落語「亀田鵬斎」の舞台を行く
   

 

 柳家さん生の噺、「亀田鵬斎」(かめだほうさい) 原題「鵬斎とおでんや」より


 

 下谷金杉の裏長屋に生んでいた亀田鵬斎という方がいました。書家であったが、名人気質があって気にいらないと書を書かないし、気にいれば金額のことなど無視して書いた。

  孫が行方不明になって大騒ぎをしています。
 「御免下さいまし。ごめんください。こちらが亀田鵬斎さん宅でしょうか」、「はい、はい、手前です」、「私はおでん燗酒を商っている平次と申しますが、お宅のお孫さんではありませんか。屋台に寝ています」、「婆さんや、疲れたんだろうから、そっと寝かせてあげなさい。かどわかしでは無いかと大騒ぎしてました」、「吉原田んぼで仕込みしていましたら、子供がワァ~っと泣きじゃくっていたのが、あの子です。色々聞いたら亀田鵬斎とだけ分かって、聞きながらやっとここが分かりました」、「孫が見付かった身祝いに何か差し上げたいが・・・。この生活では・・・」、「そんな事は良いんです」、「そうはいきません」、「子供が泣いていたから連れてきただけ。この汚い家に何も無いのは分かります」、「壊れかかった屋台はお前さんの物か」、「壊れ掛かったとは怒りますよ。これで仕事をしているんです」。
 考えたあげく、屋台の看板になる小障子を外し奥に持って行ってしまった。しばらくして小障子を抱えてきて、行灯に火を入れて小障子をはめ込んだ。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。「先生が書いたの。看板屋?貰って良いの」、「お持ち下さい」。

 平次がいつものように吉原田んぼで仕事をしていると、五十年配の大店の旦那然とした御客が来た。「いらっしゃい。何を・・・」、「寒くなったので、熱燗を一本。吉原を久しぶりに冷やかしてきたんだ。冷えたときには熱燗で身体の中から温めるのが一番。クゥ~、クゥ~、クゥ~、ファ~。・・・チョッと聞くが、お前さんの名前は平次さんかぃ」、「どうして判るんですか」、「ここに書いてある。鵬斎として落款が押してある。これは亀田鵬斎かぃ」、「そうですよ」、「知っているのかぃ」、「知っています」、「私は屋台で酒は飲んだことが無いんだ。この字は、『飲みなさいッ』という字だ。ここに鵬斎の書が有るなんて・・・、目の保養をさせて貰いました」、御客は1両を置いてお釣りも取らず、小障子を持って行ってしまった。

 「こんにちは。私は、おでん燗酒は売っていますが、小障子は売っていません。この1両は先生の物ですからお渡しします」、「アレはお前さんにやった物だ。1両はお前さんの物だ」、お互いに譲り合って、話は先に進まない。「では、この1両は預かっておく。新しい小障子を持って来なさい」。同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書いて落款が押してあった。

 半月ほどたった晩に若い武士が店にやって来た。「亀田鵬斎が書いた看板を掲げた店が有ると聞いたが・・・」、「これが亀田鵬斎が書いた看板なんです」、「そうか。ここに5両置く。小障子は貰っていく」、「チョッと、小障子持って行っちゃいけません」。
 「先生、小障子持って行かれました。5両は貴方の物ですから、ここに置きます。おでんも食べず、燗酒も飲まず5両置いて小障子を持って行っちゃったんです」、「分かった。5両は預かっておく。小障子を持って来なさい」。前回と同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。

 「殿お呼びですか」、「見て見ろ、経治屋に軸装にして貰った。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』、良い書だろう。他には無いぞ。酒の支度をしろ。鵬斎が言っている。飲めと」。
 「お客さまです」、「黒田か、こっちに入れ。良いだろう、この書」、「我が殿が2000両用意しているから、譲って貰えと言っています」、「バカモン。この書は他には無いんだ。譲れん」。
 この黒田がお屋敷に帰ってこの話をすると、「この屋台は必ず何処かに出ているはずだ。探せッ」。
 「鵬斎書の小障子がはめてある屋台が見付かりました」。若侍を集めて、この屋台の周りを取り囲み、号令一下屋台を引っ張って持って行ってしまった。25両の金を置いて行った。

 「御免下さいまし」、「どうした?」、「25両で屋台をやられました」、「平次さん、歳は幾つになる。五十か。屋台では身体がキツいであろう。店を持たぬか?足して31両有る」、「その金は借りるので、少しずつ返していきます。そうですね。生まれが四谷ですから、四谷で豆腐屋でも始めましょう」、「店が出来たら、わしが『豆腐屋 平次』と書いてあげよう」、
「それには及びません。それでは家が無くなっちゃう」。

 



ことば

亀田鵬斎(かめだほうさい);(宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。
 父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であった。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。
 鵬斎(右肖像画)は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。
 鵬斎は豪放磊落(ごうほうらいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。

 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。
 享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。
 文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。
 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。
  「鵬斎は越後がえりで字がくねり」 川柳
良寛より懐素(かいそ=唐の草書の大家)に大きく影響を受けた。
 右書:足立区立郷土博物館所蔵 一行書「酔い飽きて高眠するは真の事業なり」。

 鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。
 晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年七十五。称福寺(台東区今戸2丁目5−4。浄土真宗本願寺派寺院)に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。
 ウイキペディアより

 「詩書屏風」 亀田鵬斎書 東京国立博物館展示 個人蔵 最晩年の書です。

藤田本草堂;藤田欣哉。この噺の原作者です。「鵬斎とおでんや」が原題です。「本草堂江戸噺」(二十四編)と「続本草堂江戸噺」(十九編)、「本草堂散録」(五編)、 これらの作品を自由に落語の高座で演じてほしいと書かれており、安心して高座へ上げられます。
 昭和48年に創設された富久寄席の顧問、藤田本草堂(84)。 会員、風羅坊遊行(70):(ふうらぼうゆぎょう)。 桐楽亭駝楽(75):(どうらくていだらく)。 今柳亭波舟(59):(きんりゅうていはしゅう)。 鹿倉亭扇喬(58):(かぐらやせんきょう)。 の各師です。(年齢)は存命されているとした2018年現在の年令。資料では、平成16年(2004)の5月7日に、100回目記念の富久寄席を深川江戸資料館ホールでやっている記録があります。また、【荒川区・ムーブ町屋】で「第53回本草堂江戸噺」/2016年5月29日(日) が開かれています。
 この噺、「鵬斎とおでん屋」 は、 理路整然とした作りは、落語と言うより講談の趣。作者の几帳面な性格が表れていて面白い。 色々な人の手を経て、柳家さん生の口演になっているのだが、素枯て軽妙ないい噺になっている。(社会人落語家・恋歌師記)

 原話の「鵬斎とおでん屋」はここに有ります。

柳家 さん生(やなぎや さんしょうしょう);(1957年3月7日 - )現61歳。落語協会所属の落語家。富山県富山市出身。本名は杉江正嗣(すぎえ まさつぐ)。
 1957年、富山県富山市西町に生まれる。1975年、富山県立富山東高等学校を卒業する。1977年、日本大学藝術学部を中退し、同年10月に柳家小さん門下三代目柳家小満んに入門する。前座名は、小勇。 1982年、二つ目に昇進。1993年、真打に昇進し、さん生に改名する。趣味は、自転車(ロードレーサー)、お酒、音楽、映画鑑賞、俳句など。

おでん;室町時代に流行した「豆腐田楽」。その後、進化を続けたおでんは、江戸時代にはファストフードとして江戸庶民に愛され、やがて煮込みおでんへと変化。さらに屋台や居酒屋で食べる料理から家庭で食べる料理へ。そうして、おでんは現代の定番料理となったのです。
 おでんのルーツは、拍子木型に切った豆腐に竹串を打って焼いた「田楽」で、語源はこの「田楽」の女房言葉と言われています。女房言葉とは、宮中などに仕える女房が使用した言葉で、田楽に「お」をつけて丁寧にし、楽を省略して「おでん」となったようです。 「田楽」とは元来、笛や太鼓のリズムに合わせ舞った田植え時の豊穣祈願の楽舞。拍子木型に切った豆腐に串を打って焼く、その形が田楽舞に似ていることから田楽の名がつきました。
 豆腐田楽は、江戸期に発刊された豆腐を題材にした料理本『豆腐百珍』(1782年)にも数々紹介されています。また豆腐田楽を調理している美人画にあるように人気を得ていたことが読みとれます。うどん屋・鰻屋・団子屋・そば屋などが現れるのと並行して、田楽の種類も豆腐・ナス・里いも・こんにゃく・魚と増えていきます。

(左図)美人画に長けた西川祐信が1723年に出版した『百人女郎品定』の豆腐茶屋(国立国会図書館蔵)
(右図)『豆腐百珍』(国立国会図書館蔵)

 一方、大坂では、こんにゃくを串に刺し、みそをつけて食べる「こんにゃく田楽」が供されます。このことは『浪速の風』(1856年)に「この地にてもこんにゃくの田楽をおしなべておでんという」という記載があります。
 江戸期の風俗に関する当時の百科事典とも言える見聞録『守貞謾稿』(1837年)の振り売りの欄に「上燗オデン」が出てきます。
 今、私たちが「おでんといえば熱燗」と思い浮かべるのは、江戸期の行商人、“振り売り”によるところが大きいのではないでしょうか。 おでんの振り売りは、江戸期の事件を題材とした歌舞伎で、河竹黙阿弥作の「四千両小判梅葉(1885年、千歳座初演)」にも登場します。

(左図)「四千両小判梅葉(1885年、千歳座初演)」日本芸術文化振興会蔵(1920年)
(右図)『守貞謾稿』(国立国会図書館蔵)

 豆腐田楽やこんにゃく田楽は人気の料理となったわけですが、いわゆる現在の煮込みおでんは、いつ頃登場したのでしょう。これには二つの説があります。
 一つは江戸後期に近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになり、醤油味の煮込みおでんが生まれたという説。もう一つは、松下幸子氏などによる、江戸期には煮込みおでんがなかったという説です。  
 千葉大名誉教授・松下幸子氏の説
 多種類の材料を、調味した汁で煮込む「煮込みおでん」。松下さんは、おでんに関する資料を精査する限り、江戸時代にこのスタイルの煮込みおでんがあったとする確証は得られないと言います。書物に「煮込みおでん」とある場合も、串に刺したこんにゃくや里いもを湯で煮て、みそだれを塗ったもの。「焼きおでん(豆腐田楽)」に対しての「煮込みおでん(こんにゃく)」表記であると。おでん屋が登場する歌舞伎の「四千両小判梅葉」も、おでんはこんにゃくや里いもで、呼び声「おでん燗酒、甘いと辛い」の「甘いと辛い」は、選べるみそだれ2種のこと。また、江戸時代の川柳「どぶろくの尻をおでんがあっためる」も、こんにゃくなどの入っている湯鍋に徳利を刺してお燗をしたのだろうと分析します。

 1887年(明治20年)に創業した、おでん専門店「呑喜」(東京・本郷)の創業者は、汁気の少ない当時のおでんを汁気タップリに煮込んで売り出しました。近くに東京帝国大学(現東京大学)があり、にぎわったといいます。 明治期に汁気が多いおでんに進化し、それが大正期に関西に伝わったとされています。東京の料理人によって大阪に持ち込まれた煮込みおでんは、みそだれのおでん(田楽)と区別して「関東煮」(かんとうだき、かんとだき)と呼ばれ、さらなる改良が重ねられました。この改良おでんは、1923年(大正12年)の関東大震災のときに、炊出しメニューとして関西の料理人がふるまったとされています。 明治・大正と、今なお人気のあるおでん専門店が続々と開業していき、おでんは発展を続けていきます。
 このおでんの項、『紀文』 のおでんの歴史から引用

屋台(やたい);江戸時代のおでん屋の屋台は振り売りの形をしていました。大きな物でも蕎麦屋の屋根が付いた形状の屋台です。この噺では、お孫さんを連れてくるときに、屋台で寝ている子が孫では無いかと言います。また、武士の一団に屋台ごと盗まれるときも、屋台を引っ張って持って行きます。
 この、形容の仕方は、振り売りではなく、現在のリヤカーに乗せたおでん屋台です。江戸のおでん屋は、前項のおでんの歴史通り、重くて持ち上げられなくなる汁に浮かんだおでんでは無く、振り売りでも担げるような味噌を付けて食べる蒟蒻や芋の田楽屋台だったのです。

 この誤解を招くような噺ですが、原話ではそのところをしっかりと語っていますし。孫を最初に連れて来たときは、屋台の上ではなく、平次が負ぶって連れて来ています。

下谷金杉(したやかなすぎ);近くに有る金杉村とは違って、旧日光街道(現金杉通り)に面した下谷金杉上町と下谷金杉下町が有ります。現在の言問通り交差点・根岸一丁目辺りから北側の三ノ輪交差点辺りまでの街道に沿った細長い町です。
 下谷金杉辺りから吉原田んぼまでは東に約1km位です。
 鵬斎の金杉時代は里俗に中村というところに住んだ。今もある御行松跡の不動堂の北側で、現台東区根岸四丁目14あたり。昭和三十年代まで中根岸の内だった。
 港区に有る、旧浜離宮恩賜庭園の南側を流れる古川(上部に首都高環状線が走る)に架かり、国道15号線(旧東海道)を渡す”金杉橋”とは違います。

書家(しょか);書道にすぐれた人。能書家。書道を教授し、またはそれを職業とする人。書工。
 平次は書家と言うことが良く判らず、「看板屋か?」と聞き返しています。看板屋は、商家で、屋号・職業・売品などを人目につくように記してかかげたもの。それを書く人、書く店。

吉原田んぼ(よしわらたんぼ);ここで平次さんのおでん屋が仕込みと店を出していました。遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。
 吉原と浅草寺の間だの土地を田町と言った。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です。

かどわかし(勾引);子供や女などをむりやり、または、だまして他に連れ去る。誘拐する。

身祝い(みいわい);その人の一身上の事柄についての祝い。「娘の婚約の身祝いを内輪でする」。受賞記念祝い。迷子の孫が戻ってきた祝い。

小障子(こしょうじ);小さい障子。小さな木枠の中に格子が入っていて、それに和紙が貼ってある。この噺の場合、行灯の火が風に吹き消されぬように小障子をはめて、それを看板としています。

落款(らっかん);(落成の款識の意) 書画に筆者が自筆で署名し、または印をおすこと。また、その署名や印。
右写真:鵬斎の落款。こんな落款を見たら誰でも欲しくなるでしょう。

冷やかし(ひやかし);広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。
 志ん生は、「冷やかし」の語源を噺の中で説明しています。「近くに紙すき場があり、紙屋の職人が古紙を水に浸して、紙の冷やける間一回り廻ろう、ってんで冷やかしという名前がついたんですな」と。落語の噺なんてまゆつばでしょうと思っていたら、広辞苑にも大言海にもこんなにも堂々と載っているのでは信じるほかありません。客の約七割が冷やかしで有ったと言います。
  私は、「ウインドーショッピング」だと理解しております。
 『素見が七分買うが三分なり』 江戸川柳
 天明2年吉原の廓内を歩いている連中の七割が素見、いわゆる冷やかしであった。しかし、その七割が賑やかさを演出したのかも知れません。決して紙屋の職人だけが冷やかしで有ったのではありません。また、吉原だけではなく、他の岡場所等でも、状況は同じでした。しかし、花魁から見れば、
  『つらいこと素見にばかり惚れられる』 柳多留
 指名して貰って初めてお客様、お客でない相手に惚れられても・・・ねぇ。
  『おかしさは素見の女房りん気なり』 柳多留
 吉原に行ったと言うだけで、女房はなんで焼き餅を焼くのでしょう。
落語「廓の穴」より。

軸装(じくそう);紙や布に書かれた書画を掛軸の形に仕立てること。直接見せる為には屏風仕立てにしたり、小さい物では貼り混ぜ屏風にしたりします。油絵では額装にしたりしますが、日本の軸装では、仕舞えば小さくなる利点が有ります。軸装にするには、経治屋さんが綺麗に掛け軸に張り込みます。
 馬子にも衣装ではありませんが、絵でも額縁によって価値が違って見えます。

四谷(よつや);四谷見附の有った、五街道の甲州街道があった新宿の手前の街。現在の新宿区と千代田区の区境にある、四ツ谷駅がその地です。千代田区側には番町と麹町が有りますが、四谷は新宿区側で甲州街道に沿った細長い街になって居ます。
 当時は、四ツ谷伊賀町、四ツ谷忍町、四ツ谷御箪笥町、四ツ谷北伊賀町、四ツ谷坂町、四ツ谷塩町、四ツ谷伝馬町、四ツ谷仲町等がありました。

豆腐屋(とうふや);豆腐の代表的な料理は、田楽と湯豆腐です。田楽はおでんの項で説明しているように、豆腐そのもので、平次が田楽の素になる豆腐に着目したのは同類項で違和感が無かったのでしょう。でも、豆腐屋は朝は早いし、水仕事で、熱燗を売るのとでは、内容が大違いです。誤解は、次項で説明します。

 豆腐は、水につけて柔らかくした大豆を水とともに摩砕し、煮出すことが必要となる。これを搾って得られる液体が豆乳で、豆乳を作る際、あらかじめ加熱して漉す製法を「煮搾り」、生のまま漉す製法を「生搾り」という(この場合には漉した後に煮詰めることになる)。搾った後の滓はおからと呼ばれる。
 この豆乳がまだ熱いうちににがり(凝固剤)を加えると蛋白分子が繋がり、豆乳はプリン状に固まる。これを切り分けて水にさらしたものを絹ごし豆腐、水にさらさず直接容器にすくい上げたものを寄せ豆腐と言う。また、固まった豆乳を崩しながら、内側に布を敷いた型容器に容れ、水分を抜くと木綿豆腐となる。さらに、工業的製法として、豆乳をいったん冷やし、凝固剤といっしょにプラスチック容器に流し込んでから加熱して固める充填豆腐もある。充填豆腐は保存性に優れ、ものによっては一か月保存できるものもある。
 落語「甲府ぃ~」より孫引き。

50歳(50さい);織田信長は「敦盛」(あつもり)という舞が好きでした。特に、『人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』という一節を好んで舞ったといわれています。 「人間五十年」とは、人の一生は50年ほどだという意味で、平家の時代から江戸時代には、平均寿命は50年と考えられていたようです。 これを根拠に、しばしば「江戸時代の平均寿命は50才くらいだった」と言われますが、現代用いられている人口統計の手法で計算すると、もっと短かったと考えられています。乳幼児の死亡率が高かったので、それを考慮すれば、だいたい「30才~40才くらい」だったと考えられます。 皆が早死にしていた訳ではありません。長生きする人も少なくありませんでした。日本人の平均寿命が50歳を超えたのは戦後の昭和22年(1947)になってからでした。

 平次が50歳だと言います。もう老人の域です。体力も落ちて、気力も落ちて、振り売りはしんどくなってきます。雪や雨風にさらされない、店舗での商いならまだまだ仕事が出来ます。でも、前項の重労働の豆腐屋ではどうでしょう~か。
 落語「もう半分」のおじいさんも、娘がこのおじいさんの為に身を沈めてお金を作って店を持ちなさいと言った金で酒を飲んだが為に・・・。歳取ってからの振り売りは大変です。
 平次は、10両盗むと首が飛ぶ時代の31両です。立派な店舗が開けたはずですが、経験、修行の無い豆腐屋より、熟練したおでん熱燗の店の方が良いように思うのですが・・・。
 でも、原話を読むと平次は豆腐屋をしていたが火事で焼け出され、兄の助けでおでん燗酒を売っていました。豆腐屋は前の仕事で腕は鈍っていないと云います。演者の理解ミスでしょう。



                                                            2018年9月記

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