落語「深山がくれ」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「深山がくれ」(みやまがくれ)より
■深山がくれ(みやまがくれ);山奥深く隠れていること。また、山の深い所。
この落語は上方の噺で、前座噺とされていましたが、登場人物も多くハメモノ(下座からの囃子)も多く、生半可の力では御し得ない噺です。この噺をすると大成しないとか言われ、また、面白さが無い噺でやり手が居なかったが、露の五郎兵衛や桂吉朝などわずかな落語家さんでしか伝わりませんでした。五郎兵衛はこの噺で1973年、大阪府民劇場奨励賞を取っています。東京では二代目桂小南だけですので、今回桂小南を取り上げています。
■肥後の天草(あまくさ);熊本県天草地方の島部の市で、熊本県下では熊本市・八代市に次いで3番目の人口を擁する。また、九州と橋で繋がっている離島自治体の中では最も人口が多い。
■噺家山(はなしかさん);噺の中の架空の山です。こんな名前の山を日本中探しても何処にもありません。山賊が隠れ住むほどの、奥深くにある山と言うことなのでしょう。落語のジョークです。
■女頭目の山賊(おんなとうもくの さんぞく);山賊は山間に本拠地を構えて集団生活をし、平野部の農村や街道を往来する人間や物資を襲う盗賊。ヨーロッパ、アメリカ、中国には事例が多い。日本では古くから政治支配の及ばない地域が少いので、固定的に本拠地を構える盗賊集団は成立せず、単なる追いはぎのことを山賊といった。映画や小説で山賊のように扱われる野武士は、領主化を目指したり、戦国大名に動員されて武力行使した地侍 (じざむらい) の集団で、必ずしも職業的な盗賊ではなかった。その山賊の頭が女であった。
■庄屋(しょうや);庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。
■山賤(やまがつ);山仕事を生業とする身分の低い人。きこりや杣人(そまびと)などをいった。その人達が住む家。自分を卑下して言った語。
■シャク(癪);種々の病気によって胸部・腹部に起る激痛の通俗的総称。さしこみ。「男の疝気(せんき)に女性の癪は持病」だと言われます。癪の合い薬は世間では、男のマムシ指で患部を押すと良いとか、または男の下帯(ふんどし)で身体を縛ると良いとか言われます。
■印籠(いんろう);一般的に扁平な長方形の三重ないし五重の小ばこから成る容器。左右両端に通した緒に緒締(オジメ)・根付(ネツケ)をつけて、帯に挟む。古くは印や印肉を入れたが、江戸時代は薬類を入れた。蒔絵・螺鈿(ラデン)・彫漆(チヨウシツ)など、とりどりの意匠とあいまって、精巧な工芸品となる。
東京国立博物館蔵
■黒塗りの足駄(あしだ);雨の日などにはく、高い二枚歯の下駄。高下駄。現代では差し歯下駄(げた)の歯の高いものをいうが、古くは下駄の総称。「足駄」は足下(あしした)あるいは足板(あしいた)の音便(おんびん)から出たとされている。これは、平安時代には僧兵や民間の履き物であったし、中国では仙人の履き物ともされた。この履き物は室町時代になると一般化し、『七十一番職人歌合(うたあわせ)絵巻』のなかには、足駄つくりの絵がみられる。当初の形は、長円形の杉材の台に銀杏(いちょう)歯を差し込んだ露卯(ろぼう)下駄の高(たか)足駄か、歯の低い平(ひら)足駄であった。露卯下駄は歯の臍(ほぞ)(へそ)が台の上に出たものである。この形をしたものは、江戸末期まで地方文化の遺産として残った。江戸末期になると、江戸では差し歯の高い下駄を高下駄、歯の低いものと連歯(れんし)下駄を下駄といい、大坂では足駄の名前は廃れて、差し歯も連歯のものもすべて下駄というようになった。最近は、足駄は雨のときに履くので雨下駄といい、歯の低い差し歯物を日和(ひより)下駄といっているが、元来は江戸末期のころ、日中に履く庶民のものであった。
左絵:『伴大納言絵詞』にみる足駄
平安時代の絵巻に描かれた足駄(あしだ)。歯の下側が広がる銀杏歯(いちょうば)であることがわかる。『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』(部分) 模写国立国会図書館所蔵。
■大長刀(おおなぎなた);薙刀。長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具で、当初は「長刀」(“ながなた”とも読まれた)と表記されていたが、「刀」に打刀という様式が生まれると、「打刀」を「短刀」と区別するために呼称する「長刀(ちょうとう)」と区別するため、「薙刀」と表記されるようになった。
楊洲周延画による巴御前。巴御前は薙刀を持って戦っています。
■紅蓮の炎(ぐれんのほのお);盛んに燃え上がる炎の色にいう語。
■御簾(みす);ぎょれん、とも読ます。宮殿や社寺で用いる場合のすだれの呼称。材料によって葦簾、茅 (かや) 簾、菰 (こも) 簾、玉簾などの名がある。竹は黄色に染め、周囲に萌黄の縁をつけ、その上辺の広い部分を帽額 (もこう) といった。巻上げるときに使う鉤 (かぎ) のついた紐が上から垂れ、その紐には白、赤、黒に染め分けた房がついている。寝室ではひさしの内側に掛け、母屋では外側に掛けるなど、日よけとしてではなく、むしろ境界に用い、また風寒をさえぎり、外見を避けるのに用いられた。
■森宗意軒(もり そういけん);(?~1638)島原の乱の指導者の一人。小西行長の旧臣で、関ヶ原の合戦後天草に土着。島原の農民の窮状を見かねて乱を起こした。原城落城時に戦死したという。
父は西村孫兵衛(森長意軒)。先祖の代から、河内国石川郡の水分五社大明神の南木大明神で神司を勤めていた。
宗意軒は号であり、幼名は傅之丞。傅之丞は武士となって三左衛門と称し、小西行長へ奉公に出たという。文禄・慶長の役時に、行長の荷物を運ぶ船宰領(船頭)となって朝鮮へと渡航した。しかし途中で難破し南蛮船に助けられ、南蛮へ行く。オランダにも行き、6~7年間を過ごした。
その後、中国で入廟老という者に火術、外科治療の法、火攻めの方法などを伝授した。日本へ戻ってきた時にはすでに行長は刑死しており、そのため高野山にしばらく身を潜めた。大坂の陣では真田信繁の軍について戦うが落城し、肥後国天草島へ落ちのび森宗意軒と改名して住んだ。
島原の乱で戦死。弟子に田崎刑部がいる。
熊本県上天草市大矢野町中柳地区に森宗意軒神社がある。
■大身の槍(おおみのやり);槍の一種で、日本独自の進化を遂げた槍。 穂先が1尺(30.3cm)以上のものを指し、その長大な穂先を利用した薙ぎ払いも可能で、扱いは難しいが乱戦においては無類の強さを誇る。
■金銀財宝(きんぎんざいほう);金貨と銀貨。かね。金銭。財貨と宝物。宝。たからもの。
■婆は川で洗濯(ばばはかわでせんたく);日本昔話の桃太郎、最初の出だしに、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」のパリディ。
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