落語「我孫子宿」の舞台を歩く
   

 

 三代目三遊亭円歌の噺、「我孫子宿」(あびこやど)。別名「我孫子の宿」

 

 当時の我孫子の古い安宿の出来事。二階のお客から手が鳴ったが、髪を洗っている女中、買い物に出かけている女中。やむを得ず、番頭が二階に上がっていきます。熱燗になってしまったお銚子を持って、旦那に注意をされます。「お前は、番頭なんだから、お客の酒は飲んではいけないよ。口でも失敗しているから、スーッと降りてくるんだよ」。

 「ホラ、持って来た」、「なんだ、客に向かってッ。こんな熱い酒を持ってきて、飲めるか。飲めるかどうか飲んでみろ」、「お客さんが飲んでみろと言われる。アチチ、美味いですよ」。「昔この近所に小さな飲み屋さんが有ったが知らないか」、「店の名は?」、「格子戸がはまっていて、二階に手すりがあった」、「知りません」、「昔、金を落としてしまって、フラフラで通りかかったら、二階からお金をくれたんだ。お礼を言いたくて探していたんだ」、「田舎の番頭だと思って馬鹿にしているんでしょ。それは『一本刀土俵入』でしょ。駒形の・・・」、「よく知っているな、私の名を」、「(酒を)チョット貰いますね。長谷川伸先生の芝居ですよ・・・」。
 延々と一本刀土俵入を熱く語ってしまった。下からは旦那がカンカン。
 「ところで、小さな子連れの夫婦を見たら教えておくれ」、「御用があれば手を叩いてくれれば直ぐ参ります」。

 「行ってきました」、「下の松の間でお呼びなんだ。行ってきておくれ。先ほど着いたお客さんだ」。
 「お待たせしました」、「お勘定をお願いしたいのだが・・・」、「何か・・・お気に障ったことが有りましたか?」、「急に用が出来たので・・・」、「上が一本刀土俵入で、下が子供連れの夫婦」、「・・・」、「何か気に障ったことが・・・」、「私ら夫婦は物見遊山で歩いているわけではありません。ヤクザ稼業に落ちて、嬶の元に帰って来ると、子供が『父ちゃんどうしているだろうな』と言うのを聞いて、夜逃げをして出て来ました。子分が探し回っています。一番の汽車で青森まで行きたいのです」、「分かりました」、「この先、お弁当を買うことも出来ないと困るので、お弁当を三つ用意していただきたい」。

 女中に弁当が出来なければおむすび三包み作らせ、「友達の寅さんに長距離トラックで青森まで同乗させて貰うように頼んできます。・・・お二階の旦那、どうしました」、「先ほどは失礼をしたな。私はこう言う者だ」、「(手帳に)『警視庁』、刑事さん」、「騙して済まなかった」、「後ろにいるのは奥の旦那」、「番頭さんも騙されたな。こいつは詐欺師だよ。我孫子にいると聞きつけてこの宿にいたんだ。この詐欺師も私がいることに感ずいて、逃げようとしたところを捕まえたんだ」。
 「しがない番頭だけれど・・・。オット、その弁当はこっちにかしな。言わして貰っても良いですか」、「言いなさい」、「ボッチャンこっちにいらっしゃい。親はこれから臭い飯を食べなければいけない。坊ちゃんは行かなくてもいいんだよ。親が出て来たら、二人に親孝行するんだよ。この握り飯持っていって汽車の中で食いねえ。しがね~番頭が、せめても出来る心持ちでござんす」、「番頭君、出来たな。一本刀土俵入りだな」、「なあに、結びの一番でさ」。

 



ことば

この作品は、私の手元では「我孫子の宿」というクレジットが着いています。今は、いつの間にか”の”が取れて「我孫子宿」に成っています。この噺、最初の収録年は昭和63年(1988)2月、TBS・ビアホール名人会でのもので、そこから概略を書いています。平成元年はTBS、平成6年には東京落語会(イイノホール)の様子をNHKが放送したテープが残っています。どれも「我孫子の宿」と成っています。
 この噺は、新作落語で、懸賞募集された作品の一つ。飯島ヤ兵衛(弥平?)氏の作品を三遊亭円歌が肉付けをして演じたものです。もう初演から30年以上年月が経っています。

■この噺「我孫子宿」は、長谷川伸作「一本刀土俵入り」のパロディです。  あの「一本刀土俵入り」の世界を知らなければ、もう、さっぱりわからない落語です。 「日本の話芸」はイイノホールでの「東京落語会」の中継録画ですから 「東京落語会」の観客は通の人が多いですから、この噺に実によく笑っておられました。今や「一本刀土俵入り」自体、歌舞伎座でもたまに勘三郎や幸四郎主演でかかるぐらいしかありませんから 「一本刀土俵入り」を知らない人が圧倒的に多い今日、寄席で急にこの「我孫子宿」が演じられても観客は唖然としてしまうことでしょう。円歌の最近の録音で聞くと、「約40年ぶりにこの噺を演じる」と言う理由もなんとなくわかります。

我孫子(あびこ);千葉県北西部の東葛地域に位置する人口約13万人の市。利根川と手賀沼に挟まれた、茨城県取手との境に位置する。JR常磐線と成田線、国道6号と国道356号が分岐する交通の要衝。水戸街道・我孫子宿(しゅく)及び布佐の市街地を除き、概ね農業地域であったが、1970年代からはベッドタウンとして一部区画が開発され、人口が増加した。利根川沿い・手賀沼沿いを中心とした稲作、台地上での野菜の生産が盛んに行われています。
 江戸時代には利根川の水運が隆盛したこと、水戸街道に我孫子宿(しゅく)ができたことで、交通の要衝として大きく発展した。明治時代に入り鉄道や自動車、汽船などの交通機関が発達するにつれて、利根川の水運は衰退したが、現在のJR常磐線・成田線の開通に伴いベッドタウンとして人口が増加した。
 大正時代から昭和初期にかけて我孫子は「北の鎌倉」と称されることもあり、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことで白樺派の拠点となっていた。

一本刀土俵入( いっぽんがたなどひょういり); 長谷川伸(はせがわ しん)の戯曲。2幕5場。昭和6年(1931)『中央公論』6月号に発表。同年7月東京劇場で六世尾上(おのえ)菊五郎の茂兵衛(もへえ)、五世中村福助のお蔦(つた)などで初演。また、ドラマや映画になって公開された。
 物語水戸街道の宿場町・取手の茶屋旅籠、我孫子屋の二階の窓にもたれて、あばずれた様子の酌婦お蔦が酔いをさましている。そこへ空腹でフラフラしながら取的の茂兵衛が通りかかる。
 茂兵衛は破門された相撲の親方のところへ、もう一度弟子入りしようと駒形村から出てきたのだが、すでに無一文。からんできたやくざの弥八を頭突きをくらわせて追っ払ってやったのがきっかけとなり、茂兵衛はお蔦に問われるままに、身の上を語る。
 
実家も焼けてしまい、天涯孤独な身の上の茂兵衛は、立派な横綱になって故郷の母親の墓の前で土俵入りの姿が見せたいという夢をあきらめられず、飲まず食わずの旅をつづけてなんとか再入門をゆるしてもらおうと江戸へ向かっていると言うのだ。
 母親想いの純情一途な茂兵衛の話に心をうたれたお蔦は、故郷越中八尾の母親を想って、小原節を口ずさむ。そして持っている金全部と櫛(くし)、簪(かんざし)までしごきに結んで二階から茂兵衛に与えて立派な横綱になるようにと励ます。茂兵衛はこの親切を生涯忘れないと誓う。 お蔦のおかげで食べ物を手に入れることができた茂兵衛だが、一足違いで渡り船に乗り遅れてしまう。そこへ後を追ってきた弥八と仲間が襲ってくるが、茂兵衛は川の中へ投げ込んでやっつけてしまうが、アキレス腱を切られ相撲が取れない身になってしまった。
 十年後、渡世人となった茂兵衛は我孫子屋のお蔦のことを尋ねて布施の川べりにやってくるが、ヤクザ相手にイカサマ賭博をやった船印堀師(だしぼりし)の辰三郎に間違われて、博労の親方・儀十の子分たちに打ちかかられる。実は辰三郎は、お蔦の夫だった。

 今では飴売りをして娘のお君と細々と、まともに暮らしているお蔦。そこへ儀十と子分たちが辰三郎を探して乗り込んできたので、お蔦は何年も行方知れずだった夫辰三郎がまだ生きていて、追われる身だと知る。 夜更に辰三郎が戻ってきて、親子は再会を喜び合う。辰三郎は少しでも金を持って帰ろうとしてイカサマに手を出したことを悔やむ。 そんなところへお君の歌う「小原節」にひかれるように茂兵衛が訪ねてくる。そして十年前の恩返しにと金を渡すが、お蔦は茂兵衛を覚えていない。
 追手がこの家を囲んでいることに気づいた茂兵衛はお蔦家族をかばって、博徒たちをたたきのめす。その姿を見て、お蔦は十年前のお腹をすかせた取的のことを思い出した。
 ああ、お蔦さん、棒ッ切れを振り廻す茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。

 お蔦親子は十年前のことを忘れずに恩返ししてくれた茂兵衛に感謝しつつお蔦の故郷へと旅立って行く。

 

 長谷川伸の追悼記念番組『日曜劇場』として放送された「一本刀土俵入り」は、長谷川の戯曲を孫弟子に当たる平岩弓枝がテレビドラマ用に執筆したもの。キャストは、中村勘三郎、池内淳子、中谷昇、伊志井寛など。昭和44年(1969)TBS制作 プロデューサー:石井ふく子。

長谷川伸(はせがわ しん);(1884年(明治17年)3月15日 - 1963年(昭和38年)6月11日)は小説家、劇作家。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。右写真。
 横浜市で生まれる。4歳のとき実母と別れ、その思慕の情は戯曲『瞼(まぶた)の母』(1930)に結晶している。小学校中退後、小僧、建設作業員、石工などをし、その間に文学の勉強をする。以後、内外商事週報、ジャパン・ガゼットなどの臨時雇い記者を務め、明治42年横浜毎朝新聞を経て、44年都新聞に移り、「都新聞」紙上に「横浜音頭」などを発表。大正11年「サンデー毎日」に「天正殺人鬼」他短編を発表。13年発表の「作手伝五左衛門」以降、長谷川伸の筆名を使う。同年発表の「夜もすがら検校」が出世作となり、14年都新聞を退社して作家活動に入る。以後、「沓掛時次郎」(昭和3年)、「瞼の母」(5年)、「一本刀土俵入」(6年)など股旅物の戯曲や「紅蝙蝠」(5~6年)、「刺青判官」(8年)などの時代小説で一時代を画す。とくに股旅物は沢田正二郎らの舞台上演や映画化で人気を博した。やがて史実を尊重した歴史小説へと傾倒し、「荒木又右衛門」(11~12年)や「相楽総三とその同志」(15~16年)などを発表。戦後はさらに徹底した史伝体の「日本捕虜志」(24~25年)を書き、31年同書および多年の文学活動で菊池寛賞を受賞、37年には多年にわたる演劇界への貢献で朝日文化賞を受賞した。また戦前から二十六日会、新鷹会など研究会を自宅で開き、山手樹一郎、山岡荘八、村上元三ら多くの後進を育てた。「長谷川伸全集」(全16巻 朝日新聞社)がある。遺志により財団法人・新鷹会と長谷川伸賞が設立された。
 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)より

格子戸(こうしど)と二階の手すり;格子を組み込んだ戸。格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得ることができる。機能としては、明かり障子の前身ともいうべきもの。
 二階に手すりが=一本刀土俵入では、酌婦お蔦が酔いをさましている。そこへ空腹でフラフラしながら取的の茂兵衛が通りかかる。お蔦に親切にされ、10年後、恩返しにやってくる。
 右写真:明治の頃の宿屋。江戸東京たてもの園。

刑事さん(けいじさん);主として犯罪の捜査活動に従事する私服の警察官。法律上の職名ではなく、法的身分は巡査または巡査部長。デカ。良いんですか、職務中に酒なんか飲んで・・・。
 警視庁=東京都の警察行政をつかさどる官庁。長として警視総監をおき、管内には警察署をおく。

詐欺師(さぎし);巧みに人をあざむいて財物をかたりとる人。詐欺を常習とする者。かたり。
 この噺で、三遊亭円歌の説明では、品物を買い取るのだが、最初の一回だけ金を払い、それを転売して残金を払わない。これを何回も繰り返し、最終的には逃げ回っている犯人。可哀想なのは、何の罪も無い残された子供です。



                                                            2019年2月記

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