■四代目橘家円喬(たちばなや えんきょう);慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる)。
名人中の名人?
小島政二郎(作家、小説「円朝」著者) 「円喬は円朝よりうまい」。 六代目三遊亭円生 「(自分が聴いた中で)本当の名人は円喬師だけ」。
久保田万太郎(劇作家・作家) 「小島クンは円朝を聴いていないから、そんなことを言う」。 円朝の没年、久保万11歳、小島6歳。
円喬の没年、円生12歳。
話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。剣豪榊原鍵吉(撃剣興行で演芸界にも馴染みがあった)は「圓朝は研いだ正宗、(圓喬の兄弟子の)二代目圓馬は研がない正宗、圓喬は村正」と評した。六代目三遊亭圓生は「芸の品格のあるなしではないか」、圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない」と、その評を分析している。日本画家鏑木清方は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う」と証言している。これについても圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた」と分析している。
真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「鰍沢」をかけ、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだという。話芸の極致として語り継がれている逸話である。
■噺のなりたち:平安時代中期の歌人で六歌仙の一・文屋康秀(ぶんやのやすひで、生没年不詳)を題材とする民間伝承に、同じく平安時代成立の「日本霊異記」や「今昔物語集」に多く見られる死人が蘇生して地獄の様を語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の「軽口はるの山」中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)刊「軽口夜明烏」中巻「死んでも盗人」が原話とされます。前者では、幽霊が「ゴーストバスター」に墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。
文屋 康秀(ふんや の やすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人。文琳とも。縫殿助・文屋宗于または大舎人頭・文屋真文の子。子に文屋朝康がいる。官位は正六位上・縫殿助。六歌仙および中古三十六歌仙の一人。
■高利貸し:文屋検校は、検校と言って盲人の最高位に立つ地位です。高利貸しが幕府から認められていて、民間では座頭金(ざとうがね)といいます。盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨万の富を築く者も少なくありませんでした。円朝作の、現在でもしばしば口演される「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は五両に一分で返済期限四月という、現在の悪徳サラ金並みの高利でした。
■五両一分;高利貸しの金利、5円で25銭の月利息が掛かる。100円で5円の月利=年利60%=元利合計160円。これは単利で転がした時ですが、現在は毎月精算するので複利計算で一年後は元利合計で約180円。この時代には4ヶ月単位で一区切り、それを越えると複利で貸したが、書換料を取られ、複利より高利になった。1年後には倍にはなったでしょう。100円借りて200円返す様なものです。時の幕府は盲人に対しては特例として高利で貸す事を認めていた。
日本橋伊勢町は江戸時代の町名で、現在の中央区日本橋本町一丁目6辺りで、当時は南北に西掘留川(現在は埋め立てられて町になっている)があってその西河岸に有った町。高利貸しを営む文屋検校という者の息子が住んでいた。
■三途の川(さんずのかわ);人が死んで7日目に渡るという、冥土への途中にある川。川中に三つの瀬があって、緩急を異にし、生前の業(ゴウ)の如何によって渡る所を異にする。川のほとりに奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(ケンエオウ)との2鬼がいて、死者の衣を奪うという。偽経「十王経」に説く。みつせがわ。渡り川。葬頭川(ソウズガワ)。
■閻魔大王(えんまだいおう);インドから中国に伝わると、冥界の王であるとされ、閻羅王として地獄の主とされるようになった。
やがて、晩唐代に撰述された偽経である『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。
また、中国的な発想では、冥界の主宰者である閻魔王や、十王であっても、常住の存在とは考えられていない。それらの尊格も、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていた。
よって、唐代や明代に流布した説話にも、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が見られる。清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話も出来、北宋の政治家・包拯は閻魔大王になったと信じられていた。
上図 「地獄絵図」 閻魔王の法廷には、『浄玻璃鏡』(じょうはりのかがみ)という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐している。図の右側に『針の山』、左には『火の車』、その下方には『熱湯の釜』が有ります。
浄土真宗では、信者はみな亡くなった時に直ちに極楽浄土に往生するため、この種の追善供養は一切ない。『歎異抄』には、宗祖親鸞は「父母のためにと思って念仏を称えたことは一回もない」とある。
これらは宗教的な発想で、事実そうなっているとは誰も検証していない、想像上の話です。
■赤鬼と青鬼(あかおにと
あおおに);上図「地獄絵図」に描かれている閻魔大王の従僕の鬼です。
■小日向(こひなた);東京都文京区の町名。現行行政地名は小日向一丁目から小日向四丁目。
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