落語「居候講釈」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「居候講釈」(いそうろうこうしゃく)、別名「五目講釈」より


 

 『居候置いて合わず、居て合わず』、と言いますが、置いて合わずは分かりますが、居て合わずはどうでしょう。居候もいろいろですな。

 「言いたくは無いが、貴方は何か見込みが有るんですか」、「芸人でも講釈師になりたいんだ」、「講談やれるんですか。では、皆呼びますからひとつ読んでください。私がいいと思ったらどこか紹介しますから・・・」、「大勢集めてくれよ。塩せんべいでも出しとけばいいだろう」。
 「さ~。こっちに入ってください」、「若旦那が? ではお願いします」。「あはぁッ、あ~ッ あ~ッ おほんッ」、「カラスが子を捕られたような声を出して・・・」。

 「ころは元禄十五年、極月、中の四日、年は変われど日は同じ播州赤穂の浪士、頭は大石内蔵助、小は神坂吉右衛門に至るまで(ポンポン)忠義の二字を頭に宿り、本所松坂町吉良上野介邸に乱入なし、(ポンポン)山と呼んで川と答える合い言葉、中でも大将内蔵助は門前に立ち、山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らし・・・」、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってきた。

 「や~、や~、やぁッ、徳川家康の家来にして、(ポンポン)本多平八郎とは我がことなり、我と思わん者は見参、見参、と大音声で呼ばわったり・・・(ポンポン)、これを聞いたる城中の面々、大手の門を八の字に開き、中より躍り出たる後藤又兵衛、亀井、片岡、伊勢駿河、武蔵坊弁慶。(ポンポン)由井の正雪。逃げるものには目をくれず、平知盛見参」、弁慶がといつの間にか安宅の関。由井正雪から平知盛まで大挙出演。そのうち、切られ与三郎やお富、お染久松、那須与一、太田道灌、石川五右衛門、清水次郎長、加藤清正、等々歌舞伎主人公から時代の主役まで総出演。もう支離滅裂のシッチャカメッチャカ。

 「何だよ、分からないね。いろんな者が出てくるね。あの人はどこの人だぃ」、「横町の薬屋の伜だ」、「講談に調合がしてある」。

 



ことば

講釈(こうしゃく);講談(こうだん) 古くは講釈という。 17世紀に、食に窮した浪人やお伽衆が、『太平記』を読んで辻や店先で投げ銭を請うたことに始る。江戸時代には、浪人や兵法者が辻々で軍書の講釈や軍談を読むようになり、元禄 13 (1700) 年には、見付の清左衛門が初めて江戸の浅草見付に公認の講釈場を設立した。宝暦年間 (51~64) には銀杏和尚 (霊全) が世話講談を、鯖江正休が大名旗本の出世譚を、成田寿仙がお家騒動物を読みはじめ、さらに馬場文耕が寄席講釈の形式を整えた。天明年間 (81~89) 以後は講釈は隆盛期に向い、名人上手が出て、貞山派、神田派、松林派、田辺派、宝井派の系統を生んだ。第2次世界大戦中、軍部に協力して愛国講談に手を染め、戦後、占領軍指令部が仇討物や軍談を禁じたことなどから急速に衰微。その後多くの女性講談師を輩出して話題を呼んだが、活性化にはいたっていない。

 現在、男性27人、女性35人。東京を中心に活動する講談師の内訳だ。今春、真打ちに昇進した日向(ひゅうが)ひまわり、神田阿久鯉(あぐり)の2人とも女性。過去5年に講談協会と日本講談協会に入門した新人は女性8人に対し男性2人。近い将来「男流」が作られかねない勢いだ。

 浄瑠璃(じょうるり)(とくに義太夫節(ぎだゆうぶし))の「かたる」、落語の「はなす」に対して、講談は「よむ」という。ふつう、武勇伝、仇討(あだうち)、政談、実録のたぐいを、釈台と呼ばれる机を前に張扇をたたきながら、ひとりで口演する。〈講釈〉というのが明治以前の伝統的な呼称。もともと講釈とは典籍を評釈して講義することで、講釈・講談の用語は中世の仏教関係の文献に頻出する。 

原話は、安永5年(1776)刊「蝶夫婦(ちょうつがい)」中の「時代違いの長物語」です。 これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯モノ。
 いずれにしても、客が芝居を熟知していなければ何がなにやらさっぱり分からない落語。 前半の発端は「湯屋番」、「船徳」、「唐茄子屋政談」、「紙くずや」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。
 江戸っ子が好んだパロディー落語で、明治31年(1898)の四代目春風亭柳枝(1868-1927)の速記が残ります。寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそパロディ落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられても分からなくなった噺です。

 上方の噺では、
 若旦那がロウソクを買いに行って、1銭足りないと言われたことから喧嘩になって帰ってきた。そんな時は、ついでの時に持ってきますと言うものだとたしなめられた若旦那、いよいよ講釈を始めたが、難波戦記が五目講釈になり、そのうちに片道6銭の電車賃を5銭と言う。「大阪の市電は6銭じゃ、1銭足らんで」、「足らんとこは、ついでに持ってきます」。

五目(ごもく);広辞苑で引くと、【芥】=ごみ。あくた。【五目】=五つの品目。また、種々のものの混合していること。五目飯(ゴモクメシ)・五目鮨(ゴモクズシ)・五目蕎麦(ゴモクソバ)の略。
 大阪ことば事典を引くと、ごみ。塵芥。種々の物の意。「川流れのゴモクで、杭にかかっている」=食うことばかりで(食い)にかかっている、ことの言葉のシャレ。【五目場】=ゴミ捨て場。掃きだめ。江戸ではごもくばと言い、ゴミためという。(守貞満稿)。

 若旦那の五目講釈は、ゴミのような種々のものの混合した講釈であった。

居候(いそうろう);他人の家に寄食すること。また、その人。食客。落語の世界では若旦那が、昔世話をした出入りの職人や、元店員や得意先の家を訪ねる、典型的な「若旦那勘当もの」のパターンです。心底改心しないのがおかしさを増幅させます。
 『居候角(カク)な座敷を丸く掃き』
 『居候三杯目にはそっと出し』
 食客でも、若旦那と違い、大工の辰五郎のところで居候した左甚五郎(落語「三井の大黒」)や、幡随院長兵衛のところに食客としていた白井権八(落語「鈴ヶ森」)などは例外です。

塩せんべい;米粉系のせんべいは、埼玉県草加(そうか)市の名物である草加せんべいに代表されるもので、関東では〈塩せんべい〉と呼ぶ。もともとは農家がくず米などの粉をこねて焼き、塩味をつけて補食としていたものと考えられるが、塩にかえて、しょうゆを塗るようになってから商品化した。
 地方によって、形体がいろいろあって草加せんべいのように堅焼きだったり、沖縄地方のように丸形に入れて焼いたふかふかな煎餅もあります。柔らかく塩をまぶした煎餅もあります。

極月(ごくげつ);12月の異称。しわす。ごくづき。中の四日=十四日。 『12月14日』。

播州赤穂の浪士(ばんしゅうあこうの ろうし);仮名手本忠臣蔵に登場の四十七士。
 江戸時代・元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件については、加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(1703年1月30日、実際は明け方であったから15日)の本所・吉良邸への討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を、家人や警護の者もろとも殺害した。その後の浪士たちは幕命により切腹し、泉岳寺に葬られた。

 赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。
 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。
 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。 

大石内蔵助(おおいし くらのすけ);播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。
右図:大星由良之助 一勇斎国芳筆。

神坂吉右衛門(てらさか きちえもん);四十七士のひとりであり足軽である寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。彼の他、討ち入り一ヶ月前から当日まで8名の者が脱盟している。

本所松坂町吉良上野介邸(ほんじょまつざかちょう きらこうずけのすけてい); 現・東京都墨田区両国三丁目13番9号。
 元禄時代の当時は付近の一帯が吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方メートル(2550坪)と推算されているから、その広さをうかがうことができる。邸宅は、赤穂浪士による討ち入りの後の、元禄16年2月4日には江戸幕府に没収され、その後住宅などが立ち並び、往時の吉良邸を偲ばせるものはなにもなかったが、昭和9年(1934)に地元の有志らが旧邸内の、東寄りで屋敷内の北辺部にあった住宅地を購入し、住宅を撤去して東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935)に公園として開かれたのが始まり。昭和25年(1950)に墨田区へ移管された。
 公園内には、忠臣蔵に基づいた各種の展示のほか、討入事件で主君のために戦い、亡くなった吉良家家臣の石碑や、吉良上野介追慕碑などが残されているが、平成22年12月12日には、1690年頃に吉良義央自ら作らせた座像を基にした吉良上野介義央公座像が公園内に建立された。下写真:吉良邸跡公園の外観。

 

山鹿流の陣太鼓(やまがりゅう じんだいこ);大石側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。
 山鹿流の祖、山鹿素行から直々に受けた赤穂藩からの山鹿流伝系は、赤穂藩断絶後も続いた。その伝系は、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。
 山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作。

徳川家康(とくがわ いえやす);1543-1616 江戸幕府初代将軍。在職1603-05。三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた)、法号伝通院(でんづういん))。6歳のとき、人質として駿府の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、父広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴いた。1555年義元の館で元服し元信と名のり、今川氏の一族関口刑部少輔の娘(築山殿(つきやまどの))と結婚、1558年ごろ元康と改名。義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立した。1561年織田信長と和睦、1563年家康と改めた直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが、翌年これを鎮定、結果として三河一国を統一。1566年徳川と改姓。1570年姉川の戦で信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破。同年10月武田信玄と絶って上杉謙信と同盟、1572年三方原の戦で信玄に大敗した。1575年長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝。1582年、信長が武田氏を滅ぼして家康は駿河を手に入れた。
 本能寺の変後、甲斐・信濃の帰属をめぐって北条氏直と対立、甲・信二国の領有を認めさせる和睦に成功し、駿・遠・三・甲・信の5ヵ国を領有する大大名となった。1584年、信長の子信雄(のぶかつ)を助けて小牧・長久手の戦で豊臣秀吉に大勝したが、信雄が秀吉に屈服したので家康も秀吉と和睦。以後秀吉の死まで家康は秀吉指揮下の有力大名という地位にあった。1590年、秀吉の小田原征伐に従軍、小田原北条氏滅亡後その旧領に移封されて江戸城に入った(相模、伊豆、武蔵、下総、上野などで約250万石)。
 1596年内大臣となり、同年ころから秀吉の死の直前の間に設置されたと考えられる五大老の筆頭として、秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮した。翌年五大老の一人前田利家の死後、秀吉の築いた伏見城本丸に入り、〈天下殿になられ候〉(《多聞院日記》)と評されるにいたった。1600年の関ヶ原の戦に勝利し、1603年将軍宣下を受けて江戸幕府を開く。
 1605年将軍職を秀忠に譲り、将軍が徳川氏に世襲されるべきものであることを天下に示すとともに、官位の束縛を受けない大御所として、公家・寺社勢力を含めた全国支配の実権を握りつづけた(大御所政治)。1612年ごろから全国の公家、寺社、大名に朱印状を発給すべく準備を始めたが、実現しないうちに1614年大坂の陣の開始によって中断。翌年(元和元年)夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、続いて武家諸法度、禁中並公家諸法度を発布して徳川の天下を安泰とした。
 1616年4月17日駿府城で没。75歳(満73歳4ヵ月)。久能山に葬り、翌年日光山(日光東照宮)に改葬、後水尾天皇から東照大権現の神号を受け、正一位を追贈された。
 平凡社百科事典マイペディアより
右座像:「徳川家康」江戸東京博物館蔵展示。芝東照宮蔵複製

本多平八郎(ほんだ へいはちろう); 天文17年2月8日(1548年3月17日)~慶長15年10月18日(1610年12月3日)。本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。
 天文17年(1548)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。 天文18年(1549)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。 幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。
 天正10年(1582)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると、従五位下・中務大輔に叙位・任官された。 天正18年(1590)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。
 慶長6年(1601)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し、忠勝自身も慶長9年(1604)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。

見参(けんざん);戦陣で自分に対峙する者はいるかと声を上げること。

後藤又兵衛(ごとうまたべい);後藤 基次(ごとう もとつぐ) 永禄3年4月10日(1560年5月5日)~慶長20年5月6日(1615年6月2日)、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
 慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発すると、先駆けて大坂城に入城する。翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。 しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。

武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい);? - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。
 熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。
右図:「御曹子牛若丸・武蔵坊弁慶」部分、一鵬斎芳藤画

由井正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき);慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日)は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者。
 17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。軍学者の楠木正辰の弟子となり軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった。 「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、連雀町(神田須田町)の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
 慶安の変:慶安4年(1651)、江戸幕府三代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。 大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、四代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなった。

平知盛(たいら の とももり);平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。
 平治元年(1159年)正月に8歳で従五位下となる。同年12月の平治の乱で清盛が勝者となり、平氏一門と共に栄進していく。翌永暦元年(1160)2月、平氏の戦功として東国の重要な武蔵国が清盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。その後再任して8年間同職にあり、治承4年(1180)以降は武蔵国の知行国主となって長年同国を支配し、多数の平氏家人を獲得した。
 寿永3年(1184)2月7日、一ノ谷の戦いで知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、源範頼率いる鎌倉方大手軍を迎え撃った。しかし一ノ谷側で搦手の源義経軍の逆落としを受けた平氏軍は混乱に陥り、生田側の軍も撤退して海上に逃れた。この戦いの敗北で平氏は知盛の嫡男知章を初め、一門の有力武将を多数失う甚大な被害を受け、弟重衡は捕虜となった。寿永4年(1185)2月19日、屋島の戦いで源義経の急襲を受け、動揺した宗盛はほとんど戦闘を行う事なく安徳天皇と共に海上へ逃れ、平氏は瀬戸内海の制海権掌握に重要な拠点であった屋島を失う致命的な敗北を喫する。寿永4年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。
落語「源平盛衰記」も参照してください。

切られ与三郎やお富;おっとりした若旦那・与三郎は、木更津海岸で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34ヵ所の刀傷を受けて海にほうりだされます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、江戸に売られ、人の世話で何不自由なく暮らします。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間の蝙蝠安とゆすりに行った源氏店で、なんと、お富の家に。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いて・・・というのが筋書きです。
 木更津を舞台に「切られ与三郎」と「お富」、そして「蝙蝠安」がからむ歌舞伎の名狂言・与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)は、嘉永6年(1853)、江戸中村座で八代目市川団十郎が初演し、大当たりをとりました。
落語「お富与三郎」に詳しい。

お染久松(おそめ ひさまつ);大坂東堀瓦屋橋通の油屋太郎兵衛の娘お染と丁稚久松との情死の巷説ならびに、これを脚色した作品群の通称。紀海音「お染久松袂の白しぼり」、菅専助「染模様妹背門松」、近松半二「新版歌祭文」などの浄瑠璃、また、四世鶴屋南北の歌舞伎「お染久松色読販(ウキナノヨミウリ)」、新内「染模様妹背の門松」、常磐津「初恋千草の濡事」、清元「道行浮塒鴎(ミチユキウキネノトモドリ)」(通称「お染」)など。
  【新版歌祭文】より、和泉国の侍相良丈太夫の遺児で野崎村の百姓久作に養育された久松が、奉公先の大坂の質店油屋の娘お染との許されぬ恋のために心中するに至るという経緯を主筋とし、それに久松の主家の宝刀の詮議、悪人たちによる金の横領、久松の許嫁お光の悲恋等々のプロットを絡めて展開させたもの。先行する紀海音の浄瑠璃《おそめ久松 袂の白しぼり》や菅専助の《染模様妹背門松》を踏まえて脚色された作品で、お染久松物の代表作となっている。お家騒動的な要素を採り入れた複雑な筋立てが、上の巻〈座摩社〉〈野崎村〉、下の巻〈長町〉〈油屋〉の各場にわたって繰り広げられていくが、その中では、お染・久松の死の覚悟を察知したお光が、2人の命を救うために、それまで楽しみにしていた久松との祝言をあきらめて尼になるという悲劇を山場に構成されている〈野崎村〉の段が最も優れた一幕であり、また、上演頻度も高い。
  野崎村は落語「野崎参り」でも語られる、大阪の名所です。

 歌舞伎や浄瑠璃で有名な恋人同士。「野崎村」はお染久松ものの義太夫(歌舞伎にも移植された)『新版歌祭文』の中の一場。歌舞伎では下手の花道を駕籠に乗った久松が、上手の仮花道を舟に乗ったお染と母親が、それぞれ引っ込んで幕となる。この両花道を使った引っ込みの時に使われる下座音楽を落語の出囃子になったのが「野崎」。浄瑠璃の太棹(ふとざお)の連れ弾き、“野崎”が八代目文楽の出囃子になっている。
落語「蛇含草」より

那須与一(なすのよいち);鎌倉初期の源氏の武将。名は宗高。与一は通称。与市・余市とも。下野国那須の人。弓の名手。屋島の合戦で平家が舟に掲げた扇の的を一矢で射た話が平家物語にあり、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。生没年未詳。
落語「源平盛衰記」、「平家物語」参照。
 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。 子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け(息子は越後那須氏の祖となる)たという。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。 下図:那須与一が屋島で扇を射落とす。

太田道灌(おおた どうかん);15世紀の関東は、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏と後北条(ごほうじょう)氏により三分されて、戦っていた。太田氏は、その扇谷上杉氏の家臣。
 永享4年(1432)相模国に生まれる。室町中期の武将であり、歌人でもある。道真・道灌父子は、上杉定正(さだまさ)に仕え、家宰という、家中諸事を司る立場にあった。名は資長(=すけなが、幼名は鶴千代丸、初名は持資(もちすけ))といったが、1458年(時26才)には剃髪し、道灌と号した。築城・兵馬の法に長じ、長禄元年(1457、時25才)江戸城を始め川越・岩槻など諸城を築いた。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、歌集「慕景集」を残した。世に軍法師範と称される程の文武両道の英傑であったが、その大きな功績と才能は、主君扇谷定正にはあまり評価されることがなかった。晩年には、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、主君である扇谷定正に謀殺された。死ぬ間際に「当方滅亡」と言い残したという。自分が死ねば扇谷は滅びるということが道灌にはわかっていたのであろう。
 武蔵国の守りを固めるために江戸城、岩付城(岩槻市)、川越城(川越市)、鉢形城(大里郡寄居町)などを築き、父、道真は所領の越生(おごせ)の龍穏寺(龍ヶ谷)近くに「山枝庵(さんしあん)」と呼ばれる砦を築いた。隠居後は「自得軒(じとくけん)」(小杉の建康寺周辺)と呼ばれる屋敷に移っています。父子が龍穏寺を再建したのもこの頃。今でも墓塔が残されています。 文明18年(1486)6月、太田道真は、自得軒に道灌や文人たちを招いて歌会を開いています。その翌月、道灌は、主君の上杉定正に謀られ、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で暗殺されました。 時に道灌55歳、文明18年(1486)7月26日のことであった。
  洞昌院は道灌が関東管領上杉憲実の弟・道悦和尚のために建てた寺と伝えられていて、道灌の胴塚のある墓所はこの洞昌院(伊勢原市上糟屋(かすや)町台久保)に有ります。 また、首塚は道灌橋のたもとの大慈寺(伊勢原市下糟屋町)左奥に、太田道灌の墓(首塚)があります。江戸城はその後家康が入城し改修されて大きくなった。明治に入って天皇の住まいの皇居となって今に至っている。江戸城並びに江戸東京の町を開いた功績は大きい。
落語「道灌」より孫引き

石川五右衛門(いしかわごえもん);(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日)) その半生についてはさまざまな説があります。
  幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」とか「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承もよく知られている。その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が圧政や朝鮮出兵の失敗で嫌われていた事もあり、庶民のヒーロー的存在になっていた。
  秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、香炉が鳴って捕らえられる。その後、捕らえられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。
  文禄3年(1594)京都三条河原で一子とともに釜で煎殺されたという。
  有名な釜茹でについても二つの説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにとひと思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。釜茹でもお湯ではなく、油だったとの話しもある。 同じく辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」も有名となった。最近では釜茹でではなく、釜煎りにされたという説が有力です。水も油も入れず、乾煎りですからその熱さは凄まじかったでしょう。火傷どころではありません。
  それより、石川五右衛門という人が実在したのかどうかについても、諸説あります。芝居で脚色されかなり尾ひれがついているんでしょうね。
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 右上、浮世絵;市川小団次、演ずる「石川五右衛門」 国明画 図をクリックすると大きくなります。
落語「お血脈」、「強情灸」より孫引き

清水次郎長(しみず じろちょう);文政3年1月1日(1820年2月14日)~ 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
 養父の次郎八は天保6年(1835)に死去し、次郎長は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843)、喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ、次郎長は清水湊に一家を構えた。
 弘化2年(1845)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父・和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。 安政5年(1858)12月29日には甲州における出入りにおいて役人に追われ、女房のおちょうを失う。安政6年(1859)には尾張知多亀崎乙川において久六を殺害する。文久元年(1861)1月15日には駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。
 明治7年(1874)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手する。博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わった。

加藤清正(かとう きよまさ); 永禄5年6月24日(1562年7月25日)~ 慶長16年6月24日(1611年8月2日)。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄元年(1592)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている。
 秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは反三成の東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。帰国途中の船内で発病し、永禄5年6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。 暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。

調合(ちょうごう);数種の薬剤をまぜ合せて、ある薬をつくること。



                                                            2018年10月記

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