落語「社長の電話」の舞台を行く
   

 

 鈴木みちを作
 二代目三遊亭円歌の噺、「社長の電話」(しゃちょうのでんわ)より


 

 サラリーマンが会社を休むにも、決められた日に休むより、ズル休みの方が心身共に良いと言われます。「俺はこんなに遊んでいるのに、今頃会社の連中は・・・」。この男、伊豆の伊東に女を連れてズル休み、家には出張だと誤魔化したが、ふやけたまんま帰ってくると、一番に会社に電話。出た相手が社長で、責められると思ったら、「そのお土産に伊東のレッテルが貼ってあるのか? 貼ってあるのならそのまま自宅に持って行って、社長と3日間一緒でしたと置いてきなさい」。

 「会社を出たら会社のことは思い出したらいけない」と社長は言う。「車の中でも食事中でも片時も会社のことは忘れられない。忘れないから思い出す余裕が無いだろう。あははは、先に帰るよ」、「上手いこと言うね」、「違うんだ。あれは仙台高尾が言った言葉で、『忘れなこそ思いいたさず、君は今駒形あたりホトギス』なんだ。自分から出た言葉じゃ無いんだ」、「社長は貫禄があるよ」。(声帯模写)をやって皆を感心させる。
 「忘れ物を取りに帰ったんだ。長谷川君はわしの声帯模写が上手いね。今度宴会の時にやって貰おう」、「(泣きそうな声で)社長・・・」、「社長室に来てくれ」。「御用は?」、「宿直をやって欲しい。実は、夜家を空けたことが無い。焼きもち焼の女房”静子”がいてダメなんだ。今晩1時半頃電話をして、『重要会議で遅くなった、乗った車が故障して動かん。戸締まりして寝なさい』と言うことにしよう。当然わしの声色だよ。小遣いに3千円報酬だ」、「ありがとうございます。乾いておりますのでいただきます」。

 「もしもし、社長さんのお宅ですか、今社長と変わります。(社長の声色で)わしじゃ、重要会議が有って、帰ろうと思ったら自動車が故障して帰れん。戸締まりをシッカリして休むように。分かったな」、「もしもしぃ、未だ私食事もしないで待っているのよ」、「食べて寝なさい」、「どうしても帰れないのォ」、「一晩ぐらい、良いだろう」、「寂しいわ。貴方がいないと寂しくて寝られないわ。帰れないのなら、一晩中話をしましょう」、「こっちだって明日が有るんだ。寝らないとな」。

 リーリーリリン、「私一人じゃ食事美味しくないのでやめました。私が頼んでいた物買ってくれた? それから、女の子どうしたの」、「?・・・」、「女中がいなくなるので、会社の娘を回すと言ったでしょ。ねえ~、長谷川というおちょこちょいがいるでしょ」、「『おちょこちょい』とは何事だッ。長谷川が聞いたら気を悪くするよ」、「いつも名前を呼ばずに、言っているじゃ無い」、「長谷川の隣の娘はどう~なの」、「そんな心配はしないで寝なさい。お休み」。

 「もうこんな時間だ」、リーリーリリン、「何だね」、「貴方、泥棒が入ったらしいのよ」、「書生を起こしな」、「この部屋から出るだけで恐いの。貴方がいないからよ」、「わしが泥棒を呼んだわけでは無いよ」、「ゴメン、『ニヤ~』と鳴いたわ。猫よ」、「寝られないじゃないか。寝なさい。お休み」。
 リーリーリリン、「まただよ。3千円では安いよ」、「一睡も出来ないのよ」、「お前は寝られないが、わしは寝たいのに寝られない」、「こんな気持ちになったのは、結婚以来初めてよ。もしもしィ~、この償いに温泉に連れて行って。それにダイアの指輪買ってちょうだい」、「分かったよ」、「いつもの貴方と違うわね。ずいぶん気前が良いわ。朝何時ぐらいに帰ってくるのォ」、「朝は早いぞ。わしに寝かせろよ。じゃぁ~ね。お休み、お休み」。

 外は明るくなってきました。リーリーリリン、リーリーリリン、「これじゃ神経衰弱になりそうだ」、「『おはよう』じゃないわ。未だお帰りにならないのぉ」、「車が故障していて動けんのじゃ」。
 こちら本物社長、朝になったので自動車に乗って自宅に帰って来た。「静子、昨夜は突然で・・・。静子、何所に電話掛けているんだッ」、「やだわ。気味が悪いわ、貴方未だ会社にいるのよ。待って、もしもしぃ、貴方~」、「貴方じゃ無いじゃ無いか。一晩中じゃんじゃん電話掛けて、どこに行ったわけでも無いのにッ。宿直室にいるんだッ」、「何言ってるの、貴方はもうお戻りになったのよ」、「うッ・・・○X△。帰ったわしに一言言ってくれ」、「何て言うの」、「これじゃ安いから、もう少~し増してくれ~」。 

 



ことば

二代目 三遊亭 円歌(にだいめ さんゆうてい えんか);(1890年4月28日 - 1964年8月25日)。本名は田中 利助(たなか りすけ)。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。新潟県立新潟中学校卒業。祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 右写真。
 モダンで明るく艶っぽい芸風で、女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じた。残された音源では放送禁止用語が連発されているものの、嫌らしくは聞こえないなど、かなりの力量を持った噺家であった。また高座では手拭いではなくハンカチを使い、腕時計を女性のように内側に向けて着けたまま演じていた。自身稽古をつけてもらった経験のある七代目立川談志によれば、演目の仕舞いに、自ら茶々を入れながら踊りを見せたりすることもあったという。
 1963年、落語協会副会長に就任。その後、健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任として円歌を推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して六代目三遊亭圓生を会長に推薦したため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった八代目桂文楽が会長に復帰し、円歌は副会長に収まったという経緯がある。 腎臓病を患っており、1964年7月末にフジテレビの演芸番組に出演中に倒れ、結局は会長就任がかなわぬまま、8月25日に尿毒症で死去。享年74。没後、副会長職は圓生が引き継いだ(翌1965年に会長に就任)。 三代目三遊亭金馬は兄弟子。門下には三代目三遊亭圓歌、三遊亭歌太郎(旧名:三遊亭歌扇)、三遊亭笑三(現:三笑亭笑三)、三代目三遊亭歌笑、立花家色奴・小奴(色奴は三代目三遊亭圓遊の妻で、小奴はその娘)がいる。

鈴木みちを;演芸作家。この噺「社長の電話」の作者。他の作品は、三代目林家染丸 「うしろ女房」。十代目金原亭馬生 「笠地蔵」。五代目古今亭今輔 「表札」。五代目古今亭今輔 「思い出」。等が有ります。

伊豆の伊東(いずのいとう);相模灘に面した伊豆半島の東岸中部に位置し、傾斜の厳しいこの半島において、伊豆東部火山群の影響で比較的に緩い傾斜地が多く、市南部はこの火山群の溶岩流によって荒々しい絶壁の海岸が多い。この海岸や西端の山稜が富士箱根伊豆国立公園として指定を受けている。(右写真)市中部は戦後、別荘地として開発され、観光施設も集まるようになり、大室山の麓にある伊豆高原地域は半島東部でも有数の観光地として知られるようになった。市内ではほぼ海岸沿いにJR東日本伊東線・伊豆急行線と国道135号が縦断している。 伊東市には温泉が出るので、観光旅館が多い。泉質は単純泉、弱食塩泉(源泉による)。毎分34,000リットル(平均)と大分県の別府温泉・由布院温泉に次ぐ湧出量を誇り、本州一。

仙台高尾(せんだいたかお);  高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われているが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。
 伊達騒動事件の元となった、高尾太夫。仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)が、高尾太夫を7800両(現在で言うと6~8億円。綱宗19歳の時)で身請けしたが、太夫は約束した好きな男、島田重三郎に操をたてて応じなかった。為に、隅田川三ツ股(永代橋上流)で裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨てた。しかし、一説によると高尾太夫は身請けされ、のちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われる。
 二代目高尾のお墓は豊島区西巣鴨の西方寺に有りますが、もう一ヶ所、吉原の目の前、春慶院(台東区東浅草2-14)にもあります。仙台候の内命により建てられたという。この墓は、世に万治年間に活躍したから万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ二代目高尾太夫の墓という。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5メートル、正面に紅葉紋様があり、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」その下に「万治二年己亥」左に十二月五日」と戒名、忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。

 

 上写真、西方寺にある道哲和尚と高尾太夫の墓 正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。右、春慶院(台東区東浅草2-14)にある高尾太夫の墓。   

  巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスが有ったおり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、
忘れねばこそ、おもい出さず候」(今まで忘れていたから、ふと思い出すので、忘れていなければ思い出すと言うことも無いでしょう。いつも貴方のことを思っていますよ)
君はいま駒形あたりほととぎす」(五月になってホトトギスが鳴いていますが、殿は今頃駒形辺りにいるのですか。)
の句が伝えられています。
いろいろな説があって、どれが本当か分かりませんが、上記の句は綱宗へのラブレターですが、実際には出さなかったとも言われています。
右写真:駒形橋の脇に立つ「駒形堂」。

 落語「反魂香」はこの事件を元に描かれた。島田重三郎と言う浪人に操を立てて名香”反魂香”をこの高尾が渡したが、伊達綱宗に殺された。島田重三郎は寂しさの余りこの香を焚いて回向をすると愛しい高尾が現れ、昔話をした。反魂香が残り少ないので、無駄に使うなと高尾は言う・・・。

声帯模写(せいたいもしゃ);有名人・芸能人などの声や口調などをまねる演芸。声色 (こわいろ)。昭和になり、声色(こわいろ)と言っていたのを、喜劇俳優の古川緑波(ふるかわろっぱ)(1903~1961)が言い始めた造語。

神経衰弱(しんけいすいじゃく);症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることであり、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良などが出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間でこの状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本で米社会と同じような状況が発生したことから、近代化社会がもたらす文明の病・過労の病として病名が輸入され日本でも有名になった。 知的労働を伴うデスクワークを行う、上流階級の人々に発生しやすいとされた。日本でもエリートの病気とされた。

電話(でんわ);現代の電話回線は電話交換機で世界的に相互接続され電話網を形成している。また、技術の進歩に伴い、固定電話間の通話にとどまらず、携帯電話(スマートホン)・PHS・衛星電話・などの移動体通信、IP電話などとの相互間通話や、無線呼び出しへの発信も可能になっている。インターネットへのダイヤルアップ接続など、コンピュータ間のデータ通信にも応用されるようになり、社会における重要な通信手段の一つとなっている。
 この噺の時代には、俗に黒電話が中心であったので、相手の黒電話に掛けて会話を成立させていた。しかし、現代では携帯電話が主流で、家族に一台の電話事情と違い、個人に一台の時代になっています。この噺の時代に携帯電話を持ち込むと、奥さんは直接社長に繋がるし、 部屋の中でも書生に直に繋がります。
 私の話ですが、仕事の関係で徹夜になったことがあります。(本当の徹夜です)。携帯電話が出来た時分で電池は毎晩充電しないと作動しない時代です。仕事途中で電池が切れて電話が不通になってしまい、朝帰ったら、「どこに行ってたの。電話を切って」と怒られたことを思い出しました。

書生(しょせい);1872年に学制が布かれると、地方から都会に上り、高等学校や大学等へ通う学生が現れるようになった。しかし、当時は単身者が居住するのに適した住居は少なく、炊事や洗濯などの家事にも不慣れな若者が大半であったため、その多くは親戚縁者の世話になったり、家賃や食費を支払って他人の家に下宿したりするのが通常であった。そのため「書生」という言葉は、「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者」のことを指すようになった。



                                                            2019年5月記

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