落語「お七」の舞台を行く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「お七」(おしち)より


 

 御幣担ぎの人が良くありました。むやみに気にする人があれば、そこに面白がってからかいに来る人もいます。

 「おっかあ、いやなやろうが来たよ。先日も『福の神、何処行ってたんだ』と言うと『お前の家から出て来たところだ』と言うんだ。悔しいんで次に会ったとき『貧乏神、何処行くんだ』、『お前の家だ』。来ても知らん顔してな」、「こんちは、こんちは、・・・返事が無いとこ見るとお隠れになっちゃったのかな」、「やなこと言い始めたな」、「死に絶えたかと思った。狭い玄関だと早桶が出ないぞ」。
 「帰ってくれ。今日は目出度いことがあるんだ」、「目出度いこと? お悔やみを言おう。で、どうしたんだ?」、「かみさんが、身二つになったんだ」、「胴斬りにでもあったのかい」、「子供が生まれたんだ」、「小仏か。お前は仏のようだと言われるだろ、その子供だから”小仏”。部屋が陰気くさいな。そこにこぼれているのは末期の水かぃ」、「よせよ、お茶をこぼしたんだ」、「そこの枕屏風は、逆さ屏風かぃ」、「張り混ぜ屏風だから横向きもあるよ」、「中にはシキミや枕団子が有るのか」、「子供が寝ているんだ」。
 「見てやろう。大きいじゃないか」、「お婆さんも、そー言っていたよ」、「鉢巻きして唸ってら~」、「それは親の方だよ。隣に寝ているよ」、「小さいね~、貧弱だね~、顔も青くて青ん坊だね、生きてるのかぃ。どう見ても死んでるよ。突いてみようか」、「死んじゃうよ」、「7日もすると川原でカラスが突っつくよ」、「土左衛門みたいに言うな。帰ってくれよ」、「初七日は済んだのか」、「お七夜と言うんだ」、「戒名は付けたか」、「名前は付けたよ。初めての子だから”お初”だ。」、「おはつの丸揚げだな。こんな化けべそだって十七八になれば日陰の豆もはじける、鬼も十八番茶も出花と言う、徳兵衛さんという男に騙されて、心中まで行くな。で、心中の本場は向島だな」、「本場なって有るのか」、「本場だって、場違いだってあら~。心中の本場は向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首吊りが赤坂の食い違い、と言うんだ。向島で心中をすると百本杭に引っかかる、お上から差し紙が来る。その時は検死場で会おう。これで溜飲が下がったよ。ハイさようなら」。
 「畜生、溜飲の薬にしやがって、馬鹿野郎ッ」、「意気地が無いね。熊さんのかみさんが臨月だから、お七夜の時、今言われたことを言っておやり」。

 「やい、来たぞ」、「誰だ、そこでモタモタしているのは。首くくるなッ。入り口が狭いのは開ければ、早桶はそろって出る。入りな。家も身二つになった、同斬りじゃ無いぞ・・・」、自分の家で言われたことは全部言われてしまった。「戒名は?」、「七人目の子だから”お七”と付けた」、「大きくなったらお屋敷奉公に出すんだろ」、「大きくならない。なったら女郎に売ってしまう」、「可哀想だからお屋敷奉公にしなよ」、「金がかかるからイヤだ」、「金は出すから」、「だったら出す」、「屋敷には徳兵衛さんがいて・・・」、「お初徳兵衛という話に引っかけて言ったんだ。お七徳兵衛なんて間抜けな話なってあるかい。こないだの仕返しか。帰らないと、早桶が出来てくる、それに入れて焼いちゃうぞ」。
 「上手くやったかい」、「上手くやられた」、「・・・うんうんそうかい。お七なら、八百屋お七が有るじゃないか。『昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、吉祥寺の小姓の吉三と会いたい一心、娘心のあさはかさで、我が家に放火し、恋の遺恨で釜屋武兵衛に訴人され、江戸市中引き廻しの上、鈴ヶ森で火あぶりになった。おまえの娘もお七なんて縁起の悪い名前をつけたから家に火をつけるぞ』、しっかりおしぃッ」。

 「やいッ来たぞッ」、「また来たよ」、「驚くな、火事だぞ・・・、本郷だ」、「大変だッ」、「昔の話だ。八百屋がある、胡椒をなめる。女心の赤坂だ・・・、ざま~見ろ」、「てめえの言いたいのは、”昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、吉祥寺の小姓の吉三と会いたい一心、娘心のあさはかさで、我が家に放火し、恋の遺恨で釜屋武兵衛に訴人され、江戸市中引き廻しの上、鈴ヶ森で火あぶりになった。おまえの娘もお七なんて縁起の悪い名前をつけたから、家に火をつけるぞ”と、こう言いてぇんだろう。さあッ、家のお七が色男をこしらえ、家に火を点けたらどうするんだ」、「うん、だから火の用心を気をつけねえ」。

 



ことば

『お七の十』の題ですが別の噺です。詳しくはここ落語「くしゃみ講釈」にあります。
 先代柳亭痴楽がやっていました。概略を書きますと、
 本郷の八百屋のお七は、恋しい寺小姓の吉三に逢いたさに放火して、鈴が森で火あぶりの刑に処せられた。吉三は悲しみのあまり吾妻橋から身を投げて死んだ。地獄で会った二人が抱き合ったとたん、ジューという音がした。お七が火で死に、吉三が水で死んだから火と水でジュー! 又、七と吉三の三を足して十。
 それでも浮かばれないお七の霊が、夜毎鈴ヶ森に幽霊となって現れる。ある夜、通りかかった武士に「うらめしや~」。武士は「恨みを受ける因縁はない」と、お七の幽霊の片足を切り落とす。幽霊が片足で逃げ出したので、「一本足でいずこにまいる」と、訪ねると「片足や(わたしゃ)本郷へ行くわいな」。
 

 この噺「お七」は円生だけの持ちネタで、原話は、寛延4年(1751=宝暦元)刊の笑話本「軽口浮瓢箪」中の「名の仕返し」。これは、男達の親分の息子の元服に別のなわばりの親分が祝いに訪れ、息子が庄兵衛と改名すると知ると、「それはいい名だ。昔、獄門になった大泥棒・日本左衛門にあやかろうというのだな」と、嫌味を言って帰ります。おやじは腹を立て、「いつか仕返しをしてやろう」と思ううち、その親分に女の子が生まれと聞いて、さっそく出かけていき、名を聞くと”お七”。
 「なるほどいい名だが、火の用心をなさいよ」と、嫌味を言い返して引き上げた。

御幣担ぎ(ごへいかつぎ);(御幣をかついで不吉をはらう意から) 縁起を気にしたり迷信のためにつまらないことを忌みきらったりすること。また、その人。えんぎや。
 この噺では、ゲンかつぎの人間にわざと縁起の悪いことを並べて嫌がらせするくだりが中心ですが、ほかに「かつぎや」、「しの字ぎらい」、「けんげしゃ茶屋」(上方)などがあります。やられる人間も結構楽しんでいるわけで、こうしたことにムキになって怒ると、シャレの分からないヤボ天として、余計馬鹿にされるワケです。

早桶(はやおけ);江戸時代、棺桶のことを「早桶」と呼びました。既製品は有りませんから、注文があってからパッパッと作ったのでこの呼び名があるのでしょう。今の長方体(寝棺)とは違い、沢庵桶(座棺)のような形をしています。座らせて入れました。桶でもないのに今もって「棺桶」というのはその名残でしょう。早桶も買えない貧乏人は菜漬けの樽を早桶代わり使ったと落語には有ります。

身二つ(みふたつ);妊婦が出産する。子供を産む。身体が二つになるから、言う事ですが双子が生まれたら、『身三つ』と言うのでしょうか。

胴斬り(どうぎり);剣の達人が胴を水平切りし上半身と下半身に切り分ける事。落語では、切られた上半身は風呂屋の番台に上がり、下半身は蒟蒻屋で樽の中の蒟蒻を踏んでいました。

末期の水(まつごのみず);人の死のうとする時、その口中にふくませる水。しにみず。

枕屏風(まくらびょうぶ);寝るとき枕もとに立てる低く小さい屏風。張り混ぜ屏風を使っていたなんて、ずいぶん粋な人です。長屋住まいの職人達は押し入れが無かったので、たたんだ夜具の目隠しにその枕屏風を立て回しておいた。
 右写真:枕屏風を夜具の目隠しに使っています。江戸東京博物館蔵。

土左衛門(どざえもん);享保1716~1736頃の江戸の力士、成瀬川土左衛門の身体が肥大であったので、世人が溺死人の膨れあがった死体を土左衛門のようだと戯れたのに起るという。溺死者の遺体。肥った人間を称した「どぶつ」の変化ともいわれます。

シキミや枕団子(しきみや まくらだんご);しきみ(樒)=シキミ科の常緑小高木。山地に自生し、また墓地などに植える。高さ約3m。葉は平滑。春、葉の付け根に黄白色の花を開く。花弁は細く多数。全体に香気があり、仏前に供え、また葉と樹皮を乾かした粉末で抹香や線香を作り、材は器具用。果実は猛毒で、「悪しき実」が名の由来という。シキビ。コウシバ。コウノキ。木密。仏前草。右写真:シキミとその花。
  枕団子=死者の枕もとに供えるだんご。 

初七日とお七夜(しょなのかと おしちや);初七日=人の死後、7日目にあたる日。仏事を営む。しょしちにち。しょなぬか。
 お七夜=子の生誕の日から7日目の祝い。枕下げ。
 同じ7日目の日でも、仏事事と祝い事では全く違います。

戒名(かいみょう);受戒の際に、出家者あるいは在家信者に与えられる名。本来生前に与えられるものであるが、中世末期から死者に対して与えられるようになった。法名。

年頃になれば綺麗になる;十七八になれば日陰の豆もはじける、鬼も十八番茶も出花。どんな娘も年頃になれば色気づくことのたとえ。

お初徳兵衛(おはつとくべい);『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)の主人公で、世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語。
 落語では、「船徳」として演じられている。もともとは「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松門左衛門の『曽根崎心中』の登場人物の名を借りた長編の人情噺だったのを、明治期に初代三遊亭圓遊が発端部をアレンジし、当世風のクスグリを盛り込んで滑稽噺としたもの。八代目文楽が得意とした。
 元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の露天神(大阪市北区曽根崎2丁目5番4号)の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社はお初天神とも呼ばれる事が多くなった。
 あらすじ 醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初は恋し合う仲であった。 物語は、徳兵衛とお初が生玉の社で久しぶりに偶然出会うシーンから始まる。便りのないことを責めるお初に、徳兵衛は会えない間に自分は大変な目にあったのだと語る。
 徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきた。誠実に働くことから信頼を得て、店主の姪と結婚させて店を持たせようという話が出てきた。徳兵衛はお初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに徳兵衛の継母相手に結納まで済ませてしまう。固辞する徳兵衛に叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡す。その中身は商売などさせない、大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せというものであった。徳兵衛はやっとのことで継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという友人・九平次に3日限りの約束でその金を貸す。
 徳兵衛とお初の前に九平次が現れる。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客に連れ去られる。徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は証文まであるものを「借金など知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせる。兄弟と呼べるほど信じていた男の手酷い裏切りであったが、死んで身の証を立てるより他に身の潔白を証明し名誉を回復する手段が徳兵衛にはなかった。
 徳兵衛は覚悟を決め、密かにお初のもとを訪れる。お初は、他の人に見つかっては大変と徳兵衛を縁の下に隠す。そこへ九平次が客としてお初のもとを訪れるが、素気無くされ徳兵衛の悪口をいいつつ帰る。徳兵衛は縁の下で怒りにこぶしを震わせつつ、お初に死ぬ覚悟を伝える。真夜中、お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の森へ行く。互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ合うと徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、自らも命を絶つ。

本場と場違い(ほんばと ばちがい);ある物の本来の産地と、本場からの産出でないこと。

江戸で災難がある場所;落語では次のように言います。『心中の本場は向島、身投げをするのが吾妻橋、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺、首吊りが赤坂の食い違い』。落語の中で円生がよく言っていた言葉。

 

 

 上左、谷中の天王寺。 上右、赤坂食い違い。 その下、隅田川を渡す赤い橋が吾妻橋、その対岸が向島。

百本杭(ひゃぽんぐい);両国橋上流墨田区側の左岸に、隅田川の流れを和らげ、川岸・土手を保護するため水中に打ち込んだ杭。 ここには水流の関係で、いろんな物が流れ着いた。 水死体もその一つで、江戸一番の土左衛門の名所だった。 また、明治中頃までは鯉の釣り場として有名だった。
 昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまでは隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。その為、水量が多く湾曲部ではその勢いが増して川岸を侵食されました。両国橋付近は湾曲がきつく流れが急で有ったので、水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するものです。おびただしい杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになりました。(墨田区教育委員会説明板より) 現在は護岸工事が完成し撤去されています。

 左、明治の百本杭、「仁山智水帖」国立国会図書館蔵。 右、広重描く両国橋、対岸の川岸に百本杭。

差し紙(さしがみ);江戸時代、奉行所が人民を召喚するために発した出頭命令書。御召状。

検死場(けんしば);横死者などの死体を調べる所。検死。

屋敷奉公(やしきぼうこう);大名屋敷に奉公して雑用などをこなす女性(腰元とも)のこと。当時は勤めている間、奉公先の屋敷から外出することはままならないことでした。年にほんの数回しかないお休み(宿下がり、または藪入り)に親元へ帰ったり、お芝居を観に行くことが何よりの楽しみでした。
 昔の若い女性は武家屋敷に奉公に出て、しっかりと行儀作法を身につけることで良縁を得る方法の一つとされていました。その為、武家側では、同じ娘なら何か芸事が出来る娘を希望したので、江戸の町に娘向けの習い事、舞踊、楽器、歌、生け花、等芸事の私塾が増えていき、結果、江戸の芸能の発展に大きく寄与しました。

女郎に売ってしまう;年頃の娘を遊廓などに売って女郎にする事。親や家族のために売られてくる娘は孝行の二字で我慢も出来ましょうが、騙されて意に反して落ちていく娘は悲惨です。

八百屋お七(やおやおしち);いろいろな説がありますが、駒込吉祥寺の説(芝居話)によると、
 本郷森川宿の八百屋市左衛門の娘お七は、幼いころから利発で器量もよく、両親はお七が玉の輿に乗ることを夢見ていた。天和2年暮れの火事で家は類焼し、一家は駒込の正仙院(圓乗寺)へ一時立ち退いた。
 この寺に、生田庄之介という住持寵愛の十七才の美少年がいた。庄之介はお七に一目惚れし、恋文をお七の下女ゆきに託した。やがて二人は思い思われる仲になった。かくするうちに焼け跡の普請も出来上がり、天和3年正月25日、お七の一家は新しい我が家へ帰り住むことになった。
 恋しい庄之介から引き離されたお七は、食が進まずやせ衰えてしまったが、両親は恋患いと気が付かなかった。また焼け出されれば庄之介に会えると思い込んだお七は、3月2日夜、風が起きたのに乗じて我が家に火をつけたが、近所の人に発見され、捕らえられた。
 奉行はお七のあどけなさに言葉を和らげ、「放火の理由を正直に白状すれば命は助ける」といったが、罪が庄之介に及ぶことを恐れたお七は狂気をよそおい通し、火刑が決まった。3月18日から11日間、市中を引き回され、29日、鈴ヶ森で処刑された。この時お七は、下女ゆきと乳母の心尽くしで華やかな大振り袖に幅広の紫の帯という姿だった・・・。
 庄之介は自害しようとして果たせず、高野山に登って僧になり、お七の冥福を祈った。

 円乗寺でのお七伝説。お七の家族は焼け出されて円乗寺で世話になっていた。そこのお小姓と切れない仲になったが自宅の普請が出来上がり、引越。彼を忘れられずにいたが、盗みや火事場泥棒の吉三と言う悪党に「火事になればまた会える」とそそのかされて、うぶなお七は自宅に火を着けた。お七と吉三は捕らえられ、火刑になった。その時の火事はボヤ程度だという。お七は悪党に騙された、可哀想な小娘であったという。(住職談)

 大圓寺の説によると。本郷の八百屋の娘お七は天和2年(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六、吉三が十八でした。
  恋こがれたお七は、吉三に逢いたさに翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引き回しの上、鈴が森の処刑場で火刑に処せられた。

 お七さんについて『曳屋庵我衣』は、「一体ふとり肉(じし)にて少し痘痕(あばた)のあともありしといえり。色は白かりけれどもよき女にてはなかりし」と記述されています。 イメージを崩して申し訳有りません。お芝居と違って現実は・・・。
 落語「くしゃみ講釈」、「二番煎じ」より孫引き

吉祥寺(きちじょうじ);駒込の禅宗(曹洞宗)、諏訪山・吉祥寺、戦災にも免れた今の山門があります。歴史を感じさせる造りと風格を感じさせます。くぐると広い参道と本郷通りの雑踏が無くなります。左手に「吉三・お七、比翼塚」が立っています。大きな石造りの塚というより碑です。お七生誕300年の昭和41年に、日本紀行文学会が建てたものです。また、ここには二宮尊徳の墓があります。墓には、小学校の校庭に立っていた、たき木を背負って読書をしている、あの有名な少年の頃の二宮金次郎像が立っていました。境内は広く、本堂も戦後再建された立派なものです。また、「栴檀林(せんだんりん)」が有って、常時千人をくだらない禅僧が勉強していました。これが発展して今の駒沢大学になります。 お七が焼け出されて一時避難していたお寺は各説有ります。ただ、ここ吉祥寺は演劇の中で創作されたもので、違うことがハッキリしています。

小姓の吉三(こしょうのきっさ);上記吉祥寺の芝居では、生田庄之介という住持寵愛の十七才の美少年がいた。庄之介はお七に一目惚れし、恋文をお七の下女ゆきに託した。やがて二人は思い思われる仲になった。
 円乗寺説では、盗みや火事場泥棒の吉三と言う悪党になっています。また、吉三も捕らえられ、お七と共に火あぶりの刑に処せられた。
 大圓寺説では、大圓寺本堂右手の阿弥陀堂にはお七地蔵と西運上人の像が祀られています。
 お七の処刑後、僧となり名を「西運」(さいうん)と改め諸国を行脚、後に大円寺の下隣りの明王院(現・雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約40km)の道のりを浅草観音まで夜から明け方に掛けて鉦を叩き念仏を唱え、隔夜日参り一万日の行を27年と5ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏したことを告げられたことから、「お七地蔵尊」を造った。また、西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に寺前の行人坂に敷石の道を造り、坂下の目黒川に石の太鼓橋を架け社会事業の数々を行った。

   

 左;来迎阿弥陀三尊像の前に立つ「お七地蔵尊」(中央)。身体を多少左に傾けた木像。 右;「西運上人像」。大円寺縁起から写真引用。落語「二番煎じ」より

我が家に放火(わがやにほうか);現在では火災保険狙いで放火する人はあるでしょうが、江戸時代は保険も無かったので、その発想からの放火はありませんでした。江戸の町は冬場は空気が乾燥して、北関東から強い北風”カラッ風”で火事が出やすい条件がそろっていました。町の作りも家は木造で建具も木製で燃えやすい構造になっていました。そのため、大岡越前守が初めて火消しの組織を作りましたが、出火件数は変わらず、火の不始末、放火は厳重に取り締まられました。花火の製造元”玉屋”は失火のため取り潰しになっていますし、お七もその中の一人だったのです。

江戸市中引き廻し(えどしちゅうひきまわし);公開処刑の場合馬に乗せられ江戸市中を引き回されます。江戸一周の最後の現世見納め観光コース(?)、いえいえ、衆人環視の中で、明日には死刑ですからそんな心の余裕はありません。最後の別れですから沿道の何処かで家族や友人が見ているはずでしょう。このコースは決まっていて、次のようになります。
  小伝馬町の牢屋敷を出て右に折れます。(地名は全て現在)大伝馬町から小舟町、当時の江戸橋を渡って、川伝いに右に曲がり、日本橋南詰めを左に曲がりVの字の反対側に入り、昭和通りに出ます。右に曲がって永代通りを越え、平行する道を左に曲がり、兜町から茅場町、南に下って八丁堀で右折、昭和通りにまた出て左、その先を右に曲がって、京橋(町)。町なかの中央通りを左に曲がって京橋を渡ります。こんなにゆっくり歩くと1日では回れなくなるので、先を急ぎます。
  銀座を抜けて新橋、第一京浜を南下、浜松町、芝、三田の交差点を右に曲がって北上、慶應義塾を左に見て桜田通りを真っ直ぐに、東京タワーを右に見て、天徳寺の先を左に曲がって、虎ノ門から赤坂、赤坂見附を左にその先、豊川稲荷を右に曲がって、見えてきた堀を右に見ながら四谷、市ヶ谷、左に折れて市谷左内町、大久保通りに出て右に横寺町から神楽坂、坂を下って飯田橋。先ほどの外堀通りを左に後楽園を見ながら水道橋を左に、壱岐坂を右に上がって、本郷通り、本郷三丁目を春日道りに出て湯島から坂を下って不忍池、上野山下、浅草通りから田原町、浅草広小路を左に曲がり、江戸通りから山谷堀に架かっていた今戸橋でUターン、今来た江戸通りを戻って吾妻橋、蔵前、浅草橋、馬喰町を通って終着小伝馬町の牢屋敷です。
  引き回される罪人はくたびれたでしょうが、書いてる私もくたびれた。まるで、落語「黄金餅」です。江戸城を大きく右回りに回って、浅草から山谷堀の今戸橋を北端に小伝馬町に戻ってきます。馬に乗せられ引き回されたので足の疲労はないでしょうが、キリストのように自分で十字架を背負って歩かされたら何日かかることやら。
 落語「臆病源兵衛」より転載。

鈴ヶ森(すずがもり);(品川区南大井2-5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
  『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
  歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺目頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には火あぶりや、磔(はりつけ)に使用したという土台石が残っている。
  ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、白井権八、天一坊、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによって、よく知られている。江戸刑場史上、(千住)小塚原とともに重要な遺跡である。』
(東京都教育委員会説明板より)

火あぶり(ひあぶり);江戸の刑罰は死刑でも六種類有りました。重い方から、①鋸挽き(のこぎりびき)、②磔刑(たっけい)、③獄門(ごくもん)、④火罪(かざい)、ここまでは市中引き回しの上、公開処刑、首は晒し。次の二罪は小伝馬町の牢屋敷にて断首、⑤死罪(しざい)試し切りの上家財没収、⑥下手人(げしゅにん)遺体は家族が引き取り埋葬可能。

家に火をつけるぞ;「”昔、本郷二丁目の八百屋お七は、吉祥寺の小姓の吉三・・・、おまえの娘もお七なんて縁起の悪い名前をつけたから、家に火をつけるぞ”と、こう言いてぇんだろう。さあッ、家のお七が色男をこしらえ、家に火を点けたらどうするんだ」。と口の回らない男の言うのを代弁した。

火の用心(ひのようじん);上記の言いがかりに対する、返答がオチになっています。



                                                            2019年8月記

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