落語「池田屋」の舞台を行く 春風亭小朝の噺、「池田屋」(いけだや)より
■池田屋事件(いけだやじけん);元治元年 (1864)
6月5日、京都三条の旅館池田屋で新撰組が勤王派浪士を襲撃した事件。
経緯、 幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷・勤王等の各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動をしていた。会津藩と薩摩藩による『八月十八日の政変』で、長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、[京都守護職]は[新選組]を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
戦闘、 亥の刻(夜22時頃)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱。
異説、
近年の研究では「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの志士側の陰謀は、新選組による捏造(でっち上げ)であり、新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪だとする説もある。その理由として、これらの計画は幕府側の記録にはあるものの、志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、"新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合"としか記されていない。証拠と言えるものは、土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しいことが挙げられる。
近藤隊、近藤勇。沖田総司。永倉新八。藤堂平助。武田観柳斎。谷万太郎。浅野薫(藤太郎)。安藤早太郎。奥沢栄助。新田革左衛門。以上10名。
土方隊、土方歳三。井上源三郎。斎藤一。原田左之助。島田魁。谷三十郎。川島勝司。葛山武八郎。蟻通勘吾。篠塚峰三。林信太郎。三品仲治。以上12名、他に12名が加わっていたかも知れない。
池田屋事件で襲撃された主な志士、
宮部鼎蔵(肥後藩。池田屋で自刃)。北添佶摩(土佐藩。池田屋で闘死。階段落ちで有名)。淵上郁太郎(久留米藩。脱出)。大高又次郎(林田藩。池田屋で闘死)。石川潤次郎(土佐藩。池田屋で闘死)。松田重助(肥後藩。池田屋で闘死)。伊藤弘長(土佐藩。池田屋で闘死)。福岡祐次郎(伊予松山藩。池田屋で闘死)。越智正之(土佐藩。池田屋で闘死)。広岡浪秀(長州藩の神職。池田屋で闘死)。
以上、ウイキペディアより
■天然理心流(てんねん‐りしん‐りゅう);剣術の一派。遠州の近藤内蔵之助長裕( ~1813)が創め、関東地方にひろまる。幕末、近藤勇・土方歳三らが出た。
■近藤勇(こんどう いさみ);幕末の新撰組局長。天然理心流の剣士。名は昌宜。武蔵の人。1863年(文久3)幕府の浪士隊に採用され、のち新撰組を結成、諸藩の倒幕志士を捕殺。官軍と甲斐勝沼で戦って敗れ、武蔵板橋で斬首。(1834~1868)。右写真:近藤勇(国立国会図書館蔵)。
元治元年八月十八日の政変により京都政局は公武合体派が掌握し、一橋慶喜・松平容保(会津藩主)・松平定敬(桑名藩主)の三者による「一会桑政権」が形成され、新選組はその一角を担った。松平容保は陸軍総裁職・軍事総裁職となり、2月25日には福井藩主・松平慶永が京都守護職に就任している。幕府では新選組を松平慶永に預ける案が浮上したが、近藤はこれを断っている。
「近藤勇と新撰組隊士供養塔」北区指定有形文化財 北区滝野川7-8-1。中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍によって処刑された。首級は京都に送られ胴体は、この供養塔に埋葬された。
■近藤勇愛刀;長曽禰虎徹興里(長曽祢虎徹=ながそねこてつ)。講談などでの近藤の決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名。
■沖田総司(おきた そうじ);(天保13年(1842年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)) 9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となり、のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。若くして試衛館塾頭を務める。
■土方歳三(ひじかた としぞう);幕末期の幕臣、新選組副長、右写真。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳。
■宮部鼎蔵(みやべ
ていぞう);(文政3年(1820年)4月 - 元治元年6月5日(1864年7月8日)) 山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、林桜園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰と知り合い、嘉永3年(1850)、東北旅行に同行する。松陰と鼎蔵は嘉永4年(1851)、山鹿素水に学んでいる。文久元年(1861)には肥後勤皇党に参加する。文久2年(1862)には清河八郎も宮部を訪ね肥後に来ている。その後、京都で活動する。文久3年(1863)に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、元治元年(1864)には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿する。
元治元年(1864)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。享年45歳。明治24年(1891)に従四位を贈られている。
■宗良親王(むねよし しんのう/むねなが
しんのう);後醍醐天皇の皇子。天台座主、尊澄法親王と称。鎌倉幕府倒幕運動に加わり讃岐に流されたが幕府滅亡後還任。のち還俗。征東大将軍。吉野から東国に下る途中遠江に漂着、信濃など所々に転戦、再び吉野に帰る。「新葉和歌集」を撰し、歌集に「李花集」がある。
■古高 俊太郎(ふるたか しゅんたろう);(文政12年4月6日(1829年5月8日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))江戸時代末期(幕末)の攘夷派の志士。小道具屋・枡屋喜右衛門。
■北添佶摩(きたぞえよしまろ、きつま);(天保6年(1835年) - 元治元年6月5日(1864年7月8日) 江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。池田屋事件の「階段落ち」で知られる。
■入江惣兵衛(いりえ そうべえ);(文政6年(1823年) - 元治元年7月13日(1864年8月14日)) 江戸・幕末期の商人。京都三条小橋西の池田屋の主人で、池田屋惣兵衛の名で知られている。
■塚越金十郎(つかごし きんじゅうろう);噺の中では、「池田屋騒動の時、2階で琵琶を弾じていた者で塚越金十郎と申します。代々神官をしておりまして、宗良(むねなが)親王より賜りました琵琶を持ちまして近藤さんの後ろを通り抜けようとした時、一太刀あびて琵琶が半身落とされてしまいました。以来私の身体を護ったとして家宝として飾っています」。
■横倉喜三次(よこくら きさんじ);新選組近藤勇を自らの手で斬首した武士。文政7年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐(いび)で誕生する。
天保5年父病死で、11歳で家督を相続する。
吉田久兵衛に剣術を学ぶ。
天保11年(1840)、17歳で江戸勤番となる。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門する。
天保14年美濃に帰省し、弘化2年同門の梅田棒太郎光太の門人に入り修行する。
剣術以外に柔術、砲術を学び、武術全般にも技術を磨き、岡田家の家臣として剣術、柔術の世話方に抜擢され、岡田家の武術指南役、となる。神道無念流は皆伝。明治27年、71歳で没する。
■物打ち(ものうち);太刀などで物を打ち切る時、その物に触れる所、すなわち切先(キツサキ)から 手元へ向かって刀身が広がり始めるあたりの所。切先三寸の所。物切り所。打ち所。
■琵琶(びわ);中国・朝鮮・日本の弦楽器の一。木製の胴の上部に短い頸があり、四弦(または五弦)。胴はなすび形で平たく、長さは60~106cm。日本では主に撥(バチ)、朝鮮・中国などでは義甲または爪でひく。起源はペルシア・アラビアとされ、インド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来。時代・用法・形状その他によって楽琵琶(ガクビワ)・盲僧琵琶・平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶などがある。よつのお。胡琴。
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