落語「長襦袢」の舞台を行く 二代目 三遊亭金馬の噺、「長襦袢」(ながじゅばん)より
■この「長襦袢」は、手の込んだ噺ですが、陰気な噺でオチでも不快なことがあって、最近では聞くことが無くなった噺です。
古着にまつわる噺では、明暦の大火(俗に振り袖火事)でも似たような話が流布されました。
明暦の大火では、2日間3カ所から出火し強い北風にあおられ燃え広がって江戸の姿を一変させた。江戸城本丸の城(以後再建されなかった)をはじめ、開府以来の桃山風の豪壮な武家屋敷があらかた灰になった。大名屋敷500家、旗本屋敷770家、神社仏閣300、橋61,町地1200町(町屋の3分の2が焼失)が燃え、死者10万7千人と言われる。その死者を葬るために両国の回向院が創られた。江戸史上最大の火事。
浅草の大増屋十右衛門の娘に、十六になるおきくがいた。上野へ花見に紫縮緬(ちりめん)の振り袖を着て出掛け、道で出会った若衆に一目惚れ。それが元で床に伏して病死した。
この話も俗説で真実はこんな芝居がかった話ではなかったようです。落語「二番煎じ」で詳しく解説しています。
■長襦袢(ながじゅばん);肌襦袢と長着(着物)の間に着る襦袢。形状は着物に似ている、衽(おくみ)のような竪衿がついた関西仕立てと通し衿の関東仕立てがある。素材は主に木綿やモスリン、ウール、絹、織物は羽二重、正絹、縮緬が、夏には麻、織物は絽が用いられる。
■八王子(はちおうじ);八王子市は東京都の島嶼部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。多摩丘陵にあり、河川浸食による開析が著しく、谷が樹枝状に分布する複雑な地形となっている。
■織物屋(おりものや); 織物の製造元、問屋、店など。
■洗い張り(あらいはり);着物をそのまま丸洗いするのは、単衣ひとえの麻や木綿物で、袷(あわせ)や綿入れ、絹などは着物の縫い目を解ほどいて、一枚の布にして洗います。同じ一枚の着物を夏は単衣に、冬は裏を付けて着たり、大人の着古しを子供用に仕立て直して着せました。
上図、「洗い張り」 豊国画。 着物を解いて一枚の布にして干しますが、裏側に竹ひごを通して布をピンとさせます。また、平らな板の上に貼り付けて乾かします。
■柳原の古着屋(やなぎはらの ふるぎや);神田万世橋から下流の柳橋まで、神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.3km弱の土手に柳が植えられ、その通りに、土手を背にして床店が並んでいた。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。
上図、「柳原土手」。『吾妻遊』 喜多川歌麿画。 土手際に床店の古着屋が並んでいます。
上図、「柳森神社と古着市」新撰東京名所図絵より
■横山町の袋物屋(よこやまちょうの ふくろものや);日本橋横山町(にほんばしよこやまちょう)は、東京都中央区の町名。北西で日本橋馬喰町と接する。横山町の北側が神田川になり、その土手際に出来たのが柳原の古着屋街(上図)。北東から南西にかけて横山町大通りが走り、衣料・雑貨関連の問屋が軒を連ねる。柳原で説明したように、隣接する馬喰町とともに小間物繊維問屋街として知られる。
■吾妻橋(あづまばし);創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代浅草から下流大川(隅田川)に架橋された四つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものです。
長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残ります。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われた。
写真、吾妻橋。 橋を渡った所が浅草広小路。右側のビルの奥が浅草寺。
■組み糸(くみいと);糸あるいは糸の束を組合せてつくった紐。打ち紐とも呼ぶ。通常は絹糸などの繊維類を数本または数十本の単位とし、これを3単位以上そろえて、ある一定の方式 (組み方) に従って斜めに交差させ、細幅や丸い紐につくる。
上、組紐。
■屑屋(くずや);紙屑やぼろなど、廃品の売買を業とする人。
■行灯(あんどん);木などの框(ワク)に紙を貼り、中に油皿を入れて灯火をともす具。室内に置くもの、柱に掛けるもの、さげ歩くものなどがある。あんどう。紙灯。
■大家(おおや);江戸時代、家守(ヤモリ)のこと。転じて、貸家の管理人。やぬし。地主が建てた長屋に、借家人である店子が入居し、それを管理するのが大家さん。
■柳橋(やなぎばし);安永年間(1772-81)に船宿を中心にして興りました。実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者を加えた結果、最盛期を迎えました。明治初年には、芸者600人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。
上写真、神田川最下流に架かる柳橋。船徳の徳さんがここから手前の隅田川に漕ぎ出した船宿が密集している地。奥にブルーの浅草橋が見えて右側の街が柳橋、現・台東区柳橋(町)。花柳界として名を馳せた地で、落語「船徳」や「不幸者」、「汲みたて」、「権助魚」、「花見小僧」等々で出てくる落語界の名所です。
■吉原(よしわら);仲。浅草の北、千束にあり、新吉原と呼ばれ、江戸町1・2丁目、角町、京町1・2丁目の五丁町から出来ていた。揚屋町、伏見町は入らない。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有った(元吉原)が、江戸の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転させられた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと言われ”さんざめく”との形容が合っている』と、(先代)円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ、吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカになってしまった。「仲」とも、品川の南に対して「北」とも言う。
■ハコ(箱屋);芸者の三味線箱持って、供をする男衆の箱屋を”ハコ”と言いました。
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