落語「鍬潟」の舞台を行く
   

 

 五代目桂文枝の噺、「鍬潟」(くわがた)より


 

  え~、「一年を二十日で暮らす良い男」。こら相撲の世界でございますけれど、昔はこ~言う暮らしが出来たわけでございますな~。今は年六場所で、このほかに巡業なんかがあり、ま~、たいがい一年間ほとんど相撲取ってると言うことが多ございまして、それだけに怪我をしたり、体調を崩したりする人がずいぶんと多いよ~でございます。背丈につきましても、今、標準が1m67か8、これが標準やそぉでございますが、昔はずいぶんと小さい人がぎょ~さんにいてました。

 この噺は背のごく小さい人の噺でございまして、丈が二尺足らず。そのくせ非常に相撲が好きで、も~自分が暇なときと言うと、近所の子どもをつかまえては相撲を取ってると言うよ~な男。
 嫁はんと言うのがこれまた貞女でございまして、縫いもんをしたり使い走りをしながら生計を立ててる。今日も今日とて、相撲を取って帰って来る。
 「隣りの甚兵衛はんが来はって『大将が帰って来たら、遊びに来るよ~に』と、こ~言ってはった」。

 「ごめんやす」、「誰や?」、「わてでんねん」、「ささッ、こっち来てこっち来て、 まぁ上がり」、「それにしたって、えらい顔色が悪いな~。何ぞあったんかい?」、「わて、もぉ人間やめたろかしらと思てまんねや」、「そらど~言うこっちゃ?」、「友達がわてのことをボロクソに言いよりまんねや、『お前らみたいな小さいやつは、便所へ行たら臭みが早よ回るやろ』と、こんなこと言いよりまんねん。川っぷち歩いてたらな『そんなとこ歩いてて川へはまったら、コマンジャコがくわえていきよるで』。そんなこと聞いたら、わて人間嫌になりまんねや」、「いちいち気にすることあれへんで。小そ~て損することばっかりやないねん、得することもあるやないか」、「得することおまっか?」、「あるやないか。仮りにやで、着物一つこしらえるにしたら、反物一反買て、それで小さい人やったら着物こしらえたあと、前掛けの一つも取れるやないか」、「わてはな、反物一反買ったら、着物と羽織と、おまけに風呂敷まで取れまんねや」、「それだけ得やないかい」。
 「けど甚兵衛はん、小さい人で有名な人いてまっか?」、「お前、太閤秀吉っさん知ってるか? 太閤秀吉と言うたらな、一国一城の主や、五尺足らなんだちゅうねんで。それでも三百年の動乱を治めはった。あの人の家来で加藤清正、この人は七尺からあったちゅうねや、それでも五尺足らん太閤さんの家来やないか。浅草の観音さん、お身丈が一寸八分でも十八間四面のお堂に入ってるやろ、仁王さんは大きいても門番や。山椒は小粒でもヒリリと辛いと言うやないか、小さいさかい言うてな~んにも卑下することあれへんがな、偉そ~な顔して歩いたらえ~ねや」。
 「甚兵衛はん、よ~言うとくなはったな~、ところで、相撲(すもん)取りでも小さい相撲取りちゅうのんいてまっか?」、「あぁ、相撲取りでも小さい相撲取りがぎょ~さんいてるで」、「小さい相撲取りはやっぱり大きい相撲取りにいつも負けてまんねやろ」、「そなことあるかいな。小さい力士が大きい力士を投げ飛ばす。だから皆見に行くねやがな」、「小さい相撲取りが大きい相撲取りに勝ったちゅうよ~な話おまっか?」。

 「雷電関と鍬潟関との相撲取り組みがあった」。
 「五日ほど相撲までの余裕がある、そのあいだに鍬潟はエイの油を買て来て、それを体に塗っては天日に干し、エイの油を体に塗っては天日に干しして、ちょ~ど五日目。相撲も番数取り進んで、最後の取り組みになった」、「両力士が十分に仕切っといて、雷電が『ヨイショッ』と立ち上がると、鍬潟が『待ったぁ~ッ』としよった。また、雷電と両方グッと仕切りをして雷電が立ち上がると、鍬潟が『待ったぁ~ッ』、 何と『待った』が八十五へん。雷電、『よし、お前がそ~くんなら、わしは百ぺんまで待ってやろ~』と、気を緩めて仕切ってると、不意を突いた鍬潟が『ヨイショッ』と立ち上がりよった。不意を突かれて雷電は「ヨロヨロッ」と立ち上がった。鍬潟が突いてくるかいなと構えてると、鍬潟は何を思ったんか後ろへトットッと下がるなり、土俵の二字口で「ヨイッショッ」と大手を広げよったんやな~。さぁ、 雷電が怒ったのなんの『おのれ、小生意気なやっちゃ。捻り潰してやるわい』 と、肩口をグッと掴むとエイの油が付いてるやろ、ズルッと滑りよんねん。まるで鰻と相撲取ってるようなもんやなぁ。『えぇ~い、邪魔臭いわい』と、後ろ褌(みつ)をグッと掴もうとするやつを 鍬潟がヒョイッと体をかわして、雷電の股座くぐって後ろへ回るなり、雷電の折屈み(おりかがみ=膝)をボ~ンと突いたんや。体は小さいが名代の怪力士や、満身の力をもってボ~ンと突いたからた まらん。雷電はそこへゴロ~ッとひっくり返ってしもた。さぁ、客は大喜びや。『鍬潟が勝ったぁ~、うわぁ~ッ』この声が天は三十三天、地は奈落の底を通って、竜宮の乙姫さん寝てる枕元へ、この『うわぁ~ッ』と言う声が聴こえた」。

 「一年後雷電は鍬潟の福島の家へ行くと、エイの油を塗ってわしと一番相撲を取ってやろ~と言う、此方(こんた)のその度胸に惚れた。兄弟分になろ~やないかと言って、二人は兄弟分になった。せやさかい、何んも小さい言うてお前、気い病むことあるかい。偉そ~な顔して歩かんかい」、「甚兵衛はん、よ~言うてくれはりましたな~。甚兵衛はんとこへ、よ~相撲取りが遊びに来はりまんな~?」、「わてらみたいなもんでも、稽古したら大きくなりまっかいな?」、「相撲は稽古して皆大きなるんやがな」、「わても相撲取りになりとまんねや、甚兵衛はんちょっと世話してもらえまへんか?」、「わしが手紙を書いてやるさかい待って行きなはれ」。

 「ごめん」、「どなたやな?」、「難波の甚兵衛はんとこから来ましたんだっけど」、「あんたが、 相撲取りになりたいと、こ~言いなさるか?」、「親方、稽古したら大きなりまっか?」、「稽古したら大きなるぞ。お~い竿嶽(さおだけ)、竿嶽」、「へ~い」、「これから稽古場へ連れて行って稽古つけて進ぜぇ」。
 「こら竿嶽、稽古場へ子ども連れて来(く)なよ」、「新弟子でんねん」、「おまはん、相撲取りになるんかい」、「稽古したら大きなりまっか?」、「よし、そんならわしがひとつ稽古つけて進ぜよ」、「お願いします」、「裸になりなんせ、これ、竿嶽の褌(みつ)を貸して進ぜ~。さ、マワシを締めたるでな、足をウンと踏ん張るんじゃ。思い切りグッと踏ん張って~よ、えぇか、フラフラ したらあかんぞ。ほら、締めるぞ。八十六ぺんも回してるぞ、まだこんだけ余っとるやないかい、残りはここへ挟んどいたれ。まるで人間の心棒の唸りの独楽みたいなんができた。さぁ、遠慮なしにド~ンとぶつかって来い」、「お頼の申します」。
 「あんたの胸板は硬と~て痛とおまんな~」、「胸板? 胸板まで届くかい、わしの膝ボンじゃ」、「もっと柔(や)らかいとこおまへんか?」、「稽古に柔らかいも硬いもあるかい、ボ~ンと来い」、「これ、お腹やったら柔らこおますわ」、「お腹まで手が行くかい、手のひらじゃ。ほら来い、ほら来い来い、ほら来い」。
 「親方、おおきにありがとはんで」、「稽古つけてもらいなさったか?」、「へぇ、 稽古したら大きなりますな~」、「大きなるぞ」、「あしたも来まっさかい、よろしゅお頼の申します」、「毎日来なんせ」。

 「おい、今帰ったぞ」、「まぁ、どこ行ってなはったんや?」、「今日から俺ぁ~相撲取りになったんや。これから俺のこと”関”と呼べよ」、「『セキ』って、風邪ひきなはったんか?」、「何言うてけつかんねん。腹減った飯食うわ」、「今、用意をしてまっさかいな、待ってと~」。
 稽古の疲れが出たもんとみえて、そのままグ~ッと寝てしまいます。嫁はん、風邪ひかしたらいかんと言うので布団を掛けてご飯の用意。ご飯支度ができましたんで、「これ、あんた。これ、あんた、あ~そうや『今日から関取になったさかい、関と呼べ』言いはったな~、これ、関、関取ッ」、「う~ん、何じゃい?」、「ご飯の用意できましたで」、「そ~か、嬶、やっぱり稽古はせんならんもんやな~、いつもやったら布団のまま押入れへボ~ンとほり込まれるとこ、稽古したお陰や、グ~ッと伸びしたら、手も足も布団の外へはみ出よるわ」、「はみ出るはずやがな、座布団が着せた~る」。

 



ことば

五代目 桂 文枝(かつら ぶんし);(1930年4月12日 - 2005年3月12日)は上方の落語家。本名は長谷川 多持(はせがわ たもつ)。
 大阪市北区天神橋に生まれ、後に大阪市大正区に移る。終戦後大阪市交通局に就職するが、同僚でセミプロ落語家であった三代目桂米之助(右写真;右・米之助、左・文枝)の口ききで、趣味の踊りを習うため、1947年に日本舞踊坂東流の名取でもあった四代目桂文枝に入門。その後しばらくは市職員としての籍を置きながら、師匠が出演する寄席に通って弟子修行を積み、桂あやめを名乗り大阪文化会館で初舞台を踏む。ネタは「小倉船」。入門当初上方落語の分裂に巻き込まれ、一時期は歌舞伎の囃子方(鳴物師)に転向、結核を病んで療養生活を送った後、落語家としての復帰を機会に三代目桂小文枝に改名し、1992年には五代目桂文枝を襲名する。
 六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治と並び、昭和の『上方落語の四天王』と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。吉本興業に所属。毎日放送の専属となり、テレビ・ラジオ番組でも活躍。吉本では漫才中心のプログラムの中にありどちらかといえば冷遇されていたが、有望な弟子を育てて吉本の看板に育てた。吉本の幹部である富井義則は「文枝さんにはお世話になりました。三枝(六代目文枝)、きん枝、文珍、小枝とお弟子さんになんぼ稼がしてもらったわかりません。いや大恩人ですよ」と評価している。
 2005年3月12日 肺癌のため三重県伊賀市の病院にて死去。満74歳没(享年76)。法名:多宝院光徳文枝居士。1月10日の大阪・高津宮での「高津の富」が最後の口演となった。

原話;安永6年(1777)に大坂で刊行された笑話本、「新撰噺番組」巻五の「一升入る壺は一升」です。これは、子供並に小さな男が、何とか背を伸ばしたいと、日夜神に祈ると、ある晩、不思議な童子が夢枕に。童子は男に、「飯、餅、酒を一斗(18ℓ)ずつ飲食し、目覚めたあと背伸びをすれば、汝の背は布団から足が出るくらいにはなるぞよ」と、妙なご託宣。男は下戸だったのに、大きくなりたい一心。命がけで酒をのみ干し、馬のように食らって目覚めると、アーラ不思議、本当に足がニュッと布団の外へ。やれありがたいと狂喜して立ち上がると、背は元のまま。後ろを振り返ると、寝ていたのは座布団の上。オチの部分がそっくりですが、この小咄は、しょせん、人には生得の、定められた器しか与えられないという教訓でしょう。

円生の逃げ噺;上方落語で、東京にいつ移植されたかは、不詳です。東京では、大正から昭和初期に五代目三遊亭円生(1940年没)が得意にしました。五代目は「デブの円生」とあだ名されたほど、相撲取りなみに恰幅がいい落語家でした。戦後は、養子の六代目円生が継承。客種が悪いときに演じる「逃げ噺」の一つにしていました。
 六代目円生は、自身相撲に造詣が深く、ほかに、相撲ネタの「阿武松」「花筏」なども十八番でした。
 二尺二寸の「見果てぬ夢」類話「小粒」では、ある小男が大きくなりたい一心で芝山の仁王尊に願掛けします。すると、仁王さまが夢枕に立ち、「汝の信心の威徳により、背丈を三寸伸ばしてとらす」と、ありがたいお告げ。目覚めて、半信半疑で足を伸ばすと、蒲団から足がニュッ。やれありがたやとはね起きると、布団を横にして寝ていた。
 小男がからかわれる噺では、上方落語「野崎詣り」があります。野崎詣りの慣習、船上と土手の上の悪口合戦。船の小男がさんざん悪態をつかれ、くやしまぎれに「山椒は小粒で、ヒリリと辛いわい」と言い返そうとして、「山椒は、ええと、ヒリリと辛いわい」。土手の男が、「やい、教えてもろたんならちゃんと言え。小粒(一分金や一朱金等)が落ちているわい」と言うと、小男、舟の中をキョロキョロ探して「えっ? ど、どこに」。

大坂相撲(おおさかずもう);江戸時代から大正の末まで存在した相撲の興行組織。
 江戸時代初期、相撲興行は観客同士の暴力沙汰が絶えず禁止状態が続き、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の堀江で元禄15年(1702)に解禁され、以後力士らが勧進元となり全国の力士を大坂へ招いて試合を行うようになった。 公の許可で相撲興行ができることと大坂商人の後援とを背景に、18世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。しかし、寛政年間に江戸相撲が谷風雷電らの活躍で盛り返すと、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった。東西の力士の往来はかなり自由で、例えば谷風の好敵手で彼とともに実質最初の横綱になった小野川も、大坂で本場所をつとめている。それもあって当初は力量の差は東西でさほどでもなかったが、やがて有力力士の流出によって、幕末の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になった。
 明治には、大阪相撲協会ができた。この頃には、大阪で大関だった初代梅ヶ谷(のち横綱)が、東京相撲に移籍した際、本場所中程から取り進むことを余儀なくされるほど、東西の格差は広がっていた。
 東京相撲との合同興行も大正期まで恒例として行われたが、戦力差はいかんともしがたく、そのため出身地別対抗戦などの苦肉の策も考案された。両国国技館の落成など、東京相撲が隆盛を極めると、対抗して1919年(大正8年)、「大阪国技館」を建設したり、東京にならって東西制の団体優勝制度や個人優勝掲額を発足させたりした。
 1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会は解散し、大日本相撲協会が発足した。この時、横綱宮城山福松は、司家の本免許を持っていたためにそのまま横綱として位置を保障されたが、それ以外の力士は合併興行の結果で、それにふさわしい地位に配属された。

 

 左、谷風(左)・雷電(右)。 右、谷風・小野川

九紋龍清吉(くもんりゅう);細谷清吉(明和元年~文化5年)。大阪府交野市出身(生まれは愛媛県)。大阪相撲の時津風部屋に入門、その後、東西合併により1927年1月、序二段に付出される。1932年1月は幕下上位にあったが、春秋園事件による大量の脱退者の穴を埋めるために翌2月場所で東十両2枚目まで番付を上げた。この場所は4勝4敗の5分、翌場所は全休と幕下に落ちた。1933年1月と1934年1月に十両に復帰したが、いずれも負け越しに終わった。1935年5月に4度目の十両昇進で勝ち越したが翌場所は3勝8敗と負け越し、幕下に落ち、その場所(1936年5月)限りで廃業した。
 巨漢で、名も掌に一文銭が9枚並んだことに因んだと伝わる。深川の富岡八幡宮に建つ巨人力士身長碑・手形碑から大きさが伺い知れる。206cm、150kg。

釈迦ヶ嶽(しゃかがたけ);釈迦ヶ嶽雲右衛門(寛延2年~安永4年)。出雲国能義郡(現在の島根県安来市)出身で朝日山部屋及び雷電部屋に所属していた江戸時代の大相撲の第36代大関。本名、天野久富。実弟の稲妻咲右エ門も大関で、大相撲史上初の兄弟幕内力士でもあった。
 身の丈七尺五寸(2m27cm)、体重四十五貫八百匁(172kg)の巨人力士。当初は大坂相撲で大鳥井の名で看板大関として登場したが、1770年(明和7年)11月(冬場所)の江戸相撲の番付で釋迦ヶ嶽の名で登場した。その場所は6勝0敗1休1預の成績で、次の1771年(明和8年)春場所には6勝1敗1休のいずれも優勝相当成績に値する記録を残している。その後は関脇を4場所(うち2場所は休場)務めた。 釋迦ヶ嶽の人気は並外れた巨体にあった。元来病人のようであり、顔色が悪く、目の中がよどんでいたという。1775年(安永4年)の2月14日(旧暦)、現役中に27歳で死去。釈迦の命日と同じであり、しこ名と併せて奇妙な巡り合わせだと評判になった。
 江東区富岡にある富岡八幡宮に等身大記念碑が建っている。
 右写真:右側の円柱、人間の大きさと比べると、その大きさが分かる。富岡八幡。

二尺;1尺は約30.3cm、約60cm。小男を通り越した小男です。
 現在、相撲協会の新弟子検査の基準は、身長167cm以上、体重67kg以上(就職場所と言われる3月場所は中学卒業見込者に限り身長165cm以上、体重65kg以上となる)。これは標準ではなく、最低ラインです。

ボロクソ;朝飯前・へっちゃら・屁の河童・お茶の子サイサイ。また、クソミソの意にも用いる。ボロカス。(例:そないボロクソに言わんでもええやないか)。

コマンジャコ;フナ・モロコの稚魚やメダカなどの小魚。細かい雑魚。それから転じて、小せがれの意に言う。(例:コマンジャコが何ぬかす)。

雷電為右衛門(らいでん ためえもん);(1767~1825) 江戸後期の力士。信濃の人。当時の最高位である大関をつとめ無類の強豪ぶりをうたわれた。歴代幕内力士史上最高の成績。
 松江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回、生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。文化8年(1811)2月、43歳で引退。全盛時は六尺五寸(197cm)、四五貫(170kg)はあろうという、雲つく大男。43、44、38連勝、各一回。横綱・大関には一度も負けず、生涯10敗は、小結に一敗以外はすべて平幕・十両相手のポカ負けというところから、この噺のようなヨタ噺が考えられたのでしょう。相撲至上最強といわれる
 千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻を作って相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉(雷電)は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。寛政7年には大関に昇進し、実に16年27場所の長きにわたり大関の地位を保持。
  雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。
 落語「寛政力士伝」に詳しい。

  

 

 上左、雷電為右衛門。 富岡八幡の横綱碑に刻まれた雷電。 下左、墓所、報土寺(港区赤坂七丁目)。 雷電のマワシ。

鍬潟三吉(くわがた さんきち);鍬潟は、身長が二尺二寸(68cm)。相撲界には実在しない架空の関取。江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にすることはあっても、実際に割りを組んで、相撲は取らせませんでした。

 「大童山土俵入り」部分 写楽画

エイの油;エイの肝臓から抽出した油脂。火傷の薬に使用したという。また木彫りなどを染色したあとの色止めに使用されたとも。荏胡麻油とも。荏胡麻は、シソ科の一年草。インド・中国原産の油料作物。高さ約1m。茎は四角。葉・茎は浅緑色、葉は一種の臭気がある。花は白色。果実は小さく、炒ってごまの代用、また荏油(エノアブラ)を採る。いくつかの品種がある。

二字口(にじぐち);相撲で、東西の力士の土俵への上がり口。徳俵と平行に土俵外に俵が埋めてあり、二の字の形になっていることからいう。右写真。

三十三天(さんじゅうさんてん);仏教世界観における天の一つ。利はサンスクリット語トラーヤストゥリンシャTryastriaの音訳語の略称。原語は「33」、すなわち「33種の天(または天神)からなる世界」を意味し、「三十三天」と意訳される。須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、その東西南北にそれぞれ八つの城、中央に善見城(ぜんけんじょう)、合計33の城を有す。善見城中の殊勝殿(しゅしょうでん)には三十三天の首領である帝釈(たいしゃく)天が住む。この天は楼閣(ろうかく)、苑林(おんりん)、香樹(こうじゅ)に満ち、一種の楽園であり、欲界に属し、性の交わりの享受がある。釈迦(しゃか)の母は死後ここに生まれ、釈迦が彼女に説法するためにここを訪れたという。
 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

奈落(ならく);地獄。物事のどんぞこ。最後のどんづまり。奈落の底。劇場で、花道の下や舞台の床下の地下室。回り舞台やせり出しの装置がある。

浅草の観音さん;お身丈は1寸8分(約5.45cm)でも18間(約32.7m)四面のお堂に入ってござる。
  観音様は秘仏ですから誰も見た者は居ません。俗説に1寸8分の金無垢のお像だと言いますが、本尊とそっくりに作られた前立ち観音は2~30cmの木像です。下写真:春の本堂。

 

福島(ふくしま);大阪市福島区。鍬潟の住まい。北に新淀川、南は堂島川・安治川に面し、大阪市の西北部に位置しています。 区内に九つの駅を有し、市内中心部への、また、神戸方面への交通の要衝となっています。
 むかし大阪湾一帯には淀川の土砂が堆積してできた難波八十島があり、福島もそのひとつと考えられています。鎌倉時代には荘園がひらかれ、江戸時代に入ると安治川の開削や堂島川の浚渫(しゅんせつ)がすすめられ、新地が造成されました。



                                                            2018年11月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system