落語「乙女饅頭」の舞台を行く
   

 

 春風亭柳昇の噺、「乙女饅頭」(おとめまんじゅう)より
 

 

 私は春風亭柳昇と言いまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば我が国では・・・、私一人で御座いまして・・・。(柳昇の決まり文句。これが無いと始まらない)

 江戸時代には男連中は吉原に遊びに行ったものです。

  「棟梁いますか?」、「庄吉さんじゃないか」、「離れの改築のことで、大旦那に頼まれてきました」、「明日切り込みが出来るので、『明後日に仕事に入ります』。と伝えておくれ」。「よろしくお願いします」、「庄吉さん、チョット待ちなよ。吉原に夢中だそうじゃないか」、「いえ、夢中なのは花魁なんです」、「お前はいい男だからな。でも、あすこはタダじゃ無いんだ。そのところを考えなよ。身請けという方法も有るが、安い店でも4~50両、高いのになると千両も掛かるという。だから夢中になっちゃいけないよ」、「顔も良く、気立ても良い子で、商人の女房にはいいな~、と思っていたら相手も好意を抱いてくれて、料金は一切取らないんです。年季(ねん)が明けるのは3年後なんです」、「庄吉さん、無理なことは考えちゃいけないよ。何かあったら相談に乗るよ」。

 「庄吉さん、どうしたのよ。最近は来ないじゃないか。”おぬい”さんが心配しているよ。早く会ってあげな」。「おぬいさんッ、元気が無いな」、「甲府のお大尽から身請けの話が出ているの」、「身請けなんてヤダから、死んだ方がましだョ」、「私も死ぬわ。チョット近くに耳を貸して、『明後日、店で聖天(しょうでん)様にお詣りに連れて行ってくれるの』その時逃げちゃおうと思うの」、「足抜けなんてダメだよ。皆捕まっちゃうんだよ」、「大丈夫。私ね、九郎助稲荷に毎日灯明を上げてお願いしているの。去年の秋に嵐で社が飛んだときも、自分のお金で直したの。必ず良いことが有ると思うの。その時は迎えに来てね」、「私も、お稲荷さんにお願いするよ」。

 大門を出ますと、そこだけが輝いています。「庄吉さん、庄吉さん」、「おぬいさん、どうしたんだぃ」、「逃げてきたんですよ。火事になったんです。逃げましょう」、「私は番頭だが奉公人、逃げるところが無いよ」、おぬいさんに手を引かれ、逃げてきた。家の鍵を開けて入ると綺麗に整頓された一軒の家。所帯道具一式がそろっています。「どうしたんだぃ?」、「年期が明けたら住もうと思って、借りといたの。吉原から遠いので大丈夫よ」。

 朝は直ぐ来るものです。

 「ここは人通りが多から、”餅菓子屋”をやろうと思うの。元も有るから大丈夫よ」、店の物一式と材料を届けて貰った。昔餅菓子屋で手伝ったことがあるので、手際よく餅菓子を作った。「このお饅頭、真っ白だけれど、紅を差すとポーッと赤くなるの、それで『乙女饅頭』と名を付けようと思うの」、「良い名前だ。それに美味いよ。これなら売れるよ」。
 隣近所に夫婦で開店の挨拶をして回った。大変な人気になって、奉公人も増えて、10人になった。店も手狭になったので、隣を買収して大きくなった。

 「丁度あれから3年経つ。外回りから帰ったら、おぬいにお礼を言わなくちゃな~」。
 「ただいま」、「お帰りなさい」、「家の奴は?」、「奥さんは先ほど出掛けました。手紙を預かっています」。封を切ると「誠にお名残惜しい・・・、今夜限りでお暇をさせていただきます。私はおぬいさんではありません。九郎助稲荷大明神の使い姫の狐でございます。年季が明ける3年お仕えするように言い使って来ました。私を大事にして下さりありがとうございます。本当のおぬいさんは吉原にいます。直ぐ行ってあげて下さい。さようなら」、「とりあえず、吉原に行ってみよう」。

 「まぁ、庄吉さん、どうしたんですよ、3年も」、「おぬいは・・・?」、「ここにいるでしょ」、「痩せたね~」。今までの3年間の話をすると、「そう言えばこちらにも変なことが有ったんですよ。貴方が帰った晩に、おぬいさんがバッタリと倒れて、気が付いたのですが、身請けの話は無くなって、庄吉さんの店に行ったら行方不明で、皆心配してましたよ。3年目の今日、おぬいさんは急に起き出して、食事をたらふく食べたんですよ。九郎助稲荷のお狐さんが、おぬいさんの代わりをしてくれたんだね~」、「明日になったら、お礼参りに行こうよ」、「手ぶらじゃいけないから、何が良いだろうね」、「乙女饅頭か、お寿司のお稲荷さんかね」、「結びの神様だから、おむすびだろう」。

 二人は晴れて夫婦になって、お店も末永く繁盛したと言います。乙女饅頭の一席でした。

 



ことば

新作落語で江戸時代の吉原を舞台にした噺。廓からの脱出を望む花魁が、金物問屋の奉公人と恋に落ちる。柳昇のヒューマニズムと日本古来の稲荷信仰が融合した人情噺。

吉原(よしわら);廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
 仲の町の右側には、江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいました。なかでも、江戸町一,二丁目、京町一,二丁目、角町を五丁町と呼んでいました。揚屋町には元吉原当時の揚屋が並んでいました。また、酒屋、寿司屋、湯屋が有り、裏には芸者達が住んでいました。
 この五丁町の入り口には、それぞれ屋根付き冠木門の木戸がありました。また、各町の路の中央には、用水桶と誰(た)そや行灯が並んでいました。
 江戸町一丁目の西河岸を情念河岸と呼ばれました。また、江戸丁二丁目の河岸を別名羅生門河岸とも呼ばれました。志ん生の落語「お直し」の舞台です。
 廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祀ってあります。大門を入って右側に『榎本稲荷社』、奥に『開運稲荷社』、羅生門河岸奥に『九郎助稲荷社』、戻って『明石稲荷社』があって、その中でも九郎助稲荷社が名が通っていました。明治29年頃、この四稲荷と衣紋坂にあった吉徳稲荷が併合され、吉原神社となりました。現在はお歯黒ドブが無くなって、水戸尻を越えた右側に社殿を構えています。
 吉原遊女3千人と言われていたが、安永、天明の頃は三千人を切っていたが、寛政になると三千を越えて四千人台に突入します。
 『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より吉原略図。

棟梁(とうりょう);江戸訛りで”とうりゅう”と言いました。特に、大工のかしら。鳶のリーダーは頭(かしら)と言います。また、左官のリーダーは親方と言います。

番頭(ばんとう);商家の雇人の頭で、店の万事を預かる者。手代の上位。会社で言うオーナーは旦那で、実務一切を取り仕切るのが社長の番頭で、その下に社員に当たる、手代や小僧がいます。

切り込みが出来る;大工仕事で家を一軒建てるときは、深川で材木を吟味して、それを柱や梁に長さを揃え、組み込めるように穴開け加工をします。その穴開け加工が明日出来るので、明後日から仕事場に入ると棟梁は言っています。

花魁(おいらん);吉原の娼妓。岡場所では女郎(飯盛り女)。 語源;妹分の女郎や禿(かむろ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという。 江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
  落語家は、花魁は客を騙すから狐狸のようだと言います。でも尻尾がないから、「お_いらん」だと。

身請け(みうけ);花魁を吉原から正式に自分のものにするには、二つの方法があります。年季明けと言って、年期が来るのを待つ方法と、身請けという方法も有るが、費用が安い店でも4~50両、高いのになると千両も掛かるという。野球のトレードでも実力があればそれなりの費用が掛かります。

年期・年季(ねん。ねんき);奉公人などをやとう約束の年限。1年を1季とする。吉原の遊女では、通常10年とされ、十八で見世に出て二十八で、証文を巻いて貰う。おぬいさんは年季が後3年だと言っていますので、現在は二十五になっています。

聖天(しょうでん)様;”しょうてん”と書いて”しょうでん”と読ませます。
 山谷堀の下流、隅田川に合流する地点にある待乳山聖天社(本龍院。浅草寺の末寺。台東区浅草7-4)西側の山谷通り(吉野通り)に面した街なみを浅草聖天町といった。舟で隅田川を上ってきて、吉原の入り口への山谷堀の目印になる小高い山の上に有るお寺が聖天社。この下に有る今戸橋に船着き場が有って、そこから吉原に向かって日本堤を歩き始めます。現在は山谷堀は埋め立てられて、堀の後が公園になっています。
 右図:「待乳山聖天」広重画。小山の上にあるのが待乳山聖天。手前が隅田川で右側の端が山谷堀に架かる今戸橋。

足抜け(あしぬけ);吉原から遊女が無断で逃げ出すこと。逃げ出した大部分は捕まって、年期が延びるか、下級の見世にトレードに出されてしまう。その対策として、お歯黒ドブが有り、大門の所には四郎兵衛会所と門番所が有り、通行人の監視をしていた。また、町奉行隠密回りの与力同心が詰めていた。

 

 足抜け法、二題。二階の屋根伝いに逃げる二人。 廓の外に出てほっとする二人。『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より

九郎助稲荷(くろうすけいなり);九郎助稲荷に毎日灯明を上げてお願いしているの。去年の秋に嵐で社が飛んだときも、自分のお金で直したの。(おぬいさんの話から)

 正一位九郎助稲荷大明神、縁結びの神として祭式が行われていた。絵の鳥居の額は其角の筆で『蒼稲魂』と書いてあった。行灯の奥の玄関は社務所で、女郎が願掛けをしています。下図:九郎助稲荷の縁日の様子。
『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より

大門(おおもん);吉原に入るための唯一の出入り口。大門(だいもん)というと、芝増上寺の大門のことを言います。京風の読み方をして”おおもん”と言います。江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。

 

 左、冠木門の大門。「北廊月の夜桜」香蝶楼国貞画 右、鉄柱にガス灯が乗った大門。 どちらも春先で仲の町に桜が植えられています。

吉原の火事;新吉原になってから江戸時代20回の火災が有った。
最初は明暦3年正月。 2回目、延享4年11月。 3回目、明和5年(1768)
4月。 4、5回目、同年8年4月、同年9年2月。 6、7回目、天明4年4月、同年7年(1787)11月。 8、9回目、寛政6年4月、同年12年2月。 10、11、12回目、文化9年11月、同年13年(1816)5月、同年7年4月。 13,14回目、天保6年(1835)正月、同年8年10月。 15回目、弘化2年(1845)12月。 16回目、安政2年(1855)10月安政江戸大地震。 17回目、万延元年9月。 18回目、文久2年(1862)11月。 19回目、元治元年(1864)1月。 20回目、慶応2年(1866)11月。
 「江戸学事典」光文社刊 より
 遊廓内で火事が出て見世が消失すると、建物が出来るまで吉原外の地域で仮宅が出来るので、逆に収入が上がった。その為、火災の前から繁華街に仮宅の用意をしておいて、鎮火と同時にそちらに移って営業を続けた。その為、消火に協力しない楼主が出て、奉行所から注意を受けることも有った。
 明治44年4月9日の吉原火事の事は、落語「首ったけ」に詳しく説明しています。

 安政2年(1855)10月安政江戸大地震による吉原遊廓の被災 藤岡屋日記より
 
安政二(1855)年十月二日、新吉原 江戸町一丁目・二丁目、京町一丁目・二丁目、西河岸□町・角町・揚屋町・伏見町と、総じて中の町から四方の廓は残るところなく類焼した。大門外の高札付近は焼け残ったが、日本堤を結ぶ往来は地割れを生じ、死人やけが人が出ている。 廓では土蔵で無事だったものは一カ所もなく、倒壊した下敷きになったり、火災にあったりした死者・けが人多数を出した。町方への届では、 「死者631人、うち男104人・女527人、けが人27人で男女の別は不明」となっている。
 ただしこの数字は公式上のもの、実数は、遊女831人が即死、ひやかしを含む客454人が即死、茶屋の男女や禿かむろ・若い衆ならびに諸商人など1415人が即死、死者合わせて2700人に達している。
 一、吉原では当初、四カ所から同時に出火したため、九割の人が亡くなったという。死者はおよそ7000人とも6000人ともいわれ、死体運搬車一二台、あるいは一六台が連日稼動。10月4日の書面では3700人、京町の岡本楼だけで70人が死んだ。
 一、京町(吉原最深部)から出火のとき、岡本屋長兵衛方では地震で逃げるのに大門おおもんには遠く、裏口に回って反橋そりばしを下ろし、田圃に避難しようとした。家中の者残らず外へ出ようとしたとき、運悪く土蔵が二棟とも崩壊し、夫婦2組・孫5人・遊女34人とも残らず圧死または焼死した。「岡本楼の大難」といわれている惨事である。
 一、京町一丁目の杵屋清吉は遊女50人ほどを抱えた楼主だが、地震のさい700両ばかり財布に入れ、首に吊って逃げ出した。途中で財布が破れて一部が散乱し、手元に300両ほど残った。途中、大門外の土手の地割れに落ち込んでしまい、出ようとしてもがいているところに廓内の若いのが通りかかったので、呼び止めていった、「どうか引き上げて助けてくれ。そうしたら、財布の有金半分を差し上げよう」と頼む。若者は立ち止まり、清吉を引き上げ助けてやった。清吉が財布から半金を出そうとしたところ、若者は財布ごとひったくって逃げ去った。十八日になって、大嵐の夜、犯人は捕まり入牢したという。

 安政の大地震は江戸市街に壊滅的被害を与え、郊外まで含めると家屋倒壊14000戸、死者は7千とも1万とも数えるに至った。水戸藩士で漢詩人としても有名な藤田東湖もこの地震で隅田川の水戸藩下屋敷で圧死した。
「 江戸の醜聞愚行」永井義男氏より転載。

餅菓子屋(もちがしや);浅草聖天町で米の饅頭を作って評判になった。それまでは麦粉で作られていた。
 米粉では無く、娘の名が”およね”だったので、米饅頭と言われたとも言う。



 「定本・江戸商売図絵」 三谷一馬画

使い姫の狐(つかいひめの きつね);お稲荷様の使い姫(眷属)は狐です。豊川稲荷も狐です。
 天王寺の眷属は、百足。天神様の眷属は牛。弁天様は白蛇。八幡宮は、鳩。熊野三山は、カラス。大黒天は、ネズミ。春日大社は、鹿。等々神様によって色々です。
 仏・菩薩につき従うもの。薬師如来の十二神将、千手観音の二十八部衆など。

お礼参り(おれいまいり);神仏などにかけた願(ガン)が叶った礼に参詣すること。

 


                                                            2019年4月記

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