落語「権十郎の芝居」の舞台を行く
岡本綺堂作
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岡本綺堂(おかもと きどう);(1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年(昭和14年)3月1日)、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として、東京高輪に生まれる。幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も能くした。東京府立一中卒業後、1890(明治23)年に東京日日新聞に入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、24年間を新聞記者として過ごす。この間、1896(明治29)年には処女戯曲「紫宸殿」を発表。岡鬼太郎と合作した「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」は、1902(明治35)年に歌舞伎座で上演された。江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は劇場付きの台本作家によって書かれてきたが、明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に新作をあおいだ〈新歌舞伎〉が台頭する。二世市川左団次に書いた「維新前後」(1908年)、「修禅寺物語」(1911年)の成功によって、綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となった。1913(大正2)年以降は作家活動に専念し、生涯に196篇の戯曲を残す。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を原著でまとめて読んだのをきっかけに、江戸を舞台とした探偵小説の構想を得、1916(大正5)年からは「半七捕物帳」を書き始めた。養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者であり、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。
原作はここに有ります。
■河原崎 權十郞(かわらさき ごんじゅうろう);歌舞伎役者の名跡。屋号は山崎屋。定紋は八ツ花菱に二ツ巴、替紋は菱宝結び。
生まれて7日目に河原崎座の座元・河原崎権之助(ごんのすけ)の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。
左、初代河原崎権十郎の火消し。歌川芳艶画 右、初代河原崎権十郎の四谷怪談民谷伊右衛門。豊原国周画
■歌舞伎(かぶき);日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。
安政年間の市村座 三代目歌川豊国 筆 『踊形容江戸繪榮』大判錦絵三枚続物。安政5年7月(1858)江戸・市村座上演の『暫(しばらく)』を描いたもの。 花道にいるのが初代河原崎権十郎。
■芝居茶屋(しばい ぢゃや);江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかない、チケットの手配、小屋への案内、幕間の休憩所、終演後の食事歓談。通常は、そこを通して劇場に入った。
■江戸時代の歌舞伎チケット代;
■大根役者(だいこんやくしゃ);芸の拙い役者や俳優を見下す言葉。
諸説有る。
六代目尾上菊五郎が、無名の役者の1人に向かって「大根は、うめえぞ。だが、おめえは大根にもなってねえ」と言ったとされる。
■上野戦争(うえのせんそう);慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の一つの戦い。官軍(新政府軍)と彰義隊(旧幕府軍)との戦いが、今の上野公園、当時の寛永寺境内で戦われた。旧暦の5月、今の6~7月は梅雨時、当日も雨の中で白兵戦が繰り広げられ、昼過ぎには決着が付き、大勢の死傷者が出た。現在も上野公園の西郷さんの銅像の後方に戦禍の跡を忍ぶ墓碑が建っています。
上図;上野戦争の図。タイトルは『本能寺合戦の図』となっていますが、実際には上野寛永寺の戦闘を描いている。袴姿の兵(おもに画面左側)が彰義隊、洋装の兵(おもに画面右側)が官軍。なお赤熊(しゃぐま。赤毛の長髪カツラ)は土佐藩兵。右側に黒門、中央に清水観音堂、左側に境内の吉祥閣が炎上している。
■武士の刀傷事件;
この噺のように、激高して舞台に飛び上がって役者へ斬り掛かった侍は、明らかに自身への正当防衛でも無く、名誉毀損でも無く、身柄を拘束されていて、江戸市中で起こったことなので、厳しく処罰されたことでしょう。
落語「毛氈芝居」にも同じような事が有ります。芝居を観たことが無い村で、『蔦紅葉宇都谷峠』(落語「さんま芝居」に粗筋)をすると、座頭を切って百両を盗んだ十兵衛役の男を、不届き者として縛ってしまった。分からない人って、真剣に芝居に没入してしまうのです。ま、それだけ役が巧いのかも知れません。
■辻斬り(つじぎり);武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。
■試斬り;水戸黄門として知られる水戸藩の二代藩主徳川光圀は江戸で生まれ育った。
光圀が若かりし日のことである。あるとき、知り合いの武士と連れ立って外出し、帰りはとっぷり日が暮れてしまった。歩き疲れ、浅草あたりの堂でひと休みしているとき、連れの武士が言った。
「この堂の床下に非人どもが寝ているようです。引っ張り出して、刀の試し斬りをしてはいかがですか」「つまらないことを言うものではない。罪もない者を斬ることなどできぬ。それに、非人のなかにも手ごわい者がいるかもしれぬ。どんな反撃を受けるかもしれぬではないか。第一、どうやって床下から引っ張り出すのか。無用なことじゃ」「臆したのでございますかな」 連れの武士が笑った。
■町奉行の組与力(まちぶぎょうの くみよりき);江戸における与力は、同心(与力の部下)とともに配属され、そのなかで有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与力が配置されていた。与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。
■講武所で剣術の試合(こうぶしょで けんじゅつのしあい);安政3年3月24日(1856年4月28日)江戸幕府は、幕臣らの武術訓練を行う為に築地に講武所を開校した。
諸役人、旗本、御家人及びその子弟が対象で、剣術を初め、洋式訓練・砲術などを伝授した。江戸の築地鉄砲洲におかれたが、のちに神田小川町に移転した。右地図:小川町の講武所。
■尊王攘夷(そんのうじょうい);江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは、藤田東湖、会沢安 (正志斎) らが唱えた水戸学であった。幕府は安政元年 (1854)
、日米和親条約に調印し、その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は、攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方、はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は、夷狄 (いてき) として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して、幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は、井伊直弼が大老に就任し、勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印、次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は、以後朝廷の尊攘派公家と結んで活発な攘夷運動を展開していく。諸藩でも、初め水戸藩、次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ、攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが、文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと、鹿児島、下関における四国艦隊との交戦 (→四国艦隊下関砲撃事件 ) を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で、攘夷運動は急速に衰退し、以後は尊王倒幕の方向をとって展開され、明治維新の原動力となった。
慶応元年、江戸末期の志士たち。上野彦馬撮影。知っている人は何人いますか?
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