道歌と申します」、「道歌? その歌はどういうことなんですか」、「あたしも深いことはわかりませんが、
  『明日ありと 思ふ心の 徒桜…』
 つまり、<明日があるから、まだいいや、と思うその心の甘えが、仇になりますよ・・・>とでもいいますかな。
  『夜半に嵐の 吹かぬものかは…』
  <今、咲き誇っている桜も、一夜の嵐に吹き飛ばされないとも限らないのですよ>ということでしょう。つまり、<今日のことは、今日の内にやってください>ということでしょうな。ここに、通覚寺で貰った法話帳がありますから、差し上げましょう。のっけに書いてございますから」、「そうですか・・・。すいません。頂戴します。なるほど、書いてありますね」、「つまり、<今日のことは、今日の内にやってくれ>って、催促だ」、「ま、そうですな」、「けど、それをがさつに催促しねぇで、歌でやるなんざ、親鸞さんは乙だね」、「そこで、暗い中、蝋燭の明かりを頼りに、やっと得度をすませた。ですから、後年。真宗の得度は、昼間、あえて、戸を閉め切って暗くして、蝋燭の明かりの中でするのを習わしとしたそうです。
 そのとき、得度した親鸞上人の歳です。おいくつだと、思いますか」、「ズバリ当てると、なんか、貰えますか?」、「なにか、欲しいものでもありますか」、「あっしはトロロが好きなんです」、「下ろしたのを麦飯にかける、麦トロという、あれですか?」、「この頃、そんなもんじゃ、もの足りませんで。トロロを下ろしたやつを湯船に入れましてね。そん中に首まで浸かって、洗いながらトロロをズーッとやるんです。トロロ風呂ッてやつで」、「こりゃ、驚きましたな」、「旦那、本気にしないでくださいよ。これ、洒落ですから・・・、なんにも要りません。欲を捨てて、歳を当てます。そういう歌を作ったんですから、二〇歳代じゃァ若すぎるな・・・。三〇代は忙しくて、歌どころじゃねぇだろう・・・。四〇代は他にやることはありそうだし、歌どころじゃねぇ・・・。五〇代は人付き合いで忙しいだろうし・・・。六〇代は足腰が弱くなって、歌どころじゃねぇし・・・。七〇代はそろそろボケが始まるし・・・」、「段々、歳をとりますな」、「わかりません。いくつです?」、「九つです」。
 「えッ?!」、「九つ」、「いくつと、九つです?」、「ただの九つ」、「たった九つで・・・、あの歌・・・? 嘘でしょう」、「そう伝えられております。ですから、真宗では得度は九つから受けられるのは、これから由来するのです」、「ほんとに、九歳で作ったんですかね~」、「まァ、実はこれには異説もありましてな。親鸞上人が前に聞かされた人さまの歌をその得度のとき、ふと、頭に浮かんで口から出ましたかな。あるいは、後世の者が真宗布教のために、作った歌かもしれません」。
 「家にも、餓鬼がいますが、あッ!」、「どうかしましたか?」、「ちょうど、九つだッ。でも、親鸞さんとは、えれぇ違ぇだ・・・。なんか気に食わねぇことがあると、親を脅かしてきましてね。ああいう結構な歌はとてもできませんやな」、「そうですか。それはまた、ほほえましいですな」、「他人だから、そんなこと言えるんですよ。脅かされるこっちの身になってください」。
 「それは、それとして。しかし、大工さんのなさってることは、親鸞上人の歌の通り。たいしたものです。実に、あたしは恥ずかしい。あなたに教わりました。あなたは親鸞上人の再来かもしれませんな」。
 「料理が出来ましたから、さ、有り合わせだが、一杯酒をやってください」、「こりゃ、すいません。あっしは、酒はまるっきり駄目なんで・・・」、「そうですか。お仕事柄、おやりになると思ってましたが・・・。では、ご飯を召し上がってくださいな。トロロを下ろしてあります。麦飯ではありませんが、やってください」、「すいません。よけいなことを言っちまって。じゃ、いただきます」。
 やっこさん、すっかりご馳走になって、屋敷を出ました。

 「おっかあッ。今、帰(けえ)ったッ」、「お帰り。今日は遅かったね」、「久しぶりに旦那がおいでになってさ。『まァ、いいから、いいから』ってんで。つい、長居しちまったよ。
 痛ぇッ。なんだって、こんなところィ 針箱を出しておくんだよッ」、「今、使ってたんだよ」、「使ったら、仕舞っておけよ」、「あ~、わかったよ。明日やるよ」、「なにを・・・? 明日やる・・・? そうはさせねぇぞ。『明日ありと・・・』」、「なんだい、急に神妙な顔をして・・・? 目が座ってきたね」、「『明日やる』って、それがいけねぇんだ。俺はそういうことをしねぇから、旦那に褒められて、御馳になったんだ。お前も片付けろよ」、「うるさいね~、まったく。これで、いいのかい」。
 「よし。じゃ、始めるぞ。『やァ、大工さん』」、「なんだい、いきなり。大工はお前さんだろう。あたしはその大工に騙された、バカな女」、「よけいなこと言うな。お前が大工でねぇと、話は進まねぇんだ。大工におなり」、「わかったよ。じゃァ、あたしは大工だよ」。
 「『今日は、あなたに襲われた』」、「およしよ。襲われたのはあたしのほうだよ。お前さんは口説き文句も知らないし、お金もないもんだから、暗がりでもって、いきなり、あたしを突き倒して・・・」、「いいんだよ、そんなことは。親鸞という人が得度に行ったときのことなんだ。お前、得度ってぇの、知ってるかい」、「知ってるよ。三河屋の小僧の徳どん」、「そうじゃねぇ。得度ッ。正式に坊さんになる儀式のことだ」、「あらッ、徳どんが坊さんになったのかい」、「そうじゃねぇんだ。親鸞さんがだよ。寺へやってきたときには、すっかり、辺りも暗くなってしまった。坊さんが、『得度は、明日にしましょう』と言ったとき、親鸞さんがなんと言ったと思う?」、「言うかい(空海)? あたしは空海てぇ人、知ってるよ」、「もういいよ。そのとき、親鸞さんは歌をやったな。道の歌。道歌ってんだ」、「道の歌なら、あたしだって、知ってるさ。『お江戸ォ日本橋 七つゥ立ちィ・・・』」、「それは、東海道の道だ。そうじゃねぇんだ。そうじゃねぇよ。こういうことも、あろうと、旦那から法話帳を貰ってある。見ろッ」、「あたしに、読ませるのかい。そりゃ、威張りすぎだよ。あたしは、べつに読みたくはないんだから。だいいち、聞きたくもない」、「うるせえッ。じゃ、読んで聞かせるぞ、いいか。
   『明日ありと 思ふ心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』
どうだ」、「ああ、聞いたことある。『今日のことは、今日の内にやっておきなさい』ってんだろう」、「そうだよ。よく知ってるな」、「あたしのお父つぁんがよく言ってたよ。こっちは小さい頃から、耳にタコができるほど聞かされたよ」、「親鸞さんの歌が通じて、その日の内にやってもらった。だから、真宗では未だに、得度式は、昼間、戸を閉め切って、暗い中でやるんだ」、「あら~、昼間っから…、閉め切って…? まァ、あたしたちも、最初はそうだったね、お前さん」。
 「なにを言ってんだ、お前は。そのとき、親鸞さんはいくつだったと思う。驚くな。九つだ」、「九つ・・・? いくつと九つ?」、「それみろ、驚いたろう。座ってても、たったの九つよ」、「九つで、そんな生意気な歌ができるかね」、「だから、天才なんだよ、親鸞さんは。確かに九つで、ちゃんと言ったらしいんだ。そんとき、思ったよ。うちにも、九つの餓鬼はいるけど、大変な違いだなって・・・。遊び放題、遊ぶが、そのあとを片付けるということをしねぇからな。いねぇのか、餓鬼は」、「ちょうど、表から帰ってきたよ」。

 「いつまで、外で遊んでんだ、金坊ッ。こっちィこいッ」、「あ~、いやがったね、トンカチッ」、「なんだ、トンカチッてぇのは」、「あ~、違った。お父つぁん、大工だから、つい、『トンカチ』と言っちゃうんだ。ほんとは、『トンチキ』と、言おうと思ったの」、「なお悪いやッ。そんなことより、お前は九つなんだから、しっかりしろよ。見ろ。お前が遊ぶんで出しっ放しにした物が、どっさり転がってるだろう。片付けておけッ」、「いいよ。どうせ、また、遊ぶんだもん」、「そんときは、また、出しゃいいんだ。だから、早く片付けろよ。今日のことは、今日の内にやるもんだッ。うるせぇ!つべこべ言うな。遊びに行くならもう帰ってくんな!」。
 「子供にやられて、どうすんだね。そんなことより、おまんま、どうするんだい」、「旦那のところで御馳んなったから、いいさ」、「なんだね。そんなら支度をするんじゃなかった。いえね、源さんから、お前さんの好きなトロロ芋を貰ったからさ」、「トロロを?!」、「そう」、「そうか。でも、今、腹が満腹だしな」、「なんだね、せっかく、貰ったのに。あたしだって、一緒に食べようと、小腹ァ空かして待ってたんだァな。一口でもいいから、おやりよ。麦飯も焚いたんだから~」、「いいよ。明日やるから」、「そうはさせないよ」、「なんだい。今度はお前の目が座ってきたね」、「明日ありと・・・ 思うトロロの・・・ 麦御飯・・・ 今にあたしが 食わぬものかは」。

 



ことば

■「明日ありと思う心の徒桜 夜半(よわ)に嵐(あらし)の吹かぬものかは」。「親鸞上人絵詞伝」より
 鎌倉初期の僧で、浄土真宗の開祖親鸞(しんらん。1173~1262)の作と伝わる和歌です。
 桜は明日もまだ美しく咲いているだろうと安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。明日はどうなるかわからない。という世の無常を説いた戒め。
 この言葉は親鸞聖人が九歳で得度を受ける際に詠ったと伝えられています。
 聖人が僧侶として生きることを願って比叡山の青蓮院(しょうれいいん)を訪れた際、夜遅かった為に慈円僧正から「夜も遅く疲れているだろうから得度式は明日にしてはどうか」と促されました。しかし、親鸞聖人は命について「明日がある」と思い込むことを、いつなんどき散ってしまうかもわからない桜にたとえ、夜に嵐が吹けばどんなに満開の桜でも散ってしまうと歌にしました。だから「明日」ではなく、命ある「今」仏教のお話を聞きたいと、その夜に得度を受けさせて頂いたのです。親鸞聖人が幼少の時、京都では戦乱や天災における飢饉、火災、地震が相次ぎ、人の死を目のあたりにしていました。そのような中で、聖人は美しい桜の姿を見て、命の無常を観じられたのではないでしょう。

 「範宴」(はんねん=親鸞の得度を終わったときの名)はまだ子供だったので相手の気持ちを読み切っていません。慈円僧正から「夜も遅く疲れているだろうから得度式は明日にしてはどうか」と促されました。この言葉を聞いて、和歌を以て、今日中にしてくれと迫った。が、相手の優しい心遣いが分からず、自分だけの狭い心で、今、得度をしてくれと迫った。相手だって、いろいろスケジュールが有ったのでしょうし、自分勝手な我が儘な押しかけ僧侶になってしまったと思います。他人の心が分かるようになるまでには、もう少し時間が掛かるでしょう。上から目線の親鸞に対して、その対応を下した僧侶の柔軟な心に感銘を受けます。私は・・・、そう思います。

親鸞上人(しんらん しょうにん);(1173~1262)。鎌倉初期の僧(右図)。浄土真宗の開祖。皇太后宮大進日野有範の長子。綽空・善信とも称した。慈円、のちに法然の弟子となる。1207年(承元1)念仏弾圧により越後に流され、この間、愚禿と自称して非僧非俗の生活に入る。のちの恵信尼を妻にしたのはこの頃とされる。11年(建暦1)赦免され、晩年に帰京するまで久しく常陸国稲田郷など関東にあって信心為本などの教義を以て伝道布教を行う。著「教行信証」、「唯信鈔文意」、「浄土文類聚抄」、「愚禿鈔」など。諡号(シゴウ)は見真大師。
 親鸞自身は、生涯にわたり自伝的な記述をした著書が少なく不明確な事柄が多い。
 親鸞の妻帯について、当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。 親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。 子孫は、現在の東本願寺や西本願寺の法主(門主・門首)が25親等に当たり、子孫の関係する寺院が各地にある。

 たんにしょう【歎異抄・歎異鈔】、親鸞の語録。1巻。弟子唯円の編といわれる。親鸞没後に起ってきた異義に対し、師の真意を伝えようとしたもの。蓮如によって禁書とされたが、明治以後広く読まれるようになった。
 『ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘(カンガ)ふるに、先師の口伝(クデン)の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふ。幸に有縁(ウエン)の知識に依らずば、いかでか易行(イギヨウ)の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々。

 きょうぎょうしんしょう【教行信証】、浄土真宗の教義の根本を述べた書。親鸞の撰。教・行・信・証・真仏土・仮身土の6巻から成る。浄土真宗で、仏陀の言教である「教」と、その言教に基づいた修行すなわち「行」と、その修行の功徳利益を信ずる「信」と、行と信とによって得る証果すなわち「証」をもって、四法という。1224年(元仁1)頃、初稿が成立。詳しくは「顕浄土真実教行証文類」。
 『窃(ヒソ)かにおもんみれば、難思(ナンジ)の弘誓(グゼイ)は難度海(ナンドカイ)を度(ド)する大船(ダイセン)、無碍(ムゲ)の光明は無明(ムミヨウ)の闇(アン)を破する恵日(エニチ)なり。しかれば則ち、浄邦(ジヨウホウ)縁熟(エンジユク)して調達(ジヨウダチ)・闍世(ジヤセ)をして、逆害(ギヤクガイ)を興(コウ)ぜしむ。浄業(ジヨウゴウ)機(キ)彰(アラ)はれて、釈迦、韋提(イダイ)をして安養(アンヨウ)を選ばしめたまへり。これ乃(スナワ)ち権化(ゴンケ)の仁(ニン)、済(ヒト)しく苦悩(クノウ)の群萠(グンモウ)を救済(クサイ)し、世雄(セオウ)の悲、正(マサ)しく逆謗(ギヤクホウ)闡提(センダイ)を恵まむと欲(オボ)す。かるがゆへに知(シ)んぬ、円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智(シヨウチ)、難信金剛の信楽(シンギヨウ)は、疑ひを除き徳を獲(エ)しむる真理なりと。
 しかれば凡小(ボンシヨウ)修(シユ)し易き真教(シンキヨウ)、愚鈍往(ユ)き易き捷径(セチケイ)なり。大聖(ダイシヨウ)の一代の教(キヨウ)、この徳海にしくなし。穢(エ)を捨て浄を忻(ネガ)ひ、行に迷(マド)ひ信に惑(マド)ひ、心昏(クラ)く識(サト)り寡(スクナ)く、悪(アク)重く障(サワ)り多きもの、ことに如来の発遣(ハチケン)を仰ぎ、必ず最勝の直道(ジキドウ)に帰(キ)して、専(モハ)らこの行に奉(ツカ)へ、ただこの信を崇(アガ)めよ。ああ弘誓(グゼイ)の強縁(ゴウエン)、多生にも値(モウア)ひがたく、真実(シンジチ)の浄信、億劫(オクコウ)にも獲(エ)がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁(シクエン)を慶(ヨロコ)べ。もしまたこのたび疑網(ギモウ)に覆蔽(フヘイ)せられば、更(カ)へてまた曠劫(コウゴウ)を逕歴(キヨウリヤク)せむ。誠(マコト)なるかな、摂取(シヨウシユ)不捨の真言、超世希有(ケウ)の正法(シヨウボウ)、聞思(モンシ)して遅慮することなかれ。

落語とお寺の相違点(類似点)、と言うよりお寺から出た言葉が多く残っています。その例をマクラより、
 落語の源泉は、どこにあるか。
 いろんな説がありますが、中で、「仏教の流れを汲んでいるんじゃないか」という説が有力ですね。
 あたしが座っている所、舞台ではありません。舞台というのは、『舞う台』と書きますから、歌舞伎の役者とか、舞踊家の立つ所。
 あたしの座っている所は、高座といいます。これは、我々の業界が考案したものではなく、なんと、お寺さんからきているんです。今でも、真宗の古いお寺にいきますと、保存されているところがあります。あたしも、一度、座らせてもらって、一席、噺を演ったことがあります。そこに、ありがたい坊さんが座りまして、信者を前にして説教節談をやったんだそうで。一段、高い所に座りますので、そこを高座といったんで。
 それが寄席のほうにも流れてきて、高座。
 それに、ありがたい坊さんが一席する前に、まだ、修業中の若い坊さんが出てきて、一席やったそうで。前に出てきて座ったので、それを前座といいました。本来、前座とは、説教をする修業中の若い坊さんのことをいったんだそうで。
 ご覧になって、わかるでしょう。演芸が変わるたびに、前座が出てきて、座布団をひっくり替えしてます。これを高座替えし。ついでに、傍らのメクリを替えます。これを「戒名を取り替える」なんて言います。
 あたしが着ている物に、羽織があります。これを楽屋の符丁で、達磨といいます。達磨大師の絵を思い浮かべてください。フワフワッとしたものをはおってますね。で、我々は、羽織を達磨といってます。
 落語という話芸は、扇子と手拭いを使うことが許されてます。
 この扇子は、符丁で『風』といいます。これは、こうして開いて扇ぐと、風が起こるから、というんでしょうが。この符丁はお寺さんでも使っておりました。
 それから、この手拭いです。符丁で曼陀羅(右図)といってます。まさに、お寺さんですね。密教の真言宗では、たいそう重要に扱ってます。多くは布です。一枚の布にお釈迦様の教えから端を発した宇宙のすべてが描かれているのが、曼陀羅。我々も一本の手拭い、つまり、一枚の布でいろんな物を表現します。
 「財布」になったり、「本」になったり「煙草入れ」になったりしますね。
 ですから、一枚の布がいろんな物を表現するということは、噺家の手拭いも、お寺さんの曼陀羅も同じだということで、曼陀羅という言葉も我々のほうに流れてきたんですね。
 そういうことで、落語の中には仏教を扱った噺が多くあります。

浅草の通覚寺(つうかくじ);真宗大谷派寺院の通覚寺。創建年代等は、数度の火災で書類を焼失してしまい不詳だといいますが、現存する寺院。台東区西浅草一丁目6-6で、東本願寺の東隣です。

真宗(しんしゅう);浄土真宗。親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』 が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。 親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。
 念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。 如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。しかし、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。 教義に関しては、宗派や宗教団体により解釈などが異なる。

得度(とくど);剃髪して仏門に入ること。出家すること。

 

 親鸞得度の時の様子。

京都の青蓮院(しょうれいいん);京都市東山区粟田口三条坊町。 治承5年(1181)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。
 青蓮院が最も隆盛を極めましたのは、平安末期から鎌倉時代に及ぶ、第三代門主慈円(慈鎮和尚、じちんかしょう、藤原兼実の弟)の時です。慈円は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡しました。また、日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」も残しております。 慈円は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈円門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。親鸞聖人の得度の折、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、境内北側にございます。
青蓮院ホームページより。
右、青蓮院(宸殿) お得度の間。

慈円僧正(じえんそうじょう);(久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。
 『小倉百人一首』では、95番目、「おほけなく うき世の 民(たみ)に おほふかな わがたつ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖」の歌で知られる。
 現代語訳・『身の程もわきまえないことだが、このつらい浮世を生きる民たちを包みこんでやろう。この比叡の山に住みはじめた私の、墨染めの袖で』。若き時代の慈円の作。

右:重要文化財 「慈円筆 懐紙」 奈良国立博物館蔵

法然上人(ほうねん しょうにん);出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
 『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
 親鸞聖人も、20年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現に仰ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠をされたのでした。そして、太子の夢告に導かれて、東山吉水の草庵に法然上人を訪ねられました。草庵には、上人の教えを聞こうと毎日庶民が群参していました。聖人もその一人となって百日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。

 

 国宝『法然上人行状絵図』巻六段三 法然上人、吉水の禅房で念仏の教えを説く。知恩院蔵。

道歌(どうか);道徳・訓誡の意を、わかりやすく詠んだ短歌。仏教や心学の精神を詠んだ教訓歌。

法話帳(ほうわちょう);仏法に関する話。説教。法談。を書いた冊子。

トロロ芋(とろろいも);(薯蕷芋・薯蕷藷)とろろ汁にするいもで、ヤマノイモ・ナガイモ・ツクネイモなど。とろろ汁は、ヤマノイモやツクネイモをすり、調味した汁を加えまぜたもの。東海道丸子宿(マリコノシユク)のものが古来有名。とろろ汁をかけためしを、多く麦飯を用いて「麦とろ」という。
 とろろ芋に含まれるシュウ酸カルシウムは長さ100μmほどの針状の結晶で、これがかゆみを起こす原因になっている。このため肌に付着してもカユイのに、湯船に入れて入るなんて考えられない。
 右図:歌川広重「東海道五十三次・鞠子」部分 (初版では「丸子」と表記)。

小腹(こばら);〔「こ」は接頭語〕 腹。また、腹に関するちょっとしたことにいう。 「 -がすく」 =ちょっと空腹になる。

麦飯(むぎめし);米に麦をまぜ、また、麦だけを炊いた飯。ばくはん。むぎいい。これにとろろ汁を掛けたものが麦とろ。



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