落語「南極探検」の舞台を行く
   

 

 五代目春風亭柳昇の噺、「南極探検」(なんきょくたんけん)より、(『弥次郎』改作噺)


 

  私は春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば我が国では・・・、私一人で御座いまして・・・。(柳昇の決まり文句。これが無いと始まらない)

 ホラ吹きというのは天才ですね。
 「こんちは」、「どなた? おや珍しいな、どうしたホラさん」、「嫌だね、人の顔見てホラさん・・・」、「しばらく来なかったが、どこかに行ってたのかい?」、「ちょいと南極へ行ってましてね」、「ほら始まった。どうしてそうすらすらとホラが出るんだよ」、「いえ、今度は本当に行ったんですよ」、「観測隊で? しかしあそこに行く人は新聞に名前が発表になるけどねぇ?」、「あたしが行ったのは、軍の秘密になってましたからね」、「軍って、何の軍だい?」、「東京都西多摩郡」。
 「本当に行ったんすよ」、「観測隊で行く人はそれぞれの専門の知識がある人が行くんだよ。お前さん、植木屋さんだよ」、「松の研究で行ったんすよ」、「南極に松があるのかぃ」、「月に一回有ります。月末(松)てのが・・・」、「洒落の研究で行ったのかい」、「そうじゃないんですよ、南極へね松や竹を植えたいが、どうか調べてくれないかてんでね、行くことになりましたが、大変でした準備が、ええ。予防注射をされましてね。先にやったのが赤痢に疫痢に天然痘なんす」、「ん、怖いからなぁ」、「その次にやったのは風邪に、風疹に、盲腸炎」、「盲腸の予防注射てのは聞いたことが無いな」、「普段医者がやりませんからね」、「誰がやるの」、「おもに寿司屋がやるんすね」、「なんで?」、「チラシてんで・・・」、「洒落ばかりだ」。

 「準備が整いまして、無事に”しらせ”という船に乗り込みまして、出航しましたのは晩秋11月でした。大変でしたよ、当日は大勢の人が見送りに来ましてね、ざっと500万人」、「そんなに来たかぃ」、「いや来たかと思うくらい来ましたよ。これが一斉に大きな声で、『万歳、万歳』でね、大きいのなんのって、九州の鹿児島まで聞こえたそうですよ」、「いくら大勢だって、鹿児島まで聞こえる訳がないだろ」、「ラジオの実況放送ですよ」、「そんなら聞こえるな」、「やがて汽笛も鳴らしましてエンジンの音も高らかに、音もなく港を離れました」、「なんだ、そのエンジンの音も高らかに、音もなくてのは?」、「エンジンは途中で故障になっちゃって。直って海に出ました」。
 「海から日本列島を見ると、日本という国は小さいですね。北海道から九州までいっぺんに見えますよ」、「見えるわけがないだろう」、「地図で見たんですょ」。
 「やがて太平洋に出ましたが、出て見て驚いたが、あの太平洋の水の多いこと。凄い量、とても4~5人では飲みきれん」、「当たり前だッ」、「太平洋には色々な魚おりますよ」、「そうだろうな、海の宝庫と言われるてるからね」、「居ますね。”鯨、鰯、秋刀魚、金魚、メダカ、ナマズ・・・”こう言う魚を見物しながら船は南へ南へと北上しまして・・・」、「何だい南へ北上てのは? 南下じゃないのか」、「ナンカ違ったと思った。船は南へ南へと、最初の港に着いたのは南方でした。暑いね南方は、太陽真上、しかも本場モンの太陽がギラギラ。鳥なんか飛びながらみんな焼き鳥になっちゃうんです。だから向こうの人はもうね、みんな醤油持って歩いてる。何処行ってもおかずに不自由しない」、「ほ~、便利な国だな」、「聞いたらこの国は夏ばかりで冬が無いッ、冬が無いからお正月が来ない。みんな年を取らない。全部赤ん坊ばかり」、「バカ言うなッ」。
 「ここで燃料、水の補給を兼ねて、泊まりましたがね。出航すると、あの赤道祭り、にぎやかにやりましてね」、「そうなんだってね、船で赤道通る時にお祝いするらしいな」、「模擬店なんか出ましてね、ええ、カラオケ大会なんかやりましてね。いよいよ赤道超えるという段階になりましたが、見たこと無いので艦長に聞いたんですよ。 “どれが赤道でしょう?”たらね、 “あれですよ”と言って、指さして教えてくれたのが、大したもんですよ。青い海に赤い線がス~と・・・」、「そんなとこにそんなものがあるのかい」、「これが昔の赤線地帯・・・」。
 「なおも南へ南へと進むと、暴風地帯。雨風が強くて風速3000m。船は木の葉のように揺れて、皆、船酔い。私はゆうゆうと甲板に出て日光浴」、「雨風が強いんだろう。日光浴が出来るかぃ」、「私は頭をくりくり坊主、昔から雨と坊主は合わない」、「何の話をしてるんだッ」、「艦長が来て。このままでは大変なことになる。助かる方法はないかッ」、「神仏に祈ったら、ピタリとやんだ」、「直ぐやんだのかい」、「それから10日してやんだ」、「自然にやんだんじゃないか」。
 「いよいよ南極に近づいてきたなと思うと、大きな鳥がフワフワフワフワと飛んでくるんです。見るとこれがペンギン鳥なんです」、「あの、ペンギン鳥は空飛ばないんだよ」、「ところがこいつは野生ですからねッ、これがマストへとまって良い声で、ホーホケキョー」、「馬鹿なこと言っちゃ嫌だよ」。
 「なおも南へ南へと進みますとね、氷のかけらが流れて来ましてね、あれは流氷と言いますでしょ、有名なね、春風亭流氷ね。知らねぇの? 流氷掻き分け掻き分け、ついに南極大陸に上陸しましたが、上陸してみて驚いた。日本の氷と南極の氷とは全然違うんですよ」、「そうかぃ」、「ええ、日本の氷は最初冷たいでしょ。向こうはアツイ」 「氷が熱いのか」、「幅が厚い」。

 「これ一年間越冬村で暮らしましてね。南極の夏は困るんですよ」、「何が」、「夜が無いんですよ」、「そうなんだってね」、「明けても暮れても昼間ばかりですよ。困んのは御飯なんですよね。今食べてんのが朝飯だか昼飯だか晩飯だか見当がつかない。しょうがないから昼飯ばかり、朝飯と晩飯が抜きになるから、腹が減って、腹が減って」、「変な話だな」。「逆に冬になると、夜ばかりで昼間が無いんですよね。困んのは御飯なんですよ。今食べてんのが朝飯だか晩飯だか昼飯だか見当がつかない。のべつ晩飯ばかり、朝飯と昼飯が抜きになるから、腹が減って、腹が減って」、「分かったよ」。
 「ある日私は隊長の命令を受けて、たった一人で奥地に探検に出かけましたね」、「勇ましいな」、「ええ、基地を離れて一カ月目でしたね、向こうの方から、 “ウオオー”という猛獣の声なんですよ。何もんであろうと側まで行ってみて驚いたね、人間の五倍もあろうかという大きなライオン」、「バカも休み休み言いなさいよ。ライオンてのは熱帯動物、そんな寒いとこへ出てくる訳ないだろ」、「そこが畜生のあさましさ。これ、大きな口を開けて、あっしを食べようとしたから怒ったね。 “これ、動物の分際で人間を食うとは何事である。一体ここにおいでになる方はどなたと心得るのかッ、これぞ先の副将軍水戸光圀公でおわしますぞー、”ライオンが、 “へへッー”っと・・・」、「嘘をつけ」。
 南極探検で御座いました。どうも失礼致しました。  

 



ことば

五代目春風亭柳昇については、落語「与太郎戦記」をご覧下さい。

 この噺は『弥次郎』を改作して、『南極探検』というタイトルで演じていた。 これは『弥次郎』を現代の南極探検に置き換えた内容で、七代目立川談志は「『弥次郎』よりこっちのほうがおもしろい」と話していた。談志自らも一人会で演じたり、何度か口演したことがあるが、演じるにあたり柳昇から正式な承諾は得ていなかったようで、生前、柳昇は「ずるいんだよ、談志さんは。『兄さん、あのネタやっていいよね』って自分で言って、高座でやってんだからねぇ」とぼやいていたとのこと。

林鳴平(はやし なるへい);昭和40年代、五代目・春風亭柳昇の自作・自演によって演じられた噺です。柳昇が、古典の嘘つき落語「弥次郎」を改作した新作落語。柳昇の落語作家としてのペンネームは、林鳴平ですから、林鳴平作と言った方が良い噺です。元ネタの弥次郎もそうですが、この噺も、短いくすぐり(ギャグ)の連続で、短編ながら、笑いの絶えない噺です。柳昇は、かなり独特のフラ(とぼけた味)をお持ちの師匠でしたので、こんな荒唐無稽なホラ噺で笑いを取れるのですが、フラの無い落語家さんが演じると、内容が内容だけに、馬鹿々々しすぎて、しらけてしまいます。落ちも、南極にいるはずもないライオンが現れ、水戸黄門の印籠にひれ伏すと言う、ナンセンスな落ちとなっています。

日本の南極観測は1910年に行われた南極探検隊による調査を端緒とし、1956年に南極地域観測隊が結成されて以降継続的に現在も行われています。

 日本人で最初の南極探検;1910年12月、日本の陸軍軍人で南極探検家の白瀬矗(しらせ のぶ。右写真)は開南丸で東京から出航し1911年2月26日に氷海へと到達、ロス海へ船を進める。しかしすでに南極では夏が終わろうとしていたためコールマン島(英語版)から引き返し、越冬のためオーストラリアのシドニーへ寄港する。11月16日にシドニーを出航し、二度目の試みでエドワード7世半島を経由して南極到達に成功する。「開南丸」はクジラ湾のロス棚氷でロアール・アムンセンを中心とする南極探検隊の南極点到達からの帰還を待つ「フラム号」と遭遇する。開南丸から7名から成る突進隊が棚氷へと上陸し、南緯80度5分・西経165度37分まで探検した後、一帯を大和雪原と命名して帰国の途につく。突進隊帰還までの間、開南丸はエドワード7世半島付近を探索、大隈湾や開南湾を命名する。アレクサンドラ王妃山脈(英語版)付近を探索した後、開南丸は日本へ向けて出航、1912年6月20日に芝浦に帰還した。

 有名な極点到達競争;初の南極点到達は1911年12月14日のことであり、ロアール・アムンセン率いるノルウェー探検隊によって達成された。アムンセンと極点到達の競争を行っていたロバート・スコットは、1912年1月18日に南極点に到達したが、極点から基地への帰路に遭難し、探検隊が全滅している。
 1914年にアーネスト・シャクルトン率いる南極大陸横断を目的とするイギリス探検隊が結成された。しかし、探検隊の船・エンデュランスは南極到達前に氷に閉じ込められ、漂流することとなった。9ヵ月後に船が氷に破砕、沈没されたため、ボートにより脱出する。その後、サウス・ジョージア島に助けを求め、長期の遭難にも拘らず、全員生還することに成功する。
 右写真:流氷に閉じ込められるエンデュランス号。

南極(なんきょく);1956年に永田武隊長によって編成された南極地域観測予備隊(隊員53名)がその創始で、この予備隊は、のちに第1次南極地域観測隊と呼称が変更された。当初は2次で終了する予定であったがその後延長された。通常は約60名から編成され、うち約40名が越冬隊員を兼ねる。
 現在では、約60名で構成され、うち30名が夏隊・30名が越冬隊で、年により隊の人数は変動する。

南極越冬隊=南極地域観測隊のうち、1年間に渡って南極で観測を続ける隊のこと。越冬しない部隊は「夏隊」、越冬隊は「冬隊」と呼ばれる。 越冬隊は1年に渡って昭和基地、またはドームふじ基地観測拠点で生活をしながら観測を行う。隊員候補者には国内で残雪が残る3月に乗鞍岳、7月に菅平高原で訓練が実施される。  

昭和基地での生活=居住棟の割り当ては1人約13m2(8畳)の部屋1つで、バス・トイレは共同。ただし床暖房が効いており室温は保たれている。 公衆電話は管理棟にあるが、電話代は隊員が自費で払うが、基地内では食事、ゲーム、副食費など無料でまかなわれるので金銭は持ち歩かない。 バーもあるが、バーテンダーは隊員が当番制で務め、客も日ごとに交代する。食事は調理師免許を持つ隊員の指導の下、各隊員が交代で作っている。冷凍技術の進歩により、食材の種類不足は解消されつつあるが、さすがに後半は生野菜・果物は不足する。古くからモヤシやカイワレダイコンの栽培は行われていたが、発電機の余熱を利用した野菜栽培室が整備されてからは栽培される品目も増え、2015年にはイチゴの収穫にも成功している。なお、土の持ち込みは出来ないので、野菜は種の状態で持ち込まれる。
 女性隊員の初参加は、1名が1987年(昭和62年)の第29次隊の夏隊に、2名が1997年(平成9年)の第39次隊の冬隊に参加し、女性隊員初の越冬となる。その後も女性隊員は数名ずつ参加し、最多7名が2006年(平成18年)の第48次隊に参加した。ただし、昭和基地の医療体制で妊娠・出産等が考慮されていないことから、妊婦は隊員になることはできない。下写真:昭和基地。国立極地研究所より

犬ぞり犬タロ・ジロ=1958年(昭和33年)2月、第2次越冬隊は悪天候のため昭和基地への上陸を断念せざるを得ず、滞在中であった第1次越冬隊は小型飛行機で宗谷へ撤退した。このとき第2次越冬隊と対面するはずの15頭の樺太犬が鎖に繋がれたまま基地に取り残された。翌1959年(昭和34年)1月に第3次越冬隊は15頭のうち、兄弟犬「タロ」と「ジロ」が生存しているのを発見、再会した。他の13頭は行方不明または鎖に繋がれたまま餓死した状態で発見された。
 右写真:国立科学博物館展示の、樺太犬「ジロ」の剥製。
 なお、1991年「環境保護に関する南極条約議定書」の規定に伴い、そり犬を含め、一切の動物の南極への渡航が禁止され、南極越冬隊の交通手段も犬ぞりからスノーモービル等に主力が移行した結果、21世紀に入る前にはその全ての動物達は日本に帰国した。そのため一切の越冬犬を含めた越冬動物は存在しない。ゴキブリもノミも蚊もいない。  

ホラ吹き(ほらふき);大言をする人。でたらめを言う人。

予防注射(よぼうちゅうしゃ);下記のように、赤痢に疫痢に天然痘、風邪、風疹、盲腸炎などの予防接種はしない。基地には病院も有り、医者も常駐していて簡単な内科的な病気であったら対応が出来るが、一番の病気は怪我による事が多い。隊員も傷口の縫合は出来るように訓練されています。

赤痢に疫痢に天然痘;赤痢に疫痢=法定伝染病の一。赤痢菌が飲食物を介し経口的に感染することによって発する急性の大腸の疾患。春から夏に多く、潜伏期は2~4日。左下腹部に圧痛を感じ、連続的に便意を催し、主に粘液質の血便を漏らす。幼児の急激な赤痢を疫痢と呼ぶ。また、アメーバ赤痢と区別して細菌性赤痢という。
天然痘=法定伝染病の一。痘瘡(とうそう)ウイルスが病原体で気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、あとに痘痕(アバタ)を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘によって予防でき、1980年WHOにより絶滅宣言が出された。疱瘡。

風邪(かぜ);南極には風邪の病原体がいないため、隊員達はどんなに寒くても風邪をひかない。また、病原体や病原菌を外部から持ち込まないよう、隊員達は日本出発前に、風邪はもちろん水虫や虫歯に至るまで完全に治療しなければならない。 なので、予防注射の必要性はない。

風疹(ふうしん);風疹ウイルスによる発疹性の急性皮膚伝染病。小円形淡紅色の発疹が顔面・頭部に、次いで体に生じ、発熱・リンパ節腫脹を伴い、2~3日で治癒する。多く小児に発し、終生免疫を得る。三日はしか。これも、予防注射はしない。

盲腸炎(もうちょうえん);虫垂炎(チユウスイエン)に付随して起る盲腸の炎症。虫垂炎の誤称。これも予防注射で抑えられる物では無いので、予防注射はない。

しらせ;南極観測船は、宗谷(1956-62)-ふじ(1965-83)-しらせ(初代)(1983-2008)-オーロラ・オーストラリス(代替船)-しらせ(2代)(2009-)海鷹丸(随伴船)と、順次新しい装備の砕氷船に代替わりしている。

 左から、宗谷。ふじ。しらせ(2代目) 「日本の船・汽船編」山田迪生著

 初代しらせ=現在の気象観測船SHIRASE。 艦番号AGB-5002。南極地域観測隊の南極観測の任務に専用利用されていた。自衛艦としては初めての基準排水量1万トン越えであり昭和時代に建造された自衛艦としては最も大きかった。この落語が出来た頃は、この初代が舞台であった。
 性能・要目=基準排水量 11,600t。 満載排水量 18,900t。 全長 134.0m。 最大幅 28.0m。 吃水 9.2m。 機関 ディーゼル・エレクトリック方式。 主機 ・ディーゼルエンジン×6基 ・主電動機×6基。 出力 30,000PS。 推進器 スクリュープロペラ×3軸。 速力 19ノット。 航続距離 25,000海里(15ノット)。 乗員 170名 / 隊員60名。 搭載能力 ・食料 5t ・燃料350t ・その他600t。 搭載機 ヘリコプター×3機。
 3ノットで1.5m厚の氷を連続砕氷できる能力を持っている砕氷艦でもあり、乗員もすべて海上自衛官である。所有は文部科学省の国立極地研究所、所属は横須賀地方隊、母港は横須賀であった。 艦の後部にはヘリコプター甲板を有する砕氷艦の特徴である幅のある艦体であり、1本煙突。氷海での監視用に、マスト上に見張りポストがある。貨物積み下ろし用のクレーンを前甲板に2基、後部に2基装備している。艦体後部にヘリコプター甲板と格納庫を備えたヘリコプター搭載大型艦で、第二次越冬隊の「タロとジロの悲劇」を反省して、先代観測船ふじから引き継いだ輸送用のS-61A-1 2機と小型偵察ヘリコプターベル47G 1機が「宗谷」「ふじ」に引き続き「しらせ」にも搭載されていた。
 氷海を航行するので通常の艦船にある、ビルジキール(ローリング(横揺れ)を抑制して安定した航走をするためのフィンで、船底の両側面に装備する)が装備されていない。そのため、外洋航行時、特に時化ている時などは、通常の艦船に比べて揺れが激しくなると言う欠点があり、乗組員の海上自衛官はまだしも、船慣れしていない観測隊員などはひどい船酔いに悩まされることもしばしばだったという。2001年の航海では暴風圏を通過中、左に53度、右に41度傾いたことを傾斜計が記録した。これは今でも海上自衛隊の動揺記録として残っている。
 引退した後は、2009年に国より購入し日本の気象情報サービス会社「ウェザーニューズ」社が運用する気象観測船になっています。 下写真:初代しらせ。「日本の船・汽船編」山田迪生著

 2代目しらせ性能・要目=基準排水量 12,650t。 満載排水量 22,000t。 全長 138.0m / 水線間長 126.0m。 最大幅 28.0m。 吃水 9.2m。 機関 統合電気推進方式 主機 ・ディーゼルエンジン×4基 ・主電動機×4基。 出力 30,000PS。 推進器 スクリュープロペラ×2軸。 速力 19.5ノット。 乗員 179名 / 隊員80名。 搭載能力 輸送物資約1,100t。搭載機(ヘリコプター)大型機 ・CH-101×2機、 小型機・AS355×1機。 建造費 376億円。

実況放送(じっきょうほうそう);越冬隊は出発の翌々年に帰還することになる。出港と帰港はテレビのニュース報道で紹介されることも多い。南極は(南半球のため)1月が夏で、比較的接近が容易であるため、この時期に隊の入れ替えが行われる。第1次隊から交代の季節はほとんど変化していない。

日本列島(にほんれっとう);北海道・本州・四国・九州および付属島々から成る列島。アジア大陸の東縁に沿って弧状をなす。地形学的には、千島弧・東北日本弧・西南日本弧・伊豆マリアナ弧・琉球弧などを広く併せていう。
 気象衛星で日本を俯瞰すると、全体を見る事が出来ますが、水平位置の海からではやはり無理のようです。

太平洋(たいへいよう);(Pacific Ocean) (マゼランが1520~21年に初めて横断した時に無風平穏だったため名づけた) 三大洋の一。アジア大陸の東、南北アメリカ大陸の西にあり、世界海洋の半ばを占める大洋。面積約1億6520万平方km。平均深度4282m。最大深度1万911m(マリアナ海溝中のチャレンジャー海淵)。

鯨、鰯、秋刀魚、金魚、メダカ、ナマズ・・・;航海中に見たという魚たちです。クジラ、イワシ、サンマは海洋性の動物、魚達ですから見たのでしょう。金魚、メダカ、ナマズは淡水の魚ですから・・・、落語のジョークです。

赤道祭り(せきどうまつり);帆船の大型化と天測航法の発達により外洋でも正確な位置を特定できるようになり、ヨーロッパから南半球への航海も可能となったが、赤道付近では北東貿易風と南東貿易風の間にある熱帯収束帯(赤道無風帯)は風が弱くスコールが発生しやすいなど木造帆船にとっては難所であった。このため船乗り達は赤道を通過する際に安全を祈願する儀式を行うようになったとされる。
 海上自衛隊では練習艦隊の遠洋練習航海や南極観測船などで行われる。かつて安全を祈願する行事となっていた。現代では飲酒は厳禁となっているが、訓練は休みとなり余興を楽しむ日となっている。

赤道(せきどう);自転する天体の重心を通り、天体の自転軸に垂直な平面が天体表面を切断する、理論上の線。緯度の基準の一つであり、緯度0度を示す。緯線の中で唯一の大円である。赤道より北を北半球、南を南半球という。
 赤道の全周長は約40,075km。春分と秋分の年2回、太陽が真上にくる。 赤道は世界で唯一、太陽が天頂から天底までまっすぐに沈む場所である。そしてそのような場所は理論上、昼の長さと夜の長さが、共に一年を通じて12時間である。しかし実際は大気が太陽光を屈折させるので、2、3分のずれが出る。

暴風圏(ぼうふうけん);南極海の上空では、南緯60度付近に亜寒帯低圧帯が形成される。一方、南極大陸上空では氷床によって空気が冷やされるために極高圧帯が形成され、ここから強烈な寒気が北の亜寒帯低圧帯に向かって吹き込む。さらに南極海には北半球と違ってこの風を和らげるような巨大な陸地が存在しないため、南極海北部は絶叫する60度と呼ばれるほどの猛烈な嵐に見舞われることが多い。なお、この寒気は南極海以北にも影響を与え、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を作り出す。

 極地の海氷地帯以外での航海では、砕氷船はよく揺れる。普通の船は船底が尖っていて揺れを防いでいるが、砕氷船の底は氷海を航海しやすいように丸く平らになっているからだ。減揺タンクの中のオイルは、船の揺れを押さえるように動くのだが、暴風圏ではあまり役立たない。なので、船酔いに悩まされる。

雨と坊主は合わない;花札のゲーム「こいこい」で、全ての絵札5枚を集めると『五光』と言って、10点の得点になります。上記の札4枚で『四光』と言って8点の得点になりますが、雨札が入った4枚では得点が下がって7点にしかなりません。『三光』では、雨が入らない絵札3枚を集めますが、雨が入っていると成立しません。得点はローカルルールで変化しますので、その場その場で確認しましょう。
 雨は五光以外では嫌われますから、坊主(月にススキ)だけではないが、合いません。知らなくてもいい話ですが・・・。

ペンギン鳥;主に南半球に生息する海鳥であり、飛ぶことができない。多くの鳥類は陸上では、胴体を前後に倒し首を起こす姿勢をとるが、ペンギン類は胴体を垂直に立てる。鳥類の多くが飛翔に使う翼は特殊化し、ひれ状の「フリッパー」と化していて飛翔能力を失い水中の遊泳にのみ使われる。首が短く、他の鳥類とは一線を画す独特の体型をしている。 世間一般では「脚が短い」と思われているが、実際には体内の皮下脂肪の内側で脚を屈折している。関節はこの状態のまま固定されているので、脚を伸ばすことはできない。体外から出ているのは足首から下の部分だけである。成鳥ではほとんど脂肪に隠されており表面上見えないが、生後まもなくの脂肪の少ないペンギンではその骨格がはっきりと見てとれる。

白夜(びゃくや);白夜になると、太陽が一日中沈まなくなるため、24時間いつでも明るいのです。地球の軸は少し傾いており、南極は夏(日本の冬)の期間ずっと太陽に照らされています。「しらせ」は、オーストラリア・フリーマントル出航後ずっと南進して南極に近づいてきたので、日を追うごとに日照時間が増え、ついに「白夜」となりました。これから2月中旬まで、夜がない生活が続きます。夜になっても太陽が沈まない非日常的な生活の中で、まずは体調を崩さないように健康管理を・・・。食事も3食なので、腹が空くこともありません。
 逆に、一日中夜になることも有りこれを「極夜」と言います。星空やオーロラが綺麗に見られます。

ライオン;シシ(獅子)。オスは体重は250kgを超えることもあり、ネコ科ではトラに次いで2番目に大きな種である。現在の主な生息地はアフリカであり、インドのジル国立公園のインドライオンは絶滅が危惧されている。
 世界的に百獣の王として有名であり、一般的に最も強い動物であると思われている。オスの外見はたてがみが非常に特徴的であり、容易に認識できる。オスの容貌はあらゆる文化のなかで動物そのもののシンボルとしてもっとも広まっているものの一つであり、実際に全ての動物の中で国獣として選ばれる数はライオンが最も多い。ライオンは後期旧石器時代から描かれており、古くはラスコー洞窟やショーヴェ洞窟の洞窟画などがある。彫刻や絵画、国旗をはじめ、現代の映画や文学などでも広く扱われている。 また、落語「南極探検」にも出てくる。

副将軍水戸光圀公(ふくしょうぐん みとみつくにこう);水戸光圀(1628ー1700年)は初代水戸藩主·徳川頼房(よりふさ)の三男に生まれました。 頼房は徳川家康の十一男なので、水戸光圀から見て、徳川家康は祖父に当たります。 光圀の母、久子は身分が低く側室にもなれませんでした。 久子が光圀を身ごもった時は、父の頼房は堕胎するように命令します。 なんとか光圀は生まれてきますが、幼少の頃は家臣の家で育てられます。 そこから自らの境遇に発奮して勉学に励んだといいます。 そして将軍・徳川家光に気に入られ、水戸藩を相続すると幸運に恵まれ、徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主をつとめました。
 格さんが印籠を手に「ここにおわすは天下の副将軍、水戸光圀公なるぞ」と言い放つおなじみのシーンがありますが、この「副将軍」という職名は室町時代にはあったものの、江戸時代にはありませんでした。 ドラマを作る上で「徳川光圀=天下の副将軍」としたのでしょう。
 落語「雁風呂」に光圀のことを説明しています。

葵の紋所(あおいのもんどころ);「この紋所が目に入らぬか!」、テレビドラマ「水戸黄門」の決め台詞です。この台詞は、「葵の御紋」が将軍徳川家、御両典(甲府・館林)、御三家(尾州・紀州・水戸)、御三卿(田安・一橋・清水)、および親藩である松平家しか使う事の出来ない神聖な紋章であると言う、歴史的認識の上に成り立っている台詞です。しかし、一口に「葵の御紋」と言っても、将軍本家と、御両典、御三家、御三卿、親藩では、微妙に違うのです。葉脈の数や太さが違ったり、葉の巻き方が逆だったり、葵の葉を〇で囲んだ紋があれば、葵の葉を亀甲(六角形)で囲んだ紋もあり、確認されているだけで、十数種類の「葵の御紋」が存在するのです。そして、この「葵の御紋」が徳川一族の独占となったのは、江戸時代も中期に入ってからで、それ以前はかなり自由に使う事が出来たのです。ところが、十八世紀の初め、三葉葵の紋服を着て、詐欺を行う者が続出したため、時の八代将軍・吉宗公の命で、葵の御紋の使用が厳しく制限されるようになったのです。つまり、水戸黄門(徳川光圀)の時代は、まだ、葵の御紋の使用制限が厳しくなる前で、残念ながら、葵の御紋の描かれた印籠を見せても、誰もへへーっとひれ伏す事はなかったのです。平伏したのはライオンだけです。



                                                            2019年7月記

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