落語「芝居の喧嘩」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「芝居の喧嘩」(しばいのけんか)より


 

 落語はオチが付いて終わりとなります。例外として、連続物だと途中ではオチが付かず「この続きは、どうなるか、また、明日のお楽しみ」と言って切ります。落語は20~30分かかるのが普通ですが、演者が込んでいるときは、10分位で降りることもあります。オチまで行かずに降りるのですから、「バカ~、言っちゃ~いけないよ」等と言って舞台を降ります。講談でも「さて、この続きはどうなることでしょう」と言って、客を引き付けて終わることもあります。

 相撲が好きな友達を連れて芝居見物に来た。「ほら、山村座の前だ」、「二人だッ」、「ヘイ、半畳持ってお入り下さい」、「幕間だから・・・」。当時は、半畳という小さな座布団をもらい、それを敷いて観劇をしたんだそうです。混んでくると、お膝送りと半畳改めが有った。にやけた顔の芝居方の若い衆が金を払って入ったどうか改めに来ます。「恐れ入ります。半畳改めさせて下さい。ヘイ、ありがとうございます」。見てくると、花道の脇に二十三四の唐桟の着物に半纏を引っかけたいなせな男がいた。
 「お兄さん、半畳が無いようなのですが、誰かに貸しましたか」、「ハナから無いんだ」、「伝法の方は混んでいるときは、遠慮してもらっています」。言葉だけなら良かったが、チョット触った弾みで、ドタンバタンと喧嘩になった。周りの者も加勢して叩きのめしてしまった。「俺は金を払って入ったんだ。あすこにいる女の人に聞いてみろ。半畳持って俺を探している。『半畳が無いから、後で持って行く』と言うから待っていたんだ。よくもやったな、俺は幡随院長兵衛の子分で雷の十五郎と言うんだ。元締めの願いで下見に来てるんだ。どうしてくれるんだッ」、花道の上に大の字になってしまった。「喧嘩も雷だから吠えているよ。これからどうなるかね~」。

 二階を借り切っていた、水野十郎左衛門が幡随院長兵衛と小耳に挟んだ。十郎左衛門と幡随院長兵衛は犬猿の仲ですから、目配せをすると子分の金時金兵衛が降りてきた。雷の十五郎の横面を叩いて「誰が芝居の邪魔をしろと言った」、襟首持ってズルズルと裏木戸から外に放り出した。「芝居方、芝居を始めるが良い」、「いいぞ、金時」、金時席に戻ろうとしたとき、後ろから拳骨で殴られて倒された。
 「何が長兵衛だッ。俺は長兵衛の子分で、唐犬権兵衛とは俺の事だッ。良く覚えておけッ」、「オイ、唐犬権兵衛って強いな」。「貴様のようなウジ虫は相手にならん。そこにいる水野を出せ。水野十郎左衛門を出せ」。
 後ろから渡辺綱右衛門が近寄ってきた。今しも切ろうと刀を抜きにかかった。その後ろから来た男にこじりを突き上げられて抜けなくなった。「侍が後ろから切るなんて、卑怯な真似をしやがって。俺を誰だと思うんだ。幡随院長兵衛の子分で、一露兵衛(いちろべい)とは俺の事だ」。
 それを見て怒った水野十郎左衛門「切りすていッ」、で、子分達はギラリと刀を抜いて「やっちまえッ」、町奴も負けてはいず、赤鬼喜兵衛、白鬼権佐、釣鐘弥左衛門、此奴は寺の釣鐘を手玉に取ったと言う。その子分が半鐘の八右衛門、その子分が風鈴の源兵衛。だんだん小さくなる。「やっちまえッ」、何処で知らせたか、幡随院長兵衛の子分が集まって、満員の客席で刀を抜いて渡り合った。さぁ~血の雨が降る、これから先が面白いんだが、またの機会でございます。

 



ことば

講談から落語になった噺;江戸の侠客・幡随院長兵衞と、旗本奴の水野十郎左衛門とのいさかいを描いた講談モノ。 次々に名乗りを上げて出て来る双方の強者共。 いずれも喧嘩慣れした者ばかり。 それだけに、見栄を張るところが実に面白い。「やいやい、黙って聞いていれば良い気になりやがって、俺を誰だと思ってやがるんでぃ!」 なんて始まる啖呵は見事なものです。 しかも、幡随院側は町人。水野側は武家。 双方使う言葉が違います。 そこまでもハッキリ区別できるような口調で進めるのは実に壮快で面白い。今みたいに匿名使って・・・なんて事は致しません。 喧嘩をする時にはどこの誰と名乗って始まる。逃げも隠れもしないっていう心意気なんですねェ~。 まぁ、本格的な喧嘩になる前に「今日はここまで」って終わっちまうんですが、最後は幡随院長兵衛は水野十郎左衛門に討ち取られ、水野十郎左衛門もやがては切腹させられてしまう。 双方痛み分け、なんでしょう。 春風亭一朝師匠の高座が、見事な気っ風でした。

喧嘩(けんか);『武士 鰹 大名小路 広小路 火事に喧嘩に中腹 伊勢屋稲荷に犬の糞』。江戸の名物を唄ったものです。 その中でも「華」と言われた喧嘩。 昔の喧嘩は「負け」を認めたらそれまでと勝負が終わったそうです。それにはまず負けた方が「どうしてくれるんだッ。殺せッ」って大の字になって寝転ぶ。 どうにでもしやがれと言われた方は「それじゃ~」なんてことはなく、ここら辺が潮時と、間に入る人が出て来て双方丸く収めるというのが昔の喧嘩だったそうです。本人は五分五分だと思っているが、第三者から見ると勝ち負けは歴然と分かった。今みたいに徹底的にやっちまうってのは本来の喧嘩じゃない。 もっとも、犬でさえ相手に腹を見せたら「降参」の証と言います。

侠客(きょうかく);立場の弱い者の味方をし、弱者をいじめる権力者などを懲らしめることを重んじた者たちをいいます。江戸時代前期の町奴(まちやっこ)と呼ばれる無法者、江戸末期の博打(ばくち)打ちと呼ばれる博徒(ばくと)などがそれに当たります。侠客物の醍醐味は、喧嘩の場における威勢のよい言葉、つまり啖呵(たんか)にあります。歯切れのよい啖呵は聞いていて気持ちがよいので、侠客物は講談の人気ジャンルの一つになっています。

水野 成之(みずの なりゆき);江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。家を相続し、小普請となったが、病気と称して勤めを怠り、無頼の生活を送った。
 父・成貞も傾奇者であり初期の旗本奴であったが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組(じんぎぐみ)を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名・加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身であったため、誰も彼らには手出しできず、行状はエスカレートしていった。そのため、同じく男伊達を競いあっていた町奴とは激しく対立した。そのような中、明暦3年(1657年)7月18日、成之は町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した。成之はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。
 翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして若年寄の土屋数直の命により即日切腹となった。享年三十五。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。
 旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された。
 絵図:水野十郎左衛門(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分、豊原国周、1884年)

幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ);(元和8年(1622) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。歌舞伎『極付幡随長兵衛』などや講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
 父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害されたという。 芝居『極付幡随長兵衛』(下記参照)の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃ~名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている。 没年や日時は諸説ある。『武江年表』やその墓碑によれば慶安3年4月13日に死去したと伝えられるが、明暦3年7月18日(1657年8月27日)という説もある。享年三十六(満34-35歳没)。
 絵図:江戸時代後期に描かれた幡随院長兵衛のイメージ。歌川国芳「国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」。
 落語「鈴ヶ森」に詳しい。

相撲と芝居(すもうと しばい);江戸時代から庶民を楽しませていた娯楽「相撲」と「芝居」。相撲と芝居は人々にとって大きな娯楽でした。と言うより他の観る娯楽が無かった。現在のように、野球から始まってサッカー、オリンピックの各種競技、映画や音楽会、イベント会場等々数え上げたら切りが無いほどです。また、自分でするジョギングやスキー、スノボー、サーフィン、ヨットやグライダー、ゴルフ、これも数え上げたら切りがありません。家に帰ってきても、スマホ、テレビ、ステレオ、ゲーム等時間をつぶす道具は山ほど有ります。
 江戸時代、江戸、京、大坂をはじめとする大都市では、毎年決められた時期に相撲、芝居興行が行われ、大いに賑わっていた様子が浮世絵など当時の出版物でみることができます。こうした大都市での興行は地方にも伝わり、各地で年に一回祭礼などにおいて相撲や芝居が行われるようになりました。

山村座(やまむらざ);かつて存在した歌舞伎の劇場。1642年(寛永19年)に江戸・木挽町四丁目(現在の東京都中央区銀座六丁目)に開かれ、河原崎座・森田座(のちの守田座)とともに「木挽町三座」と呼ばれ、元禄年間に官許を受けた劇場として、中村座、市村座、森田座とともに「江戸四座」と呼ばれた。1714年(正徳4年)、同座を舞台に起きた「江島生島事件」の結末とともに官許没収、廃座となった。存続期間は72年間であった。木挽町を芝居の街とした、歴史上最初の劇場として知られる。

 「木挽町 芝居」 江戸名所図会

生島 新五郎(いくしま しんごろう、寛文11年(1671年) - 寛保3年1月5日(1743年1月30日))は、江戸時代中期の歌舞伎役者。江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、江島生島事件の中心人物。一方で生島半六(初代 市川團十郎を刺殺した犯人)や二代目 市川團十郎の師匠の一人でもある。大坂生まれ。貞享元年(1684年)に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年(1691)、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者となった。 正徳4年(1714)、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから絵島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」させられた。
 評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座となった。 寛保2年(1742)2月、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没する。ただし、1733年(享保18年)に三宅島で死去したという説もある。戒名は道栄信士。墓所は三宅島にある。  

半畳(はんじょう);江戸時代、芝居小屋などで観客が用いた一人用の小さな敷物、座布団。一畳の半分、半畳から来ていますが、そんなに大きな物では無く、尻の下に敷くと隠れてしまうような小ささです。
 〈半畳を入れる〉〈半畳を打ち込む〉という通語は、俳優の演技などに不満・反感を表現する際、観客がこの敷物を舞台に投げる行為から起こった。今でも残っているのが、相撲で横綱が負けると土俵に座布団が飛ぶのは、不満をあらわす名残です。

お膝送り(おひざおくり);後から来た人を入れるために、座ったままで順にひざをずらして席をつめること。 寄席は畳敷きが多く、座布団にすわって聴いていた。最初のうちはバラバラでいるが混んでくると係員から「お膝送り願います」と声がかかり、客は前から順に席をつめていた。畳敷きだから出来る芸当です。高齢者は膝を痛めているので正座が出来ませんし、若い人は元々正座が出来ません。現在は椅子席になっているので「お膝送り」は出来なくなりました。素人天狗連の落語会ですら、座布団を用いず畳の部屋に椅子を並べています。

半畳改(はんじょうあらため);談志は噺の中で、ガラガラの客席では興行成績が一目で分かってしまうので、すいているときはただ観の客も入れる事がありました。混んでくると、無銭の客は掃き出さなくてはなりませんので、有料で入った証の半畳の有無を確認しました。

唐桟の着物(とうざんのきもの);「唐桟」(とうざん)とは、江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のことです。特色は、平織りで、極めて細い双糸を使うことで、木綿でありながら、絹そっくりの風合いを持っています。江戸時代、遠い南の国からもたらされたエキゾチックな縦縞の「唐桟」は、粋で、人気を博しました。しかし、それは大変に値段が高く、庶民のものではありませんでした。江戸中期以後町人の着た木綿の唐桟は、武士の着た絹の上田縞などの5倍以上も高価なものであった。名称はインドのコロマンデル地方のセント・トマス(サントメ)がなまったものという。 ところが、安政の開国以後、わが国では、どうしても紡げなかった極めて細い木綿糸が、産業革命以後の欧米諸国から安く輸入できるようになりました。 川越商人は、いち早く、この点に着目し、当時絹織物の産地として栄えていた川越の機屋に「唐桟」を織らせました。これが川越唐桟のはじまりです。 それは、良質で安価だったため、爆発的に売れ、「唐桟」といえば「川越」と言われ、川越唐桟には「川唐」(かわとう)の愛称まで生まれました。
 この噺、幡随院長兵衛が活躍した時期、江戸では高価な唐桟が盛んに着られるようになりました。

 唐桟柄の色々

伝法(でんぽう);無料見物・無銭飲食をすること。また、その者。江戸時代、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光をかさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところからいう。

こじり(鐺);刀剣の鞘 (さや) の末端の部分。また、そこにはめる飾り金物。

 

歌舞伎『極付幡随長兵衛』(きわめつき ばんずい ちょうべえ)より
序幕
舞台喧嘩の場

 狂言も佳境に入ったときに酒に酔った白柄組らが狼藉を働いて舞台を台無しにする。そこへ町奴の親分、幡随院長兵衛が止めに入り白柄組を叩きだす。折しも桟敷で舞台を見ていた白柄組の頭領水野十郎左衛門は、長兵衛に遺恨を持つようになる。

第二幕
花川戸幡随内の場
 水野の家から家老水野主膳が来たので「水野の家来だ!たたきしめろ!」と子分達は大騒ぎ、長兵衛が止めに入り事情を聞くと「主君より迎えの使いが来ても出てこないようにしてくだされ。刃傷沙汰にもなると家名に傷がつくどころで済まないのでくれぐれもお願い申す」とのこと。だが長兵衛は「相手を怖がり逃げたと言われては、わしの名折れになりますから。これはお断り申しまする」とすげなく断り追い返す。はたして入れ違いに水野の家臣黒沢庄九郎が使いにきて、主君の、これまでの遺恨を水に流し旗本奴と町奴が仲良くなりたいとの思し召し、そこで、「わが君が庭の藤を眺めながら酒宴をいたしますので何卒拙邸にお越しくだされ」との口上、長兵衛は快く招待に応じる。「行かないで」と嘆く女房やわが子、子分達、そして、急を聞いて駆け付けた唐犬らの説得にも耳を貸さず「武家と町家に日頃から遺恨重なる旗本の、白柄組に引けをとっちゃあ、この江戸中の達師の恥」、「人は一代、名は末代」と自身と仲間の名誉を守るため、唐犬に後を託し涙をこらえて長兵衛一人水野の屋敷に向かう。

第三幕
水野邸酒宴の場
 水野は友人の進藤野守之助、黒沢とともに長兵衛を歓待する。宴たけなわに黒沢はわざと長兵衛の服に酒をこぼし、水野は「一風呂入って服を乾かしたがよい」と入浴を勧め湯殿に案内させる。
湯殿殺しの場
 浴衣一つになった長兵衛は家臣たちや水野に襲われる。「いかにも命は差し上げましょう。兄弟分や子分の者が止めるを聞かず唯一人、向かいに応じて山の手へ流れる水も遡る水野の屋敷へ出てきたは、元より命は捨てる覚悟、百年生きるも水子で死ぬも、持って生まれたその身の定業、卑怯未練に人手を借りずこなたが初手からくれろと言やぁ、名に負う幕府のお旗本八千石の知行取り、相手に取って不足はねえから、綺麗に命を上げまする。殺されるのを合点で来るのはこれまで町奴で、男を売った長兵衛が命惜しむと言われては、末代までの名折れゆえ、熨斗を付けて進ぜるから、度胸の据わったこの胸をすっぱりと突かっせえ」との名台詞を吐いた長兵衛は、見事に水野の槍を胸に受ける。そこへ長兵衛の子分が棺桶を持ってきたとの知らせ。その潔さに流石の水野も「殺すには惜しきものだなあ」と感心し、とどめを刺す。

芝居の解説
 活歴物を編み出した九代目市川團十郎のために作られたので史実に忠実である。
 長兵衛は武家出という設定で、演じ方にも普通の侠客として演じてはならず、「行儀作法なども、他の侠客とは変えなければならず、天保時の侠客や唐犬権兵衛などでは、同じ親分でも親指を人差し指の腹につけ、軽く手を握った形で、膝の傍へその手をつくように挨拶しますが、長兵衛は水野の邸で手をついてお辞儀をする時、キチンと畳に掌をつけてお辞儀をしなければなりません。そんなことで長兵衛の風格が舞台に浮きあがって来るものなのです」(七代目松本幸四郎)という芸談が残されている。
 序幕の村山座の場では歌舞伎では珍しく劇中劇の形をとっており、明治の新作ではあるが、初期浄瑠璃や荒事に多大な影響を与えた金平浄瑠璃が唯一現行歌舞伎の演目として残されていたり、舞台番が活躍するなど江戸時代の芝居小屋を再現した貴重な場面である。また客席から長兵衛が現れるなど娯楽性に富んだ一幕ものである。
 初演時、殺害される長兵衛のうめき声が真に迫っていて好評であったが、これは團十郎が、1868年(明治元年)に養父河原崎権之助が強盗に殺害された時、養父の瀕死の声を聞いた経験によるものである。また、團十郎は殺害前の立ち回りを竹本の浄瑠璃を廃して柔術をありのままに演じる写実的な演出に変え現代にも受け継がれている。



                                                            2019年6月記

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