落語「年枝の怪談」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵(彦六)の噺、「年枝の怪談」(ねんしのかいだん)より


 

 横浜が開けまして、寄席が出来るような賑わいになりました。二代目春風亭柳枝は横浜に一座を引き連れて神奈川と掛け持ちをしています。若手の年枝と交互に出演していますが、神奈川で終わった後で、年枝は宿で按摩を取りました。この按摩が年枝にことごとくに逆らう。「師匠は上手いが、若手さんは言葉を並べているんですな~」、ムカッとしていたが柔術の話になって初段だというと二段だという。では、絞め技をかけっこしようと、「落ちた方が負けですよ」、と、年枝が絞めたら按摩はクタッとなって死んでしまった。死体は蚊帳に包んで戸棚に放り込んだ。
 師匠に話をすると自首をして、後は良い法律の先生を付けるという。「自首をしなさい」、「自首をしたいが、按摩が『若手さんは言葉を並べているんですな』と言った。確かにその通り。私は人気におぼれていい話をしたことがない。これから各地を回って心底から噺をして、その時に捕まったらジタバタしません。お許しを下さい」。

 このまま、年枝は姿を消してしまいました。その時分ですから警察の手が伸びなかった。演芸の盛んな名古屋に着いて、人にも認められるようになった。ここから金沢に興行に出た。人気があがって夏まで興行は続いた。

 年枝は円朝の”真景累ガ淵・宗悦の長屋”を演じた。「根津七軒町に住む五十六七になる鍼医(はりい)・皆川宗悦が・・・」。(この噺を正蔵は延々と劇中劇のように丁寧に演じる)

 演じている最中に客席から声高に笑った者がいる。按摩を斬り殺すところで、笑うところではない。客席を見ると神奈川で殺した按摩さんだった。「お客さんには帰ってもらいました」、「もう大丈夫だ。夏の暑さと、呑み過ぎでクラクラとしたんだ。心配なら皆で宿まで行こうよ」。
 布団に入って考えた。「なんで、神奈川の按摩さんが加賀の金沢の寄席にいるんだ。これは神経病だ」と自分に言い聞かせて寝た。
 翌日、続きの噺をしたら受けた。受けたときの芸人は嬉しいものです。その心持ちで宿に帰ってきた。先客がいるが汗をかいているので湯殿に出掛けた。その先客は神奈川の按摩さん。年枝は倒れてしまったが、親切な人が山のお寺さんで心を休ました方が良いと勧めてくれた。
 寺に行ってみると、朝早くからお坊さん全員で勤行。それを見て、神奈川の按摩さんの菩提を弔う方が先だと頭を丸めてお経も覚えた。一通りの礼拝が出来ると、このお寺さんの別院が新潟にございまして、住職がいなくなったので留守番兼住職となって住まうことになった。

 ある日のこと、町に買い物に行くと、”東京落語 春風亭柳枝”のビラが下がっていた。師匠に会えると思うとうれしさがこみ上げてきた。物堅い田舎では坊さんが寄席に行くのは都合が悪いと、寝静まったときに小屋を訪ねた。弟子達を客席の方に追い出して師匠と二人で話をした。
 「そうかぃ、按摩さんのために頭を丸めたのかぃ。ところで、あの按摩さん生きているよッ」、「えッぇ、何ですってッ」、「生きているよ。可愛い弟子のためだ、人をやって宿で聞いてみると、朝になると戸棚から出て来たとよ。『お客さんと呑んで、ここで寝てしまった』と頭をかきながら出て来たとよ。それが分かったので、お前を探したが、どうしても行方が分からない。按摩は生きているんだよ」、「へ~。それはようございました」、「お前も嬉しいかぃ。弟子は育てるのが大変なんだ。こうなったら、還俗して噺家に戻りなさい。金沢の住職には人をやるか、自分が行って話をする。皆と一緒に帰りなさい。皆もこっちに来て、お目出度いので、残りの酒で一杯やって手締めをしよう」、「待って下さい。絞めるのは懲り懲りです」。

 



ことば

初代春風亭年枝(しゅんぷうてい ねんし);(1843年(天保14年)2月 - 1901年(明治34年)4月11日)本名は村岡 唯吉。享年五十九。相州鎌倉村岡神社の宮司の子として生まれ、幼少のころに江戸に出て紺屋に丁稚奉公し、18歳の1860年ころに二代目七昇亭花山文の門に入り花玉の名で初舞台を踏んだ。その後明治3年28歳の頃、初代五明楼松玉門に転じ松橋と改名。さらに三代目春風亭柳枝の門で年枝を名乗った。明治元年で25歳になっています。
  芸は前座時代には前受けする手品を演じた、一時期地方巡業では手品で廻ったほどで初代帰天斎正一に手品の手ほどきをしたほどだという。真打昇進後は軽い小噺を演じた後『独俄阿呆陀羅経』を演じ人気を取った。または『丑の時参り』、『陣屋鏡山』などの一人茶番なども演じた。それに『滑稽演説』と称し大太鼓のバチ2本を両脇の帯にさして、その上に大風呂敷を掛けテーブルに見立て、弁士に扮して笑わせるなど明治の時節に対応する感性を持っていた。また操り獅子、一人俄なども得意とした。 当代年枝、初代松柳亭鶴枝、柳亭朝枝(大池清八)と並んで『柳派の三枝』といわもてはやされた。
 三代目柳家小さんの売り出すとき、年枝が陰になり日向になって引き立てたという。小さんはその恩義を生涯忘れずに年枝に尽くしたという美談も残っている。 俗に「クシャクシャ年枝」や「御神酒徳利年枝」といわれ人気があった。御神酒徳利を実践したのか徳利コレクターでもあり趣味人でもあった。 1901年4月11日死去。
 八代目林家正蔵(林家彦六)の新作落語「年枝の怪談」はこの初代がモデルとされる。
ウイキペディアより

師匠の二代目春風亭 柳枝(しゅんぷうてい りゅうし);正蔵の噺では師匠だというが・・・。(文政5年(1822年)(逆算) - 明治7年(1874年10月12日)。本名不詳。俳名を箕森庵二柳。 弘化時代に初代柳枝の門で春風亭栄枝という、一旦廃業したが、文久初年(または文久2年)に師匠柳枝がトリを勤めていた吾妻橋際の東橋亭に出演し、その時に名も春風亭柳朝と改めている。明治元年に二代目春風亭柳枝を襲名する。 俳人としても秀でており安政の大地震が起きた時も
 『早冬になるや桂の割るゝ音』、
 『埋火をかきならしては独り言』と即詠している。
 辞世の句は『今さめる酒が真言の月の雨』。戒名は全柳院量枝居士。墓所は小梅の常泉寺に葬られた。墓石には「紅林」の文字が刻まれているが姓か屋号か定かでない。 門下に二代目春風亭柳朝、生人形(百面相)の初代松柳亭鶴枝らがいた。
 正蔵は噺の中で二代目と言っていますが、三代目の間違いでしょう。二代目は横浜の隆盛を見ずに明治7年に亡くなっています。

師匠の三代目春風亭 柳枝(しゅんぷうてい りゅうし);ウイキペディアによると師匠だという。(嘉永5年9月23日(1852年11月4日) - 明治33年(1900年)11月14日)。本名:鈴木 文吉。俗に当時の住まいと大酒飲みだったことから「蔵前の柳枝」「蔵前の大虎」。 一時期妻は四代目都々逸坊扇歌(志沢たけ)。 出身は東京、父は幼いころに亡くなっている。1871年5月、柳亭燕枝(後の初代談洲楼燕枝)の門下で燕花、明治5年ころに二代目柳亭燕寿となりその後1873年に真打で初代柳亭燕路となり1878年に三代目柳枝の看板を挙げた。 長年柳派の頭取を務めたが四代目麗々亭柳橋に譲ったが、まもなく柳橋が1900年7月に腸胃病で体調を崩し引退。翌月病死。仕方なくまた頭取に戻ったがその直後に自身も死去した。
 「大変まずかったという話です」と六代目三遊亭圓生は『寄席育ち』の中で酷評しているが、講談の初代伊藤痴遊は『痴遊随筆』に「話は巧かったが、客受けはしなかった。自分も、身を泌みて、高座を勤めるようなことはせず、楽屋で酒を呑んで、そのまま帰ることもあった」と記している。 人望があり、師の燕枝が晩年弟子を取らなかったので、柳枝が全部引き受け多くの俊才を擁した。
 エピソード: 日清戦争の時期に、神田の寄席「白梅」で出演者が少なくて困っていたら、泥酔した柳枝が「柳枝が今日はするから、聞いてください」と申し出、そのまま人情噺の『文七元結』をたっぷりと演じて客を感動させたが、当の柳枝はそのまま高座で寝てしまった。痴遊は「平生は拙いが、今夜はどうして巧かったろう、というのが、聞いた人の皆いう所であった。・・・不思議の一つとして、当分のうちは其噂ばかりであった」と記している。
ウイキペディアより

真景累ケ淵・宗悦の長屋(しんけいかさねがふち そうえつのながや);落語「真景累ケ淵・宗悦の長屋」で、詳しく解説しています。大真打ちと言われた三遊亭圓朝の創作『真景累ケ淵』は、旗本が金貸しで鍼医の皆川宗悦を切り殺したことを発端に両者の子孫が次々と不幸に陥っていく話と、後半名主の妻への横恋慕を発端とする敵討ちの話を組み合わせています。全97章から成る長編怪談。全編通しで演じると一ヶ月以上かかります。安政6年(1859)の作で21歳円朝の処女作と言われています。当初の演目は「累ヶ淵後日の怪談」。明治20年(1887)から21年にかけて、小相英太郎による速記録がやまと新聞に掲載。題名も「真景累ケ淵」とし明治21年に単行本が出版された。真景=神経を掛けています。
 右図;「三遊亭圓朝像」鏑木清方画(重要文化財) 東京国立近代美術館蔵

 序の幕開けは、
 【宗悦の長屋】で真景累ケ淵の発端の噺。
 2月20日朝から雪が降りそうな天気であった。娘が引き留めるのを、小日向服部坂に住む小普請組・深見新左衛門宅へ借金の取り立てに行った。新左衛門は酒が切れない飲み方で、その上酒癖が悪かった。貧乏していて、すり切れた畳の上で一杯やっていた。3年越しのお金だから日を切って返済の目処を立てて欲しいとの要求に、払えないの一点張り。お互い言葉が先走り、「殺すなら殺してみなさい」、その気は無かったが、大刀を引き抜き宗悦を斬り殺ろしてしまった。死体を葛籠に詰めて下男に捨てにやらした。
 
 【宗悦殺し】年が変わって、深見の奥方は宗悦の死から体調優れず、深川網打場からお熊を仲働きに採用。お熊に手が着いて妾状態で懐妊。深見の妻が鍼治療アトが悪化、12月20日久しぶりに来た按摩が、治療中宗悦の姿に見えた。思わず斬りつけると妻だった。按摩は何処にも居なかった。 深見は刀を抜いて隣家に乱入、その騒動で殺され、家は改易。お熊は産んだ子と深川へ。門番の勘蔵は深見の二歳になる次男新吉を連れて下谷大門町へ散った。

横浜市(よこはまし);関東地方南部、神奈川県の東部に位置する同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ374万人であり、1府37県の人口を上回る。人口集中地区人口は東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区の全域と港南区の一部)。
 右写真:横浜開港記念館。
 1859年、横浜港が開港する。関内地区(旧・横浜村)を居留地として外国人で栄え、横浜市の市名のもととなった。 戦前は絹の貿易で栄え、多くの外国商社が軒を連ねていた。本町通りの一本南側にある「シルク通り」は、その名残。英国総領事館やフランス領事館も中区に置かれていた。 航空機が移動手段の主流になる以前は、貨客船などで海外に出る移民の多くがこの地を訪れており、移民乗船の斡旋と宿泊業を行う外航旅館(移民宿)が多かった。また、山手にはかつてイギリス軍やフランス軍が駐屯していた。第二次世界大戦後は中区内の大半が米軍に接収され、復興に大きな支障を来したが、1970年代から1980年代にかけて主な接収は解除となった。
 現在、寄席は無いが、桜木町駅近くに「横浜にぎわい座」が有ります。

神奈川(かながわ);横浜市を構成する18区のうちのひとつ。横浜市で初めにできた区の一つで、9番目に大きい区です。 東海道の宿場町、「神奈川宿」から県名も区名も取られた。旧東海道沿いには寺社や旧跡が多く点在し、往時をしのばせる。
 落語「宿屋の仇討ち」で紹介しています。
 旧東海道の神奈川は、江戸日本橋から三番目の宿駅で、日本橋からは七里ほどの距離。中世以来の湊として栄えた神奈川湊(袖ヶ浦)のそばにあり、水陸交通の要衝として役割を果たしていました。現在の台町あたりはかつて袖ヶ浦を見おろす景勝地で、本牧や房総を眺望することができましたが、今は海も埋め立てられて眺望は良くありません。横浜開港に関わった宿場であり、開港後に宿内にある寺院が諸外国の領事館にあてられました。当時の神奈川宿は、東海道に沿って町並みが続き、宿の中心を流れる瀧の川(現在の滝野川)を境に神奈川町(東側)と青木町(西側)とに分かれていました。神奈川町には将軍の宿泊施設である御殿(神奈川御殿)が置かれ、東海道有数の宿場として栄えました。
 しかし、埋め立てられた横浜に開港をさせたので、賑わいの中心は横浜に移ってしまった。
 「東海道五十三次の内神奈川」 広重画 台町の茶屋風景。 現在も何軒かの茶屋が残っています。左側の海は埋め立てられて広大な横浜の市街になってしまった。

按摩(あんま);身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする療法。もみりょうじ。マッサージ。また、それを業とする人。(あんまが盲人の業だったことから) 俗に、盲人。
 右図:日本国語大辞典より按摩の図。

柔術(じゅうじゅつ);日本独特の武道の一。武器を使用せず、相手の攻撃力に順応して相手を投げ倒し、または抑え、もしくは当て身などの攻撃・防御の技を行い、同時に身体の鍛錬と精神修養とを目的とする術。その起源は相撲とともに極めて古く、流派の生じたのは戦国時代で、柔術・やわらと総称され、江戸時代、武士階級の武道の一として盛んになった。明治に入って嘉納治五郎により、各流派を統合して講道館柔道が大成され、第二次大戦後にはスポーツとして世界的に普及。オリンピックの種目にも選ばれている。

絞め技(しめわざ);柔道で相手の首を絞める技。送り襟絞め・裸絞めなど。絞め技で失神することを落ちるという。 頚動脈洞を圧迫されて失神した者は絞めるのを止めるとすぐに脳への血流が再開するため問題はないが、気管を圧迫されて失神した者は放置しておくと危険なため、直ぐに蘇生のため応急処置が必要である。絞め技も関節技や投げ技と同じく独特に高度に洗練された技術である。実戦で有効なものにするためには、かなりの稽古量を必要とする。

神経病(しんけいびょう);19世紀以前において、脳や体に何も異常がないのに精神(神経)が冒されたようになる状態をそう呼んでいた。神経症にあたるドイツ語はノイローゼ(Neurose)であり、日本でも神経症の意味で使うこともある。ただし、一般の人が「ノイローゼ」と言う場合はもっと広い意味に使われる傾向が強いので注意が必要である。例えば「気分が落ち込んだ」とか「あることに悩んでばかりいる」状態をこの言葉で表現する。

菩提を弔う(ぼだいをとむらう);死者の冥福 (めいふく) を祈って供養を行う。

別院(べついん);本寺のほかに別に建てられた本寺所属の支院。

新潟(にいがた);新潟県中部の市。県庁所在地。信濃川河口に位する港湾都市で、寛文 (1661~1673)年間に河村瑞軒により西廻り航路の寄港地と定められて以来発展、1858年(安政5)の日米修好通商条約により日本海沿岸唯一の開港場となった。天然ガスを産し、化学・機械工業が盛ん。人口48万3千。
 右写真:新潟の名物「たらい船」。

小屋を訪ね(こやをたずね);地方巡業で宿代などを倹約し、宿に泊まらず公演している小屋(演芸場)で宿泊すること。そこに年枝は師匠を訪ねて行った。

還俗(げんぞく);一度、出家したものが、再び俗人にかえること。復飾。法師がえり。
 僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名を存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。明治時代初頭には神仏分離に端を発する廃仏毀釈により、全国で神宮寺の社僧などが還俗した。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、宮家を継承することもあった。特に幕末維新期にはその数は増えていった。



                                                            2019年7月記

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