落語「釣堀にて」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「釣堀にて」(つりぼりにて)より


 

 いろいろなお友達がいますが、早く親しめるのが釣りの友達です。それも、ハコと言われる釣り堀は良いもので、体力も使わず好きな時に行って道具一式借りて昼飯も頼めば出前もしてくれます。東京にも5~60軒の釣り堀が有りました。暮れの寒い時期、六十以上になるご隠居さんと二十二三になる青年が釣り糸を垂れています。

 「どうしました?長谷川さん。元気が無いじゃ無いですか」、「ご隠居さん、つまらないのです。本当の親って、そんなに有り難いのでしょうか。産んでくれた父親です」、「父親が・・・」、「私には父親が3人いるんです。産みの親と、育ての親と、今までお父っつあんと呼んでいる父親」。
 「食いが止まっていますから、聞かせて下さい」、「私の家は芸者屋なんです。お嬢さん育ちで、十八の時、金持ちから『ぜひ』と請われて嫁に行き、そこで生まれたのが私です。永くは続かず、そこを出て里親に育てられ、母親は必死に芸者を続け、小学校出た時に母親の所に帰されて、そこに今の父親がいたんです。この父親は出来た人で、母親が進学ばかりを言いましたが、この子に合った進路が有ると言うんです。でも母親は可哀想だと言い、何も知らないからお前が可哀想だと言うんです。で、聞きました『何が?』、『今に解るその時が来るよ』と泣くんです。中学も出たのは父親のお陰なんです。可哀想なのは父親なんです。女はどうして聞き分けが無いんだろうと・・・、(場内から拍手と笑いが)それ以来父親が帰らなくなり、母親は考え無しの強さ一方です。先日、呼ばれたので行くと、『信夫、本当の父親に合わせてやろう』、で、今のお父っつあんが父親でしょ」、「痛いとこ付きましたね」、「十八の時の父親をソデにして、今また親父をソデにするなんて我慢が出来ず、『僕会いたく有りません』とハッキリ言いました。母親は泣き伏してしまいましたが、ご隠居さんはどう思いますか」、「・・・」、「むしゃくしゃして2~3日家に帰らなかったんです。釣堀でウキを見ていると気がほぐれるんですが、今日は気がほぐれないのです」、「そこまで考えなくても・・・」。
 「ご隠居さん、お家からお電話です」。

 明くる日の銀座、大きな洋食屋の個室。仲間の芸者に「春路(はるじ)さん、何で息子からこんなこと言われなければいけないの」、「信ちゃんに話をした時、最初から本当のこと言ったの?」、「十八の時請われて嫁に行ったが別れて・・・」、「少し美化したね。初めてその男に世話になって、一緒になれると思ったら、他から嫁さんが来て、悔しくて分かれたが大川端を夜中何度も子供を連れて歩いたことか。ウソだと思ったら春路さんに聞いてご覧、と言えば良いじゃないか」。
 そこに幇間の和忠(わちゅう)が入ってきた。「待ってたわ。和忠さん、あんた一人?急に用事が出来たの?時間を間違えたの?それとも病気?」、「いえ、『やだッ』って、『会うこと無い』って」、「和忠さん、話が違わない。会いたいと言うから、善は急げと話が進んだんでしょ」、「分かりました。泣きたいのはこっちです」、三人そろって涙をぽろぽろ流しています。

 先日の釣堀に二人。「貴方と同じような話が有って笑ってしまいました。電話があったでしょ。会いたい人が来てるから直ぐ帰れと、帰ったら男が一人いました。貴方の話とは違って、『別れた息子が会いたいと言っている』からと・・・、それまでは若気の至りで子供のことは忘れていました」、「ご隠居さんは会われたのですか」、「『やだッ』、『会いたくない』と言いました。それは貴方の言葉があったからです。今頃になって会いたいだ何て、弱っチョロい男なんだな~と思って断りました。翌日も来て勧めるんですよ。意固地になって断りました。それもお前さんのお陰ですよ」。「どうして、くだらないこと、ベラベラしゃべったんでしょうね」、「人情ってものは、はき違えると大変な事になると、しみじみと思いましたよ」。
 そこに昼飯が届いた。「ところで、家に帰りました?」、「帰ったのですが、母親はさばさばしていて、あの一件があったなんて顔をしていないんですよ」、「そうですか」、「明日は観音様の市です」、「あと半月で正月。早いな~、歳取ると一年が瞬く間でしてね。天気都合が良いから商人は助かります」、「ご隠居さん、ウキが動いています。アッ、私のも・・・」。一緒に上げますと、空中で糸が絡み合っています。釣り師はこれをオマツリと言います。仏説では”縁(えにし)の糸”と申します。

 



ことば

新作人情噺;久保田万太郎原作の落語。
 久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年(明治22年)11月7日 - 1963年(昭和38年)5月6日、右写真)は、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描いた。俳人としては岡本松浜、松根東洋城に師事、戦後に俳誌「春燈」を主宰し文人俳句の代表作家として知られる。別の筆名に千野菊次郎。文化勲章受章者。贈従三位勲一等瑞宝章(没時叙位叙勲)。
 1937年(昭和12年)、岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成。以後新派、新劇、文学座の演出を数多く手がける。明治座や有楽座、国民新劇場で「ゆく年」、「釣堀にて」、「蛍」、「雨空」などを上演。『釣堀にて』は、双雅房、昭和12年(1937)出版。

 句作にも秀でたところが有ったが、万太郎は余技として位置づけていた。
 ・神田川祭の中をながれけり
 ・竹馬やいろはにほへとちりぢりに
 ・さびしさは木をつむあそびつもる雪
 ・あきかぜのふきぬけゆくや人の中
 ・水中花咲かせしまひし淋しさよ
 ・湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 

左、台東区雷門一丁目15番に有る生誕の地の碑。『ふるさとの月のつゆけさ仰ぎけり』。 
右、浅草二丁目浅草神社境内に有る句碑。『竹馬やいろはにほへとちりぢりに』。

三代目三遊亭金馬(さんゆうていきんば);「日曜を釣りをするバカに 釣らぬバカ」(三代目金馬)。自著「浮世断語(うきよだんご)」の中でこの様に言っています。釣りをする側からみれば、釣りをしないなんて・・・。釣りは童心に返ると言い、水辺に住んでいた人は蛙釣りをしたり、トンボ釣りをした経験があると、その本に書かれています。
 金馬さんは大の釣り好きで、1954年2月5日、千葉県佐倉へタナゴ釣りの帰りに総武線の線路を歩き、鉄橋を渡っているときに列車にはねられそれが元で左足を切断する。奇跡的にも一命を取りとめた金馬は放送の約束が気になっていたのか、病院の手術台で麻酔が効き始めると『野ざらし』を一席うかがう。半年後に退院し、退院時のお見舞い礼状に、「お礼を述べた後、ケガをしましたのは、”こうこうと、こうこうと~”」と落語の「孝行糖」をもじって書かれてあった。高座にも復帰したが釈台で足を隠しての板つきであった。出と引っ込みの時は必ず緞帳(どんちょう)を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけた。釣りが元だとは言われたくなかった。

 金馬は存命中、ラジオや有線放送、レコードなどを通じて老若男女問わず国民的な人気があった。それにも関わらず、読書家で故事風俗・古典にも通じた博識を煙たがられたためか、久保田万太郎やその弟子安藤鶴夫などの評論家とは不仲で、不当に低く評価された。俳人・劇作家で評論家の久保田万太郎は、第三次落語研究会の会長にも就任したが、爆笑落語や新作落語を嫌い、落語を「鑑賞」する芸術としてみずからの高邁な価値観を押し付けようとしたところがあった。落語研究会の発起人の1人でもあった金馬を「話芸における幅と深みに欠ける」と一方的に断じ、決して評価しなかった。また、博識で権威に媚びない金馬を毛嫌いし、エッセイの一節に、寄席で金馬一門の出演の際にはトリの金馬が出てくる前に帰ったとまで書いている。
 金馬ファンからは久保田の方が「落語を聴くセンスが根本的に欠如していたのではないか」と酷評される所以ともなっている。 
 この落語は昭和39年(1964)5月15日第51回東京落語会での収録です。久保田万太郎が亡くなったのが前年の昭和38年5月です。あれだけいじめられた久保田万太郎の作品を引き受けて落語としてNHKで演じたものです。心が広いというか、NHKの口説きが上手かったのか放送されたのです。この音源は金馬が亡くなる半年前に収録され、お蔵入りになっていたものを平成10年(1998)10月に放送されたのです。

 三代目三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれの落語家。大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名は加藤 専太郎(かとう・せんたろう)。出囃子は「本調子カッコ」。 初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳(後の三代目三遊亭圓馬)にも多くを学んだ。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評があった。 当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーであった。70歳没。

歳の市(としのいち);12月17~19日に浅草浅草寺(観音様)で開かれる歳の市。別名羽子板市とも言われます。本堂前に20軒近くの小屋が建ち、羽子板や羽を売ります。
 浅草の歳の市は、日常生活用品の他に新年を迎える正月用品(しめ縄や松飾り)が主になり、それに羽子板が加わり華やかさが人目をひくようになりました。その華やかさから押し絵羽子板が「市」の主要な商品となり、いつしか市が「羽子板市」といわれるようになり「人より始まり人に終わる」と言われるほどの賑わいとなりました。年の瀬の風物詩となりました。下写真:浅草寺歳の市、2018年12月17日撮影。

 

釣堀(つりぼり);人工的に設営された区画の中に魚を放流し、お客が料金を支払った上で釣りが体験できる施設のことを言います。釣った魚はすぐさま放流しなおさなければいけない場所、持ち帰ることができる場所、その場で調理してもらうことができる場所と施設によって異なります。また、放流している魚もコイやフナ、ニジマスなど施設によって異なります。 釣り堀では釣り竿やエサはその場でレンタルすることができるため、手ぶらで気軽に釣りが楽しめることが特徴です。
 金馬はハコ釣りだと言っています。また、東京には5~60軒の釣り堀があったと言いますが、現在は屋外の釣堀は10数軒しか有りません。
 その中から有名所を紹介すると、
市ヶ谷フィッシュセンター(JR市ヶ谷駅目の前):市ヶ谷フィッシュセンターは、創業50年以上の総合観賞魚センターで、市ヶ谷駅から見える釣り堀の運営をしています。

弁慶フィッシングクラブ:東京都赤坂弁慶橋の釣り堀です。ここでは、コイ・フナ・へらぶな・ブラックバス・ブルーギル・雷魚・ニジマス・ウグイなど様々な魚を釣ることができます。 レンタルボートに乗って釣りが体験できるのもここならではの体験です。

清水池公園釣り堀:目黒区目黒本町2丁目。目黒区の憩いの場として用意されている清水公園内に隣接している釣り堀で、ここでは無料でへら鮒釣りを楽しむことができます。 ただし、貸竿はなく、釣った魚を持ち帰ることもできません。

つり堀 曳舟園:葛飾区にある創業50年以上の老舗釣り堀です。 釣り堀内にはコイやフナを中心にナマズ、金魚などが泳いでおり、1時間750円で道具はすべてレンタルでき手軽に釣りが楽しむことができます。

隅田公園魚釣り場:言問橋東詰めに有る、区営の釣堀。道具は持参でいつも込んでいます。1回 2時間・30円(見学者は無料)。道具は持参で針は返しのないもので持ち帰りは不可。

豊住魚釣り場:江東区仙台堀川公園の一部、豊住橋際にある区営の釣堀。へらぶな釣り場で、釣り堀なみの魚影と設備ながら料金は無料。下写真。

 

戯曲(ぎきょく);上演する目的で書いた演劇の脚本。台本。また、台本の形式で書いた文学。劇文学。
 この落語の元になった噺。

芸者屋(げいしゃや);芸者を抱えていて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

銀座(ぎんざ);東京都中央区の地名。現行行政地名は銀座一丁目から銀座八丁目。地域ブランドとしても知られている。
 日本有数の繁華街であり広義における下町の一つでもあります。東京を代表する高級商店街として、日本国外においても戦前よりフジヤマ、ゲイシャ、ミキモト、赤坂などとともに知られる。”銀座”の名は一種のブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。
 銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所のことで、1601年(慶長6年)に京都の伏見に創設されたのが始まり。1606年(慶長11年)に駿府(現・静岡市)の置かれていた幕府の銀座鋳造所(銀座役所)が、1612年(慶長17年)に江戸に移され、その後1800年に東京の蛎殻(かきがら)町に移転して以来、元の「新両替町」の名称に代わって「銀座」として親しまれるようになり、銀座役所が日本橋に移転されたあともこの地名が定着した。また、銀座四丁目交差点周辺は商業地として日本一地価の高い場所としても知られる。
 下写真:銀座四丁目交差点。

 

里親(さとおや);日本において里親の制度は平安時代からあったが、制度の当初は戦争により親を失ったものが多く、一時は里親登録数が2万人里子は9千人以上に達した。2016年現在では、通常の親権を有さずに児童を養育する者は、個人間の同意の下で児童を養育する「私的里親」と、児童福祉法に定める里親制度の下で、自治体などから委託された児童を養育する「養育里親」「専門里親」などがある。
 里親は児童福祉法により定められた研修を受けたのち児童福祉審議会里親認定部会で審議され、里親として認定された者でなければならない。厚生労働省では2016年の改正児童福祉法を具体化した「新しい社会的養育ビジョン」において、原則就学前の施設入所停止や、7年以内の里親委託率75%以上など数値目標を定め、養護施設に対しては、入所期間を1年以内とし、機能転換も求めている。この児童福祉法改正では、実親による養育が困難であれば、特別養子縁組による永続的解決や里親による養育を推進することを明確にしている。
 児童養護施設に入所する子どもの大学・専門学校進学率は11%程度に対し、里親養育下の子どもの大学進学率は例年20%程度で約10%上回っており、里親下での養育の方が進学に適切な支援が得られている可能性がある。

幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業。

 昔はいろんな遊び方があったんだけど、もう今は駄目だね。みんな杜用族になっちやって、自分のお金で遊ぼうなんて人はいないんだ。今の男の人は、幸せのようで幸せじやあないね。遊びの味を味わおうったって、味わえないんだから。昔は遊びっていうと、お客について、五軒も六軒も歩いて回ったもんだ。居続けなんてのも、しょっちゅうだしね。今じや、宴会の時間なんて二時間で終わりなんて最初から決められているんだから。そんなの遊びじやないよ。女中さんも、板さんも終業時間が決まっているしね。郵便局と同じだよ。味気なんてありやしない。 最後の幇間と言われた師匠の本、「たいこもち玉介一代」悠玄亭玉介著 草思社より

 専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。
 落語「王子の太鼓」より孫引き

オマツリ;魚釣りで、釣っている人どうしの釣糸がからみ合うこと。一匹しか付いていない時は、どちらが釣ったか解らなくなります。噺の中では、「仏説では”縁(えにし)の糸”と申します」。



                                                            2019年3月記

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