落語「権十郎の芝居」の舞台を行く
   

 

岡本綺堂作
 三遊亭円生の噺、「権十郎の芝居」(ごんじゅうろうのしばい)より


 

 江戸時代においては芝居(歌舞伎)は庶民の娯楽であったから、観るのは町人と職人が大半で、武士は大手を振って芝居小屋へ通うことは出来なかった。しかも10年程前に、見物していた武士が主殺しの役を演じた役者に逆上して斬り掛かる事件があり、大小(刀)を芝居茶屋に預けることが義務付けられ、同時に武士の鑑識眼は馬鹿にされた。

  江戸の町奉行の組与力を勤める藤崎与一郎は大の芝居好きで、母と下女との3人暮らしをしている21歳の下級武士である。
 「お前、明日は芝居見物だそうね。でも、あなたの嫌いな権十郎の舞台なんでしょう?」と、母が怪訝そうに訊くと、「ええ、河原崎権十郎(山崎屋)は下手くそな役者で大嫌いなんですが、他の出演者が豪華なので見逃せないのです」、「でも、権十郎は若い人を中心に大変な人気者なんでしょう?」、「彼らは観る目がないんですよ」と、母子が話をしているところへ、同輩で無二の親友の寺井が訪ねて来た。
 「明日、講武所で剣術の試合があるんだ。尊王攘夷と世の中が騒がしい折から、君も顔を出しておいた方がいいんではないか?」、「ありがとう、だが、明日はどうしても芝居を観に行きたいんだ。よろしく言っておいてくれ」と、藤崎の気持ちは変わらなかった。

 翌日、芝居茶屋へ着くと顔馴染みの女将が枡席へ案内してくれた。商家の夫婦、職人2名らの6人との相席で7人が入った枡席。幕が開いた。
 商家の夫婦は「待ってましたッ、山崎屋ッ!」、「権ちゃんッ!」と声援を送る。場内からも「山崎屋ッ!」の掛け声があちこちから掛かる。人気度は随一で相席の6人も皆、権十郎のファンであった。藤崎は苦虫を噛み潰すような顔をして、「相変わらず下手くそだな権十郎は、この大根役者!」と思わず口走った。これを聞いた商家の夫婦が咎めて来た。「権十郎のどこが下手くそなのです?」、「素人芝居だよ、あいつの演技は」、「わざと素人っぽく演じているのよ」と、応酬が続く。
 同席の職人が「うるさいね、あんたも役者へ斬り掛かった侍と同類かね?」と、仲裁というより藤崎を揶揄し、夫婦の味方をした。藤崎は怒り心頭に発したが無礼討ちも出来ず、ぐっと我慢をした。
 茶屋の若い衆が気を利かして藤崎を別席へ連れて行き、場は収まった。

 刀を受け取って芝居小屋を出た後、藤崎はいつもの鰻屋へ入り、鬱憤晴らしに酒を飲み始めた。芝居見物のお定まりのコースで、例の4人組も後から入って来て、藤崎を見てひそひそ話や含み笑いをしながら食事を始めた。藤崎は自分が馬鹿にされているのを感じ、酒の勢いもあって殺意を抱いた。
 先に店を出て、待ち伏せした。雨が降り始めていた。やがて4人が通り掛り、藤崎は夫婦を斬り殺し、職人2人は逃げて行った。

 酔いが覚めて後悔した藤崎は母に全てを打ち明け、切腹しようとした。母はこれを止め、組頭に相談することにした。組頭は「成り行きをみよう」という裁断を下した。 職人の証言で、芝居好きの腕の立つ侍という線で捜査が行われたが、芝居茶屋の女将が「まったく知らない一見(いちげん)さんでした」と嘘の証言をしてくれたこともあって、奉行所は通りすがりの正体不明の辻斬りと断定し、捜査は終わった。
 寺井が訪ねて来て、「犯人はお前だろう?」と言う。藤崎はこれを認めて経緯を話し、「今後一切、芝居と酒を断つ」と約束した。 文久2年のことでした。

 6年後の明治元年、明治新政府(官軍)と彰義隊(徳川家側)が東京・上野の寛永寺一帯で対峙した。藤崎も寺井も彰義隊に加わっていた。いよいよ明日は決戦という夜、藤崎の姿が見えない。
 「逃げ出したか?」と、同志は言うが、寺井には分かっていた。深夜に柵を乗り越えて藤崎は帰って来た。寺井が出迎えると、「この世の名残に芝居を観に行っていた。権十郎が見違えるほど実に上手くなっていたのには驚かされた。あの夫婦の鑑識眼の方が高かったのだ。恥じると共に改めて申し訳ないと思っている」と打ち明ける。
 翌日、戦いの火ぶたは切られた。藤崎は大向こうから「待ってました、藤崎屋ッ!」という掛け声を聞いたような思いで敵陣へ斬り込み、討ち死にした。懐にはお経本の代りに芝居の番付を抱いていた。
 権十郎は後の日本一の大看板、九代目市川團十郎です。 

 



ことば

岡本綺堂(おかもと きどう);(1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年(昭和14年)3月1日)、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として、東京高輪に生まれる。幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も能くした。東京府立一中卒業後、1890(明治23)年に東京日日新聞に入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、24年間を新聞記者として過ごす。この間、1896(明治29)年には処女戯曲「紫宸殿」を発表。岡鬼太郎と合作した「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」は、1902(明治35)年に歌舞伎座で上演された。江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は劇場付きの台本作家によって書かれてきたが、明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に新作をあおいだ〈新歌舞伎〉が台頭する。二世市川左団次に書いた「維新前後」(1908年)、「修禅寺物語」(1911年)の成功によって、綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となった。1913(大正2)年以降は作家活動に専念し、生涯に196篇の戯曲を残す。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を原著でまとめて読んだのをきっかけに、江戸を舞台とした探偵小説の構想を得、1916(大正5)年からは「半七捕物帳」を書き始めた。養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者であり、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。
 落語「権十郎の芝居」は、岡本綺堂作/鈴木みちを脚色「三浦老人昔話」より三遊亭円生が演じたものです。

 原作はここに有ります。

河原崎 權十郞(かわらさき ごんじゅうろう);歌舞伎役者の名跡。屋号は山崎屋。定紋は八ツ花菱に二ツ巴、替紋は菱宝結び。
初代 河原崎権十郎;七代目市川團十郎の五男、1838–1903。はじめ六代目河原崎権之助の養子。 三代目河原崎長十郎 → 初代河原崎権十郎 → 七代目河原崎権之助 → 河原崎三升 → 九代目市川團十郎(成田屋)。(享年66歳) 本名、堀越秀。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

 生まれて7日目に河原崎座の座元・河原崎権之助(ごんのすけ)の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。
 嘉永5年(1852)9月、14歳の時、河原崎権十郎(ごんじゅうろう)と改名。その前後は、河原崎座の若太夫として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積んだ。
 嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失ったため、安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなり、やがて大役を演ずるようになる(20歳)。
 この頃、『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。
 明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭(ざがしら)の地位に座った(32歳)。
 明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎(ふくじろう)に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升(さんしょう)と改名(36歳)。
 明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となった。
 明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変えたり、写実主義的な「活歴物(かつれきもの)」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41歳)。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買う。
 明治20年(1887)天覧劇(てんらんげき)として、明治天皇の前で『勧進帳』(右写真)、『高時(たかとき)』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。新歌舞伎十八番(その数は18種に限定せず、実際には32種とも、40種ともいう)を制定。
 明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。
 九代目が活歴時代に創造した「肚芸(はらげい)」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、古典歌舞伎の役の創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えた。それ以外にも「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を、現代歌舞伎に残した。
 明治36年(1903)9月13日没(66歳)。

  

左、初代河原崎権十郎の火消し。歌川芳艶画  右、初代河原崎権十郎の四谷怪談民谷伊右衛門。豊原国周画

歌舞伎(かぶき);日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。
 享保3年(1718)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。 これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。 また享保年間には花道が演技する場所として使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、宝暦年間の大阪では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする。これ等、「舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われ」、これらの工夫は江戸でも取り入れられた。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を獲得し、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。
 延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵の初演が行われた。
 江戸三座が猿若町という芝居町に集約され、逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。武家では幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止したものの、実際には連日にぎわう芝居小屋に多くの武家が足を運んだ。  
 明治に入って、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が新政府のそれと一致していた彼は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、例えば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。それに対して彼が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。 こうした團十郎の芸は高く評価されながらも「活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ」で、世間の人は「その芝居らしくない活歴には背を向けた」が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなを芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。
 こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった事が活歴の歴史的意義である。

 

 安政年間の市村座 三代目歌川豊国 筆 『踊形容江戸繪榮』大判錦絵三枚続物。安政5年7月(1858)江戸・市村座上演の『暫(しばらく)』を描いたもの。 花道にいるのが初代河原崎権十郎。

芝居茶屋(しばい ぢゃや);江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかない、チケットの手配、小屋への案内、幕間の休憩所、終演後の食事歓談。通常は、そこを通して劇場に入った。
 右図:猿若町の芝居茶屋。この絵は高級茶屋の二階の様子。ここから道を隔てて見える芝居小屋からは目と鼻の先にあった事が分かる。
 大茶屋、小茶屋が有り、小茶屋のなかには、出方と言って接客用の店構えのない仕出し専門のものもあり、こうした茶屋では出方とよばれる接客業者を専属で抱えていた。出方は訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。落語「鍋草履」に出てくる料理持ちが出方です。上図の枡席後方で料理を運んできた出方が描かれています。
 その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。その代表的な役者は、
八代目市村羽左衛門、四代目市川團十郎、初代尾上菊五郎、六代目市川團十郎、五代目澤村宗十郎、初代實川延若、初代市川右團次、三代目澤村田之助、二代目河原崎権十郎、五代目中村時蔵等がいる。

江戸時代の歌舞伎チケット代
 
四世鶴屋南北が活躍した、文化・文政期、おおよそ以下の通りです。交換相場は、金1両=銀60匁=銭4000文とします。1両=8万円で計算をしています。
 ・ 上桟敷席(最上等席=二階などの特別席)が、銀35匁(47000円)。
 ・ 下桟敷席(別名、鶉桟敷席=一階の舞台正面席)が、銀25匁(33000円)。
 ・ 高土間席(1等席)が、銀20匁(27000円)。
 ・ 平土間席(2等席)が、銀15匁(20000円)。
 ・ 切り落とし席(3等席=立ち見)が、銭132文(2640円)。 切り落とし席は、土間の枡席のことで、ひとマスに7人詰め込まれた。
 今と違って、正面の枡席の方が左右の席より安かった。またこれだけのチケット代が掛かるので、女性は着物も新調し髪も結い直して前の晩から準備、一大行楽になったのです。

大根役者(だいこんやくしゃ);芸の拙い役者や俳優を見下す言葉。 諸説有る。
 ・ 大根は食材として利用範囲が広く、どのような調理を行ってもめったなことでは食中り(しょくあたり)せず、腹をこわすことがない。 食中りすることを食べ物に中たると表現することから大根はあたることがない。役者が何かの演目や配役でヒットし、人気が出て成功することをあたると表現することから、役者として当たらない、または当たりのとれないことをかけたとする説。
 ・ 何かしらの理由で役者が演目の配役を外されることを舞台が観客席よりも高い位置にあったことから下ろすと表現する。演技の下手な役者は観客動員数を左右することで演目の興行成績にも影響し、早々に舞台から下ろされることが通例である。このことから役者を下ろすことと大根の簡単な調理法として卸金(おろしがね)を用いてすり砕く大根おろしの卸すをかけたとする説。
 ・ 演技が下手なために人の役まで至らず、馬の前足・後ろ足を演じ、馬の脚が大根を連想させた、とする説。
 ・ 役者の付き人や予備の役者を「ダイコウ」と呼び、訛ってダイコンとなったとする説。
 ・ 大抵の大根の品種は中身が白いことから、 技量が乏しく表現力に欠けた役者や俳優の演技は素人同然である。このことから白いのしろと素人のしろをかけたとする説。
 ・ 演技の下手な役者は白粉(おしろい)を多用することから白をかけたとする説。
 ・ 演技の下手な役者が舞台に出ると場が白けるとする説。

 六代目尾上菊五郎が、無名の役者の1人に向かって「大根は、うめえぞ。だが、おめえは大根にもなってねえ」と言ったとされる。
 医者の中にはダメなヤブ医者もいますが、そこにまでにも成っていない竹の子医者もいます。

上野戦争(うえのせんそう);慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の一つの戦い。官軍(新政府軍)と彰義隊(旧幕府軍)との戦いが、今の上野公園、当時の寛永寺境内で戦われた。旧暦の5月、今の6~7月は梅雨時、当日も雨の中で白兵戦が繰り広げられ、昼過ぎには決着が付き、大勢の死傷者が出た。現在も上野公園の西郷さんの銅像の後方に戦禍の跡を忍ぶ墓碑が建っています。
 上野戦争は、落語「お富の貞操」に詳しい。

上野戦争

 上図;上野戦争の図。タイトルは『本能寺合戦の図』となっていますが、実際には上野寛永寺の戦闘を描いている。袴姿の兵(おもに画面左側)が彰義隊、洋装の兵(おもに画面右側)が官軍。なお赤熊(しゃぐま。赤毛の長髪カツラ)は土佐藩兵。右側に黒門、中央に清水観音堂、左側に境内の吉祥閣が炎上している。
 落語「お富の貞操」より孫引き

武士の刀傷事件
 斬り捨て御免は正当防衛的な行為と認識されていた。しかし、それはあくまで建前であり、喧嘩による斬り捨て御免も「無礼討ち」として処理されていた。あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例である。また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となった。
 無礼討ちには、武士に対する名誉侵害の回復という要素と、その生命を脅かす攻撃から自身の身を守る正当防衛の要素が含まれていた。 
 幕府直轄地である江戸で町民に危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがあった。このため諸藩は江戸在勤者に対し、直接切捨御免には言及していないものの、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発した記録が残っている。このため、簡単には斬れない事情を知っていた町民の中には、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたという。
 そのようなトラブルを避けるために江戸中期以降にはこのような芝居小屋・銭湯・遊廓などの大抵の公共施設では刀を預ける刀架所が下足所の横に設けられた。

 この噺のように、激高して舞台に飛び上がって役者へ斬り掛かった侍は、明らかに自身への正当防衛でも無く、名誉毀損でも無く、身柄を拘束されていて、江戸市中で起こったことなので、厳しく処罰されたことでしょう。
 実際の話は
 安政4年(1857)4月14日、肥後細川の藩士小倉力次郎が、浅草・猿若町の森田座で観劇中興奮して舞台へ飛び上がった。この時の出し物は鶴屋南北作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべい いこくばなし)」で、市川市蔵が天竺徳兵衛に扮し、母親を殺害するシーンで起こった。どんな名演技で有ったか、勤番侍の力次郎、芝居であることを忘れて徳兵衛に切りつけてしまった。幸い市蔵は浅傷だったが、止めに入った裏方2人が重傷を負って大騒ぎ、直ぐ人を走らせたので、北町奉行所から与力服部孫九郎が出役、暴れる力次郎に縄を打った。召し捕った藩士はどう処分されたかというと、重罪は幕府法で処罰して、その旨を所属藩へ通知する。が、軽罪は所属藩へ身柄を渡して処罰させる。小倉力次郎は乱心と言うことで、特に内済(和解)にしたようである。

 落語「毛氈芝居」にも同じような事が有ります。芝居を観たことが無い村で、『蔦紅葉宇都谷峠』(落語「さんま芝居」に粗筋)をすると、座頭を切って百両を盗んだ十兵衛役の男を、不届き者として縛ってしまった。分からない人って、真剣に芝居に没入してしまうのです。ま、それだけ役が巧いのかも知れません。

辻斬り(つじぎり);武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。
 戦国時代から江戸時代前期にかけて頻発した。1602年(慶長7年)徳川家が辻斬を禁止し、犯人を厳罰に処することにした。近世刑法上、辻斬は、10両以上盗んだ罪と同様、死罪である(石井良助『江戸の刑罰』中央公論社)。 辻斬りをする理由としては、刀の切れ味を実証するため(試し斬り)や、単なる憂さ晴らし、金品目的、自分の武芸の腕を試す為などがある。また、1000人の人を斬る(千人斬り)と悪病も治ると言われる事もあった。
 落語「試し切り」、「首提灯」、「大坂屋花鳥」、「土橋漫才」、「のびる」にも辻斬りの話があります。結構有りますね。

試斬り;水戸黄門として知られる水戸藩の二代藩主徳川光圀は江戸で生まれ育った。 光圀が若かりし日のことである。あるとき、知り合いの武士と連れ立って外出し、帰りはとっぷり日が暮れてしまった。歩き疲れ、浅草あたりの堂でひと休みしているとき、連れの武士が言った。 「この堂の床下に非人どもが寝ているようです。引っ張り出して、刀の試し斬りをしてはいかがですか」「つまらないことを言うものではない。罪もない者を斬ることなどできぬ。それに、非人のなかにも手ごわい者がいるかもしれぬ。どんな反撃を受けるかもしれぬではないか。第一、どうやって床下から引っ張り出すのか。無用なことじゃ」「臆したのでございますかな」 連れの武士が笑った。
  そこまで言われては、若い光圀はあとには引けない。 「では、やむを得ませぬな」 光圀は床下にもぐりこむと、四つんばいになって暗闇の中を進み、手さぐりで非人をつかまえようとした。床下には四、五人の非人が寝ていが、すでにふたりの話は聞こえていた。みな奥へ奥へと逃げる。 「あたしらも命は惜しいのです。お武家さま、無慈悲なことはやめてください」「みどもも無慈悲な振る舞いとは思うが、仕方がないのじゃ。前世の因縁と思ってあきらめてくれ」 そう言いながら、光圀はひとりの非人をつかまえ、外に引っ張り出した。腰の刀を抜いて非人を斬り殺したあと、光圀はしみじみと連れの武士に言った。 「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんなお人とは知らずにこれまで付き合ってきたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかりますまい」 それまで親しく付き合ってきた武士と、その日を境に光圀は絶交した。

町奉行の組与力(まちぶぎょうの くみよりき);江戸における与力は、同心(与力の部下)とともに配属され、そのなかで有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与力が配置されていた。与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。
 与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力(元々は着任前の奉行の用人などであり、主君と一緒に奉行所へ着任、離任する)と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった。内与力は陪臣であるため他の与力より本来は格下で禄高もおおむね低かったが、奉行の側近としてその実力はむしろ大きい場合もあった。与力は配下の同心を指揮・監督する管理職であるとともに、警察権でいうならば今日の警察署長級の側面(ただし今日の警察署長のように管轄区域があったわけではない)、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も詮議担当したので今日の裁判官や検察官的側面もあった。
 与力は役宅として八丁堀に300坪程度の組屋敷が与えられ、八丁堀の旦那と呼ばれた。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった。特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。これは、八丁堀の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女性には朝風呂の習慣がなかったため女湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである。それでも女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議に数えられていた。与力は組屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた。

講武所で剣術の試合(こうぶしょで けんじゅつのしあい);安政3年3月24日(1856年4月28日)江戸幕府は、幕臣らの武術訓練を行う為に築地に講武所を開校した。 諸役人、旗本、御家人及びその子弟が対象で、剣術を初め、洋式訓練・砲術などを伝授した。江戸の築地鉄砲洲におかれたが、のちに神田小川町に移転した。右地図:小川町の講武所。
 アメリカ、イギリスをはじめとした外国船が来航し、その近代的軍装に刺激されて、幕府は幕政改革・軍制改革を行い、ペリーの第2回来航があった嘉永7年(1854年)5月に男谷信友の提案により、阿部正弘が安政の改革の一環として、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作った。正式には安政3年(1856年)に講武場として築地に発足した。まもなく築地は軍艦操練所となり、4月に軍備増強の一環として幕府が創設した講武所を改組した。
 講武所の初代頭取の男谷信友(おたにのぶとも)は、幕末の剣術家で直心影流男谷派を名乗った。 その実力から「幕末の剣聖」と呼ばれる。 見栄えや形式を重んじるあまり沈滞した剣術界を立て直すため、竹刀試合を奨励し、信友自身も申し込まれた試合は一度も断らず、江戸市内で信友と立ち会わなかった剣術家はいないといわれるほどであった。試合は、どんな相手でも3本のうちの1本は相手に花を持たせるが、いかに強敵でも花の1本より勝ちをとることはできず、底知れぬ実力とされた。

尊王攘夷(そんのうじょうい);江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは、藤田東湖、会沢安 (正志斎) らが唱えた水戸学であった。幕府は安政元年 (1854) 、日米和親条約に調印し、その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は、攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方、はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は、夷狄 (いてき) として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して、幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は、井伊直弼が大老に就任し、勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印、次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は、以後朝廷の尊攘派公家と結んで活発な攘夷運動を展開していく。諸藩でも、初め水戸藩、次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ、攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが、文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと、鹿児島、下関における四国艦隊との交戦 (→四国艦隊下関砲撃事件 ) を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で、攘夷運動は急速に衰退し、以後は尊王倒幕の方向をとって展開され、明治維新の原動力となった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 慶応元年、江戸末期の志士たち。上野彦馬撮影。知っている人は何人いますか?



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