落語「長襦袢」の舞台を行く
   

 

 二代目 三遊亭金馬の噺、「長襦袢」(ながじゅばん)より


 

 八王子に住む織物屋で、女房が織った品物を売り歩いている男が、ある日、吉原の”紫”という花魁に夢中になって、家に帰らなくなった。女房は紫を恨みながら舌をかみ切って死んだ。その血が、織り上げた反物に染み付いた。亭主がビックリして、改心し、もとのような働き者になった。
 血の付いた反物は洗い張りをしても落ちないので、菊の模様に染め上げて売ってしまった。それが着物になって、まわりまわって柳原の古着屋にぶら下がった。

 横山町の袋物屋の若い者・半七がこれを買い求めた。長襦袢として着ると、酔ったように吉原の橋本楼に上がり、紫に夢中になって、主人の金まで使い込んで、結果吾妻橋から身を投げて死んだ。
 死ぬ前に長襦袢を脱いで、欄干に掛けておいたのが、ならず者に拾われ、まわりまわって、また柳原の古着屋へ。

 これを買った組み糸問屋の若旦那が、同じように紫に入れあげたあげく、死んだ。長襦袢は、また柳原の古着屋に吊された。

 この後、小間物屋が買って紫のところに行くと、紫も不思議がり、その長襦袢を譲り受けると、小間物屋は、それ以来ばったり来なくなった。
 その後、紫は急に客足が減って寂しく思っていると、枕元に横山町の袋物屋だった半七が現れ、一緒に吾妻橋から身を投げる夢を見た。紫は、翌朝寝たまま死んでいた。橋本楼は大騒ぎ。

 長襦袢は古道具屋に他の物と一緒に売られた。

 こちらは長屋に住む屑屋の長兵衛、女郎屋で使っていた行灯を枕元に点けて寝ていた。三十四・五の年増から菊の模様の振り袖の長襦袢を買ってきて、その部屋の衣紋掛けに掛けておいた。
 隣の同じ屑屋の吉兵衛が覗いてみると、長襦袢が、枕元の行灯を下げてヒョロヒョロ歩き出したのでビックリして大家を呼んできた。翌朝になると大評判で「長兵衛の買ってきた振り袖が、夜になると行灯を下げて歩くとよ」、
「な~に、柳橋に行けば、ハコ(箱屋)が提灯を下げて歩く」。

 



ことば

■この「長襦袢」は、手の込んだ噺ですが、陰気な噺でオチでも不快なことがあって、最近では聞くことが無くなった噺です。
 オチの部分で、いつの間にか長襦袢が振り袖になっています。これは誤記ではありません。苦しいオチなので、演者が途中で変更してしまったのです。なぜ?
 吉原の花魁道中で、新造が太夫に付く。「三分で新造がつきんした」(落語「山崎屋」のオチ)とあります。これは振袖新造、留袖新造などが付きますが、客を取る前の十五歳くらいまでの少女だった。だから正装は振袖が多い。彼女たちは遊女が歩く時に、提灯を持った。
 長襦袢に仕立てたのに、「振袖」といわないとオチにならないのだ。じゃあ、長襦袢に仕立てなければいいのに、とも思うが、振袖を男に着せる訳にも行かない。で、ドガチャカな噺になってしまった。

 古着にまつわる噺では、明暦の大火(俗に振り袖火事)でも似たような話が流布されました。

 明暦の大火では、2日間3カ所から出火し強い北風にあおられ燃え広がって江戸の姿を一変させた。江戸城本丸の城(以後再建されなかった)をはじめ、開府以来の桃山風の豪壮な武家屋敷があらかた灰になった。大名屋敷500家、旗本屋敷770家、神社仏閣300、橋61,町地1200町(町屋の3分の2が焼失)が燃え、死者10万7千人と言われる。その死者を葬るために両国の回向院が創られた。江戸史上最大の火事。
 その上、翌日21日は大雪となって、凍死者まで出る大惨事となった。
では、なぜ振り袖火事と言われたか。

 浅草の大増屋十右衛門の娘に、十六になるおきくがいた。上野へ花見に紫縮緬(ちりめん)の振り袖を着て出掛け、道で出会った若衆に一目惚れ。それが元で床に伏して病死した。
 当時、若い娘が死んだときはその振り袖を寺へ納めるのが習慣だから、この紫縮緬も菩提寺の本郷丸山本妙寺に納められた。それが古物屋に出て別な十六才の娘が買い、程なく病死。
 その後、また別な十六才の質屋の娘が質流れになった紫縮緬の振り袖を着たところこれも病死。3人とも、菩提寺は同じで、葬式も3年続いて正月16日。
 不思議な運命を恐れた親たちが集まって、供養をして振り袖を焼き捨てようとすると、一陣の風が起こって、振り袖は天高く舞い上がり・・・。それが元で大火になった。

  この話も俗説で真実はこんな芝居がかった話ではなかったようです。落語「二番煎じ」で詳しく解説しています。

長襦袢(ながじゅばん);肌襦袢と長着(着物)の間に着る襦袢。形状は着物に似ている、衽(おくみ)のような竪衿がついた関西仕立てと通し衿の関東仕立てがある。素材は主に木綿やモスリン、ウール、絹、織物は羽二重、正絹、縮緬が、夏には麻、織物は絽が用いられる。
 着丈で仕立てられている対丈(ついたけ)と長着同様、おはしょりが出来るよう仕立てられているものがある。着用の際には前もって衿ぐり部分に半衿(普通は黒)を縫い付けておく。単(ひとえ)や袷(あわせ)のほかに、胴裏を省いた胴抜(どうぬき)仕立てがある。現代は対丈で胴抜仕立てで袖は袷用の無双(むそう)袖(一枚の布で表と裏を作る)が主に使われている。襟には半衿を縫いつけ色を変えることも出来る。
 現在はこの長襦袢が一般的に使われるが、江戸時代前期ごろまでは半襦袢が正式な襦袢と考えられていた。もともと長襦袢は遊女の考案によるもので、遊郭で部屋着に近い使い方をしていたものである。富裕な商人も使用したが、公家や武家で着用されることはなかった。柄が付いたものが多いが無地も存在する。

八王子(はちおうじ);八王子市は東京都の島嶼部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。多摩丘陵にあり、河川浸食による開析が著しく、谷が樹枝状に分布する複雑な地形となっている。
 徳川氏から軍事拠点として位置づけられ、戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町(甲州街道・八王子宿)として栄えた。明治時代には南多摩郡の郡役所所在地となり、多摩地域内で最も早く市制施行した。かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑の都」及び「桑都(そうと)」という美称があり、西行の歌と伝えられてきた、
 「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」 
という歌もある。明治維新期以降は織物産業が繁栄し江戸時代からの宿場町を中心に街も発展した。特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬・秩父や山梨・長野からも荷が集まり、輸出港である横浜に運ぶための中継地としても機能していた。
 また、八王子には東京に二つある城址のうち、八王子城跡があります。
右図、八王子駅前の衣料を題材にしたモニュメント。 

織物屋(おりものや); 織物の製造元、問屋、店など。

洗い張り(あらいはり);着物をそのまま丸洗いするのは、単衣ひとえの麻や木綿物で、袷(あわせ)や綿入れ、絹などは着物の縫い目を解ほどいて、一枚の布にして洗います。同じ一枚の着物を夏は単衣に、冬は裏を付けて着たり、大人の着古しを子供用に仕立て直して着せました。

 

 上図、「洗い張り」 豊国画。 着物を解いて一枚の布にして干しますが、裏側に竹ひごを通して布をピンとさせます。また、平らな板の上に貼り付けて乾かします。 

柳原の古着屋(やなぎはらの ふるぎや);神田万世橋から下流の柳橋まで、神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.3km弱の土手に柳が植えられ、その通りに、土手を背にして床店が並んでいた。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。
 明治になっても、古着を扱う店は、呉服屋(正式に着物を仕立てて売る)と比べて、圧倒的な数の差があり、ちなみに、明治9年(1876)、東京府内の呉服屋188軒に対し、古着屋は2231軒もあったと記録されています。 現在の秋葉原、柳原土手の露天商で、土手下に古着屋がひしめきあっていて、そこには江戸の庶民だけでなく出張のお侍や旅人、同業の古着屋が寄ってきて着物を仕入れました。
 この市場の主な機能は、小売店や旅商人を相手にした、いわゆる卸売であった。それと平行して、個々の床店における素人相手の小売も行われていたことはほぼ間違いない。このように、売り手・買い手ともにプロフェッショナルな商人である以上、これまで喧伝されたような詐欺的な商売の横行といった状況は、そんな商売が一部にはあったとしてもありえない。こうした柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある富沢町(日本橋富沢町)市場と肩を並べさらにはそれを凌駕する卸売市場として発達を遂げていた。明治前半にはこの柳原土手通りの市場をもとに岩本町古着市場がつくられ、ここが東京の古着流通における最大の拠点となった。現在の岩本町、馬喰町、横山町の衣料品問屋街です。

 上図、「柳原土手」。『吾妻遊』 喜多川歌麿画。 土手際に床店の古着屋が並んでいます。

 

 上図、「柳森神社と古着市」新撰東京名所図絵より

横山町の袋物屋(よこやまちょうの ふくろものや);日本橋横山町(にほんばしよこやまちょう)は、東京都中央区の町名。北西で日本橋馬喰町と接する。横山町の北側が神田川になり、その土手際に出来たのが柳原の古着屋街(上図)。北東から南西にかけて横山町大通りが走り、衣料・雑貨関連の問屋が軒を連ねる。柳原で説明したように、隣接する馬喰町とともに小間物繊維問屋街として知られる。
 そこに有った袋物屋。
 袋物屋=印籠(いんろう)、巾着(きんちゃく)、紙入れなど袋物を生産販売または仕入れ販売する店。17世紀には、それぞれを生産する印籠師、巾着師、紙入師といった職人がいた。販売もしたが、多くは問屋に集荷されていた。18世紀になると、たばこ入れや鼻紙入れをつくる袋物師が現れ、袋物問屋がおこった。一般的にはこれらを袋物屋とよんだ。紙入れの三徳(さんとく=江戸時代に流行した紙入れの一種。鼻紙・書き付け・楊枝(ようじ)を分けて入れた)や武家女性の箱迫(はこせこ=女子和装用装身具の一種)などもつくった。袋物屋は小間物も多く取り扱った。19世紀後半以後はそれまでの袋物にかわって西洋風の手提げ鞄(かばん)やハンドバッグが主流となったが、箱迫などは婚礼や七五三のときの女性用装身具として残っている。

吾妻橋(あづまばし);創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代浅草から下流大川(隅田川)に架橋された四つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものです。 長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残ります。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われた。
  1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられた。

 写真、吾妻橋。 橋を渡った所が浅草広小路。右側のビルの奥が浅草寺。

組み糸(くみいと);糸あるいは糸の束を組合せてつくった紐。打ち紐とも呼ぶ。通常は絹糸などの繊維類を数本または数十本の単位とし、これを3単位以上そろえて、ある一定の方式 (組み方) に従って斜めに交差させ、細幅や丸い紐につくる。
 縄文土器に撚り縄を使った紋様が施されていることから、この時代から紐の歴史が始まったと言われています。
 奈良時代には、仏教伝来とともに大陸から組紐の技術が伝えられたとされ、経典や袈裟などに使われていました。正倉院に残された箜篌(くご)という楽器には、古代紐が飾り付けられています。
 平安時代になると、組紐は王朝貴族の装束に欠かせない束帯に用いられていました。
 鎌倉時代には武士の武具に、室町時代には茶道具の飾り紐にと、活用の幅を広げていきます。
 戦国時代には、鎧の縅糸(おどしいと)などに用いられ、江戸時代には刀剣の下箱の飾り紐として需要が急増しました。そのため、自然と武具装身具の職人も幕府の保護を受けて江戸に移住していきました。お互いに技を競い、組み方も多種にわたり、印籠やタバコ入れにも利用されるようになります。
 明治時代になり、廃刀令で痛手を受けて衰退しますが、明治35年以降に和装の普及によって復活し、現在に至ります。「帯締め」として使われることが多くなり、現在は主に和装小物として使用される。

  

 上、組紐。

屑屋(くずや);紙屑やぼろなど、廃品の売買を業とする人。
 反故(ほご)および古帳紙屑を買い、また、古衣服・古銅鉄・古器物をも買う。紙屑・古銅鉄の類は、秤に掛けて買う。天秤の前後に駕籠を下げて、または方形の駕籠を背負って商った。
 落語「らくだ」、「井戸の茶碗」、「巌流島(岸柳島)」、「安兵衛狐」等でも準主役で出て来ます。

行灯(あんどん);木などの框(ワク)に紙を貼り、中に油皿を入れて灯火をともす具。室内に置くもの、柱に掛けるもの、さげ歩くものなどがある。あんどう。紙灯。

大家(おおや);江戸時代、家守(ヤモリ)のこと。転じて、貸家の管理人。やぬし。地主が建てた長屋に、借家人である店子が入居し、それを管理するのが大家さん。
 そのよび名から長屋の持ち主のように思われがちですが、じつは土地・家屋の所有者である地主から、長屋の管理を任されている使用人で、家守(やもり)、家主(いえぬし)ともよばれていました。現代で言う管理人です。豊かな地主は多くの長屋を持ち、それぞれに大家を置いた。
 その仕事は、貸借の手続き・家賃の徴収・家の修理といった長屋の管理だけでなく、店子と奉行所のあいだに立って、出産・死亡・婚姻の届け出・隠居・勘当・離婚など民事関係の処理、奉行所への訴状、関所手形(旅行証明書)の交付申請といった、行政の末端の種々雑多な業務を担当していました。
 それだけに店子に対しては大いににらみをきかせ、不適切な住人に対しては、一存で店立て(強制退去)を命じることもできました。
 大家の住まいは、たいてい自分が管理する長屋の木戸の脇にあり、日常、店子の生活と接していましたから、互いに情がうつり、店子からはうるさがられながらも頼りにされる人情大家が多かったようです。
 (「大江戸万華鏡」 農山漁村文化協会発行より)

柳橋(やなぎばし);安永年間(1772-81)に船宿を中心にして興りました。実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者を加えた結果、最盛期を迎えました。明治初年には、芸者600人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。

 

 上写真、神田川最下流に架かる柳橋。船徳の徳さんがここから手前の隅田川に漕ぎ出した船宿が密集している地。奥にブルーの浅草橋が見えて右側の街が柳橋、現・台東区柳橋(町)。花柳界として名を馳せた地で、落語「船徳」や「不幸者」、「汲みたて」、「権助魚」、「花見小僧」等々で出てくる落語界の名所です。

吉原(よしわら);仲。浅草の北、千束にあり、新吉原と呼ばれ、江戸町1・2丁目、角町、京町1・2丁目の五丁町から出来ていた。揚屋町、伏見町は入らない。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有った(元吉原)が、江戸の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転させられた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと言われ”さんざめく”との形容が合っている』と、(先代)円楽は言っている。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(現実には2月末)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ、吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカになってしまった。「仲」とも、品川の南に対して「北」とも言う。
 右地図:吉原全景 江戸切り絵図より。 

ハコ(箱屋);芸者の三味線箱持って、供をする男衆の箱屋を”ハコ”と言いました。
 右図:女芸者は通常吉原の検番に属していた。女芸者のお供をする検番の手代。通称、三味線の箱を担ぐ箱屋です。
 江戸吉原図聚 三谷一馬画。



                                                            2019年2月記

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