落語「朝友」の舞台を歩く
   

 

 四代目橘家円喬の噺、「朝友」(あさとも)より
 

 

 病気で、この世とおさらばした男。気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。再会を喜び合ううちに「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」と、女が言う。

 男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校という者の息子なので、いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。
 ついでに、意気揚々と三途(さんず)の川も渡ってしまった。ところが、地獄では閻魔(えんま)大王がお里に一目ぼれ。ショウヅカの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。そこはさすがに金貸しの息子、親父が棺に入れておいてくれた、シャバのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。
 たどりついた三途の川のほとり、ショウヅカの婆さんの家では、毎日毎日、哀れ、お里が婆さんに責めさいなまされている。「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華(えいようえいが)は望み次第。玉の輿(たまのこし)じゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」と、襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。折しも、降りしきる雪。極楽の鐘の音がゴーン。
 男が難なく塀を乗り越え、「お里さんッ」、「そういう声は康次郎さん」。急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだしたとたん、シャバでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

  それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

 生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。来あわせた坊さんが「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向の松月朝友という方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向の松月堂、向こうが伊勢町の文屋検校。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」、「でも和尚さん、向こうの都合もあります」、「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」。

 



ことば

四代目橘家円喬(たちばなや えんきょう);慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる)。
 1865年11月9日本所柳原(墨田区江東橋一丁目南の竪川両岸)の生まれ、父は政府の御家人。近所に義理の姉婿であった四代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり、1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、二代目三遊亭圓好に改名。このころから四代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向も周囲の評判が悪く廃業し、1882年には東京を離れ焼き物師を志すために京都を目指したが途中に立花家橘之助の一座に出会い帯同、3年間上方で落語修行。
 1885年に兵役検査で東京に戻り、1887年ころには改めて四代目橘家圓喬を襲名し、日本橋瀬戸物町(日本橋北)の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加。1912年11月16日に人形町末広の独演会が最後の高座。その6日後、肺病のため死去。
 日本橋住吉町の玄冶店(げんやだな=中央区日本橋人形町三丁目8辺り)に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、頑固な性格が災いして立ち消えになった。 気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、四代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはァ。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。
 だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、五代目三遊亭圓生が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました」と一礼したという。また初代三遊亭右女助(後の四代目古今亭今輔)が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に、「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。
 辞世「筆持って月と話すや冬の宵」。墓所は雑司が谷鬼子母神の法明寺(現・豊島区雑司ヶ谷三丁目)。47歳没

 名人中の名人? 小島政二郎(作家、小説「円朝」著者) 「円喬は円朝よりうまい」。 六代目三遊亭円生 「(自分が聴いた中で)本当の名人は円喬師だけ」。 久保田万太郎(劇作家・作家) 「小島クンは円朝を聴いていないから、そんなことを言う」。 円朝の没年、久保万11歳、小島6歳。 円喬の没年、円生12歳。
 圓朝と圓喬は、いまだに落語界ではその名称を継ぐ者が現れていない。それほどずば抜けた名人と称されたのが、この四代目圓喬であった。
 「鰍沢」、「三軒長屋」、「牡丹灯籠」、「柳の馬場」、「真景累ヶ淵」、「たらちね」、「安中草三」などを得意とした。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」、「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。
 特に師匠圓朝作の人情噺を得意とし、『牡丹灯籠』、『真景累ヶ淵』、『塩原多助』、『安中草三』など、ものによっては師匠まさりとさえいわれた。

 話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。剣豪榊原鍵吉(撃剣興行で演芸界にも馴染みがあった)は「圓朝は研いだ正宗、(圓喬の兄弟子の)二代目圓馬は研がない正宗、圓喬は村正」と評した。六代目三遊亭圓生は「芸の品格のあるなしではないか」、圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない」と、その評を分析している。日本画家鏑木清方は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う」と証言している。これについても圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた」と分析している。

 真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「鰍沢」をかけ、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだという。話芸の極致として語り継がれている逸話である。
 上方落語の三代目桂米朝はこの逸話を自らの噺のマクラで紹介し、その後で「弟子の二代目桂ざこばが真夏に『不動坊』という真冬の噺をかけていたら、お客さんが上着を着たり、まくり上げていた袖を下ろしたりしたので、『こいつも名人になったな』と感心していたが、あとで聞いたら会場のクーラーが効き過ぎていた」、というオチをつけて定番のギャグにしていた時期があった。
 

噺のなりたち:平安時代中期の歌人で六歌仙の一・文屋康秀(ぶんやのやすひで、生没年不詳)を題材とする民間伝承に、同じく平安時代成立の「日本霊異記」や「今昔物語集」に多く見られる死人が蘇生して地獄の様を語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の「軽口はるの山」中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)刊「軽口夜明烏」中巻「死んでも盗人」が原話とされます。前者では、幽霊が「ゴーストバスター」に墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。
 また、お里がショウヅカの婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(落語「明烏」)中の遊女・浦里雪責めの場面を採ったものです。

文屋と朝友:円喬の速記によると、伊勢国の文屋の康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本についてはまったく未詳です。さらに、実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明で、わずかに、三河掾(じょう)となって赴任するときに小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

 文屋 康秀(ふんや の やすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人。文琳とも。縫殿助・文屋宗于または大舎人頭・文屋真文の子。子に文屋朝康がいる。官位は正六位上・縫殿助。六歌仙および中古三十六歌仙の一人。
 小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという。

高利貸し:文屋検校は、検校と言って盲人の最高位に立つ地位です。高利貸しが幕府から認められていて、民間では座頭金(ざとうがね)といいます。盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨万の富を築く者も少なくありませんでした。円朝作の、現在でもしばしば口演される「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は五両に一分で返済期限四月という、現在の悪徳サラ金並みの高利でした。

五両一分;高利貸しの金利、5円で25銭の月利息が掛かる。100円で5円の月利=年利60%=元利合計160円。これは単利で転がした時ですが、現在は毎月精算するので複利計算で一年後は元利合計で約180円。この時代には4ヶ月単位で一区切り、それを越えると複利で貸したが、書換料を取られ、複利より高利になった。1年後には倍にはなったでしょう。100円借りて200円返す様なものです。時の幕府は盲人に対しては特例として高利で貸す事を認めていた。

ショウヅカの婆ぁ(三途河の婆・葬頭河の婆):脱衣婆(だつえば)ともいい、三途(サンズ)の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(エリヨウジユ)の上にいる懸衣翁(ケンエオウ)に渡すという鬼婆。十王経に見える。葬頭河(シヨウズカ)の婆。奪衣鬼。「ショウヅカ」は「生塚」とも書きますが、「三途河(さんずか)」がなまったものです。
 落語でも、「地獄八景」、「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場。この「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。なお、「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかや婆ぁです。

稽古所(けいこじょ);物事を学習する所。特に、音曲・舞踊などを教える所。

日本橋伊勢町(にほんばし いせちょう);日本橋は東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型の橋。下の写真:日本橋。川の上部に首都高速が架かる。
 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。

 日本橋伊勢町は江戸時代の町名で、現在の中央区日本橋本町一丁目6辺りで、当時は南北に西掘留川(現在は埋め立てられて町になっている)があってその西河岸に有った町。高利貸しを営む文屋検校という者の息子が住んでいた。

三途の川(さんずのかわ);人が死んで7日目に渡るという、冥土への途中にある川。川中に三つの瀬があって、緩急を異にし、生前の業(ゴウ)の如何によって渡る所を異にする。川のほとりに奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(ケンエオウ)との2鬼がいて、死者の衣を奪うという。偽経「十王経」に説く。みつせがわ。渡り川。葬頭川(ソウズガワ)。

閻魔大王(えんまだいおう);インドから中国に伝わると、冥界の王であるとされ、閻羅王として地獄の主とされるようになった。 やがて、晩唐代に撰述された偽経である『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。 また、中国的な発想では、冥界の主宰者である閻魔王や、十王であっても、常住の存在とは考えられていない。それらの尊格も、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていた。 よって、唐代や明代に流布した説話にも、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が見られる。清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話も出来、北宋の政治家・包拯は閻魔大王になったと信じられていた。
右写真:深川閻魔堂(法乗院)(ふかがわ えんまどう) の閻魔。

 

 上図 「地獄絵図」 閻魔王の法廷には、『浄玻璃鏡』(じょうはりのかがみ)という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐している。図の右側に『針の山』、左には『火の車』、その下方には『熱湯の釜』が有ります。

 落語「御血脈」 でも閻魔大王が活躍しています。また「道具屋」でも登場しています。
 桂米朝の噺、「地獄八景亡者戯」(じごくばっけい もうじゃのたわむれ)より孫引き。

 浄土真宗では、信者はみな亡くなった時に直ちに極楽浄土に往生するため、この種の追善供養は一切ない。『歎異抄』には、宗祖親鸞は「父母のためにと思って念仏を称えたことは一回もない」とある。 これらは宗教的な発想で、事実そうなっているとは誰も検証していない、想像上の話です。

赤鬼と青鬼(あかおにと あおおに);上図「地獄絵図」に描かれている閻魔大王の従僕の鬼です。

小日向(こひなた);東京都文京区の町名。現行行政地名は小日向一丁目から小日向四丁目。
 小日向台という台地があり、坂が多い。坂には「切支丹坂」・「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木・安部公房・横溝正史などの旧居があった。 旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから、「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。現在でも「茗渓」という名の付いた建物や企業を目にする事が出来る。地下鉄丸の内線「茗荷谷駅」が有り、落語「茗荷宿」でも歩いたところです。また、圓朝作怪談「真景累ケ淵・宗悦の長屋」で小日向服部坂に住む、小普請組・深見新左衛門宅へ借金の取り立てに行ったが、新左衛門は酒が切れない飲み方で、皆川宗悦を殺す。



                                                            2018年9月記

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