落語「芝居の喧嘩」の舞台を行く 立川談志の噺、「芝居の喧嘩」(しばいのけんか)より
■講談から落語になった噺;江戸の侠客・幡随院長兵衞と、旗本奴の水野十郎左衛門とのいさかいを描いた講談モノ。
次々に名乗りを上げて出て来る双方の強者共。 いずれも喧嘩慣れした者ばかり。
それだけに、見栄を張るところが実に面白い。「やいやい、黙って聞いていれば良い気になりやがって、俺を誰だと思ってやがるんでぃ!」
なんて始まる啖呵は見事なものです。 しかも、幡随院側は町人。水野側は武家。 双方使う言葉が違います。
そこまでもハッキリ区別できるような口調で進めるのは実に壮快で面白い。今みたいに匿名使って・・・なんて事は致しません。
喧嘩をする時にはどこの誰と名乗って始まる。逃げも隠れもしないっていう心意気なんですねェ~。
まぁ、本格的な喧嘩になる前に「今日はここまで」って終わっちまうんですが、最後は幡随院長兵衛は水野十郎左衛門に討ち取られ、水野十郎左衛門もやがては切腹させられてしまう。
双方痛み分け、なんでしょう。 春風亭一朝師匠の高座が、見事な気っ風でした。
■喧嘩(けんか);『武士 鰹 大名小路 広小路
火事に喧嘩に中腹 伊勢屋稲荷に犬の糞』。江戸の名物を唄ったものです。
その中でも「華」と言われた喧嘩。
昔の喧嘩は「負け」を認めたらそれまでと勝負が終わったそうです。それにはまず負けた方が「どうしてくれるんだッ。殺せッ」って大の字になって寝転ぶ。
どうにでもしやがれと言われた方は「それじゃ~」なんてことはなく、ここら辺が潮時と、間に入る人が出て来て双方丸く収めるというのが昔の喧嘩だったそうです。本人は五分五分だと思っているが、第三者から見ると勝ち負けは歴然と分かった。今みたいに徹底的にやっちまうってのは本来の喧嘩じゃない。
もっとも、犬でさえ相手に腹を見せたら「降参」の証と言います。
■侠客(きょうかく);立場の弱い者の味方をし、弱者をいじめる権力者などを懲らしめることを重んじた者たちをいいます。江戸時代前期の町奴(まちやっこ)と呼ばれる無法者、江戸末期の博打(ばくち)打ちと呼ばれる博徒(ばくと)などがそれに当たります。侠客物の醍醐味は、喧嘩の場における威勢のよい言葉、つまり啖呵(たんか)にあります。歯切れのよい啖呵は聞いていて気持ちがよいので、侠客物は講談の人気ジャンルの一つになっています。
■水野 成之(みずの なりゆき);江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。家を相続し、小普請となったが、病気と称して勤めを怠り、無頼の生活を送った。
■幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ);(元和8年(1622) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。歌舞伎『極付幡随長兵衛』などや講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
■相撲と芝居(すもうと しばい);江戸時代から庶民を楽しませていた娯楽「相撲」と「芝居」。相撲と芝居は人々にとって大きな娯楽でした。と言うより他の観る娯楽が無かった。現在のように、野球から始まってサッカー、オリンピックの各種競技、映画や音楽会、イベント会場等々数え上げたら切りが無いほどです。また、自分でするジョギングやスキー、スノボー、サーフィン、ヨットやグライダー、ゴルフ、これも数え上げたら切りがありません。家に帰ってきても、スマホ、テレビ、ステレオ、ゲーム等時間をつぶす道具は山ほど有ります。
■山村座(やまむらざ);かつて存在した歌舞伎の劇場。1642年(寛永19年)に江戸・木挽町四丁目(現在の東京都中央区銀座六丁目)に開かれ、河原崎座・森田座(のちの守田座)とともに「木挽町三座」と呼ばれ、元禄年間に官許を受けた劇場として、中村座、市村座、森田座とともに「江戸四座」と呼ばれた。1714年(正徳4年)、同座を舞台に起きた「江島生島事件」の結末とともに官許没収、廃座となった。存続期間は72年間であった。木挽町を芝居の街とした、歴史上最初の劇場として知られる。
「木挽町 芝居」 江戸名所図会
生島 新五郎(いくしま しんごろう、寛文11年(1671年) - 寛保3年1月5日(1743年1月30日))は、江戸時代中期の歌舞伎役者。江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、江島生島事件の中心人物。一方で生島半六(初代 市川團十郎を刺殺した犯人)や二代目 市川團十郎の師匠の一人でもある。大坂生まれ。貞享元年(1684年)に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年(1691)、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者となった。
正徳4年(1714)、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから絵島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」させられた。
■半畳(はんじょう);江戸時代、芝居小屋などで観客が用いた一人用の小さな敷物、座布団。一畳の半分、半畳から来ていますが、そんなに大きな物では無く、尻の下に敷くと隠れてしまうような小ささです。
■お膝送り(おひざおくり);後から来た人を入れるために、座ったままで順にひざをずらして席をつめること。
寄席は畳敷きが多く、座布団にすわって聴いていた。最初のうちはバラバラでいるが混んでくると係員から「お膝送り願います」と声がかかり、客は前から順に席をつめていた。畳敷きだから出来る芸当です。高齢者は膝を痛めているので正座が出来ませんし、若い人は元々正座が出来ません。現在は椅子席になっているので「お膝送り」は出来なくなりました。素人天狗連の落語会ですら、座布団を用いず畳の部屋に椅子を並べています。
■半畳改(はんじょうあらため);談志は噺の中で、ガラガラの客席では興行成績が一目で分かってしまうので、すいているときはただ観の客も入れる事がありました。混んでくると、無銭の客は掃き出さなくてはなりませんので、有料で入った証の半畳の有無を確認しました。
■唐桟の着物(とうざんのきもの);「唐桟」(とうざん)とは、江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のことです。特色は、平織りで、極めて細い双糸を使うことで、木綿でありながら、絹そっくりの風合いを持っています。江戸時代、遠い南の国からもたらされたエキゾチックな縦縞の「唐桟」は、粋で、人気を博しました。しかし、それは大変に値段が高く、庶民のものではありませんでした。江戸中期以後町人の着た木綿の唐桟は、武士の着た絹の上田縞などの5倍以上も高価なものであった。名称はインドのコロマンデル地方のセント・トマス(サントメ)がなまったものという。
ところが、安政の開国以後、わが国では、どうしても紡げなかった極めて細い木綿糸が、産業革命以後の欧米諸国から安く輸入できるようになりました。
川越商人は、いち早く、この点に着目し、当時絹織物の産地として栄えていた川越の機屋に「唐桟」を織らせました。これが川越唐桟のはじまりです。
それは、良質で安価だったため、爆発的に売れ、「唐桟」といえば「川越」と言われ、川越唐桟には「川唐」(かわとう)の愛称まで生まれました。
唐桟柄の色々
■伝法(でんぽう);無料見物・無銭飲食をすること。また、その者。江戸時代、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光をかさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところからいう。
■こじり(鐺);刀剣の鞘 (さや) の末端の部分。また、そこにはめる飾り金物。
■歌舞伎『極付幡随長兵衛』(きわめつき ばんずい ちょうべえ)より
第二幕
第三幕
芝居の解説
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