落語「中沢道二」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵(彦六)の噺、「中沢道二」(なかざわどうに)より


 

 中沢道二という京都の心学の先生が「江戸っ子はどうも気が短くていけない。心学を教えて、シッカリさせてやろう」と、江戸へ出て中橋の道場を借り、中沢道二講話会の看板を出した。
 「京都の心学、木戸銭、中銭、一切なし」とビラを配る。字もろくに読めない町の連中は心学を田楽、講話をおこわ(赤飯)と勝手に読み、聞き間違ったりして大勢でやって来た。京都の田楽屋がタダで食わせると勘違いした連中で満員になるが、下足番の爺さんに聞くと、「田楽ではございません。心学でござんす」、「へえ・・・おい、田楽は売り切れで、鴫(しぎ)焼きだってよ」何でも食えればいいというので上がるが、何も出る訳がない。

 道二先生の講義が始まると、まずはやさしくて面白い話から切り込もうと、
 金平糖の壺に手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だが仕方がないと割ってみると、金平糖を握っていたから抜けなかったという話や、手と足が喧嘩をして足がぶたれ、「覚えてろよ、今度湯へ行ったら、お前に洗わせるッ」と、言ったという話で雰囲気を和らげ・・・。
 「さて、ある所に金が儲かる薬を売る店と、金が無くなる薬を売る店とが並んでおった。金の儲かる薬を飲めば次第に富貴になるにかかわらず、なぜか隣の金の無くなる薬を売る店の方が繁盛している。不思議に思った男が金の儲かる薬店に行って、”お宅の薬は誰も良薬と知りながら買い手が少なく、隣の金の無くなる薬は誰も毒薬と知りながら大勢買いに来るのは一体どういうわけでしょうか”と、聞くと主人は・・・」、
 会場はざわついて誰も聞いてなく、「そんな長え口上なんか止めちまえ、田楽はどうした!早く食わせろッ」で、おさまりがつかなくなった。
 儒教の道徳を説こうとするのだが、食事をしに来た一同には訳が分からず文句を言って帰ってしまった。
 先生は、どうして江戸っ子は気が短いのかと嘆いていると、一人だけきちんと座っている職人がいる。
 「あなた、お若いのに恐れ入りました。私の心学がお分かりになったのですね」、「てやんでェ、しびれが切れて立てねえんだぃ」。

 



ことば

■この噺から「二十四孝」や「天災」に続けたという。心学の噺のマクラに使われたもの。

 天災に出てくる心学の先生・紅羅坊奈丸は架空の人物でしょう。でも、いわゆる心学者には、京都・大阪から江戸に出てきて普及につとめた人物がいます。では、おそらく紅羅坊奈丸先生の師匠筋にあたるであろう(?)その人物とは・・・。

中沢道二(なかざわどうに);(享保10年8月15日(1725年9月21日) - 享和3年6月11日(1803年7月29日))、江戸時代中期から後期にかけて活躍した石門心学者。道二は号で、名は義道。京都西陣で織職の家の出身で、亀屋久兵衛と称した。略して亀久。
 いち度家業を継いだのち、40歳ごろから手島堵庵(とあん)に師事して石門心学を学んだ。その後江戸に下り、1779年(安永8年)に日本橋塩町(しおちょう=中央区新川一丁目)に学舎「参前舎」を設け、石門心学の普及に努めた。道二の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信をはじめ、大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務めている。

 松平定信に取り立てられ、関東・中部・東北地方に心学をひろめた。分かりやすい表現で天地の自然の理を解いたと伝えられる。教化方法の面では、庶民の耳に訴えて心に納得を求める「道話」を重んじ、世間一般より心学即道話とみなされる端緒を開いた。門人によってまとめられた『道二翁道話』『道二翁道話続編』には、石田梅岩の社会批判的教説と堵庵の主観的人生哲学の教説が融合された道二独自の心学思想がよく表れている。79才。
左図:石川島の人足寄せ場。江戸切り絵図より。

◇世人は彼の道歌「堪忍がなる堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」を賞賛していたが、一心斎には面白くない。ある日一計を案じて道二を邸に招いた。約束の午前十時にやって来た道二が案内を乞うが、取次ぎの者はなかなか姿を現わさない。やっと出てきた者に来意を告げると、引っ込んだきり一向に出てくる気配がない。 正午を過ぎて空腹を覚えた道二が人を呼ぶが、やはり誰も出てこない。 そうこうしているうちに、奥から午後四時を告げる時計の音が聞えた。道二が大声で人を呼ぶと、やっと用人が出てきて奥へ案内をする。 通されたのは意外にも酒宴の席で、すでに座も乱れている。 座客の一人が「一盃を献ぜん」といって、数合も入る大盃に満酌をし、無理強いする。道二が下戸だからと辞すると「人のさした盃を飲まないのは不敬だ」といって、 頭から酒を浴びせる。大いに怒りを発した道二が座を退こうとすると、座中の人々が一斉に「ならぬ堪忍するが堪忍」と高らかに唱え、「足下の心学は未熟だ」と笑いものにした。道二は大いに恥じて逃げ帰ったという。

◇道二が摂州の池田某家に講説に出掛けた時、そこの主人は心を尽くして歓待し、十代半ばの美しく上品な娘に茶を点てさせたり琴を弾かせたりして接待した。道二が「教養は本当に素晴らしいものだ」と褒めると、主人は得意になって 「書画をも学ばせています」と話した。これを聞いた道二は 「それならば按摩術も学ばせているか」と尋ねる。主人は憮然として 「資産のある家の娘が、何故そんな技術を身に付ける必要がありましょうか」 というと、道二は従容として 「その考えは誤っている。女は嫁いだら舅や姑に仕えなくてはならない。だから按摩の技もまた茶花琴にも劣らず大切なのだ。当人は良く分かっていない。いたずらに高尚な芸術を誇って、孝養の道を欠くようなことがあってはならない」と語った。主人はこの言葉を聞いて大いに恥じたという。

 手島堵庵(てじまとあん);(1718―1786) 中沢道二の師匠。江戸中期の石門心学(せきもんしんがく)者。名は喬房(たかふさ)、信(まこと)。字(あざな)は応元(おうげん)、通称は近江屋源右衛門(おうみやげんえもん)、東郭(とうかく)先生。堵庵と号した。享保3年5月13日京都に生まれる。石田梅岩(ばいがん)に学び、師の説を平易化し、信と正直を主徳として心の平安を獲得することを強調した。また五楽舎、修正舎、時習社、明倫舎などの心学講舎を各地に設立し、布教に成果をあげ、天明6年2月9日69歳で没。主著に『坐談(ざだん)随筆』(1771)『知心弁疑(ちしんべんぎ)』(1773)『前訓』(1773)『朝倉新話』(1780)などがある。門下から中沢道二、脇坂義堂(わきさかぎどう)(?―1818)らが出た。

心学(しんがく);心を修養する学問。
 石門心学者の道二は、分かりやすい表現で天地の自然の理を解いたと伝えられる。教化方法の面では、庶民の耳に訴えて心に納得を求める「道話」を重んじ、世間一般より心学即道話とみなされる端緒を開いた。
 江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえとで説いた一種の庶民教育。修錬のためには静座などを重んじ、社会教化には道話を用いる。石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中沢道二に伝えられ、さらに柴田鳩翁に至って大いに拡張され、一時は65ヵ国、149の講舎を所有した。

中橋(なかばし);中橋は日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎(1597?-1658)が江戸で初めて芝居小屋を掛けた場所です。安永3年(1774)にはすでに埋め立てられ、中橋広小路という町になりました。盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集まりました。現在の八重洲通りと中央通りが交差するあたりです。

 

 上図:『江戸名所図会 1巻』より「中橋(なかばし)」 斎藤長秋(さいとうちょうしゅう)編 長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5~7年(1834~1836)刊。

木戸銭(きどせん);興行物の見物のため、木戸で払う料金。木戸。桟敷等に入るには別料金が掛かります。

中銭(なかせん);場内に入ってから別に徴収される料金。

鴫焼き(しぎやき);茄子(ナス)に油を塗って火であぶり、または油でいため、味付味噌をつけた料理。茄子田楽(デンガク)。やって来た江戸っ子は、よほど田楽が食べたかったのでしょう。

金平糖(こんぺいとう、コンペートー);砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子。 金米糖、金餅糖、糖花とも表記される。語源はポルトガル語のコンフェイト(confeito [kõˈfɐjtu]、球状の菓子の意)。金平糖はカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされる。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説あるが、戦国時代の1546年(天文15年)とも言われる。

しびれが切れて;からだの一部または全体の感覚を失って、運動の自由を失う。
 しびれの主な原因は血流が悪くなることで、長く座っていたりしたために、足の感覚がなくなり、痺れを切らす。



                                                            2019年2月記

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