落語「卯の日詣り」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「卯の日詣り」(うのひまいり)より。類似江戸の噺「三人片輪


 

 中船場にお住まいの旦那、金満家なのに”せむし”になってしまった。風流人で、お仲間がよって来ます。そこに回り髪結いの磯七・磯村屋もやって来ます。二枚目な上に、太鼓持ちも同様というような、器量のエエ人。「旦那さん、卯の日でもございます、住吉っさんへお詣りしまひょッ」、「磯やんのお供は、御免蒙る。住吉っさんへご参詣、帰りには、どこぞで一杯飲む。顔もエエので、女子(おなご)は、磯やんのほうに集まるばっかりで、わしは、放ったらかし。後で勘定は、私に回ってくる。これでは、おもろいことおまへんわなぁ」、「わしのとこに集まらなければ良いのでしょ」。
 「お清どん何してるの」、「天気がエエので、洗濯しようと、鍋に一杯糊を炊いてる」、「ちょうど良いわ。洗濯糊チョット貰いますよ。梅干しの種と皮を取って、中身の果肉を入れて混ぜる。これを顔一面に塗って、古い綿かなんぞを、ちぎって、所々に付けておく」、「かったいみたいで、いやや」。
 「旦那、この顔でお供をすると、どんな女子でも、逃げて行きまっせ」、「エライ顔や。わしもいやや。その顔で表歩くか。では行こうか」。

 南へ南へ、住吉街道へ出てまいりますというと、その道中の陽気なこと。(下座から三味線が入る)道々、お乞食さんが、お恵みをと近寄ってまいりますが、磯やんの顔を見ますると、今度は反対に、逃げて行くという始末。普通の人が見たら、なおさら逃げて行く。「住吉さんの反り橋渡りまひょ」。ご参詣を済まします。裏手へ出てまいりますと、腰掛け茶店や、一見茶屋なども並んでございます。客引きが出ておりますが、せむしにかったいで、こらどうも、具合が悪い。「あんな人と夫婦になったら、身投げするとか、首吊る」とか言うてる。その仲居のいる店へ、頬ずりしたろと、これまた、わざわざ上がってまいります。
 「いらっしゃいませ。どうぞお二階に・・・」、「誰、あんな人引っ張ったの」、「自分で入ってきたの」、「あんたの番よ」、「いややわ。家に帰らして貰います」。
 「磯村屋、はなから誰も来ないじゃないか。頬ずりも出来ないやろ」、手を叩くと、ようようのことで、女子(おなご)衆が上がってまいります。お酒が運ばれてまいりますが、女子はんは、皆、旦さんのほうへと寄ってまいります。磯やんは、汚いので、病気が移ったらかなんて、誰も寄りません。
 「わしにも注いで」、「あんた、お酒飲まはりますのん?」、「そこの大きなので・・・。料理は時間がかかるから、突き出しを何で出さんかぃ。ツマミが無かったら呑んでいられん」。磯やん、顔の綿をちぎって、吸うては出す。そら、糊に梅干しでっさかいに、食べられますけどね。見てるもんは、ビックリする。顔の膏薬食べてると思う。マグロの刺身が出てきましたが、脂っこいもんは、体に悪いと、よそうてもらえへん。「調理場で刻み昆布か麩でも・・・」、「麩ッ、金魚やないわぃ」。あんまりうるさく言うので、「こっちに来いッ」、「何しますねんッ」、仲居はんを引っ張りますので、仲居はんも、気が強かったので割り箸を逆手に持って、顔を刺してしもた。ミミズ腫れがさっと走った。
 さすがに、磯やんも、腹が立ちまして、下へ降りてまいります。

 板場へやってまいりまして、「たらいを拝借。顔を洗うんじゃ」、「えっ、(顔を見て)病気が移ったらかなわん」、「犬洗う汚い、たらいを貸したら」、「鏡も貸して。自分の顔を見ると、自分でもビックリ。良く街中を歩いて来たもんだ」。
 顔を洗いますというと、そらエエ男ですわいな。板場連中、皆、ビックリしてなはる。「こしらえもんやったんですな」、心付けを渡しまして、「犬にあんじょう言っといてや・・・」。

 「お連れさん、エライ遅うおましたこと」、「さいぜんから来てるわぃ」、「あれ、こしらえもんだしたんかいな」、「手荒いことすな。ミミズばれがでけてしもたやないか」、「まあ、エライすんまへん。見事に、今日は引っ掛かりましたわ。照れくさッ。もうし、こっちの旦さん」、「なんじゃぃ」、「あんたも早う、背中のいかき、出しなはれ」。

 



ことば

落語「卯の日詣り」;桂米朝も言っているように、今後の出し物として演じられることは無いであろう作品です。人権に対する世相の高まりがあって、私でも違和感を覚えます。しかし、落語にはこの様な噺も有るのだという、一つの典型です。歴史的には残した方が良いのかも知れませんが、聞く人が不愉快になる噺は、自然淘汰されていくでしょうね。
 大阪の文化・歴史・人々の弱者への思いが伝わってきます。また、当時は病気に対する治療や認識が無く、やむを得ないところも有ったでしょう。

住吉大社の卯の日; 兎(卯)は住吉大社(大阪府住吉区)の御鎮座(創建)が神功皇后摂政11年(211)辛卯年の卯月の卯日であるご縁により境内のウサギ像は奉納されました。
 神使の兎と同様に御鎮座の「卯」つながりです。「卯之葉神事」は「卯の葉(うつぎ)」を使って五月の上卯日に行う神事で、卯の葉を玉串として捧げ、うつぎの小枝のかんざしをつけた神官や“卯の葉女”が石舞台で舞を奉じます。この卯日にお詣りするのを、卯の日詣りと言います。

江戸の「三人片輪」;上方落語の内容とは全く異なり、乞食のおし・つんぼ・めくらのそれぞれ真似をした三人が夜出て来て、ふくべの酒を飲みながら、月と虫の音を楽しんでいたが、乞食のおしが「祝儀を出せ」とせがんだために喧嘩となる。と言う噺。
 原作は鶯亭金升(おうてい きんしょう)と言い、昭和23年(1848)頃創られた噺で、原作者は都都逸の評者、邦楽の作詞家、雑俳の師匠、新作落語作家などの顔を持つ。 新作落語の代表作には、「応挙の幽霊」「細巻き」「酉の市」がある。 しかし、この作品は今の人権に配慮した作品でなく、品性もなく卑しさがにじみ出ている。”禁演落語”53話の中にも含まれていて、私は今まで聞いたことがなく、今後も放送されることもCDになることも無いでしょう。

せむしにかったいせむし=【傴僂】。(昔、背に虫がいるためになる病気と思われていたからいう) 背骨が後方に湾曲して弓状をなす病気。また、その病気の人。脊柱後湾。背中が飛び出してコブが有るように見えた。

かったい=カタイの促音化。ハンセン病。また、その人。
 ハンセン病=癩菌(らいきん)によって起る慢性の感染症。癩腫型と類結核型の2病型がある。癩腫型癩は結節癩ともいい、顔面や四肢に褐色の結節(癩腫)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なくなり、結節が崩れて特異な顔貌を呈する。皮膚のほか粘膜・神経をもおかす。類結核型は斑紋癩・神経癩ともいい、皮膚に赤色斑を生じ知覚麻痺を伴う。癩病。レプラ。過去には、不治の病で伝染性が有ったので、近づくだけで嫌われた。ほおずりをするなんて、論外中の論外。

中船場(なかせんば);大阪市中央区の地名。大阪の商業中心地区にあたる。豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城時に、大勢の家臣団や武士がこの地に集まり、武器・武具から食料・生活用品などが大量に必要となったので、平野や堺、京都、伏見から商業者を強制的にこの周辺に移住させ、急速に城下町の整備を進めた。平野町、伏見町といった町名はその名残りである。その後、船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地となり栄え始めた。 江戸時代には「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心となった。また、順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えた。大坂の町人文化の中心となったところ。中船場は船場の中でも中心と成ったところ。
 大阪市の中央区部、東西をかつての東・西横堀川、北と南を大川および長堀川によって囲まれた東西1km、南北2kmに長い長方形の地。現在は北浜や御堂筋などを含む問屋街・金融街。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。

 

 浪花名所図会 「船場の順慶町夜店の図」 歌川広重画 国立国会図書館所蔵  
 南船場四丁目にある交差点は「井戸の辻」と呼ばれています。その由来は、その名の通り、辻に井戸があったから。

 順慶町の夜店は大坂の名物で、曲亭馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』にも「順慶町の夜見世こそめさむるわざなれ。暮より四ツ時(午後10時)までは十町余両側みな商人なり。故に買い物には夜出る人多し」とあります。
 順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊郭へ至る新町橋が架けられ、夜市で賑わっていた。
 落語「貝野村」より孫引き

回り髪結い(まわりかみゆい);各お宅を回る移動髪結い。自分の店を持たず、お得意さんのお宅に4~5日おきに伺って、ご主人から小僧までの髪を直して歩いた髪結い職人。
右図:回り髪結い、「江戸商売図絵」三谷一馬画より。

太鼓持ち(たいこもち);幇間。男芸者。客の宴席で、座を取り持つなどして遊興を助ける男。落語「王子の幇間」に詳しい。「紺屋高尾」、「搗屋無間」、「松葉屋瀬川」、「鰻の幇間」等にも出てきます。

 幇間の「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味の職業となります。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びのプロが、幇間すなわち太鼓持ちである、ともいわれる。
  専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。正式な「幇間」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公をして、正式な幇間となる。芸者と同じように、見番に所属している。服装は、見栄の商売であるから、絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄または正目の通った下駄、扇子を鳴らしながら、旦那を取り巻いた。

洗濯糊(せんたくのり);糊は、米・正麩(シヨウフ)などの澱粉質から製した、粘り気のあるもの。広義には接着剤をいう。布地の形を整えこわばらしたり、物を貼りつけたりするのに用いる。のり屋の婆さんと言えば、長屋には老人の商売として、洗濯のりを自分で作り売って歩いた。ここでは大店なので、洗濯担当の女中がのりを作って洗濯を始めるところであった。

住吉街道(すみよしかいどう);新興都市の大坂と既存都市の堺を結ぶ、住吉参詣を兼ねた道路「住吉街道」として整備された。紀州街道の堺以北の区間はこの住吉街道がほぼそのまま踏襲されている。
 国道26号線で、大坂城下高麗橋または日本橋(大阪市中央区) - 今宮村(大阪市浪速区) - 天下茶屋(大阪市西成区) - 住吉村(大阪市住吉区)=住吉神社をつないでいます。

腰掛け茶店(こしかけじゃや);路傍や公園などによしずを差し掛けて腰掛けを置き、通行人を相手に茶や菓子を供する茶屋。掛け茶屋。

 

 歌川広重「木曽街道六十九次・関ヶ原」  右側の茶屋では旅人相手に茶の接待をしています。看板に”そばきり”、”うんどん”と入っていますので、味は別にして軽い食事ぐらい出来たのでしょう。

一見茶屋(いちげんちゃや);上記のような掛け茶屋ではなく、もう少し上等なお茶屋さんです。料理、お酒の提供が出来て、場所によったら芸子も呼べる高級料理屋です。予約や茶屋を通さなくても、ふらりと入ることが出来る料理茶屋。

住吉さんの反り橋(すみよしさんのそりはし);大阪市住吉区の住吉大社境内に架かる橋。通称で「太鼓橋」とも呼ばれ、この橋を渡ると本殿に行かれる。橋の長さは約20m、幅は約5.8mの木造桁橋。橋中央部の高さは4.4mで、中央部を頂点として半円状に反っている。最大傾斜は約48度となっている。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っている構造になっている。

 

 大阪名所絵はがきより、明治期の反橋(太鼓橋) 当時は神専用の橋で参拝者は渡れず、参拝者は手前の便宣橋(よるべばし:撤去年不明)を利用した。 下記、現在の反り橋。

仲居(なかい);遊女屋・料理屋・宿屋などで、客に応接しその用を弁ずる女中。

ミミズ腫れ(みみずばれ);皮膚の傷跡が、ミミズのように長く赤く脹れること。また、そのもの。

板場(いたば);料理屋で俎(マナイタ)を置く所。料理場。また、菓子屋でのし板を置く所。転じて、そこで働く者。板前(いたまえ)。いたもと。いた。

いかき;竹で編んだ籠(カゴ)。ざる。畿内及奥州にては、”いかき”、江戸にて、”ざる”と呼称します。
 せむしの旦那さんには、背中にザルでも入れていると思って、磯やんは顔を洗ってネタばらしをしたので、今度は旦那さんの背中に入って居るであろうザルを取ったらどうかと勧めました。



                                                            2018年12月記

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