落語「囃子長屋」の舞台を行く
   
 

 五代目 古今亭今輔の噺、「囃子長屋」(はやしながや)より


 

 江戸の祭りでは将軍様御上欄が有った。神田祭と山王様の祭りは城内に入って将軍様に観せたという。あまりに大きなな象の張りぼてを作ったために、門から入らないので、象を半分にして入ったという。その門が半蔵門という(?)。

 町内の頭(かしら)が先頭に立ち、木遣りを歌い、その後からお囃子の連中が続きます。スケテンテン スケテンテン ピッ~ヒィ スケテンテン テンテンテレツク スケテンテン・・・ シャイトロヒャラリリ テンツクスケテンテン・・・。”屋台”が打ち上げになりますと、”昇殿”から”鎌倉”、ヒャイト~ロ ヒャイト~ヒャラリラ チェイン ドンドンドン チェンドンドン・・・、ピッ ヒャイト~ロ・・・(口まねでお囃子が続きます)。
 「大家さん、ずいぶん疲れるでしょう~」、「小さい時から太鼓が好きで、十五の時には、各町内から呼ばれて祝儀を貰い、その金で建てた長屋だ。
 林長屋、囃子長屋と言い縁起が良い長屋だ。裏長屋から表店に、みんな出世して出て行く。お前さんは大工だから棟梁になるだろう」。

 「一週間も家を空けて、何してんだいッ」、「囃子の稽古に行ってたんだ」、「文明開化の明治のこの時代になってお囃子だなんてトンチキだよ」、「何がトンチキだ。お前はドンツクだ」、「何言ってるんだい、トンチキめ」、「ドンツクめドンツクめ」、「トンチキめトンチキめ」、「ドンドン ドロツク ドンツクめ」、「トントントロツク トンチキめ」、「父ちゃん、家を空けて、母ちゃんいじめて悪いよ。七輪に火がおこっているんだよ、危ないよ。チャン シチリン チャンシチリン」、「トンチキめトンチキめ、トントントロチキ トンチキめ」、「ドンツクめドンツクめ、ドンドンドロツクドンツクめ」、「チャンシチリン チャンシチリン」。
 それを聞いた大家が「ありがて~、どこの家だか判らないが、囃子の稽古。祭りが近づくと好い気分だ。おやッ囃子の稽古じゃなく、八五郎の家で夫婦喧嘩だな。太鼓に鉦が有るから、笛の気持ちで仲裁をするか」、障子をガラッと開けて「ま~いいやったら、ま~いいやッ、マ~イー マ~イー マァ~イイヤッ」。

 



ことば

■五代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ);今輔については落語「表札」をご覧ください。

祭り囃子(まつりばやし);今輔は口でリズムを取って延々と祭り囃子をやっています。文字にしてもおもしろくは無く、実際に音として耳にすると、その完璧さに驚きます。

 ・祭り囃子概要:祭囃子は祭に付随する音楽を総称したもので、各地域にあるそれぞれの祭に密着して発展してきたものである。そのため、日本全国で同じ曲や楽器構成を指すのではなく、一つの起源に遡ることができるものでもない。曲の内容もその祭の目的や性格、演奏される場面に関連したものであり、童謡「村祭り」などでイメージされるような賑やかな雰囲気の曲であるとは限らず、逆に静かでゆっくりとした曲も存在する。太鼓の奏法である複式複打法を用いる演奏形態(組太鼓形式)を祭囃子と呼ぶ地域もあり、「祭囃子」という言葉であらわされる中にも非常に多種多様な楽曲が存在している。

 ・奏者:他の邦楽との違いとして祭囃子の奏者は祭りを主催する神社や寺社の氏子や檀家である一般人の場合が多い。他の邦楽にはプロ奏者が存在し、そういった奏者が祭囃子を担当することもあるが、祭囃子に限ってのプロ奏者というのは数が少ない。兼任する奏者としては、太神楽師や神楽師、邦楽家、神職など。神輿の担ぎ手や山車の引き手にプロがいないのと同じように、氏子や檀家が祭りのために練習をし、祭りのときのみ演奏されてきたものが多いためであり、地域に根付いて伝承されてきた音楽であるという特徴のためである。また、地域によっては奏者が少年少女に限られる場合もある。

 ・楽器:使用する楽器は、和楽器である。その中でも笛(篠笛・能管・龍笛など)、和太鼓(中音の打楽器を担当する締太鼓や、低音の打楽器を担当する大太鼓や大胴、そのほか大拍子、団扇太鼓、担ぎ太鼓など)、鉦(摺鉦・当たり鉦、高音の打楽器を担当する)の3種が多いが、地域によっては弦楽器などを取り入れるところもある。また、神輿に太鼓を結びつけ、その太鼓のみを打つ場合もある。また謡が入る場合や木遣り(手古舞)と合わさる場合、掛け声が入る場合もある。

  左上より、太鼓・締太鼓・鉦・能管


 ・演奏形態・服装:祭囃子は祭の行事に伴って演奏されるため、行事の形態により演奏形態や服装も異なる。神社内で祭が行われる場合、境内にある能舞台、神楽殿等で演奏される。また、集落内に舞台を作り演奏される場合もある。祭の行事に行列がある場合はそれに加わり歩きながら演奏したり、山車、屋台などが出る場合はそこに乗り込み演奏する。 演奏するときには半天(半纏、袢纏、法被)など派手な和服を着ることが多い。また、地域によっては厚化粧をする場合もある。これには先述の奏法の違いや奏者の兼任する職業なども影響している。
 ウイキペディアより

 

 浅草三社祭の屋台囃子。

■葛西囃子(かさいばやし);祭の際に演奏される音楽で、祭囃子(まつりばやし おはやし)の一つ。神田囃子などをはじめとした現在の東京都およびその周辺の祭囃子の祖。 葛西囃子と言う名称は戦後有志によって保存会が結成されてから付けられたものであり、それまでは特定の呼称を有さず単に「お囃子」と呼ばれていた。 江戸時代、東葛西領の総鎮守であった金町村の香取神社(葛飾区、葛西神社)の神官が創作した祭り囃子。現在の東京都およびその周辺の祭り囃子の祖とされる。 葛西囃子には「本所(ほんじょ)囃子」「神田囃子」「住吉囃子」等の支派が多数存在するがこれらはいずれも葛西囃子より派生したものである。なお、現在では「きりばやし」と言う流儀が葛西囃子の代表となっている。 葛西囃子は江戸祭り囃子の代表的存在とされ、神田祭や山王祭と言った江戸の天下祭において付祭(つけまつり)の山車(だし)囃子として奉仕する事を常としている。 昭和28年には東京都の無形民俗文化財に指定されている。
 編成は5人で、大太鼓(大胴)1名、しめ太鼓(しらべ)2名、笛(とんび)1名、鉦(よすけ)1人名。
 ケテンテケテンテンテンステックという「上げ」(打ち込み)の囃子にはじまり、屋台囃子という曲から一定の順序で数曲続け、ふたたび屋台囃子で終わるというのが一般的。

1.打ち込み (締太鼓を打ち込む。言うなれば前奏曲部分)
2.屋台 (笛、締太鼓、鉦、大太鼓、と次第に音調を整える)
3.昇殿 (全体としてゆったりとした演奏)
4.鎌倉 (鳶職の「木遣り」と似ている。比較的静か)
5.四丁目(師調目・使丁舞・四丁舞) (一番賑やかに奏する箇所で演奏者の技量が問われる)
6.屋台 以上の順序で演奏する六段構成が基本となっている。

 この項ウイキペディアより

囃子について;五代目今輔は、著書「今輔の落語」の解説でこの噺は、六代目橘家円太郎(生没年不詳、明治中期~昭和初期)に教わったと語り、さらに自分の祭囃子は、鏡味小松から習ったため、神田囃子で通した先々代(三代目)や円太郎と違って、太神楽になっていると断っています。 もっとも、太神楽は江戸時代から現在まで神田祭には先触れとして参加していますから調子がお神楽でも、一向に不自然ではないでしょう。太神楽の祭囃子は、「打ち込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「返り屋台」と続きます。 こちらは神田囃子より一時代前の、葛西囃子の系統を引いているとか。 なお、六代目円太郎は音曲師でしたが、昭和初期には落ちぶれて消息不明に。 したがって、今輔がこの人に教わったとすれば大正末か昭和の始め、柳家小山三時代でしょう。

今輔二代の十八番(おはこ);明治初期に創作(または改作) されたことは間違いありませんが、原話はもちろん作者、江戸時代に先行作があったかどうかなど、詳しい出自はまったく分かっていません。 三代目柳家小さんから、「代地の今輔」と呼ばれ、音曲噺が得意だった三代目古今亭今輔(1869-1924)が継承して十八番にしました。三代目今輔は、小さんの預かり弟子でした。その没後、しばらくとだえたのを、若き日に三代目小さんに師事した五代目今輔(1898-1976)が、1941年の襲名時に復活。以来没するまで、しばしば高座に掛けました。 この人こそ新作派の闘将。 「ラーメン屋」、「青空おばあさん」ほかの創作落語で一世を風靡しました。

本所林町(はやしちょう);現・墨田区立川一~三丁目竪川南岸にそった細長い町。林町は「囃子」と掛けたダジャレです。なお、歌舞伎の囃子方の控室を囃子町と呼び、さらに囃子そのものも指すようになりました。 ただし、本所の方が「はやしちょう」なのに対し、芝居のそれは「はやしまち」と読みます。

神田祭(かんだまつり)東京都千代田区の神田明神で行われる祭礼のこと。「神田明神祭」とも呼ばれ、山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている。(三社祭の代わりに深川祭とする事もある)京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本の三大祭りの一つにも数えられる。なお祭礼の時期は現在は5月の中旬だが、以前は旧暦の9月15日に行っていた。三大祭りは、後世の人が勝手に言い始めたことで、どこも、わが社が一番と言っています。江戸三大祭について「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われたように、神田祭も元々は山車の出る祭りだった。
 山王祭と並んで「天下祭」と呼ばれ、山車は江戸城内までくり込むことを許されました。 延宝年間(1673~81)に幕府の命により、両者交互に本祭、陰祭を隔年に行うようになりました。

 

 江戸時代の左、神田祭の神輿風景と、右、山車に乗ったお囃子連中。江戸東京博物館蔵

山王祭(さんのうまつり);日枝神社(千代田区永田町10)は、古くは江戸山王大権現と称され、天正18年(1590)、徳川家康公が江戸城入城より、江戸城の鎮守である山王社(日枝神社)は爾来、将軍家の産土神として江戸300年を通じて東都第一の社として崇敬されました。 慶長9年(1604)三代将軍家光公が城内にて誕生なされてより、「我誕生所之霊神」として篤い信仰を寄せました。 6月15日の大祭である山王祭はその規模は東都随一と称され、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭の一と称され、その祭礼に係わる費用を幕府より支出したことから「御用祭」ともいわれました。
 山王祭といえば「神幸祭」です。その神幸祭が初めて見えるのは、二代将軍秀忠公の元和2年(1616)からといわれています。また寛永12年(1635)家光公が城の楼上にて神幸行列を御覧になり、これが「徳川実紀」における将軍上覧の初見です。以後、将軍の上覧は江戸時代を通じて恒例となり、神輿の城内渡御は106回を数えました。 日枝神社ホームページより

 右図: 「糀町一丁目山王祭ねり込」 歌川広重画 『名所江戸百景』より、夏 東京国立博物館蔵。

 

 東都日枝大神祭禮練込之図

(かしら);鳶(とび)・左官の親方。鳶は大工仕事で足場作業や高所作業などをする職人。江戸時代は火消しを兼務していたし、出入りの店(おたな)でトラブルがあれば、真っ先に駆けつけます。左官は壁などをコテを持って塗る職人。

木遣り(きやり);木遣歌。木遣の(木を切り出す)時に歌う一種の俗謡。祭礼の山車(ダシ)をひく時や祝儀などにも歌う。木遣節。木遣口説(クドキ)。

棟梁(とうりょう);大工のトップは棟梁(とうりょう。江戸弁で、とうりゅう)と言います。 決して頭とか親方とは言いません。

七輪(しちりん);木炭や豆炭を燃料に使用する調理用の炉。「七厘」とも書く。関西では「かんてき」ともいわれる。右図。
 語源は、諸説あるがはっきりしない。
1.わずか7厘(金銭単位)で買える木炭で十分な火力を得ることができたことから
2.わずか7厘(重量単位)の重さの木炭で十分な火力を得ることができたことから
3.下部の炭火を受ける皿に7つの穴があったことから など。



                                                            2018年12月記

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