落語「源兵衛玉」の舞台を行く
   

 

 三代目林家染丸の噺、「源兵衛玉」(げんべいだま)より、江戸落語で「樟脳玉」。


 

 「八兵衛はん、こんにちわ」、「お~、喜ぃさんやないか、ま~こっち入り」、「せやけど何ぞ銭儲けないか?」、「お前は口が軽いさかいな~」、「いや、口は軽いけど尻は重いで」、「ゆわへんか。シッ、ほな話しょ~」。
 「も~ちょっと前へ寄り、こら絶対秘密やがな、お前な、隣り裏の源兵衛を知ってるか?」、「何じゃい、隣り裏の源兵衛ぐらい・・・」、「シ~ッ! 大きな声を出すねやないわいッ」。

 「源兵衛はな、元源吉と言うてな安堂寺橋の御祓筋(おはらいすじ)を東へ入った最上屋と言う質屋(ひちや)で丁稚奉公してた。今も源兵衛、あのと~り二枚目やが、小さいときにはそらクルクルッと可愛らしい子やった。そこに一つ違いのお嬢さんがあって、これがまた、えろ~源吉がお気に入りや。どこへ行くのんも源吉がお供や。そのうちに源吉が元服をして源兵衛となったんやが、遠くて近きは男女の道や、末は夫婦(みょ~と)と約束する仲に、さぁ、朋輩(ほうばい)の中で嫉(そね)むやつがあってチョッと旦那に告げ口しよった。可哀想に『うちの娘にケガ、過ちがあってはいかん』と言うので源兵衛、その日からお払い箱になってしもた。
 で、オッサンとこへ来て話をすると、このオッサンがしっかりもんで、『そんなわけの分からん主人のところで、いつまで奉公してても末始終(すえしじゅ~)の見込みがない。それよりも、お前も長いこと質屋で奉公してたんやから、古着には目が利くやろ』と言うので、オッサンが資本金を出してこの裏店(うらだな)を探して、古着の商人(あきんど)になったんや、ブローカーやな。ま~、源兵衛のほうはこれで納まったが、納まらんのはお嬢さんや。
 愛しぃ源兵衛の姿が見えん、誰に聞ぃても『知らん、知らん』や。そのうちに出入りの洗濯屋(せんだくや)が、ちょっと娘はんに密告しよったんやがな。今どきの娘は油断がならんな~、家人の寝静まるのを待って母親のヘソクリの金をば懐入れて、裏木戸開けてスッと抜け出して、昼間聞いといた源兵衛の家の表へ来て、表戸を『(トントン)ちょっと開けと~くれ』、何事ならんと開けてみると、夢にも忘れたことのない嬢(いと)はん。『あぁ、あんたは嬢はん』、『お前は源兵衛』互いにしっかと擁(いだ)き合い、普通ならここで一晩泊めるところやけど、物堅い源兵衛、その足でオッサンとこへ連れて来た。オッサンが懇々と諭(さと)して嫌がってるお嬢さんを連れて、夜の明けるのを待って最上屋へやって来た。最上屋では、裏木戸が開いてお嬢さんの姿が見えん、上を下への大騒動。そこへ、親っさん入って来た『へぃ、このたびは無傷でお返しいたします。しかしながら、水の出ばなでございます、これから先の責任はよ~持ちまへん。新聞の三面記事は嫌だっせ』、ポ~ンと下駄預けて帰った。
 さ~、源兵衛のほうはともかくも、娘はん『一目見てから、いや増す想い』と言うやっちゃ。想いが思い重なって、ドッと病の床に着いた。で、明日をも知れんと言う日になって、猪飼野(いかいの)へ帰ってる乳母(おんば)を呼び戻して聞かしてみると『源兵衛と添わしてくれなんだら死んでしまう』。そこで、人をもって養子にと迎えに来たんやが、オッサンがそれしっかりもんやろが、『養子にはよ~お上げ申しまへんが、嫁にならもろ~てお上げ申します』。何と言われても娘の命には代えられんわ、七荷(ひちか)の荷(に)いをば三荷に縮めて、黄道吉日(こおどうきちじつ)を選んで、この裏店へお嬢さんが嫁入りして来た。来た当座は、端(はた)の見る目も羨むばかりの仲やったんやが、好事魔多しとか言うて、わずか十日の患いで、その嫁はんがコロッとあの世へ旅立ちをしてしもた。
 それからちょ~ど、今日が初七日。も~源兵衛、明けても暮れても仏壇の前で念仏三昧で日を暮らしてよるさかい、今夜二人でそこへ幽霊に行こやないか」。
 「うわぁ~ッ、こらオモロイ。行ったろ、行ったろ、わい、いたってそんなこと好っきゃねん。お岩はんのカツラもあるし」、「お岩はんのカツラ要らんねや、樟脳(しょ~の~)が一個あったらえ~ねや」、「樟脳まだ、食たことない」、「食ぅもんと違うやないかい。そ~、箪笥とか長持ちに入れる」、「あ~、あのおかしい臭いのする」、「そーや、あれ真ん中へ穴を開けて針金通して、先へヒモを付けんねん。で、天窓からこいつをこ~下ろすねん。その樟脳はな、マッチで火をつけるとボ~ッと青い火が出るやろが、それをば人魂(ひとだま)に見せかけて天窓から下ろして、わいがその嫁はんの声色使うがな。『源兵衛はん、迷~たわいなぁ』、『何に迷~た?』と言いよったら『衣類に迷いました。わたしの衣類、全部お寺へ上げと~くれ。それもあんたの手ではいかん、隣りの八兵衛はんを頼んで、上げと~くれ』と、約束して帰るがな。正直もんの源兵衛や、明けの日みな衣装うちへ持ち込みよるやろ。さぁ、グッと睨んだところで、ま、十万円は堅いなぁ。折半でいったろやないか。お前に五万円やろやないか。幽霊には知ってのとおり太鼓が付きもんや、お前ちょっと太鼓が打てるやろ、お前とこ太鼓のえーのんあったやろ、あれ持って来い、えーか、晩になったら出て来い」、「ふ~ん、さいならッ」。

 夜になるのを待ちかねてやって来よったんで。

 「(トントン、大声で)ちょっとお開けぇ~ッ!(トントン・トントン)ボツボツ行きまひょか~ッ!」、「こっち入れちゅうのに、どアホッ。ホンマにこのガキは底抜けのアホやなー。丑三つ刻までそこへ寝ぇ。時間がきたら起こしたるよってに、そこへ寝ぇ」、「いや、眠とない」、「眠との~ても寝とくねや」。
 アホはしゃべりくたぶれて寝てしまいました。片一方は胸に一物、いろいろの用意をいたしております。やがて世間はワラ灰に水でも打ったよおにシシラシ~ン、柱時計がチ~ン。

 「よ~寝とんな~、おい、喜ぃ公」、「グォ~ッ」、「おいッ、起きんかい」。
 「その太鼓持って、先、表出ー」、「慌てさしないな」、「早よ来い、早よ来いっちゅうねん。なッ、おら昼間からちゃんと段取りはした~んねや」。
 ゴミ箱をば足場にいたしまして、身の軽い八兵衛、垂木(たるき)に手をかけると車返りでポイ~ッ。

 「あッ、八兵衛はんいてへん、(大声で)八兵衛はん、八兵衛はん?」、「シ~ッ、喜ぃ公ここや、ここやッ。シ~ッ、大きな声を出すねやないわい。さ~えぇか、このヒモの先へその太鼓の環を括れ、さ~、え~か、そのゴミ箱のうえ上がれ」、「(バリバリッ・ベリバリッ)あたたッ」、「音をさすねやないがな、早よ来い」、「天窓から、源兵衛がいるか覗いて見い」、「拝んでよる、拝んでよる」、「さ~火ーつけるぞ、太鼓打て。太鼓を打てっちゅうねん」、「太鼓、打とか?(♪ドドツク・ドンドン)」、「こらッ(ベシッ)」、「い、痛いッ」、「底抜けのアホやなぁ。幽霊の太鼓に「♪ドドツク・ドン」てあんのんか? ほな幽霊が『♪よいとさのさ~』踊って出んならん、ダアホ。ホンマにこのガキは」、「打ち合わせせんといてから殴ってから、お前が悪いか、わいが悪いか、いっぺん下の源兵衛に聞いてもらうわ」、「分かった分かった、幽霊の太鼓っちゅうのはな『♪ドロン・ドロドロドロドロ・・・』といくねや」。
 (下座から、本格的なドロドロと太鼓が入る)
 「源兵衛さ~ん、迷おたわいなぁ~」、「こ~して明けても暮れても念仏三昧で日を暮らしてるのに・・・」、「わたしの衣類全部、お寺へ上げとくれ。それも隣りの八兵衛はん頼んで、上げと~くれ。しかと言葉を誓こ~たぞえぇ~」。

 そのまま帰りました。明けの朝、大きな風呂敷包みを背た源兵衛が、
 「お早よおさんでおます」、「源兵衛はん、今日からお仕事でっか?」、「せやおまへんねん。夕べ、家内が幽霊になって出ました」、「そら、あんたの気ーの迷いや」、「いや、せやおまへんねん、確かにこの目で人魂見ました。で、女房の声も耳に入っとります。ひとつこれ、お寺へ納めてもらいと~まんねやが・・・」、「さよかぁ~。なぁ、何ぼ大店のお嬢さんでも女はおんな、衣類に気が残りまんねやな~。よろしおます、わたしも供養になるこっちゃ、手っ伝(てった)わしてもらいましょ、そこへ下ろしといとくなはれ。お寺にさっそくな、わたいこれ納めさしてもらいます」、「それと、まだうちにはなぁ、雛道具が一式おまんねや。この冠なんかも金ムクや言ぅてましたが、あんなんにまた気い残してたらいかんさかい、
一緒に納めてしもたらと思いまんねやが、どんなこってっしゃろ?」、「そらそのほーがねぇ、スッパリしてよろしいやないか」、「長持に入ってまんのんで手ぇ、貸してもらえまへんやろか?」、「よろしおま、お安いこってす」。

 八兵衛と源兵衛が連れ立って、源兵衛の家へまいりまして、この長持のフタをば源兵衛がこ~上げて、
 「ああぁ~ッ」、「どないしはったんや?」、「この中に、女房が入ってます」、「そんなこと言いなはんねん?」、「いえ、人魂の匂いがしとります」。 

 



ことば

この噺は、「源兵衛玉(げんべえだま)」という上方落語で、三代目林家染丸が十八番とした。東京では「樟脳玉」という演目で演じられている。

安堂寺橋(あんどうじばし);長堀の北を東西に貫く安堂寺橋通り一帯(南船場と呼ばれる)、古くから金物商が多く集まっていた。安堂寺橋は、大阪市の東横堀川に架かる橋。 大阪市中央区松屋町住吉および松屋町と南船場1丁目の間を結んでいる。橋の上を阪神高速1号環状線が通過している。
 江戸時代初期には架橋されていたとも言われ、安堂寺橋通は大坂と奈良を最短距離で結ぶ暗越奈良街道に接続する重要な道筋として栄えた。清水谷屋敷を横断し、玉造(町人地)の南縁を経て、東成郡中道村に至るまで人家が連続し、事実上の大坂の東玄関となっていた。橋の東詰は東堀の材木浜で、材木をはじめ竹や竹皮の取引も行われていた。橋の西詰は南船場の安堂寺町(もともと内安堂寺町だった現在の安堂寺町とは異なる)につながり、金物問屋や砂糖商の密集する町であった。商人が密集し人の往来が盛んな場所であったが、落語の演目の一つである「まんじゅうこわい」に登場するように、自殺の名所として悪名高い場所でもあった。

御祓筋(おはらいすじ);大阪市中央区農人橋1丁目、2丁目を分ける南北の通りが御祓筋、旧熊野街道にあたる。

元服(げんぷく);男子が成人になったことを示し祝う儀式。髪型・服装を改め、頭に冠を加える。年齢は11~17歳ごろが多く、幼名を廃し命名・叙位のことがある。武家では冠でなく烏帽子を着け烏帽子名に改める。16世紀ごろから庶民では前髪を剃ることに代る。女子では髪上(カミアゲ)・初笄(ウイコウガイ)・裳着(モギ)・鬢(ビン)そぎがこれに当る。首服。冠礼。加冠。初冠(ウイコウブリ)。御冠(ミコウブリ)。冠(コウブリ)。

朋輩(ほうばい);同じ主人や師に仕える同僚。転じて、仲間。友達。

お払い箱;神棚の大神宮様は毎年暮れに、神官が各家庭を回って、お祓いとして大神宮様のお札を取り替えに来て、厄除けの祈祷をした。また、回収したお札を入れる箱をお祓い箱と言い、社員のクビ切ることを”お祓い箱”というのは、ここから来ています。

末始終(すえしじゅう);将来は。最後の結末は。将来ずっと。行く末長く。

裏店(うらだな);裏通りに面して建てた家、店。反対語:表店(おもてだな)。

物堅い(ものがたい);物事につつしみ深く律儀である。謹直である。

水の出ばな;(出水の初めの意) 最初は勢いがよいが、次第に衰える物事のたとえ。また、勢いが盛んでおさえきれないことのたとえ。やがて大事に・・・。

三面記事(さんめんきじ);新聞の社会面の記事。雑事件の報道記事。「事件にお嬢さんの名が載っても関知しませんよ」と。

猪飼野(いかいの);大阪府大阪市東成区・生野区にまたがる、平野川旧河道右岸一帯の地域名称。 旧東成郡鶴橋町の大字のひとつで、住居表示の実施(1973年)前には猪飼野大通・猪飼野西・猪飼野中・猪飼野東の町名があった。現在の東成区玉津・大今里西の各一部、生野区中川西の全域および鶴橋・桃谷・勝山北・勝山南・舎利寺・中川・田島の各一部に当たる。現在、市道内環状線、近鉄電車ガード下に「猪飼野橋」交差点の名称が見える。

養子(ようし);実子ではなく、養子縁組によって子となった者。

七荷(ひちか)の荷をば三荷に縮めて;一荷は天秤棒で前後ひと組。七組の道具を三組にまとめる。嫁入り道具を小さくまとめる。

黄道吉日(こうどうきちにつ);陰陽道(おんようどう)で、何事を行うにも吉とする日。

好事魔多し(こうじ まおおし);よいこと、うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすいものである。

初七日(しょなのか);人の死後、7日目にあたる日。仏事を営む。しょしちにち。しょなぬか。

樟脳(しょうのう);分子式 C10H16O  無色半透明の光沢ある結晶で、特異の芳香をもつ。水には溶解せず、アルコール・エーテルなどに溶解。クスノキの幹・根・葉を蒸留し、その液を冷却すると結晶が析出する。精製するには再び昇華させる。カンフル(カンフル剤)。血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用、鎮痒作用、清涼感をあたえる作用などがあるために、主にかゆみどめ、リップクリーム、湿布薬など外用医薬品の成分として使用されている。また人形や衣服の防虫剤として、またゴキブリ・ムカデ・鼠などを避ける用途に、香料の成分また防腐剤・花火の添加剤としても使用されている。 樟脳は皮膚から容易に吸収され、そのときにメントールと同じような清涼感をもたらし、わずかに局部麻酔のような働きがある。しかし、飲み込んだ場合には有毒。
 樟脳を蒸留・分取した残余の精油を樟脳油と言い、帯黄色ないし帯褐色。これをさらに分留して白油・赤油・藍油を製する。白油は防臭・殺虫用、赤油は石鹸香料・サフロール製造原料、藍油は防臭・殺虫などに用いる。

樟脳玉長太郎玉。粉末樟脳を色を付けて玉状にしたもの。昔は、防虫剤として樟脳を使っていたがナフタリン(発がん性があるので現在使われていない)に置き換えられた。固形ではなく粒状だったので、そんな樟脳を玉にして、縁日で売っていた。水に浮かべて点火しても消えたり熱くなったりせず、また、青白い光を発し手中で点火しても転がしていれば熱くならず、明治頃まで子供の玩具にされた。

樟脳火(しょうのうび)=樟脳玉。樟脳を燃やして生じさせる炎。歌舞伎で焼酎火を使う以前、狐火などに用いた。

お岩はん(おいわさん);「四谷怪談」の女主人公の名。貞享年間(1684年〜1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてしまった。その事を知ったお岩は発狂した後に失踪。その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者が次々と非業の最期を遂げた。田宮家滅亡後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門という人物が越し、その後正徳5年(1715年)に山浦甚平なる人物が越してきたところ、奇怪な事件がおきたので自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧進して追善仏事を行ったところ怪異がやんだという。
 四谷怪談は元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。
 右、田宮神社の分社が中央区新川2-25-13もと田宮家屋敷内に有ります。

人魂(ひとだま);夜間に空中を浮遊する青白い火の玉。古来、死人のからだから離れた魂といわれる。

天窓(てんまど);あかりをとり、または煙を排出させるために屋根にあけた窓。あかりまど。ひきまど。

 

 写真:「天窓」。長屋のかまどの上辺りに開いた窓です。深川江戸資料館の実物大の建物。

初午(はつうま);2月の初の午の日。京都の伏見稲荷大社の神が降りた日がこの日であったといい、全国で稲荷社を祭る。この日を蚕や牛馬の祭日とする風習もある。初午の稲荷祭りに招かれた子供たちが太鼓を打ちながら前日から町中を練り歩いたという。
  

 初午で、子供達が太鼓を打ち鳴らして遊んでいます。 左:「初午」絵本小倉錦より。右:「風流四季歌仙」春信画

丑三つ(うしみつ);十二支による時刻表示。子(ね)の刻は23~1時、丑(うし)の刻は1~3時、丑の刻を四等分した三番目の頃、2時から2時半。3時~3時半説は間違い。

ワラ灰に水でも打ったよおにシシラシ~ン;上方的な恐ろしい時間の表現で、らしいイイ表現方法です。東京ではあまり使われませんが、一般的には、「草木も眠る丑三つ時」とか「屋の棟も三寸下がるとき」とか言われます。どちらにしても、人も寝静まり、木も草も家も眠りに入り、幽霊が一番出やすい時刻です。
 小話に、幽霊が昼間出て来たので、「時間が違う」と言うと、「だって、夜は恐いんだもの」。可愛い幽霊です。

『♪よいとさのさ~』踊って;上方では祭りの屋台や御輿の掛け声、祭り唄に使われる掛け声。ウキウキする様な掛け声を幽霊の出に使うなんて・・・。

垂木(たるき);屋根板を支えるために棟木から軒桁に架け渡す長い材。はえき。たりき。

車返り;とんぼ返り。

衣類全部、お寺へ納める;亡くなった死者がその物へのこだわりが強い品物は、お寺に納めてその厄を払ってもらうとか、除霊をしてもらうとかします。例えば、明暦の大火、俗に振り袖火事とは、
 浅草の大増屋十右衛門の娘に、十六になるおきくがいた。上野へ花見に紫縮緬(ちりめん)の振り袖を着て出掛け、道で出会った若衆に一目惚れ。それが元で床に伏して病死した。当時、若い娘が死んだときはその振り袖を寺へ納めるのが習慣だから、この紫縮緬も菩提寺の本郷丸山本妙寺に納められた。それが古物屋に出て別な十六才の娘が買い、程なく病死。その後、また別な十六才の質屋の娘が質流れになった紫縮緬の振り袖を着たところこれも病死。3人とも、菩提寺は同じで、葬式も3年続いて正月16日。不思議な運命を恐れた親たちが集まって、供養をして振り袖を焼き捨てようとすると、一陣の風が起こって、振り袖は天高く舞い上がり・・・。それが元で大火になった。
 落語「二番煎じ」より孫引き。

雛道具が一式(ひなどうぐがいっしき);雛人形に種々の調度などを供えて飾る道具一式。平安時代から貴族の子女の遊び。ひなあそび。片づけられて長持ちや箱に収められた雛祭り道具一式。

長持(ながもち);衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする、長方形で蓋のある大形の箱。江戸時代以降さかんに使われた。長持をかつぐ竿を長持竿と言った。その為数える単位を『竿』と言った。一竿、二竿・・・。
右図:熈代照覧より、長持ちを担ぐ。 



                                                            2018年8月記

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