落語「小なさせ地蔵」の舞台を行く
   

 

 大野桂 作
 四代目三遊亭金馬の噺、「小なさせ地蔵」(こなさせじぞう)より


 

 昔の出産は各自宅で行われましたが、現在は病院で行われますので、妊婦さんはそんなに出産に対して心配はしていません。昔の出産の手助けをしたのが産婆さんです。

 ある妊婦さん、出産の痛みが辛くて二度とイヤだと思っていたら、また授かってしまった。私ひとりでこの苦しみを受けるのはおかしい、半分は仕込んだ奴もその痛みを受けるべきだと神様に毎日お願いをしていた。出産の日、痛みが襲ってきた、「貴方痛くない?」、「痛くないよ」、「お産婆さん呼んできてッ」、亭主が出掛けて隣を覗くと、そこの亭主が腹を抱えて痛がっていた。

 北海道には北見と言うところがございます、オホーツク海や網走が近くにあります。『小なさせ地蔵』があります。開拓時代の明治の中頃、舛川(ますかわ)ツネさんというお産婆さんがいて、取り上げた赤子の数が3000人、親・子・孫と三代に渡って世話をした。感謝の印にと『小なさせ地蔵』、子授けのお地蔵さんと言われ、亡くなる3日前に届き、ツネさん喜んだと言います。ツネさん、開拓開墾をしながら産婆の仕事をした。妊婦の教育にも精を出した。

 亭主がお産婆さんを連れて雪の中を帰って来た。家の中の雰囲気が違う。「誰だ、そこにいるのはッ」、「寒いからそこを締めて早く上がれ」、「ひとの家に来て偉そうにしているのは誰だッ」、「網走の監獄から散歩に出て来たんだ」、「脱獄囚か」、「腹減っているんだ。飯食わせろ」、「取り込んでいるんだ。よそに行けよ」、「酒も出せッ」。
 「フサエ大丈夫か」、「だんだん痛みがきつくなってきたよ」、「見て分からないのか。道開けろよ」、「聞こえないのか。酒だよ、飯だよ。作地場から盗んできたノミがある、首でも刺してやろうか」、「どうしようおばさん」、「そこどけ。道開けろ。これからお産が始まるんだ。産婆以外用が無い、お産手伝って善行施せ。こんなノミはこっちによこせ。フサエさんそんなに力まず力を抜け。そうだそうだ。おっ母さんそんなところに座ってないで手伝いな」、「腰が抜けて動けない」、「嫁ッ子に馬鹿にされるよ。マサオさんドンドン湯を沸かしなさい」、「脱獄囚、そこのたらいをこっちに持って来なさい」、「は、ハイ」、「油紙を敷いてその上に置くんだ。湯をドンドン入れな」。
 大変な騒ぎです。そのうちに「オギャー」と言う産声です。この産声を聞いて感激をしない人はいないでしょう。
 「オ~、フサエさん良くやったな~。男の子だよ。マサオさん、喜べ跡継ぎが出来た。良かった良かった目出度い・・・。ん、脱獄囚、おめーもご苦労だったな」、「アンタ名産婆だな。赤ん坊取り上げるのも上手いが、俺のノミを取り上げるのも早かった。初めてお産に立ち会ったが、母親が苦労して苦しがって生んでくれて、可愛がって育ててくれたんだな」、「そうだよ。あの産声を聞いた途端、痛さも苦しみも皆飛んで”可愛い~”だけになっちゃうだ。母親は有り難いもんだよ」、「その事、俺も考えていたんだ。俺を産んで育ててくれたんだな~。その母親を逆恨みして、グレにグレて監獄に入って、脱獄だ。それを聞いてお袋はどんなに悲しむだろな。バカだよな俺。生きていてもしょうが無いよな、死んだ方が良いよな」、「バカ言うな。死ぬ気があれば何だって出来るだろう。監獄出て真面目に一生懸命働けば親孝行になる」、「分かった。旦那さんご迷惑掛けました。迷惑ついでに駐在所まで連れて行って下さい」、「わかった」、「お婆さん、監獄出るときに迎えに来てほしい」、「何で、この婆がお前を迎えにいくだ」、「だって、俺生まれ変わって出てくるんだ。良~ィ、産婆に取り上げて貰いたい」。

 



ことば

落語『子なさせ地蔵』  昨年、平成22年(2010)8月17日付『北海道新聞』に「端野の助産師モデルの落語
 『子なさせ地蔵』地元で披露」「大御所・三遊亭金馬さん11月に」という見出し記事があったのをご記憶の方もいると思います。その記事には次のように書かれています。
 「モデルとなったのは助産師の桝川(ますかわ)ツネさん。1897年(明治30年)に屯田兵の息子とともに山形県から入植し、町内外のほとんどのお産を請け負ったという。
 桝川さんが1926年(昭和元年)に亡くなった際に、地域住民が感謝の気持ちを込めて『子生佐世(こなさせ)地蔵』を建立。『子生佐世』とは、子供が生まれるのを助けるという意味。
 地蔵は桝川さんの親族に引き取られたが、その後、地域住民が新たに『子育て地蔵』を端野町一区の国道沿いに建立し、今も祀っている。
 78年に道内のラジオ局から、北海道にちなんだ落語を作ってほしいと依頼を受けた金馬さんは、開拓期の端野の逸話を集めた旧端野町出版の『開拓夜話』(66年発行)を読んで桝川さんの活躍を知り、演芸作家・大野桂と共に落語『子なさせ地蔵』を創った。
 桝川さんの話を基に、網走監獄の脱獄囚がお産を手伝ううちに改心する人情話で、金馬さんはその後も十八番の一つとして高座で披露している。
 今年6月、端野町内の住民グループ『ふるさとの歴史を語る会』の会員が『子なさせ地蔵は端野の助産師がモデルらしい』と知り、金馬さんに端野での落語会開催を打診したところ快諾してくれた」。
 この落語会は「ふるさとの歴史を語る会」(会長寺崎博会長)の主催で、11月6日午後6時半から端野町公民館で300席を、ツネさんのご子孫をはじめとする市民の方々で埋めつくされ、盛況に開催されたことも11月9日付『北海道新聞』で報じられています。
  お産婆さんのことを青森の方言で「コナサセ」というそうで、「子をなさせる」という意味だそうです。

 『開拓夜話』の「子生佐世地像」
 
(以下原文のまま)  端野町長であった中沢広氏が、昭和41年(1966)12月に発行された『開拓夜話』の「子生佐世地像」の書き出しは次のとおりです。
 「桝川ツネさんは山形県北村山郡大久保村の生れだった。十五才の時に講習を受けて産婆さんの免許を貰ったということだ。ツネさんの家は三代続きの産婆さんだということで、助手のようにして、母親に連れられて歩いたので、年に似合わず実地に長けていた。
 明治三十年に八次郎さんの家族として一区に入ったのだが、七十六才で亡くなるまで、雨が降ろうが、大雪になろうが、呼びに来られるとどんなときでも、夜昼いとわずに出かけて行った。
 死ぬ三日前に来た人があったが、その時は『せっかくのことだ、見てあげるから私の側に寝なさい』といって、起きることの出来ない婆さんは、寝たまゝ手をのばして産婦の腹を撫でながら『あゝ心配はいらんよ!』、『赤ん坊も丈夫に育っているし、位置もよい。後三日と待たずに生れるでしょう。』といって帰えしたら、その通りだったということである。文字どおり死ぬまで産婦の世話をして一生を送った婆さんである。
 婆さんの死んだのは昭和元年だから、それからもう四十年になる。葬式に参列した人々の中には沢山の婆さんの子がいた。婆さんに取りあげられた子供達である。それ等の人が期せずして婆さんへの恩返えしにと話を纏めて作ったのが子生佐世地像尊である」(以上、原文のまま)

  この「子生佐世地像」の後段で記述されているのは、明治38年(1905)の2月、日露戦争で夫が出征中、妊婦が臨月なのに義母に気兼ねして無理を重ねて難産になり、吹雪を突いてツネさんが来た時には全くの手遅れで、続いて軍医が来て妊婦だけでも助けようと処置中に亡くなるという全くの悲劇で、とてもこのままでは落語になるようなお話ではありません。それで金馬師匠は、網走監獄の脱獄囚が改心する人情話「子なさせ地蔵」を創作されたのでしょう。

 『新端野町史』では・・・  
 平成10年(1998)10月に発行された『新端野町史』では、次のように紹介されています。
 開業助産婦
 北海道の開拓を困難にしたものに、医療面の不備はもちろんであるが開拓に携わる人々の健康に対する不安があった。そんなとき、女性にとって大きな支えとなったのは産婆の存在である。慣れない土地で、お産の介助はもちろんのこと、家庭の日常的な健康指導から育児相談など、幅広く開拓地の女性たちの相談相手として活躍したのが当時の『産婆さん』であった。
 『産婆』は、昭和23年7月に制定された『保健婦、助産婦、看護婦法』により『助産婦』(現在は助産師)と呼び名が変わった。
 端野村の産婆の草分けは、一区に屯田兵として入植した舛川八治郎の母親つねである。つねは嘉永五年生まれ、生家は三代続いた産婆の家柄であった。一五歳で産婆の資格を取り、四五歳のときに端野にやって来た。以来大正15年(1926)12月に他界するまで約31年間、2000人余の赤ん坊を取り上げている。
 『ふる郷百話』によると、『この開拓地にとって、かけがえのないただ一人の産婆さん』だった。『暴風雨、猛吹雪の夜でも、呼びにくれば飛んでいった。彼女の世話になった人は、美幌、置戸、留辺蘂にまでおよんだ』という。そんなつねに対して、大正15年2月25日一区の婦人たちが感謝の気持ちを込めて、子生佐世地蔵を建立したが、つねはその年の暮れに他界した。お地蔵さんは現在、孫に当たる舛川輝子宅の小堂に安置されている。」(左上の写真は『新端野町史』掲載の子生佐世地蔵)
 さて、前掲の新聞記事と『開拓夜話』では姓が「桝川」と木偏がついていますが、『新端野町史』では「舛川」となっており、お名前も「ツネ」と「つね」で違います。息子さんの名前も『開拓夜話』では「八次郎」で、『新端野町史』では「八治郎」になっています。
  混乱があるので、少し調査してみました。屯田戸主の息子さんですが、大正15(1926)年9月発行の『端野村誌』では「舛川八次郎」とあり、昭和40年(1965)12月発行の『端野町史』でも同様でした。それで除籍で確認したところ、「舛川八治郎」が正しいお名前でした。生年月日は明治10年(1877)3月2日で、死亡年月日は昭和19年(1944)12月29日でした。肝心のお産婆さんの方は、「父八蔵妻」「ツネ」とあり、その生年月日は嘉永5年(1852)5月10日、死亡年月日は昭和元年(1926)12月27日となっていました。享年は74歳でした。別に間違い探しをしているわけではないのですが、「舛川ツネ」が本当のお名前でした。
  以上、北見市総務部市史編纂主幹 「ヌプンケシ」NO.206(平成23年1月1日発行)より転載。  www.city.kitami.lg.jp/docs/2011021000106//a

 続けて、「ヌプンケシ」から

 屯田兵家族の出産〜『萩の根は深く』から
 昭和49年(1974)当時まだ存命していた屯田兵の妻からの聞取りを記録しているのは、昭和50年7月、北見女性史研究会によって発刊された『北見の女』第2号で、その時の取材を基に時間をかけてより深く掘り下げたのが扇谷チヱ子さんの力作 『萩の根は深く 屯田兵の妻たち』(昭和61年=1986年10月発行)でした。その中から出産に関する証言を次に引用します。
 「明治36年元旦、嫁いで5年、数え21でリヨさん(明治16年=1883年6月10日生れ)は母になった。
 お産は座産だった。お産の介助人は経験者であるいわゆる『とりあげばあさん』。リヨさんの時は、姑さんと親しかった道路を挟んで一軒置いた堀畑のばあさんが駆けつけた。
 雪道を転がるようにして来てくれた時、すでに男衆の手で北側の四畳半の部屋の畳は上げられていた。畳の下は荒い板一枚で床下が見えた。そこから寒風が容赦なく吹きつける。その板の上に筵が敷かれた。
 『昔はな、寝て産まないの。今聞いたらあんた犬畜生産むみたいなもんだ。畳めくって、畳めくってだぞ、下さ筵敷いて藁敷いてな、藁の上さこんだ灰(あく)敷いてその上さまた藁敷いて、藁の上さ座って産んだ。手や足出したら悪いと怒られ、横になっても怒られる。後ろに米俵一つ、横に一つずつ置いて眠る時もそのままよしかかって(よりかかって)寝た。(産後)21日たつとようやく布団に寝た』
 「富山出身の屯田兵の妻坂井イト(明治24年生まれ)さんも次のような話をしてくださった。
 『畳上げて筵半分に切って、藁を焼いて灰にして、それを下に敷いて子どもをもつんだよ。おりものがあるから3日間は藁を取り替えないよ。後に俵を置いてね。わしらの国では寝かせたら罰が当たると言って1週間は座っているんだよ。(後略)』」。
 「イトさんと同じ富山県出身の屯田兵の家族の子小川ツタ(明治38年生まれ)さんは、
 『お座りして、ちゃんと足のきびすでしっかり肛門押えて、だからお座りしたんだよ。産の重い人は天井からぶら下げた綱や荒縄にぶら下って力入れた。(後略)』」と話しています。紙面の都合で割愛しますが、妻たちは大変な思いをして子供を産んだ後も「血の穢れ」のタブーから、風呂に入れない、囲炉裏やカマドに近づけないなど、一定期間不自由な生活を強いられたことも同書には書かれていますので、機会があったら読んでみて下さい。
  開拓当時、出産は命がけの仕事でした。同書に記録されているとおり、開拓期は屯田兵であってもお産婆さんよりも近所の「とりあげばあさん」に世話になった方が多かったように思われます。そこにはお産婆さんの数が絶対的に少なかったこととあわせて「産婆に支払う、お金がもったいない。お金がない。」という経済的な理由もあったと推測されます。しかし、屯田兵の家族であれば風呂組、井戸組など助け合う組織もあり、また中隊付きの軍医もいて衛生知識を学ぶ機会もあったでしょうから、まだ恵まれていたとも言えます。それに比べると、体一つで開拓に来た一般開拓民の妻は大変苦労したようで、農作業時に産気づき、妊婦が一人で畑の中で子どもを産んだとか、夫が取上げた話が伝えられています。

 とりあげばあさん
 昭和10年(1935)頃の山梨県での「とりあげばあさん」の様子を、昭和54年(1979)6月、当時の朝日新聞編集委員、藤田真一氏が著した『お産革命』から見てみることにしましょう。
  「トリアゲバアサンたちの産ませ方は、すべて、座産であった。彼女の目撃談によると、この近在では、産屋をつくらず、畳の上でも産ませなかった。娩出が近づくと、納戸の畳をはねあげ、下の板張りの上にムシロやゴザを敷き、そこにお産ぼろを並べた。その中央に、踏み台またはコタツやぐらを置いて、産婦はそれに両手をかけ、両ひざ立ちに腰を浮かせた姿でいきんだ。トリアゲバアサンは後ろから背中、腰をさすってやり、いきみがくると、後ろ抱きにして腹をさすってやり、娩出の呼吸を教えた。『浣腸なんてしなかったから、いきむと、大便はでるし、全体にきれいな仕事じゃないから、よほど気丈で、好きな人でないと、トリアゲバアサンは務まらなかったねえ』。
 産湯をつかわせるときは、敷きぶとんを三つ折りにしたものに、腰をおろして、その前に置いたタライの湯に自分の両足を浸し、両ひざそろえた上に、赤ちゃんを滑らないように抱き据えて、手ぎわよく洗った。その足がまた、ひどく汚かった」。
 昭和10年頃の本州の農村でこの状態だったとすれば、明治30年(1897)代の野付牛(ノツケウシ)での様子も、江戸時代も同じだったことでしょう。
 写真:江戸東京博物館、出産風景。お産婆さんがたらいの中に足を入れて赤ん坊を支えて洗っています。

四代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば);本名 松本 龍典(まつもと りゅうすけ) 生年月日 1929年3月19日(現90歳) 出身地、東京都江東区 師匠三代目三遊亭金馬。 名跡 1.山遊亭金時(1941年 - 1945年) 2.三遊亭小金馬(1945年 - 1967年) 3.四代目三遊亭金馬(1967年 - )。出囃子、本調子鞨鼓。落語協会常任理事(1967年 - 2014年)。 落語協会顧問(2014年 - )。 日本演芸家連合会長。 日本芸能実演家団体協議会顧問。 新宿区名誉区民。
  金馬は、東京都江東区出身の落語家。一般社団法人落語協会顧問。出囃子は先代と同じ『本調子鞨鼓』。 柳家小袁治による「当代金馬は、自分の大師匠を知っている大ベテラン」との発言からも窺える通り、2016年現在、東西併せて落語界最古参の落語家であり、現在、唯一の戦中派落語家。ただし、年齢と真打昇進年を基準に置けば四代目桂米丸が最長老です。

大野桂(おおのかつら);演芸作家。(1931 - 2008年7月19日)肺炎のため東京都板橋区の病院で死去、77歳。 東京都生まれ。新作落語の五代目古今亭今輔のほか、桂米丸、漫才の内海桂子・好江、星セント・ルイスなどの台本を書いた。

地蔵(じぞう);
 子供の守り神という側面が強いお地蔵さん、 当時は、親よりも早く世を去った幼い子どもは親を悲しませ、親孝行の功徳を積んでいないことから、三途の川を渡ることができない。そのため、現世と来世の境にある賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆づくりを永遠に続けなければならない。しかし、そんな子どもたちのために、地蔵はあえて賽の河原に赴き、鬼から子どもたちをかばい、徳を与え、成仏への道を開いてくれると信じられていた。 このような「地蔵和讃」の世界観から、地蔵菩薩は子どもの守り神という側面が際立つことになっていった。我々がよく知る、地域の「お地蔵さま」の首回りに子どものよだれかけがかけられているのも、その反映であろう。
 右図:菱川師宣?画、「見立て遊君地蔵尊」部分。賽の河原に見立てた川辺で、地蔵菩薩を遊女に、子供達をお付きの禿(かむろ)に見立てた図。たばこと塩の博物館蔵。
 地蔵菩薩(クシティガルバ Kṣitigarbha)であるお地蔵様は下っ端どころではなくきわめて高い位置にある「菩薩」の一人です。仏像や仏画においてこの世のしがらみのすべてから解脱した如来像が装身具を排したシンプルな姿なのに対して、菩薩は多くの場合インドの上流階級のようなきらびやかな服装で表現されます。その中で、地蔵菩薩は粗末な姿・比丘形(びくぎょう)であらわされ、個性がきわだちます。これは、地蔵菩薩が釈迦の入滅(死)後、次に涅槃に至ると予言された弥勒菩薩が現れるまでの56億7千万年後までの間、この世が無仏となるため、釈迦に代わって六道の一切衆生を救う誓いを立てたことに由来します。地蔵菩薩は現世を苦しむ命のすべてを救い、その苦しみをわが身に引き受けるために歩き回るため、旅の僧侶のような簡素な姿をしているわけです。
 全国には、子育て地蔵、子安地蔵、安産地蔵、身代わり地蔵、延命地蔵、水子地蔵などなど、その名にこめられた願いを汲み取るだけで切なくなるような庶民の思いのこもった地蔵尊が数多くあります。

網走監獄(あばしりかんごく);網走刑務所。犯罪傾向の進んだ者(再犯者・暴力団構成員)、執行刑期10年以下の受刑者の短期収容を目的とする刑事施設。日本最北端の刑務所で、網走川の河口近く、三眺山の東側に位置する。1983年(昭和58年)には、網走刑務所の全面改築工事に伴い、旧刑務所の教誨堂、獄舎などを移築復原した博物館網走監獄が天都山中腹に開館し、観光名所になっている。

写真:博物館網走監獄。

 日本の一番北にある刑務所。こんなキャッチフレーズで呼ばれたら、それだけで色々と妄想が膨らみそうですが、「網走刑務所」は1890年に明治政府が蝦夷地(北海道)開拓のために設置したもの。刑期が12年以上と罪が重い受刑者を全国より集め、労働力として使うための宿泊所としてスタートしています。 受刑者は現在の中央道路国道333号などの建設に従事させられたのですが、当時の北海道はまだまったく未開の地。蝦夷地開拓の悲惨な話はいまでも語り継がれますが、その過酷さは想像を絶するものとしか言いようがありません。受刑者は、道路建設の他、網走港や女満別(めまんべつ)あたりの広大な農地開拓、炭坑や火山の硫黄採取作業などにも動員され、過酷な労働と寒さ・栄養失調などによりわずか1年で200名以上もの死亡者を出したことが記録に残っています。
 結局、「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と国会で追及されるまでの社会問題となり、1894年に廃止されるにいたるわけですが、網走の歴史、しいては北海道の近代史はこの「網走刑務所」の受刑者たちが生命を削って作った土台の上にあるということがよくわかります。  

北見市(きたみし);落語の舞台になった地。東隣が網走で、北見-網走間は60km。
 北海道オホーツク総合振興局にある市。オホーツク海沿岸から石北峠まで東西約110kmに広がっている。北海道で一番広い地方公共団体である。旧北見市市制施行前の名称「野付牛」(のっけうし)は、アイヌ語の「ヌプンケシ」(野の一方の端)に由来している。
 2018年に平昌オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルを獲得したロコ・ソラーレ(LS北見)も常呂自治区を拠点としている。
  1875年(明治8年) 村名の表記に漢字が当てられ、それぞれに「常呂村(トコロ)」「少牛村(チイウシ)」「鐺沸村(トウフツ)」「生顔常村(ムエカホツネ)」「太茶苗村(フトチャンナヘ)」「野付牛村(ノツケウシ)」「手師学村(テシマナイ)」と改められる。

オホーツク海;アジア大陸北東端のカムチャツカ半島とサハリン島・千島列島・北海道とで囲まれた縁海。面積160万平方km。平均水深838m、最深3521m。サケ・マス・タラ・カニなどを産する。

脱獄囚(だつごくしゅう);囚人が獄をぬけ出して逃げること。ろうやぶり。破獄。脱監。

作地場(さくじば);工作をするところ。刑務所内の産品を製造するところ、また、社会に復帰したときの技術を身に付けるための作業場。

産声(うぶごえ);子供の生れた時にはじめてあげる声。産声を上げる事によって肺呼吸が始まる大事な一声。
 子宮内では、胎児は臍静脈を通じて母体の動脈血中の酸素の供給を受け、炭酸ガスや老廃物を含んだ臍動脈血を再び母体の静脈血中に戻している。そのため肺によるガス交換は行われていないが、出生により母体から酸素供給が受けられなくなると新生児の血液内に炭酸ガスがたまり、これが呼吸中枢を刺激して最初の吸気が起り続いて呼吸が起る。この呼気が産声となる。したがって産声が聞かれないことは仮死の兆候であり、酸素欠乏による脳損傷の危険性を意味する。

駐在所(ちゅうざいしょ);駐在する所。特に、巡査が受持の区域内に住まい家族と共に駐在して警察事務を取り扱う所。

開拓開墾(かいたく かいこん);山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にすること。当時、開拓使がいて、北海道並びにその属島の行政・開拓をつかさどった官庁。1869年(明治2)創設、82年廃止。
 開拓使官有物払下事件=1881年(明治14)政府が、10年間多額の資金を投じた開拓使の官有物を五代友厚らの経営する関西貿易商会にわずかの値で払い下げようとした事件。同じ薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆と五代との癒着があるとして世論の猛攻撃をうけ、政府は払下げを中止した。10年後の国会開設の公約、参議大隈重信派の追放などを内容とした政変で、薩長藩閥体制が固まり、立憲制国家への途が確定した。

屯田兵(とんでんへい);北海道の警備と開拓のために設けられた屯田制の兵。1875年(明治8)設置、1904年廃止。兵士などを遠隔の地に土着させて、平時は農業に、非常の時は戦争に従事させること。もと中国の土地制度で、新領土や国有地に耕作者集団を導入して耕作させた。漢代に始まり、明清に至る。北海道の開墾のために移住、入植させるために兵として、通常は農民として北海道を護って田畑を作っていった。



                                                            2019年8月記

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