落語「廓大学」の舞台を行く 初代柳家小せんの噺、「廓大学」(くるわだいがく)より
■出典;儒教とともに絶えた噺。原話は寛政8(1796)年刊の創作小咄本 「喜美談語」中の「学者」です。 これは、吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。 ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で、「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」 などと、先生をケムにまくものです。落語としても、演ずるにも聴くにも、 儒教の基礎知識くらいは必要なので、 明治のころも、誰でもやれたわけではないでしょう。小せん没後は、後継者はありません。
■盲の小せん;初代柳家 小せん(1883年4月3日 - 1919年5月26日)は、本名は鈴木 万次郎。
浅草福井町の提灯屋を営んでいた二代目三遊亭萬橘(元:四代目七昇亭花山文)の実子。1897年に四代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となったが、師匠柳橋の死去にともない三代目柳家小さん門下に移って小芝となり、その後小せんに改名した。丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子三代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。
■四書五経(ししょ ごきょう);『大学』『中庸』『論語』『孟子』を四書と、易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五経。
・中庸(ちゅうよう);四書の一。1巻。天人合一を説き、中庸の徳と徳の道とを強調した儒教の総合的解説書。孔子の孫、子思の作とされる。もと「礼記」の1編であったが、宋儒に尊崇され、別本となり、朱熹(下記参照)が章句を作って盛行するに至った。
・論語(ろんご);四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子研究の基本資料。孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの意見を述べている。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
・孟子(もうし);四書の一。孟子が孔子の道を祖述して仁義を説き、あるいは遊歴の際、諸侯および弟子と問答したことを記した書。梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心の7編から成る。後漢の趙岐が各編を上下に分って14巻とし、これに注した。また、朱熹(下記参照)の集注がある。
■大学;儒教の経書の一つ。もともとは『礼記』の一篇であり、曾子によって作られたとも秦漢の儒家の作とも言われる。
人生れて八歳より小学に入り、十有五にして大学にいたる古への法なり、今時の子供を見るに八歳にて煙管を咥へ、十有五にして死一倍をかつて傾城を請生す魂胆、是人たるものゝ道と思へり、宣なる哉、教ずして人生れながらに知ものにあらざれば、若子様ともてはやされて我侭に育ち、無性に高ふとまつて己が家業に心を寄せるは、至らぬかなと賎しめ、諸芸色遊びにかゝつて放埓に身を持つを、銀持の風俗は斯くこそと思ひ込んで、自ら非を改むる心はなくて、分際不相応の遊びに親の譲り銀を皆になし、昨日迄は大臣と呼し男、今日は太鼓の針立坊となつて、老て辛労する人あまたなり、是皆幼少より父子の礼儀たがひ、親は子に孝行をつくし、身の脂を出して設けてあてがひ、子は親を不粋なりと見くだし、今あの堅さでは世間はつとまりませぬ、随分異見致せど、誰に似てか片意地で直されぬに困ると、彼方此方に変つたる世間の息子気質、様々なる事を書き集めて、すぐに題号として梓に彫め、孝にすゝむる一助ならんかし
親父尤もと点頭(うなず)き子息を呼び付け、汝学問立をして、商売の道を脇にするのは大きなる誤り、其上儒道を学ぶ者が、夕べも茶屋へ行きて夜半八つに帰り、己れが酒機嫌に任せ、湯の水のと寝て居る家来共を起し、たわけを尽すが儒者の教へか、論語読みの論語知らずめ、重ねて書物を止にして、帳合を大事に掛けよと、額に皺を寄せて叱からるゝ詞の下から、子息は又物知顔を止めず、父為レ子隠子為レ父隠直在二其中一といふは孔子の語なり、父の罪をば子として隠し、子の罪をば父として隠すは、親子自然の道理にして、人の心の至極せる所なり、道理に従ふを直とす、然るに今手代大勢聴く前にして、茶屋狂ひする子の罪を顕はし玉ふは道理に背むけり、如何んぞ直とせんやと云へば、親父苦々しい顔にて、猪口か皿か知らぬが其の陳ぷん漢ぷんが家業の妨げじや、仮名で算盤稽古召されよと、教訓を致されぬ、
若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極の、女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の、並でない反骨精神と力が感じられます。
■『ご亭主の曰く、大概は格子の嘘にして諸客床に入るの門なり。独りこの辺の損するによる。本望之に伏す。客者必ず其の迷わざるに庶(ちか)し』;
■『娼の門の前に曰く、日々荒っぽくしてまた日に荒っつぽく』;
■大客朱熹章句(だいきゃく しゅき しょうく);大学朱熹章句の言い換え。
■朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。朱子(しゅし)と尊称される。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者。右図。
朱子学;朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。なお、朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。
朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。
■吉原細見(よしわらさいけん);正しくは「新吉原細見記(さいけんき)」で、吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。毎年タイトルを変えて改定され、延宝年間(1673-1681)から大正5(1916)年まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。
安永4(1775)年版の「籬(まがき)の花」、
天明3(1783)年版の「五葉松」などが有名です。
上図:吉原細見の一部。 下図:貞享年間と考えられる、細見の一番古いと思われる図。江戸東京博物館蔵。
■吉原の様子;若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりが有ります。
・積夜具:客が女郎と馴染みになったしるしに、新調の夜具一式を贈り、それを積み重ねて飾ること。
夜具の敷き始めは、客から送られた夜具を最初に茶屋に飾られてから、青楼に運ばれました。この時青楼一同に蕎麦を振る舞いました。布団を作るだけでは無く、祝儀その他を足すと50両くらい掛かりました。ので、大尽でなければ出来ませんでした。「江戸吉原図聚」三谷一馬画より
・本床(ほんどこ):通常使うような夜具でなく、特に花魁の専用個室に備えられた個人用夜具。大事な人としか使わない大事な夜具。
・車(くるま):人力車のこと。右写真。
・堤:吉原の山谷堀にあった土手を、日本堤といった。
■儒者(じゅしゃ);儒学を修めた人。儒学を講ずる人。儒士。儒。
■孔子(こうし);(呉音はクジ)
中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(チユウジ)。魯の昌平郷陬邑(スウユウ=山東省曲阜)に出生。尭・舜・文王・武王・周公らを尊崇し、古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡(オクリナ)する。(551~479)
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