落語「池田屋」の舞台を行く
   

 

 春風亭小朝の噺、「池田屋」(いけだや)より


 

 歴史書を紐解いてみると、いつの時代も若者が台頭してくると、時代が変わってくるものです。

 元治元年の6月5日の夕刻から始まる池田屋騒動で、明治が1年遅れたと言います。新撰組の面々が祇園の屯所に集まってきました。
 骨董屋に身を隠していた古高俊太郎が新撰組に捕らわれ、土方歳三によって拷問を受け、天井から逆さづりを受け、足に釘を打ち蝋燭を立てたと言います。誕生日でも無いのに・・・。これにより勤王の志士40数名が池田屋か四国屋のどちらかに集まると知れた。実行部隊の新撰組隊長は、天然理心流の達人近藤勇(こんどういさみ)です。
 池田屋に着いたのが四つの鐘が鳴っていたと言いますから今の夜10時頃、潜り戸を開けると中は障子です。クーデターを計画している旅籠ですから簡単に開くはずがないが、前日から仲間が投宿していて時間に合わせて鍵を開けておいた。最初の隊士が安全を確認すると残りの隊士が踏み込んで来た。池田屋の主人入江惣兵衛がこれに気づき、二階に声を出したが、声にならなかった。この気配に気がついた北添佶摩(きたぞえよしまろ)が「親父どうした」と声を掛けたが、階段で近藤勇と対峙し袈裟懸けに切られ階段から落下した。槍の名手谷三十郎によってとどめを刺される。この間わずか2~3秒です。
 表階段と裏階段から押し入った。「新撰組だッ」の声を上げたが、鍵を開けた新撰組の仲間が刀を集めて隠してあった。その為に脇差しを抜いて戦ったが、天井の低い池田屋では都合が良く、新撰組が遅れを取ってしまったが、先刻承知の近藤勇は「土方が戻ったぞッ、これで総勢40名になった」と、ウソの情報を流した。肥後藩の宮部鼎蔵は「長州屋敷に使いを出せッ」と言った後、近藤勇と対峙した。「宮部さん、この日が来ると思っていました。お相手仕ろう」、「望むところだッ」、いくら脇差しでも腕の差があります。階段の所まで追い詰め、一文字に横に払った刀に手応えがあった。出血が凄まじく意識が混濁する中で、階段から転がり落ちていった。今生の別れと思って腹切りをした。近藤勇は片手拝みをして、戦列の中に戻っていった。

 「女子供には手出しはしません。行灯部屋に入りなさい」。皆は震えながら行灯部屋に入っていく中に、震えていない男がいた。それを見付けた沖田総司が呼び止めた。「私でございますか?」、「その方武士であろう。面ズレはしているし、身のこなしは町人とは違う」、中庭で戦ったが相手も腕がたち、沖田総司組伏されてしまった。下になった沖田総司がこの時初めて喀血をした。その血が相手の顔にかかり顔を背けたときに近藤勇が助太刀し、後ろから「エイッ」と切り捨てた。うらめしそうな顔をして池の中に落ちていった。

 戦況が一段落したとき、近藤勇の後ろをスーッと通り抜ける男がいた。やり過ごしておいて背後を一刀のもとに切りつけた。剣の達人ですからどのぐらいの傷を相手に負わせたか分かるが、この時は異様な手応えであって、逃げていったので深追いもしなかった。

 屯所に戻り、長曽禰虎徹の愛刀を手入れしていたが、切っ先から2~3寸下がった俗に”もの打ち”と言うところに、小さな刃こぼれが有った。近藤勇の記憶の中に刃こぼれするような状況は思い出さなかった。刀を鞘に収めたのが元治元年6月6日の朝であった。

 時移り、慶応の4年。4月の25日一人の男が板橋の刑場に引き出された。大久保大和と変名を使って逃げ延びていた近藤勇でした。陣羽織を着込んだ、官軍の副将が「近藤さん、私のこと覚えていますか?」、「はて?どなたであったか」、「池田屋騒動の時、2階で琵琶を弾じていた者で塚越金十郎と申します。代々神官をしておりまして、宗良(むねなが)親王より賜りました琵琶を持ちまして近藤さんの後ろを通り抜けようとした時、一太刀あびて琵琶が半身落とされてしまいました。以来私の身体を護ったとして家宝として飾っています」。この時、初めて刃こぼれの合点がいきました。「ほう、左様であったか」とニッコリ笑ったと言います。死ぬ間際だというのに・・・、剛胆なものです。備中剣道指南役横倉喜三次という人が首を落としたと言います。近藤勇三十五歳の朝まだきでした。

 



ことば

■池田屋事件(いけだやじけん);元治元年 (1864) 6月5日、京都三条の旅館池田屋で新撰組が勤王派浪士を襲撃した事件。
 文久3年(1863) 8月18日の政変で失脚した長州藩は、公武合体派の不和をみて、尊王攘夷派を中心として勢力挽回を策した。京都に潜入した尊王攘夷派は、肥後藩士宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)を主謀とし、公武合体派の中川宮以下公卿、大名らを暗殺して市内に蜂起する計画を立てた。その謀議のため二十余人が池田屋に集会中、市中警備の新撰組に探知され、近藤勇以下三組合計五十余人に斬り込まれて宮部ほか8人が斬られ、4人が負傷、5人が捕えられた。長州の桂小五郎 (木戸孝允) は会合に遅れて難を免れ、藩邸側の出動を制止した。この事件は長州藩を強く刺激し、翌月には大挙上京して禁門の変を起すにいたる。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より

経緯、 幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷・勤王等の各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動をしていた。会津藩と薩摩藩による『八月十八日の政変』で、長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、[京都守護職]は[新選組]を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
 5月下旬頃、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡等が発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高俊太郎について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性が高い。
 さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画について、実行するか否かを協議する会合が、池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。

戦闘、 亥の刻(夜22時頃)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱。
 襲撃を受けた宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎(ところやま あきちろう)の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い(普段から新撰組は本物の太刀を持ち、敵の刀を切断したり、刀に裂傷を与える鍛錬をしていた)、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していた事にも気付いていなかった事から戦闘の激しさが偲ばれる。
 新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。
 この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20余名を捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。 その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるため、夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。

 

影響、 御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける(後の新政府により彼らは俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士達は、三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。
 長州藩は、この事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に禁門の変(元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる)を引き起こした。

異説、 近年の研究では「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの志士側の陰謀は、新選組による捏造(でっち上げ)であり、新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪だとする説もある。その理由として、これらの計画は幕府側の記録にはあるものの、志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、"新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合"としか記されていない。証拠と言えるものは、土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しいことが挙げられる。
 また、近藤は故郷への書簡の中で、当日は病人が多く人手が少なかったとしているが、事件直前に脱走者が多く出ていたためとする説がある。
 司馬の小説『竜馬がゆく』などでは、山崎丞が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、突入前に戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎の確報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずであり、山崎の名は褒賞者名簿には無いことから、実際は屯所残留組であったと推定される。
 近藤の書簡や永倉新八の手記『浪士文久報国記事』によると、当日は近藤隊10名、土方隊12名、井上源三郎隊12名の三手に別れて探索を行っており、応援に駆けつけたのは井上隊である。
 近藤の書簡によると、池田屋に乗込んだのは近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっているが、永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎、武田観柳斎、浅野薫の10名である。
 桂の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたものなので、事前に新選組が場所を察知していたとは考えにくい。永倉は「片っ端から」探索した旨述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新選組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。

 近藤隊、近藤勇。沖田総司。永倉新八。藤堂平助。武田観柳斎。谷万太郎。浅野薫(藤太郎)。安藤早太郎。奥沢栄助。新田革左衛門。以上10名。 

 土方隊、土方歳三。井上源三郎。斎藤一。原田左之助。島田魁。谷三十郎。川島勝司。葛山武八郎。蟻通勘吾。篠塚峰三。林信太郎。三品仲治。以上12名、他に12名が加わっていたかも知れない。

 池田屋事件で襲撃された主な志士、 宮部鼎蔵(肥後藩。池田屋で自刃)。北添佶摩(土佐藩。池田屋で闘死。階段落ちで有名)。淵上郁太郎(久留米藩。脱出)。大高又次郎(林田藩。池田屋で闘死)。石川潤次郎(土佐藩。池田屋で闘死)。松田重助(肥後藩。池田屋で闘死)。伊藤弘長(土佐藩。池田屋で闘死)。福岡祐次郎(伊予松山藩。池田屋で闘死)。越智正之(土佐藩。池田屋で闘死)。広岡浪秀(長州藩の神職。池田屋で闘死)。

以上、ウイキペディアより

天然理心流(てんねん‐りしん‐りゅう);剣術の一派。遠州の近藤内蔵之助長裕( ~1813)が創め、関東地方にひろまる。幕末、近藤勇・土方歳三らが出た。

近藤勇(こんどう いさみ);幕末の新撰組局長。天然理心流の剣士。名は昌宜。武蔵の人。1863年(文久3)幕府の浪士隊に採用され、のち新撰組を結成、諸藩の倒幕志士を捕殺。官軍と甲斐勝沼で戦って敗れ、武蔵板橋で斬首。(1834~1868)。右写真:近藤勇(国立国会図書館蔵)。
 天保5年(1834)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。
 嘉永元年(1848)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている。翌、嘉永2年6月には目録を受ける。同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。
 万延元年(1860)3月29日に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。
 翌年8月27日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久2年(1862)には、つねとの間に長女・たま(瓊子)が誕生した。

 元治元年八月十八日の政変により京都政局は公武合体派が掌握し、一橋慶喜・松平容保(会津藩主)・松平定敬(桑名藩主)の三者による「一会桑政権」が形成され、新選組はその一角を担った。松平容保は陸軍総裁職・軍事総裁職となり、2月25日には福井藩主・松平慶永が京都守護職に就任している。幕府では新選組を松平慶永に預ける案が浮上したが、近藤はこれを断っている。
 元治2年6月1日、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵下僕である忠蔵を捕縛し、ほか不審者2名を捕縛した。拷問により謀反の計画を知り、6月5日に四条通小橋西入ル真町(京都市下京区)で薪炭商・枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
 禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。
 天然理心流の後継者を沖田総司とすることなども記されている。
 鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。
 甲州市勝沼町において勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊と戦うが敗れて敗走する。
 近藤・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、隊士は227名に増加した。近藤は変名をさらに「大久保大和」と改めた。
 4月には下総国流山(千葉県流山市)に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿(東京都板橋区)に入っていた。新選組は流山で分宿し、近藤・土方は長岡七郎兵衛宅を本陣としていた。新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知り、4月3日には近藤を捕縛する。



 4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次によって斬首された。享年35(満33歳没)。晒された高札には、”近藤 勇 右者(みぎは)元来浮浪之者にて、初め在京新選組之頭を勤め、後に江戸に住居いたし、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山において官軍に手向ひいたし、或いは徳川の内命を承り候等と偽り唱へ、不容易企(よういならざるくわだて)に及び候段、上は朝廷、下は徳川之名を偽り候次第、その罪数ふるいに暇(いとま)あらず、よって死刑に行い、梟首(きょうしゅ)せしめる者也。”
 その後、首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は各説有るが不明。

 「近藤勇と新撰組隊士供養塔」北区指定有形文化財 北区滝野川7-8-1。中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍によって処刑された。首級は京都に送られ胴体は、この供養塔に埋葬された。

近藤勇愛刀;長曽禰虎徹興里(長曽祢虎徹=ながそねこてつ)。講談などでの近藤の決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名。
 近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。 近藤の虎徹については真贋を含めて所持は不明であり、複数の説がある。子母沢寛の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」「鴻池善右衛門に貰った」「斎藤一が掘り出した」の三説を挙げている。その他、「当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を施した」とする説、「将軍家から拝領した長曽祢虎徹興正の作であった」とする説などがある。



「太刀 長曽祢虎徹」 東京国立博物館蔵。

 長曽禰虎徹興里、江戸前期の刀工。名は興里(オキサト)。入道して古鉄・虎徹と称す。近江長曾禰(ナガソネ)に生れ、越前で甲冑師として名があったが、江戸に出て刀工として大成。地鉄が緻密で切れ味鋭く、江戸刀工を代表する一人。長曾禰虎徹。(1596 ~ 1678?)。あまりにも有名なので、正宗と並んで大部分は偽物だと言われる。

沖田総司(おきた そうじ);(天保13年(1842年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)) 9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となり、のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。若くして試衛館塾頭を務める。
 文久3年(1863)の浪士組結成に参加して上洛する。分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番隊組長となる。一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたという。 元治元年(1864)6月5日の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ。この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれている(これには諸説あり)。
 後年、幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868)に肺結核で死去。近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。享年26歳。

土方歳三(ひじかた としぞう);幕末期の幕臣、新選組副長、右写真。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳。
 池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされる。そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったといわれている。また、脱走者は切腹または斬殺後に見せしめにすることもあった。

宮部鼎蔵(みやべ ていぞう);(文政3年(1820年)4月 - 元治元年6月5日(1864年7月8日)) 山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、林桜園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰と知り合い、嘉永3年(1850)、東北旅行に同行する。松陰と鼎蔵は嘉永4年(1851)、山鹿素水に学んでいる。文久元年(1861)には肥後勤皇党に参加する。文久2年(1862)には清河八郎も宮部を訪ね肥後に来ている。その後、京都で活動する。文久3年(1863)に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、元治元年(1864)には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿する。 元治元年(1864)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。享年45歳。明治24年(1891)に従四位を贈られている。

宗良親王(むねよし しんのう/むねなが しんのう);後醍醐天皇の皇子。天台座主、尊澄法親王と称。鎌倉幕府倒幕運動に加わり讃岐に流されたが幕府滅亡後還任。のち還俗。征東大将軍。吉野から東国に下る途中遠江に漂着、信濃など所々に転戦、再び吉野に帰る。「新葉和歌集」を撰し、歌集に「李花集」がある。

古高 俊太郎(ふるたか しゅんたろう);(文政12年4月6日(1829年5月8日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))江戸時代末期(幕末)の攘夷派の志士。小道具屋・枡屋喜右衛門。
 尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入りした。文久2年(1862年)閏8月14日、京都河原町四条上ル東で筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。古道具、馬具を扱いながら早くから宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として諸大名や公家の屋敷に出入りし情報活動と武器調達にあたった。
 元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれ捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。壬生屯所前川邸の蔵で局長・近藤勇、副長・土方歳三から直々に厳しい取調べを受けた。2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる等の過酷な拷問を受け、自白。その内容は八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があることも判明し、これを阻止したのが池田屋事件であった。
 ただし計画の内容は古高が拷問を受けて発言した以外の客観的な証拠が乏しく、捏造もしくは誇張であるとも言われる。 その後、六角獄舎に収容されたが、7月20日(8月21日)の禁門の変の際に生じたどんどん焼けで獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首された。享年36。

北添佶摩(きたぞえよしまろ、きつま);(天保6年(1835年) - 元治元年6月5日(1864年7月8日) 江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。池田屋事件の「階段落ち」で知られる。
 所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって斬殺されたと思われていたが、近年の研究によって自刃して果てたことが判明している。享年30。 明治24年(1891)、従四位を贈られた。

入江惣兵衛(いりえ そうべえ);(文政6年(1823年) - 元治元年7月13日(1864年8月14日)) 江戸・幕末期の商人。京都三条小橋西の池田屋の主人で、池田屋惣兵衛の名で知られている。
 池田屋事件では、御用改めに入った新撰組・近藤勇を見て驚き、二階への階段を駆け上がって御用改めが入ったことを告げ、これにより乱闘が始まった。また、その後白刃をかいくぐり妻子の手を取り屋外へ脱出、親類宅へ妻子を預け自身も一旦は隠れたものの、翌6月6日に役人の捜索により町奉行所へ捕らえられ詰問を受け、7日には入牢の処置となった。翌6月8日には妻子も町奉行所へ呼び出され夜半まで詰問を受け、6月9日、町役人へ預けられ半年間入獄することとなった。 惣兵衛は入獄中に熱病を発病、7
月13日に獄死した。翌14日夕刻、獄舎より町役人および妻のまさたち家族が呼び出され遺骸を引き取ったが、未だ罪人の扱いであり表立って葬儀を上げることも出来ず、家族の嘆願により現京都市上京区の浄円寺に密葬された。 惣兵衛と捕らえられて六角獄に入牢された池田屋手代・彦兵衛の証言では、惣兵衛は拷問にも耐えて、一切口をわらなかったという。惣兵衛の密葬より7ヶ月を経た12月初旬、妻子は罪を許され帰宅した。
 妻:まさは、池田屋事件では幕吏たちに、闘死した浪士たちの遺体を女中と確認させられたという(後にその遺体を三縁寺に埋葬した)。池田屋の廃業後、三条通り上ル木屋町に「入江亭」を開業した。

塚越金十郎(つかごし きんじゅうろう);噺の中では、「池田屋騒動の時、2階で琵琶を弾じていた者で塚越金十郎と申します。代々神官をしておりまして、宗良(むねなが)親王より賜りました琵琶を持ちまして近藤さんの後ろを通り抜けようとした時、一太刀あびて琵琶が半身落とされてしまいました。以来私の身体を護ったとして家宝として飾っています」。

横倉喜三次(よこくら きさんじ);新選組近藤勇を自らの手で斬首した武士。文政7年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐(いび)で誕生する。 天保5年父病死で、11歳で家督を相続する。 吉田久兵衛に剣術を学ぶ。 天保11年(1840)、17歳で江戸勤番となる。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門する。 天保14年美濃に帰省し、弘化2年同門の梅田棒太郎光太の門人に入り修行する。 剣術以外に柔術、砲術を学び、武術全般にも技術を磨き、岡田家の家臣として剣術、柔術の世話方に抜擢され、岡田家の武術指南役、となる。神道無念流は皆伝。明治27年、71歳で没する。

物打ち(ものうち);太刀などで物を打ち切る時、その物に触れる所、すなわち切先(キツサキ)から 手元へ向かって刀身が広がり始めるあたりの所。切先三寸の所。物切り所。打ち所。

琵琶(びわ);中国・朝鮮・日本の弦楽器の一。木製の胴の上部に短い頸があり、四弦(または五弦)。胴はなすび形で平たく、長さは60~106cm。日本では主に撥(バチ)、朝鮮・中国などでは義甲または爪でひく。起源はペルシア・アラビアとされ、インド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来。時代・用法・形状その他によって楽琵琶(ガクビワ)・盲僧琵琶・平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶などがある。よつのお。胡琴。



                                                            2019年4月記

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