落語「廓大学」の舞台を行く
   

 

 初代柳家小せんの噺、「廓大学」(くるわだいがく)より


 

 道楽が過ぎて二階に軟禁状態の若旦那。大旦那はもう勘当しかないと考えている。

 二階の様子があまりにも静かなので、心配した番頭が上がってみると若旦那はなにか難しそうな本を読んでいる。「いつもとは違ってお堅い本を・・・なんでございます」、「これは大学、これは中庸、論語に孟子だよ。親父がこのとおり四書五経やらいろんな書物を買って横丁の漢学の先生に頼んで勉強させてくれた。その親の恩も顧みず、放蕩に身を持ち崩したのは情けないし、詫びても詫びきれない」と、やけに殊勝な言い草だ。番頭は若旦那が本当に反省、改心したものと思い込んで、大旦那に報告する。

 「そうか、今まであいつには随分とだまされてきたが、大学の素読でもしているようなら今度の改心は間違いないだろう」と、ほっと安心。二階の若旦那は番頭がいなくなると、”吉原細見”なんぞを開きながら、一人で吉原の思い出などをぐずぐずと喋っている。
 「・・・おやじは吉原へ行けば、必ず騙されると思っていやがる。廓でおれぐれえの顔になれば、仲の町を通れば芸者でも若い衆(し)でも幇間でも俺に挨拶しなければ向こうで恥かくてえ様子も知らんで、女郎を買えば瘡かくなんて言いやがる。世の中、開化開化で騒いじゃいるが、吉原には昔のままのところがある。大門近辺の車夫なんぞは毎日、江戸の華の喧嘩を稼業にしているようなもんだ。どうかして親父を廓へ一ぺん連れてって、おれが花魁や芸者に可愛がられ、たいそう売れているところを見せてやりたいね。この細見を見ると古い川柳を思い出すよ。”細見のにくいところへ穴をあけ”、ちくしょう、どうしても今夜行きたくなってきやがったよ」。
 夢中になっていたが後ろに人の気配を感じてひょいと後ろを振り向くと、何とも言えない表情を浮かべて親父が立っている。

 「おや、だいぶご勉強だ、番頭からお前さんは改心なさって素読をしていると聞いたが、後ろで立ち聞きしていたら、おまえ夢中になって廓の独り言をしていたようだが、なんの本を素読していたんだね?」、「へえ、大学の素読をしていました」、「お前さんが子どものころ、漢学の先生のところから帰って来て、『大学朱熹章句・・・』と言うのを聞きなれていたぞ。今読んでいたのとは少し違うようだからちょっと読んで聴かせてごらん」、「これは今度できました廓大学と申して新規に文部省が作った大学で・・・、へへへ」、「いちいち断らずに早く読んでみろ」、「ええ、大客朱熹章句、『ご亭主の曰く、大概は格子の嘘にして諸客床に入るの門なり。独りこの辺の損するによる。本望之に伏す。客者必ず其の迷わざるに庶(ちか)し』 」、「そこには、吉原の大門の車夫は荒っぽくて毎日喧嘩するてぇなことが書いてあるのか?」、「へえ、『娼の門の前に曰く、日々荒っぽくしてまた日に荒っつぽく』、とな」。

 二人の廓大学問答は続いて行く。
 いい加減におちょくられて堪忍袋の緒を切らして、「どれ見せろ!これは細見じゃないか。馬鹿にしおって。”玉章(たまずさ)、松山(まつやま)”、なんだこれは」、「恐れながら、儒者ですよ。号を松山(しょうざん)先生、玉章(ぎょくしょう)先生いうお方です」、「こんな先生どこにいるんだ」、「一緒に行ってごらん遊ばせ、格子(孔子)の内におります」。 

 



ことば

出典;儒教とともに絶えた噺。原話は寛政8(1796)年刊の創作小咄本 「喜美談語」中の「学者」です。 これは、吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。 ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で、「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」 などと、先生をケムにまくものです。落語としても、演ずるにも聴くにも、 儒教の基礎知識くらいは必要なので、 明治のころも、誰でもやれたわけではないでしょう。小せん没後は、後継者はありません。

盲の小せん;初代柳家 小せん(1883年4月3日 - 1919年5月26日)は、本名は鈴木 万次郎。 浅草福井町の提灯屋を営んでいた二代目三遊亭萬橘(元:四代目七昇亭花山文)の実子。1897年に四代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となったが、師匠柳橋の死去にともない三代目柳家小さん門下に移って小芝となり、その後小せんに改名した。丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子三代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。
 1910年4月真打昇進したが、それまでの過度の廓通いが祟って脳脊髄梅毒症を患い腰が抜けたため、人力車で寄席に通い、妻に背負われて楽屋入りし板付きで高座を務めるようになった。1911年頃には白内障を患って失明した。 落語の実力は他の追随を許さないほど優れていた。師匠小さんのネタはほとんど演じておらず、『居残り佐平次』『お見立て』『お茶汲み』『五人廻し』『とんちき』『白銅』などの廓噺を得意とした。速記も残されている。 晩年は師匠小さんの薦めにより、自宅の浅草三好町を稽古場として月謝をとって落語を教えており、この稽古場は「小せん学校」や「三好町通い」と称された。直弟子はいなかったが五代目古今亭志ん生、林家彦六、六代目三遊亭圓生、五代目麗々亭柳橋、三代目三遊亭金馬など、後に名人となった多くの落語家が小せんから直接教えを受けている。
  ただし、五代目 柳亭左楽門下の文楽だけは三代目 三遊亭圓馬に心酔していたので、圓馬の追っかけだったから、「小せん学校」では、文楽は見掛けなかったと、圓生さんが証言しています。
 最後の高座は1919年5月の下谷金杉の壽亭で得意ネタだった『居残り佐平次』で、その数日後に三好の自宅で心臓麻痺のため37歳で死去。大正期には、廓噺の完成者である 「盲小せん」こと、初代柳家小せんの十八番でした。小せんは、二代目小さんの孫弟子です。現存する小せんの速記は、大正8(1919)年9月に、小せんの遺著として出版された、「廓ばなし小せん十八番」に収載されています。
 
 今回はテープの音源から概略を書き出していません。速記本から書き出しています。

■四書五経(ししょ ごきょう);『大学』『中庸』『論語』『孟子』を四書と、易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五経。

中庸(ちゅうよう);四書の一。1巻。天人合一を説き、中庸の徳と徳の道とを強調した儒教の総合的解説書。孔子の孫、子思の作とされる。もと「礼記」の1編であったが、宋儒に尊崇され、別本となり、朱熹(下記参照)が章句を作って盛行するに至った。

論語(ろんご);四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子研究の基本資料。孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの意見を述べている。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
 書物の上のことを理解するばかりで、これを実行できない者を、論語読(ヨミ)の論語知らずという。

孟子(もうし);四書の一。孟子が孔子の道を祖述して仁義を説き、あるいは遊歴の際、諸侯および弟子と問答したことを記した書。梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心の7編から成る。後漢の趙岐が各編を上下に分って14巻とし、これに注した。また、朱熹(下記参照)の集注がある。

■大学;儒教の経書の一つ。もともとは『礼記』の一篇であり、曾子によって作られたとも秦漢の儒家の作とも言われる。
 伝説上、孔子の弟子曾参(紀元前505年 - 紀元前434年)の作とされた。唐代の韓愈・李翺らの道統論によって持ち上げられ、北宋の二程は「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称した。二程の思想を継承する南宋の朱熹は『大学』を『礼記』から取り出して、『論語』『孟子』に同列に扱って四書の一つとし、二程の意を汲んで、四書の最初に置いて儒学入門の書とした。儒家にとって必要な自己修養がいわゆる三綱領八条目の形で説かれているという。
  その内容には「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目が提示されている。 1715年、道徳の乱れを理由に執筆された、気質物の浮世草子である”世間子息気質”が出版された。

人生れて八歳より小学に入り、十有五にして大学にいたる古への法なり、今時の子供を見るに八歳にて煙管を咥へ、十有五にして死一倍をかつて傾城を請生す魂胆、是人たるものゝ道と思へり、宣なる哉、教ずして人生れながらに知ものにあらざれば、若子様ともてはやされて我侭に育ち、無性に高ふとまつて己が家業に心を寄せるは、至らぬかなと賎しめ、諸芸色遊びにかゝつて放埓に身を持つを、銀持の風俗は斯くこそと思ひ込んで、自ら非を改むる心はなくて、分際不相応の遊びに親の譲り銀を皆になし、昨日迄は大臣と呼し男、今日は太鼓の針立坊となつて、老て辛労する人あまたなり、是皆幼少より父子の礼儀たがひ、親は子に孝行をつくし、身の脂を出して設けてあてがひ、子は親を不粋なりと見くだし、今あの堅さでは世間はつとまりませぬ、随分異見致せど、誰に似てか片意地で直されぬに困ると、彼方此方に変つたる世間の息子気質、様々なる事を書き集めて、すぐに題号として梓に彫め、孝にすゝむる一助ならんかし

— 世間子息気質 序
 また、世間子息気質の中の一つに、実学を疎かにし、儒教を学ぶことにより身を崩す商人の息子の話がある。

親父尤もと点頭(うなず)き子息を呼び付け、汝学問立をして、商売の道を脇にするのは大きなる誤り、其上儒道を学ぶ者が、夕べも茶屋へ行きて夜半八つに帰り、己れが酒機嫌に任せ、湯の水のと寝て居る家来共を起し、たわけを尽すが儒者の教へか、論語読みの論語知らずめ、重ねて書物を止にして、帳合を大事に掛けよと、額に皺を寄せて叱からるゝ詞の下から、子息は又物知顔を止めず、父為子隠子為父隠直在其中といふは孔子の語なり、父の罪をば子として隠し、子の罪をば父として隠すは、親子自然の道理にして、人の心の至極せる所なり、道理に従ふを直とす、然るに今手代大勢聴く前にして、茶屋狂ひする子の罪を顕はし玉ふは道理に背むけり、如何んぞ直とせんやと云へば、親父苦々しい顔にて、猪口か皿か知らぬが其の陳ぷん漢ぷんが家業の妨げじや、仮名で算盤稽古召されよと、教訓を致されぬ、

— 世間子息気質 二之巻 第一 異見はきかぬ薬心を直さぬ医者形気

 若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極の、女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の、並でない反骨精神と力が感じられます。

■『ご亭主の曰く、大概は格子の嘘にして諸客床に入るの門なり。独りこの辺の損するによる。本望之に伏す。客者必ず其の迷わざるに庶(ちか)し』;
 子程曰く、大学は孔子の遺書にして、諸学徳に入るの門なり。独りこの篇の存するによる。而して論孟之に次ぐ。学者必ず其のたがわざるに庶からん。のパロディー。

■『娼の門の前に曰く、日々荒っぽくしてまた日に荒っつぽく』;
  湯(とう)の盤の銘に曰く、日々に、あらたに、また日にあらたなり。のパロディー。

大客朱熹章句(だいきゃく しゅき しょうく);大学朱熹章句の言い換え。

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。朱子(しゅし)と尊称される。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者。右図。

 朱子学;朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。なお、朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。 朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。
 しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。

■吉原細見(よしわらさいけん);正しくは「新吉原細見記(さいけんき)」で、吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。毎年タイトルを変えて改定され、延宝年間(1673-1681)から大正5(1916)年まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。 安永4(1775)年版の「籬(まがき)の花」、 天明3(1783)年版の「五葉松」などが有名です。

 上図:吉原細見の一部。 下図:貞享年間と考えられる、細見の一番古いと思われる図。江戸東京博物館蔵。

吉原の様子;若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりが有ります。
 「昔は花魁がお客に無心をする。積夜具をあつらえることも出来ないから、本床をあつらえてやらうてえんで床を拵(あつら)えてくれると、普段は何様(どんな)に振られているお客でも、其の晩だけは大切にされたもんだとかいうね、実に吉原というところは不思議なところだねえ」、「車と言えば、吉原の車と町車とは違うね、堤の車なんと来た日には威勢がいいんだからな~」。

 ・積夜具:客が女郎と馴染みになったしるしに、新調の夜具一式を贈り、それを積み重ねて飾ること。

 夜具の敷き始めは、客から送られた夜具を最初に茶屋に飾られてから、青楼に運ばれました。この時青楼一同に蕎麦を振る舞いました。布団を作るだけでは無く、祝儀その他を足すと50両くらい掛かりました。ので、大尽でなければ出来ませんでした。「江戸吉原図聚」三谷一馬画より

 ・本床(ほんどこ):通常使うような夜具でなく、特に花魁の専用個室に備えられた個人用夜具。大事な人としか使わない大事な夜具。

 ・車(くるま):人力車のこと。右写真。

 ・堤:吉原の山谷堀にあった土手を、日本堤といった。
 現在の浅草7丁目(今戸)から三ノ輪を結んでいた堤。隅田川出水による被害を防ぐために、幕府が築いた。
 下図:「江戸八景 吉原の夜雨」 栄泉画。 右奥に続く土手道が日本堤。手前に見える行灯が田面(たのも)行灯、その先土手上の小屋が茶店と引手茶屋。終わった所に見返り柳。左に曲がると衣紋坂(=五十間道)。左側に大門と吉原。回りの田圃を吉原田圃と言います。江戸時代の絵ですから、土手上には駕籠屋はいますが、人力車はいません。車は明治に入ってからです。

 

 
素読(そどく);文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声を立てて読むこと。漢文学習の初歩とされた。

儒者(じゅしゃ);儒学を修めた人。儒学を講ずる人。儒士。儒。

孔子(こうし);(呉音はクジ) 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(チユウジ)。魯の昌平郷陬邑(スウユウ=山東省曲阜)に出生。尭・舜・文王・武王・周公らを尊崇し、古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡(オクリナ)する。(551~479) 



                                                            2019年1月記

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