落語「社長の電話」の舞台を行く
鈴木みちを作
■二代目 三遊亭 円歌(にだいめ さんゆうてい えんか);(1890年4月28日 - 1964年8月25日)。本名は田中 利助(たなか りすけ)。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。新潟県立新潟中学校卒業。祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。
右写真。
■鈴木みちを;演芸作家。この噺「社長の電話」の作者。他の作品は、三代目林家染丸 「うしろ女房」。十代目金原亭馬生 「笠地蔵」。五代目古今亭今輔 「表札」。五代目古今亭今輔 「思い出」。等が有ります。
■伊豆の伊東(いずのいとう);相模灘に面した伊豆半島の東岸中部に位置し、傾斜の厳しいこの半島において、伊豆東部火山群の影響で比較的に緩い傾斜地が多く、市南部はこの火山群の溶岩流によって荒々しい絶壁の海岸が多い。この海岸や西端の山稜が富士箱根伊豆国立公園として指定を受けている。(右写真)市中部は戦後、別荘地として開発され、観光施設も集まるようになり、大室山の麓にある伊豆高原地域は半島東部でも有数の観光地として知られるようになった。市内ではほぼ海岸沿いにJR東日本伊東線・伊豆急行線と国道135号が縦断している。
伊東市には温泉が出るので、観光旅館が多い。泉質は単純泉、弱食塩泉(源泉による)。毎分34,000リットル(平均)と大分県の別府温泉・由布院温泉に次ぐ湧出量を誇り、本州一。
■仙台高尾(せんだいたかお); 高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われているが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。
上写真、西方寺にある道哲和尚と高尾太夫の墓 正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。右、春慶院(台東区東浅草2-14)にある高尾太夫の墓。
巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスが有ったおり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、
落語「反魂香」はこの事件を元に描かれた。島田重三郎と言う浪人に操を立てて名香”反魂香”をこの高尾が渡したが、伊達綱宗に殺された。島田重三郎は寂しさの余りこの香を焚いて回向をすると愛しい高尾が現れ、昔話をした。反魂香が残り少ないので、無駄に使うなと高尾は言う・・・。
■声帯模写(せいたいもしゃ);有名人・芸能人などの声や口調などをまねる演芸。声色 (こわいろ)。昭和になり、声色(こわいろ)と言っていたのを、喜劇俳優の古川緑波(ふるかわろっぱ)(1903~1961)が言い始めた造語。
■神経衰弱(しんけいすいじゃく);症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることであり、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良などが出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間でこの状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本で米社会と同じような状況が発生したことから、近代化社会がもたらす文明の病・過労の病として病名が輸入され日本でも有名になった。
知的労働を伴うデスクワークを行う、上流階級の人々に発生しやすいとされた。日本でもエリートの病気とされた。
■電話(でんわ);現代の電話回線は電話交換機で世界的に相互接続され電話網を形成している。また、技術の進歩に伴い、固定電話間の通話にとどまらず、携帯電話(スマートホン)・PHS・衛星電話・などの移動体通信、IP電話などとの相互間通話や、無線呼び出しへの発信も可能になっている。インターネットへのダイヤルアップ接続など、コンピュータ間のデータ通信にも応用されるようになり、社会における重要な通信手段の一つとなっている。
■書生(しょせい);1872年に学制が布かれると、地方から都会に上り、高等学校や大学等へ通う学生が現れるようになった。しかし、当時は単身者が居住するのに適した住居は少なく、炊事や洗濯などの家事にも不慣れな若者が大半であったため、その多くは親戚縁者の世話になったり、家賃や食費を支払って他人の家に下宿したりするのが通常であった。そのため「書生」という言葉は、「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者」のことを指すようになった。
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