落語「吉野狐」の舞台を行く
   

 

 四代目林家染丸の噺、「吉野狐」(よしのぎつね)より


 

 頃は一月の末つ方、真夜中、瓦屋橋の上に年の頃なら二十二・三、若い男が、橋の袂で人が見ているのも気が付かず袂へ石を放り込んで、今、欄干に足を掛けて川へ飛び込もうとするところをば、「何をしなさんねん」、「どうぞこの手を離しとくれやす」、「死ぬっちゅうねんさかい訳があろう、さ~、その訳話しなはれ。わしは夜泣きうどん屋の安兵衛というもんだ。その訳を言ってごらん」。
 「私は、心斎橋筋で渋谷(しぶたに)や石原と肩を並べるほどではござりませんが時計屋。親父は渋いことはこの上もなし、堅いことは石よりも堅く、それに引き替えわたくしは、新町南通り木原の木原席娼妓(まんた)吉野と馴れ初め、通い廓の習いとて芸者、舞妓や太鼓持ち、ほめそやされての大和めぐり。使ったお金が三千円。家に帰りましたら勘当・・・」、「今、お前さんがこの川へはまって死んだら誰ぞ三千円の金を出してくれんのんか」、「そんなお方はござりません」、「そうやろう。それを無駄死にと言うじゃ。帰る家も無いのだろう、わしの家に来なされ」。

 「婆さん、いま帰りました」、「おぉお~、親父どんかいな、さぞ寒(さぶ)かったじゃろ」、「うどん二つ残ってしまった。で、拾いものしたんだ。こっちに入りなさい」、「お邪魔します」、「若い綺麗な人だ。そうか、身投げを助けてきたのか。良い事をした。歳はいくつだぃ」、「二十三で、島三郎(とうざぶろう)と申します」、「伸介と同じ歳だわ」、「死んだ息子の歳を数えてどうする。婆さん、飯(まま)は無かったかいな?」、「ご飯は終いじゃ」、「残ったうどんで我慢してもらおう」、美味しそうに食べ終わると、三人が押し合うようにして、その晩は休みました。

 翌朝、「疲れていたんだな~。よく寝てた。あんたに悪かったが心斎橋筋まで行ってきた」、「親の所ですか」、「お父っつぁんに会ってきました。一部始終を話したところが『しょ~むないことせんといてくれ、もう勘当の身の上、うちじゃもう関係がない』とこう言うた。わしが、養子にもらっても良いかと言うと『どうぞ。あんな出来損ないで良かったら、あんたの子にして下さい』と言った」、「どやな、島三郎さん」、「よろしくお願いします」。ひょんな事から安兵衛の養子になりました。心入れ替えると言いましたように、人が変わったように働き出しました。

 車を押したり、引っ張ったり、お父っつぁんの手助けをします。薄利多売で商売繁盛。それから1年経ちました。帰ってくると片付けは島三郎の仕事。安兵衛は奥でお茶を飲んでいます。
 なかなか島三郎は入ってきませんので覗くと、「あんた、わたいの事嫌いになったんかいな」、「今でも好きや」、「だったらここで、一緒に」、「そんな事言ったって・・・」、「わたいが直に話をします。そこどいておくれやし」。
 「お初にお目にかか ります、わたくし新町の木原席に勤めておりました吉野と申します」、「綺麗な方だ」、「島三郎若旦那様とは古うからの深い仲になっておりまして、今日(こんにち)わたくし寄していただきましたのは、若旦那とお別れしてあちらこちら訪ねましたんですが、どうしても居所が知れません。ところが、風の便りに聞きますればご当家へ養子縁組なされたそ~でございまして、わたくしもずっと前借りも無く自前で働いとりましたので、島三郎若旦那の嫁にしていただこうと思って足を洗ってあががりましたようなわけで・・・。ここにございますのは、わたしが働いてるあいだに蓄えましたお金が千円ござります。これを持参金と持ってまいりましたので、私をこの家の養子にして下さい」。
 「お父っつぁん、まぁ綺麗ぇなお子やこと」、「島三郎、そこでモジモジせんと、この話のみこんだから二人で二階に上がりなさい」。

 明くる日の朝。家主っさんと近所へ言って歩きましたところが、家主っさんがこれまたなかなかえぇ人で・・・、「ほぉほ~、そうかいな安っさん良かったな~。今までお前さんら『夫婦なかに子どもが無い寂しぃ、誰ぞ跡取りにどこぞええ養子はないかいな』ちゅうて探してなさった、そんなえぇ養子ができたうえに、そんな別嬪の嫁さんができたて、こんなめでたいことはないで。そやないかい、も~その寄る年波でまさか夜鳴きのウドンでもないやろ。どないや? 店の一軒も持って暖簾上げたらどないや。一軒店持ってみぃな、加薬(かやく)もんが売れるがな、加薬もんが売れりゃ儲けが違うがな。この千円を元に、ひとつ店でも持つ気はないか?」、「家主っさんの言うとおりです。そうしましょう」。
 探してみると、芝居町の道頓堀に適当な店を買いまして、屋号は吉野さんから、吉野屋と付けました。「準備が進んできたが、中で蕎麦うどんを作るのは、私と婆がやる、出前は島三郎がやる、店の客応対はひとを雇わなければならない」、「お父っつぁん、何を言います。私がやります」、「廓と違って忙しいところだ」、「やりますから、教えてください」。
 「大助かりじゃ。だが、夜泣きと違って加薬が多く、符丁で奥に知らせる。例えば、うどんは最後まで言わず”う”と言う。しっぽくは”きや”、おだまきは”まき”、あんかけは、吉野葛を使うから”よしの”、きつねは、信太の森の白ギツネというから”しのだ”と言う。ごはんは”しま”だ」、「何で?」、「堂島で米の相場が立っている」、「しゃれているんですね」、「途中で注文を替える人がある、しっぽくがおだまきに変わると、”きや”が”まき”に替わって~、と言えば良い」、「難しい事もありますが、どうぞよろしくお願いします」、「皆で力を合わせていこう」。

 開店になりますと、新しいうどん屋という事でお客が詰めかけます。「こっちにうどんをお願い」、「う、一膳」、「こっちはおだまきだぜ」、「きや、間違った。まき一膳」、間違える度に、顔をポッ~と赤らめる。これが愛嬌になって、お客さんが詰めかけます。毎日大入り満員。
 そうこうしていると、島三郎が出前の鉢を取りに行きまして、道頓堀を歩いておりますと、以前遊びに行てた新町の御茶屋の女将さんとベッ~タリと会た。「そこ行くのは、若旦那ではございませんか」、「誰かと思ったら、木原席の女将ですか」、「貴方どうしていなはった。あれから1年越しておるのと違いますか。大和巡りが済んで、パッタリと来ませんな。しかし、御達者そうで・・・」、「で、何とか生きております」、「御勘当になったそうで・・・。その節は大変お世話になりました。大和巡りの時、野施行(のせんぎょう)とか言って、真っ白い雪の中油揚げやお赤飯を皆で持って行って面白かったですね」、「今から考えると夢のようだったな」、「吉野さんは当時泣いていましたが、最近元気になって・・・」、「おまはん、吉野と会うかい」、「ずっと、一緒に働いていますよ」、「あんたんとこで勤めている?」、「若旦那には申し訳ありませんが、新しい旦那が付いてくれはったんで、私も安心しています。今日は芝居見物で吉野と旦那と私で来ています」、「会わせてくれないか」、「旦那がいるから見るだけですよ」。
 「そうか、女将ゴメン」、走って店に戻ってきます。

 店は相変わらず繁盛しています。「お帰り~、どうしたのその顔は・・・」、「オイ、吉野チョット裏へ来てくれないか」、引っ張るようにして、裏に連れて参りますと、「吉野ッ、お前はいったい誰や、何処の誰や」、「これ島三郎、吉野さんに何をするッ」、「此奴は、ホンマモンの吉野と違いますねん。お前は誰や、魔性のものか、化生のものかッ。本物の吉野はこの目で見てきた。本当の事言わないと、ここにある割り木で頭ぶち割るぞ」、「暫く暫く、申します。(下座からお囃子が入り芝居がかる)頃は一年前の一月、寒風激しく雪吹き積もる、往き来の人も絶え絶えに大和の国の奈良町に、片辺 (かたほとり)の野辺に住む、無官の狐、親子五匹が明日をもしれぬその時に、あなた様の野施行(のせんぎょ~)置いて賜るありがたさ。5匹のものが、このうえは御身守護し奉らんと訪ねみますれば、御勘当、今では流浪の身の上と聞き、ようよう安兵衛様の所と分かり、仮に吉野の君の姿を借り、ご恩返しをしたさにやって来ました。お店もご繁盛、私の勤めも終わりました。私は古巣に立ち返りしが、お名残惜しいが島三郎様、親御様、どうぞこの後も御達者で・・・、かく物語りし我が正体。(狐に戻って)コン、コ~ン」、「アッ、お父っつぁん、見てみなはれ、吉野が信太に替わってぇ~」。 

 



ことば

四代目林家 染丸(はやしや そめまる);(1949年(昭和24年)10月10日 - )は、大阪市西成区天下茶屋出身の落語家。本名は木村 行志(きむら こうし)。出囃子は『正札付』。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。上方落語協会相談役。
 1966年(昭和41年)6月、三代目染丸に入門。前名は二代目染二。京都花月で初舞台。このころから音曲に興味を示し、師匠の紹介で古老の桂右之助に師事、その後の大きな財産となる。1968年に師匠が他界。1972年ごろ一時芸界を離れていたが、74年ごろ復帰。その後、吉本興業に所属、笑福亭仁鶴の大喜利番組に三味線を弾けるということで出演したのをきっかけに「染二のおっしょはん」と人気を得る。1984年に兄弟子四代目林家小染が急死し、一門の総帥となる。 1991年(平成3年)9月に国立文楽劇場で四代目染丸を襲名。またなんばグランド花月で行われた口上では笑福亭鶴瓶、漫才の夢路いとし・喜味こいし、東京の落語協会から古今亭志ん朝らも並んだ、因みに鶴瓶はこの日がなんばグランド花月への初出演だった。
 落語は、音曲・滑稽・人情噺・はめものと芸域も幅広く、もちネタは林家の家の芸である、『ふぐ鍋』『景清』『莨(たばこ)の火』などの先代譲りのネタの他、『寝床』『三十石』『豊竹屋』『天下一浮かれの屑より』『子は鎹』。珍品では『茶瓶ねずり』『五両残し』『綿屋火事』『鰻谷』などがある。その他にも『住吉踊り』なども一門会、彦八まつりなどで披露する。
 現在は社団法人上方落語協会理事で、教育長の肩書きも持つ。同期に、同会長の六代桂文枝、四代目桂春団治、笑福亭鶴光等がいる。 過去には関西大学非常勤講師(担当は「日本伝統芸能史」)や大阪府立東住吉高等学校芸能文化科講師なども務め、現在は京都造形芸術大学客員教授。 NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」(2007年)の出演者の落語監修・指導を行い、自身も出演した。 2011年5月、上方落語のお囃子の歴史をまとめた「上方落語 寄席囃子の世界」を出版、同年5月29日には記念の落語会を祇園花月で開催。 2012年11月、軽度の脳梗塞で入院、2013年1月2日に天満天神繁昌亭で『寝床』を披露し復帰も夏に再発。 2015年1月、現在脳梗塞とリハビリの一環で弟子に三味線の稽古を付けている。

ベースになる噺;葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃および歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ)も通称「葛の葉」として知られる。稲荷大明神(宇迦之御魂神 )の第一の神使であり、安倍晴明の母とされる。 落語「天神山」(上方落語)、「墓見」(江戸落語、「安兵衛狐」「葛の葉」とも)に描かれています。

 村上天皇の時代、河内国の人・石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。全ては稲荷大明神(宇迦之御魂神)の仰せである事を告白し、さらに次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
 『 恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 』
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明となった。

  

 左、月岡芳年『新形三十六怪撰』より「葛の葉きつね童子にわかるるの図」。童子丸(安倍晴明)に別れを告げる葛の葉と、母にすがる童子丸の姿を描いたもの。 右、『絵本百物語』に描かれた葛の葉。

 歌舞伎で演じられる女狐。”恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉”と、障子に書き残す。裏書きされていたりで楽しい。「歌舞伎はるあき」野口達二著より写真、梅村豊。

葛葉稲荷神社(くずのは いなりじんじゃ);こちらの神社は正式には「信太森神社」(大阪府和泉市葛の葉町一丁目11番) 通称「葛葉稲荷神社」といいます。 創建は、和銅元年(708年)です。そしてこちらの神社には 安倍保名と葛の葉姫の恋物語が言い伝えられています。 その物語は歌舞伎・文楽において現在も語り継がれています。
 ある日、帰途につこうとすると一本の流れ矢が飛んできて傍らの杉の根元にフツと立ちました。これは何事かと思う間もなく逃げ場を失った一匹の白狐が走り去り保名の後ろに隠れ、救いを求める様子でした。元来情け深く賢い保名はこれこそ大神の御命婦であると直感し傍らの石を楯として後ろの草むらに白狐を隠し自分はその石に腰をおろして静かに憩うている体を装うのでした。
  折からドヤドヤと駆けて来た数人の狩人は「我々は只今一匹の白狐をここに追い込んだが貴殿は見なかったか。見ないとはいわさぬ」と問い、かつなじるのでしたが保名は断固として突っぱねたので狩人たちに叩かれ、数箇所に手疵を負いその場に倒れてしまいました。
  狩人たちが他所に探しに立ち去った後、御神木楠ノ樹の下から見るからに神々しい女が走り出て保名の疵に手を当ててかいがいしく介抱しました。保名は礼を言うと、「女はこの森に住む葛乃葉と申すもの、そなたを阿倍野まで送り届ける程に一挺の山駕を雇うて来る」と言うので保名は彼の女が名乗りもせぬのに我が住まいまで知っていることに不審を抱きながらも唯夢うつつの如く駕籠に揺られて立帰るのでした。
 病も癒えて、保名と葛乃葉も互いの心が通じ合いいつしか離れられぬ仲となり、保名と葛乃葉の間にもうけた一子、童子丸(後の安倍晴明)は疱瘡も無事に済み早や五つの春を迎えたのです。

 

 上、「信太森神社」。(大阪府和泉市葛の葉町一丁目11番) 通称「葛葉稲荷神社」といいます。

安倍晴明神社(あべのせいめい じんじゃ); 当神社は、阿倍王子神社が管理する末社。 大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16。 「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。 その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました」。狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っています。安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。

石原時計店; 大阪、淀屋橋角で150年の歴史を持つ関西の老舗として有名な石原時計店の大正期の絵葉書です。創業者石原久之助は大阪時計の出資者及び取締役として大阪時計に深く関った人物としてもよく知られています。 明治35年大阪時計製造株式会社の解散後に石原久之助と野田吉兵衛が後を譲り受け、大阪時計製造所として商品名クレセントなどの懐中時計を送り出しましたが、明治38年に石原個人の経営になり、クレセント時計工場から戦後は石原時計精機株式会社として「クレセント」商標の8日巻きの置時計、掛時計を製造しました。 月星印のクレセントは明治から戦後まで一貫して使われた石原ブランドです。
 嘉永3年(1850)南久宝寺町で創業、大正6年に心斎橋南詰めに移った。当時心斎橋筋には時計商18軒を数え、競い合って塔屋に時計盤を掲げる西洋風店舗を建立したという。

  

左、大阪朝日、明治42年1月26日、当時の三階建ての店舗に時計塔がそびえている。
右、石原時計店 大正7年1月、大正4年竣工当時の心斎橋脇の本社、記念絵葉書です。

瓦屋橋(かわらやばし);大阪市の東横堀川に架かる橋。 大阪市中央区瓦屋町2丁目と島之内2丁目の間を結んでいる。現在川の上を阪神高速1号環状線が通過している。このあたりは古代より良質の粘土が取れ、江戸時代には大坂市街における瓦生産の中心地だった。
 元禄時代中期に初めて架けられたと言われている。当時の橋は『地方役手鑑』によると橋長十九間二尺(38.0m)、幅員一間半二尺七寸五分(3.8m)の木橋だった。その為、江戸時代には約15年おきに橋が架け替えられた。明治時代になっても木橋のままだったが、1932年(昭和7
)鋼桁橋に架け替えられた。
 島三郎が東横川に飛び込んで死のうとした橋。

夜泣きうどん屋(よなき うどんや);夜間、屋台を引くなどして売り歩くうどん屋。また、そのうどん。よなき。江戸では蕎麦屋、上方ではうどん屋が多く、江戸の蕎麦屋は夜鷹蕎麦と言った。落語「時蕎麦」にその情景が解ります。蕎麦の噺には「蕎麦清」、「疝気の虫」、「おすわどん」等が有ります。
右図:夜泣きうどん屋。守貞漫稿より。下部に車を付けて短距離なら引いて移動したが、それを常態とした物は幕府から禁じられていた。(榎本滋民)

木原(きはら);新町南通二丁目「木原遊楼」。

木原席(きはらせき);木原遊廓にあった、木原席と言う屋号の見世。 江戸吉原で言う「○○楼」に当たる。

大和巡り(やまとめぐり);伊勢参りと似たような感覚で流行した大和旅行。

三千円(3000円);明治の中頃として、数千万円。大金です。吉野さんが持って来た持参金千円もその1/3ですが、やはり大金です。

勘当(かんどう);主従・親子・師弟の縁を切って追放すること。江戸時代には、不良の子弟を除籍すること。江戸時代、勘当(久離)の届出を町年寄または奉行所で記録しておく帳簿を勘当帳と言った。久離帳。記録しないのは内証勘当という。
  親が子に対して親子の縁を切ること。江戸時代においては、親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。復縁する場合は帳付けを無効にする(帳消し)ことが、現在の「帳消し」の語源となった。ただし、復縁する場合も同様の手続きを必要とした事から、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、戸籍上は親子のままという事もあったという。人別帳に「旧離」と書かれた札(付箋)を付ける事から、「札付きのワル」ということばが生まれた。
 落語「六尺棒」より孫引き

心斎橋筋(しんさいばしすじ);、大阪府大阪市中央区の町名。または船場・島之内を南北に縦断する道路。現行行政地名は心斎橋筋一丁目から二丁目まで。御堂筋のひとつ東側の筋。長堀川に架かっていた心斎橋に由来する。 繁華街で島三郎の実家があったところ。

養子(ようし);養子縁組によって子となった者。養子縁組は、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親・子を、現代日本語では、それぞれに養親(ようしん)・養子(ようし)という。

薄利多売(はくりたばい);利潤を少なくして品物を安く大量に売り、全体として利益があがるようにすること。

持参金(じさんきん);結婚の際、一方の配偶者が、もう一方のために用意する貨幣等の財産のこと。また、その風習のこと。世界中で歴史を通じ、広く見られる。裕福な家庭の女性が貧しい男性の家に嫁入りするときに、持参金を用意する習慣がある。結納が男性側のみの負担であるのに対し、持参金は女性側のみが負担する。女性側が男性側から結納で受け取った金銭をそのまま持参することもある。
 千円の持参金は決して少ない金額ではありません。店舗が一軒持てるぐらいの価値があった。

家主(やぬし);長屋の管理を任されている管理人。そのよび名から長屋の持ち主のように思われがちですが、じつは土地・家屋の所有者である地主から、長屋の管理を任されている使用人で、家守(やもり)、大家(おおや)、差配(さはい)ともよばれていました。現代で言う管理人です。豊かな地主は多くの長屋を持ち、それぞれに大家を置いた。
 その仕事は、貸借の手続き・家賃の徴収・家の修理といった長屋の管理だけでなく、店子と奉行所のあいだに立って、出産・死亡・婚姻の届け出・隠居・勘当・離婚など民事関係の処理、奉行所への訴状、関所手形(旅行証明書)の交付申請といった、行政の末端の種々雑多な業務を担当していました。
 それだけに店子に対しては大いににらみをきかせ、不適切な住人に対しては、一存で店立て(たなだて=強制退去)を命じることもできました。
 大家の住まいは、たいてい自分が管理する長屋の出入り口木戸の脇にあり、日常、店子の生活と接していましたから、互いに情がうつり、店子からはうるさがられながらも頼りにされる人情大家が多かったようです。

(「大江戸万華鏡」 農山漁村文化協会発行より)

加薬(かやく);元来、料理に加える香辛料。関西では加薬飯のように料理に入れる具材の意味。ここでは、うどんに入れる具材のこと。

芝居町の道頓堀;慶長17年(1612)から元和元年(1615)にかけて開削された道頓堀川。寛永3年(1626)、この地に最初の芝居小屋ができて以来、道頓堀と言えば芝居であった。最盛期には歌舞伎6座、浄瑠璃5座、説経7座、からくり1座、舞4座が立ち並んだという。川に面しては芝居茶屋も軒を連ね、江戸時代を通じて大坂随一の遊興の地だった。芝居小屋に浮沈はあり、火災にも見舞われたが、中座・角座・戎(えびす)座・弁天座・朝日座の5座を中心に、明治に入っても道頓堀の芝居の賑わいは続く。「五箇所の劇場年中絶ず興行して大入の札を掲げり。又、落語、新内節(しんないぶし)、女浄瑠璃の席あり。劇場の間々の地及び河岸には芝居茶屋、割烹亭、飲食物舗、諸商家も連絡(つらな)り・・・」(榊原栄吉編『市内漫遊大阪名所図絵』明治23年刊)と描写されたのが明治半ば。その後、新派や喜劇など芝居が多様化し、活動写真という新しい娯楽も出現したが、道頓堀の賑わいの中心には常に芝居があった。

うどん(饂飩);符丁で”う”。小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ麺またはその料理であり、主に日本で食されているものを指すが、過去の日本の移民政策の影響や食のグローバル化の影響により、関係各国にも近似な料理が散見される。細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ですが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はなく、細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」と称してよいと規定があり、これらもうどんの一種類に含まれる。
 
 
右図:軒先に吊す行灯看板。大坂ですから「うどん」から始まります。
 下図左:上方で使われたメニュー
 同中:二八蕎麦、うどんかけ等に使われた平皿
 同右:しっぽく、あんかけ等値の張る物に使った平椀に盛った麺。江戸ではもり・ざるそば以外、全て丼に盛った。

以上、四絵図、上方のうどん屋。守貞漫稿より

   

 メニュー読み下し、うどん、そば、しっぽく、あんぺい(あんかけ)、けいらん(卵とじ)、小田巻。

しっぽく(卓袱);符丁で”きや”。元来は長崎料理のしっぽく料理から転じて、うどん汁に、蒲鉾・しんじょう・鶏卵の厚やき・椎茸・葱などを加えたもの。

おだまき(苧環蒸・小田巻蒸);符丁で”まき”。うどんの入った茶碗蒸し。鶏肉・三つ葉・蒲鉾・椎茸などの具を加え、卵汁をかけて蒸す。おだまき。

あんかけ(あんかけうどん);吉野葛を使うから符丁で”よしの”。具に葛のあんを絡ませたものを丼のうどんの上に乗せた物。

きつね(信太);信太の森の白ギツネというから符丁で”しのだ”。かけうどん・かけそばに甘辛く煮た油揚げを乗せたもの。 地方によっては違いがあるが、使用する油揚げは、まず湯で油抜きをし、砂糖・醤油・みりんなどを使用して、しっかりと甘辛く味付ける。麺のダシ(つゆ)は濃口醤油と鰹節主体の強めのものである。熱いつゆばかりでなく、冷やしや鍋物もある。名称は稲荷寿司と同様、油揚げがキツネの好物とされていることに由来する。一説には油揚げの色(きつね色)・形がキツネがうずくまる姿に似ているからだともいう。
  大阪では、油揚げを乗せたうどん料理を「きつね」(ケツネ・ケツネウドン)と言い、そば料理を「たぬき」と呼ぶことが一般的という。

ごはん(ご飯);堂島で米の相場が立っているから符丁で”しま”。白米を炊いた物。

注文替えの時;お客が注文を替えると、例えばしっぽくがおだまきに変わると、「”きや”が”まき”に替わって~」、と言えば良い。オチに繋がる、奥へ注文の通し方。

野施行(のせんぎょう);冬の雪野原では動物たちが食べる物が無くて困るであろうと、わざと食事などを食べ残し、または、準備して、撒いて(置いて)くる事。元来はセギョウ。貧民などに物をほどこし与えること。また大盤振舞の意にも使う。
 厳冬の雪の中食べる物も無く、飢え死にしそうな狐の家族が救われた。

■魔性のものか、化生のものか;魔性:悪魔の持っているような、人をたぶらかし迷わせる性質。化生:ばけること。ばけもの。変化(ヘンゲ)。どちらにしても、人間世界のものでは無い。

割り木(わりき);縦に割って細くした薪。当時の燃料として大切な物で、まだかまどに入れる前の木。

大和の国の奈良町;旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起る。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。景行紀「伊勢より―に還りて」。日本国の異称。おおやまと。
 ここに存在した奈良京があったところ。

片辺 (かたほとり);片隅。都心から離れたへんぴな所。片いなか。野のあたり。

無官の狐(むかんのきつね);お稲荷さんの遣わしめではないただの野狐。ごく普通の狐。
『花の世に 無官の狐 鳴きにけり』 
(一茶)。



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