落語「利根の渡し」の舞台を行く
   

 

 林家正蔵(彦六)の噺、「利根の渡し」(とねのわたし)より


 

 坂東太郎と異名がある利根川。奥州・日光街道の栗橋は関所もありました。江戸から行くと房川の渡しで利根川を古河に渡ります。渡し場近くに一人の盲人が立っています。享保の初年のお話です。

 盲人が立っていたって不思議はありませんが、毎日同じ場所に立っている。渡船客が乗り降りするときに必死になって、「もし、この中に野村彦右衛門さんはいらっしゃいませんか」、一日中探していますがしまい船が出ると、帰って行きます。平助船頭は船着き場の小屋に住んでいます。平助だけは盲人に挨拶もし親切にしてやります。遠くから来るようなので、寝泊まりしている小屋に一緒に泊まったらと勧め、得体の知れない盲人と寝起きを共にするようになった。別段変わったこともなく暮らしています。平助は1合酒が毎晩の楽しみで、ぐっすり寝入ってしまいますが、その晩は目が覚めたら、盲人が針を砥いていた。盲人は気配を感じて針を仕舞ってしまった。寝付くとこの盲人に針で刺される夢を見てうなされたが、盲人がすり寄って介抱してくれた。「大変な奴と一緒に寝ることになったよ」と恐くなってきたと、後悔にも似た気になってきた。

 秋の宵で雨が強く、前の道まで川水が押し寄せ、打ち上げられた”鱸(スズキ)”が小屋の前で跳ねているが、平助を寄せ付けない。そこに盲人が現れ静かになった魚を、平助に頼み抱えて小屋に入って見ると、目の玉から目の玉に針が通っている。それ以来盲人を尊敬するように大事にした。

 年が変わって春になりましたが、按摩は風邪をこじらせ身体を弱めた。古河に行って薬を買い与えたが良くならなかった。でも毎日止めるのも聞かず杖を頼りに船着き場に通ったが、寝たきりになってしまった。「お願いがありますが、毎日魚を一匹づつ食べさせてください」と言って、小判五枚を差し出した。「残ったお金は、今までの食費に替えてください」、魚を渡すと、針で眼をいつぶして、食べても良いと言うが怨念のこもった魚など食べられないので利根川に流した。2年になるが食費に5両はビックリした。
 春の彼岸が近づいたが、いっこうに寒さは消えなかったし、雪も降ってきた。「もう命はないものと思っています。誰にも言ったことが無いのですが聞いて下さい」、「あぁ、聞くよ」、「私は治平と申しまして二十二の時、奥州で野村彦右衛門さまの元で奉公しておりました。彦右衛門さまは、二十七で腕前も出来る利発なお方です。奥様は”お徳”様と言って二十二、派手作りで器量良しです。大雪が降って雪の片付けていると『雪は降っているので片付けはキリがないから、こちらに入ってあたんなさい』と言ってくれた。私は奥方に懸想をし恋慕をしていた。炬燵が出来ていた奥方の部屋へ入ると・・・」、「この按摩さんに、こんな艶っぽい事があるのか」、「胸に秘めていたことを奥方さんに告げると、黙って私の顔を見ていました。ここだと思ったから奥方さんのお手にすがったら、『あれ~ッ』と言われ、みなが出て来て縛られ、松の木に結わかれてしまいました。旦那様がお帰りになると『なんて不埒な奴だ。目が見えるから懸想する』と言って、小柄で私の両眼を突いたのです」、突かれた両眼を押さえて泣いている治平を見て、自分まで痛くなってしまった。「それで、親類に助けられ療治をして、宇都宮に出て按摩の修行をしました。それから江戸に出て針の修行をしました。
 忘れられないのが野村彦右衛門殿、ひと思いで殺してくれるなら良いが、盲を作って無慈悲な方だ。逆しま事ではございましょうが、仇を討ちたいと決心しました。相手は腕の立つお人、針で急所を突くことを考え、一心に稽古をしまして、落ちる松葉を刺し通すまでになりました。用事で江戸に出ることがあるので、その時にと思いましたが、未だ適わず、寝る身になってしまいました。これも因縁でしょうが、あなた様にはお礼をします」。疲れたものか、横になって寝てしまった。平助も寝た。

 翌朝、治平を見ると、針を急所にひと突き、眠るように安らかに息を引き取っていました。仲間の船頭に祠堂金として5両で葬ってやった。
 治平が土手に立ってから11年経ちました。8月中霧雨のようで天気が優れなかった。水かさが増して洪水になった。その為、田地田畑は流されて平助の小屋も流されてしまった。当然、船止めになった。
 9月になると雨も止んで船止めも解除になると、古河と栗橋に溜まっていた客が一斉に乗ることになる。古河から出た船が「そんなに乗せたら危ないよ」と言っている間に横波を食らって沈んでしまった。船頭仲間や近隣の若者が飛び込み土手に引き上げた。全員助かったと思ったら一人だけ、四十七八になりますお侍だけが息を吹き返さない。二人の家来が着いていて、死んだのは野村彦右衛門と言って6年前から眼病を患っていて、今では盲目同様。殿様の許しを得て江戸の名医に行くところで、旅の途中ですから、火葬にして帰ることになったが、家来が言うには「水練が達者な人なのに・・・」と不思議そうに話をしている。平助爺さんは不思議な気持ちでいた。「この方には奥方がいらっしゃいますか」、「訳あって、離縁されています」、どうしてとは聞きかねている。この武士が眼病になったのが6年前、治平が亡くなったのが同じ6年前、考えたら平助はゾッとしました。

 この事件が片づくと治平の墓に秋草を手向けた。

 



ことば

前編;逆恨みによって両目を潰されてしまった男が復讐の機会を待ち続ける恐怖の怪談物語。
 奥州のある城下町。足軽の娘・お徳を後添えにもらった野村彦右衛門は、法事でも妻を家の外に出さない暴君亭主。ある日のこと、お徳を強姦しようとした彦右衛門の弟・政治郎は、下男の治平に邪魔されたことに腹を立て、二人が不義密通を働いていると彦右衛門にウソの報告。怒り狂った彦右衛門の手によって治平は両目を潰され、お徳は斬り殺ろされてしまう。その後、生き残った治平はお徳の死体にとりすがり彦右衛門と政治郎への復讐を誓い、その七年後下総利根の渡しに現れる…。治平=座頭。

 座頭が死んだ後の、霖雨立ち込めるある日。 ついに主人であった侍が利根の渡しにやってきた。 侍はなぜか、目を患い、医師にかかる為、利根川を渡ろうとしていたのだ。 船の上で、死んだ座頭の復讐が始まる。 悲鳴をあげる侍。 座頭だ、あの座頭が復讐している。 彼が待っていたのを知っている船頭も、他の客もみな、恐怖に身を低くし、目を閉じていた。 やがて、霖雨はやんだ。 侍の姿はなかった。 目玉の真ん中を貫かれたフナの姿を思い出す。 利根川は何事も無かったように静かになり、船は利根を渡って行った。
(正蔵の噺は脚色されていて、チョット違います)

岡本綺堂(おかもときどう);「利根の渡し」の原作者。岡本綺堂は、1872年、東京高輪に生まれ。 綺堂は、幼いころから歌舞伎に親しみ、また、イギリス公使館員だった父の影響で早くから英語も学んでいました。 イギリス公館員に教わったという本場の英語です。やがて綺堂は、18歳で新聞社に入社し、以後24年間を新聞記者として過ごし、その間に、歌舞伎好きの彼はたくさんの戯曲を書いた。 そして、1911年に書いた台本「修善寺物語」が大変な人気を呼び、執筆活動に専念するようになりました。その数年後、英語の原作で、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズを読破した綺堂は、すっかりそのとりこになって、自らも推理小説を書くようになりました。 それが、代表作、「半七捕物帳」のシリーズです。 現代物にすると、ホームズの影響が表れてしまうから、という理由で、舞台を江戸にしたそうです。 戯曲、小説、随筆、そして翻訳、と数多くの作品を残して、綺堂は1939年に亡くなりました。残した作品は、「岡本綺堂全集・全十二巻」にも及びます。 ストーリーの面白さだけではなく、文章の素晴らしさ、格調の高さから、とくに「玄人」から高く評価されている作家です。
 落語「権十郎の芝居」も岡本綺堂の作品です。

栗橋宿(くりはしじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道・日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場町。当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。現在の埼玉県久喜市栗橋区域に相当する。
 栗橋は「日本六十余州国々切絵図」によると幸手、杉戸、吉川を含み、下総国の国絵図にて描かれている。この地域に残される区域の国郡名によると、寛永11年(1634)10月までは下総国猿島郡または葛飾郡と記されるが、寛永14年(1637)7月には武蔵国葛飾郡に編入された。 栗橋宿の規模は、天保14年(1843)の記録によると人口1,741人、本陣1、脇本陣2、旅籠25軒、家数404軒、であったという。 栗橋河岸は、元禄3年(1690)に、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣に成立した。 栗橋宿から中田宿につながる奥州街道・日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかっため、代わりに渡船場が置かれ”房川渡し”と呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624)に栗橋に移設した。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、通称「栗橋関所」とされた。

   

 上図、栗橋 中田周辺図 (伊能忠敬測量「大日本沿海輿地全図」 )。 左側が江戸方向で幸手から栗橋に入り、房川の渡しを渡ると古河に出て日光に向かいます。

房川渡中田関所(ぼうせんのわたし なかたせきしょ);江戸時代に奥州街道・日光街道の利根川渡し河地点に置かれた関所で、江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。利根川筋に設置された関所の一つ。奥州街道・日光街道の栗橋宿から中田宿の間、利根川沿いにあった。房川渡し中田関所名の由来は、房川渡と中田宿の間にあったためと言われていう。通称栗橋関所であった。日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、関宿と並ぶ江戸の北方を守る要地であった。
 栗橋宿の設置は、元和元年(1615)あるいは元和2年(1616)とされている。『房川渡船場御用留』(弘化4年3月改)によると、元和年間(1615-1623)に設置された。渡船場を房川渡しと呼び、堤の上に関所、その下に渡船に従事する屋敷(水主屋敷)があり、また、元和2年(1616)渡船場を開いて往来に役立ったとの記録がある。

 房川渡場図 『新編武蔵風土記稿. 巻之38 葛飾郡之19』 国立国会図書館のウェブサイトから。

  

 利根川橋梁。川上から下流を見ています。右側の杭があるところに渡しの発着所がありました。2005年までは渡しが有った。

 関所番から、栗橋宿馬船水主11人、船頭1人に対する規定について、中田宿には川高札が建てられ、天保9年8月には、 「(1)船頭は二十歳から五十歳までの健康な者に限る、 (2)女・乱心・首・囚人・大きな荷物・夜中通行は差図を受けたうえで渡す、 (3)定船場以外で渡船をせず、見付け次第注進する、 (4)武士からは御定の通り船賃を取らず、町人百姓からは御定の外は船賃を取ってはいけない、 (5)渡船仲間には栗橋宿の船渡町出生の身元確かな者以外は仲間にしない、 (6)船を出すときには往還の人に呼びかける、 (7)渡船仲間の家族の女が中田宿へ耕作に行くときは、関所へ声を掛け、通行のための鑑札を受け取り、帰りは返却することが申しつけ」、られていた。
 廃止になった渡船は利根川橋の150mほど上流側(八坂神社・テレメーター付近)を発着しており、その影響からか日光街道筋は本橋部分で屈曲している。ここにかつての栗橋関所・栗橋宿・中田宿の名残りが残されている。

古河(こが);茨城県西端の市。室町時代、足利成氏(シゲウジ)がこの地に拠り、江戸時代、土井氏ほかの城下町。日光街道の宿場町で、利根川を渡ると栗橋宿になる。古河藩が設置され古河城が藩庁となった。現在の市域西部を日光街道が南北に貫き、古河城下(元の古河)に古河宿(19宿目)、中田に中田宿(18宿目)が設けられた。一方、市域東部では日光東往還(日光東街道)が縦断し、谷貝宿・仁連宿・諸川宿が設けられた。
 関東地方のほぼ中央、茨城県西部地域に位置する市。人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。県西地域最大の都市。 関東大都市圏であり、また近隣の町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。

坂東太郎(ばんどうたろう);利根川の異名。群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山(標高1,840m)にその源を発する。前橋市・高崎市付近まではおおむね南へと流れ、伊勢崎市・本庄市付近で烏川に合流後は、東に流路の向きを変えて群馬県・埼玉県境を流れる。江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、江戸で度重なる洪水を出し、河川改修によって現在の流路となった。流路延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6840km2で日本第1位であり、日本屈指の大河川といってよい。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも架かっている。
 中流域に入ると利根川の川幅は急激に広くなり、群馬県佐波郡玉村町付近で約500m、埼玉県熊谷市妻沼付近では約900mにも及ぶ。途中の利根大堰で河水は武蔵水路などによって荒川へ分流する。そのあと間もなく渡良瀬川を合流して茨城県猿島郡五霞町内を貫流した後、茨城・千葉県境を流れる。

享保(きょうほう);江戸中期、中御門・桜町天皇朝の年号。(1716.6.22~1736.4.28)。
 享保元年4/30七代将軍・徳川家継(8)没、5/1徳川吉宗が八代目将軍となる。
 この時代に、享保名物帳として、享保4
年(1719)刀剣鑑定家の本阿弥光忠が将軍吉宗に提出した古今の名刀一覧表。ここに記す当時焼失の刀剣80口と伝存の168口を名物という。刀剣名物牒。
 享保2年、大岡越前の守が南町奉行に就任。
 享保の飢饉=享保17年(1732)、イナゴによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰、翌正月に打ちこわしが起きた。
 享保の改革=徳川八代将軍吉宗がその治世(1716~1745)を通じて行なった幕政の改革。倹約の励行、武芸の振興、年貢増徴、定免制の実施、株仲間の公認、町人による新田開発の奨励、上米制・足高制・公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学・洋学の奨励などの政策で幕藩体制の建直しをはかった。江戸幕府三大改革の一。

(スズキ);海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。秋の季語。関東では1年ものと2年もので全長 20~30cm 程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長 40~60cm 程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。
 全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。春~秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。
 身は血合いがほとんどない白身で、「スズキ」という和名が「すすぎ洗いしたようなきれいな身」に由来するとする説もあるほど。身の質はタイに似て、柔らかくて癖もなくあっさりしている。関東よりも関西でよく食べられる。 産卵期である冬に、内湾に産卵回遊した大型のスズキが多獲されて多く市場に出回り、そのためにスズキの旬が冬とされることがあるが、この時期には生殖腺に栄養が多く要求されるために体は痩せて肉質は非常に悪い。スズキの肉質がよくなるのは夏で、夏のスズキはよく太って非常に美味である。新鮮なものは刺身にするが、昆布じめ、膾(なます)、寿司ネタなど、刺身に手を加えて味や歯ざわりを楽しめるようにした料理もよく作られる。他にタタキ、揚げ物、炒め物、塩焼き、奉書焼、煮付、鍋物など、和洋中を問わず多種多様な料理に利用される。

春の彼岸(はるのひがん);春分(2019は3月21日)・秋分の日を中日として、その前後7日間。彼岸会の略。俳諧では特に春の彼岸をいう。この時期、彼岸参りと言って、彼岸会の7日中に寺院や先祖の墓にまいること。また、寺院から檀家に読経に行くこと。ひがんもうで。
 まだまだ寒い時期です。雪も降ることが有り、この後、桜が咲く時期にも雪を乗せた花が寒さの中花を開いている年もあります。

祠堂金(しどうきん);中世・近世、先祖代々の供養のために祠堂修復の名目で寺院に喜捨する金銭。寺院はこれを貸し付けて利殖した。無尽財。長生銭。祠堂銀。祠堂銭。

懸想(けそう);異性におもいをかけること。恋い慕うこと。求愛すること。けしょう。「人妻に―する」

小柄(こづか);刀の鞘(サヤ)の鯉口の部分にさしそえる小刀(コガタナ)の柄。その小刀。外側には笄(こうがい)が付きます。
 細工用の「小刀」です。本来は木を削る際や、緊急時の武器として使用。鞘の裏側に収められました。時代劇等では、この小柄を手裏剣のように投げて逃げる、というシーンがよくありますが、さほど距離は飛ばず、柄の方が重いため上手く刺さらないと言われています。 どちらかと言うと、武器と言うよりは現代のペーパーナイフやカッターナイフのように、工作用に使われていたと見る説が有力です。
 

宇都宮(うつのみや);栃木県中央部の市。県庁所在地。古来奥州街道の17宿目の要衝。江戸初期、奥平氏11万石の城下町として発展。
 1996年4月1日より、中核市に指定されている。北関東最大の都市でかつ、首都圏の都市としても10位の人口を擁する。本市を中心市とする宇都宮都市圏は、政令指定都市を除く都市圏として日本最大である。宇都宮市は「住みよさ」を順位付けする「東洋経済新報社」の調査で、人口50万人以上の全国28都市のうち5年連続で1位を獲得し、その後も高い順位を維持している。市内には餃子を扱う飲食店が専門店を含めて約二百軒あり、「餃子の街」として全国的に有名。
  徳川家康は宇都宮を古道奥州道・日光道の宿駅に命じ、宇都宮宿は五街道のうち日光街道・奥州街道の二道の追分(分岐点)となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。 当時の宇都宮宿は地方宿としては日本国内最大規模の宿場町で、五街道では東海道大津宿、府中宿(家数3,500軒、人口14,000人級)や熱田宿、日光街道千住宿(家数2,000 - 3,000軒、人口10,000人級)には及ばないものの、東海道品川宿や四日市宿、桑名宿、岡崎宿、浜松宿、島田宿、奥州街道白河宿、甲州街道八王子宿(家数1,200 - 1,800軒、人口6,000 - 7,000人級)と同等の規模を擁していた。

船止め(ふなどめ);渡し船が川が荒れて危険な時に船の出航を中止します。また釣りの時、磯の小島までの釣り客の送りを海が荒れると船を出しません。これを船止めと言います。
 東海道五十三次で大井川が増水すると危険を予知して川止めをします。同じように渡船でも川の状態で便を止めることがあります。
 房川の渡しでは、常水では川幅約40間~214間(約387m)、川丈9尺(約2.7m)ほどで、川丈が1丈2,3尺になると船止めとなった。



                                                            2019年8月記

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