落語「深山がくれ」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「深山がくれ」(みやまがくれ)より


 

 ところは肥後の天草です。山奥の深山の噺家山に女頭目の山賊が住み着いたとの噂が流れました。放っておくことが出来ないと、庄屋さんの屈強な息子源吾が退治に出掛けた。日が暮れ時に深山の奥で十六七の娘が道の中程にうずくまっております。「何者じゃ」、「山賤(やまがつ)の者で、持病のシャクに苦しんでおります」、「家伝の妙薬を持っておる」、印籠から出して娘に・・・。「おかげさまで、痛みも晴れて参りました。お侍様は何処へ・・・。よろしかったら、私のあばら家へ・・・」、「道を間違え難儀をしておった、それは有り難い。世話になるぞ」。
 黒塗りの足駄を履いて、娘は山道をカランコロンと平気に歩いています。目の前の谷に架かった藤蔓で支えた丸木橋を、小娘は平気でカランコロンと渡ってしまいました。「こやつはただ者で無い」と油断無く渡っていると、娘が藤蔓を手にしたとき、源吾は飛び上がって対岸に飛び降りると娘を斬り殺すと同時に、丸木橋は谷底に落ちていった。下駄を取り上げ、首をはねて谷底に・・・。

 深山の奥に灯りがチラチラ。近づくと岩屋の門の隙間から光が漏れています。覗くと火の周りに山賊が20人ほど酒を酌み交わしています。話を聞いていると先ほどの娘は盗賊の一味。源吾は先ほどの足駄を出して、カランコロン。手下(てした)達は門の両側に手を突いてお出向かえ。首を伸ばしているところを源吾、両刀を抜いて20の首がそこにゴロゴロ、ゴロゴロ。

 なおも奥に進み、「たのもう~、たのもう~」、出て来たのが二十二三の色の浅黒い目尻のキリッとしたゾクッとするような好い女。「何用で」、「道に迷った、一夜の宿を願いたい」、「構いませんが、道の途中で小娘に会いませんでしたか」、「会った。怪しい奴だから、胴体と首を別々にした」、「うッ、途中に若い者がいませんでしたか」、「いた、20人ばかり首と胴を別々にした」、「あなたは・・・」。ひらりと屋敷の中に入り、出て来たときには白装束にタスキをあやなし大長刀(なぎなた)を小脇に抱え、「手下の仇、妹の仇、いざ神妙にいたせ」、刀を交えていましたが、盗賊の首領、ひらりと石灯籠の上に飛び上がり、そこから長刀を突きつけた。「降りて参れッ」、「ははは、わざわざ切られに降りるバカもいないでしょう」。ジリジリと間わいを詰められた女盗賊。若い男に下から覗かれて、慌てて着物の裾を直したときに油断が出た。飛び上がった源吾、首を取った。
 「女とは言え村人達の命を取って、金銀財宝を奪ったに違いは無い。村人に返す財宝を探さねばなるまい」。

 なおも奥へ進むと大きな扉、開けると床は一面の瓦敷き、天井には紅蓮の炎を吐く一匹龍、左には獲物に飛びかからんとする大鷲、右には月に向かって吠える虎、いかなる名人が描いたものやら、正面には御簾が下がり人の気配。奥に進もうとすると、「侍~、待て~」、御簾がスルスルと上がると、白髪の老婆。白髪をワラで束ねると、白装束に白袴、大身の槍を構えます。
 「(芝居口調で)われこそは千年天草のほとりにて、滅びなせし、森(もり)宗意軒(そういけん)は妻なりしが、我が夫は謀反に破れ、子細あってこの深山に閉じ籠もり、千人の生き血を取って神に差し上げなば、我が謀反の成就の満願。今、九百九十九人の生き血を取り、汝一人(いちにん)にて見破られしは、いかにも残念。手下の仇、娘の仇、勝負な、いたせぇ~ッ!」と、参るところでございますが、なにしろ相手は百歳になんなんと言う老婆でございますが、森宗意軒の妻、ピタリと槍を構えます。源吾やりあっていますが、「おのれ、ちゃむらい」、「侍と申せッ」、「おのれはちゃむらいと申すが、歳を取るとちゃむらいとしか言えん。おのれッ、やぁ~」、「心得たりッ」、大身の槍でガシッと受けたが、力余って槍の柄が真半分、穂先を投げ出した。やりっ放しはここから出た。残りの半分杖にして逃げ出した。

 (下座から『韋駄天』の囃子が入る) ドッコイサのサ、ドッコイサのコラサ、ドッコイサ。「待て~」、ドッコイサのコラサ、山に詳しい老婆、何を間違えたか、道を間違え、前には流れる川、途端に足元が乱れます。「捕まえたぞ。覚悟いたせ。この深山に金銀財宝が、さだめし隠しあるであろ? 白状いたせ」、「ははは、ちゃらぬ」、「知らぬと申すか。白状するのにこうしてくれるわ。こっちに来い。川の中にジャブジャブジャブ」、「こら、ちゃむらい何をするかッ。殺すなら殺せ」、「え~エ、殺してたまるか。昔から決まっておるわ。婆は川で洗濯じゃ」。

 



ことば

深山がくれ(みやまがくれ);山奥深く隠れていること。また、山の深い所。
 「吹く風と谷の水としなかりせば 深山がくれの花を見ましや」 〈古今和歌集・春歌下〉
 「かたちこそ深山がくれの朽木なれ 心は花になさばなりなむ」 兼芸法師

 この落語は上方の噺で、前座噺とされていましたが、登場人物も多くハメモノ(下座からの囃子)も多く、生半可の力では御し得ない噺です。この噺をすると大成しないとか言われ、また、面白さが無い噺でやり手が居なかったが、露の五郎兵衛や桂吉朝などわずかな落語家さんでしか伝わりませんでした。五郎兵衛はこの噺で1973年、大阪府民劇場奨励賞を取っています。東京では二代目桂小南だけですので、今回桂小南を取り上げています。 
 NHKの放送収録なので放送時間に合わせているので、露の五郎兵衛の噺より短くなっています。

肥後の天草(あまくさ);熊本県天草地方の島部の市で、熊本県下では熊本市・八代市に次いで3番目の人口を擁する。また、九州と橋で繋がっている離島自治体の中では最も人口が多い。
 島の中央には角山526m、倉岳682mが有り、島の北側には天草空港が有ります。海は綺麗でイルカの遊泳が見られますし、海の幸の料理が楽しめます。
 九州熊本を舞台にした落語は、他に「九州吹き戻し」があり、熊本県菊池郡の民話を題材にした「おはぎ大好き」が有ります。長崎を題材にした落語に「長崎の強飯」が有りますが、私の知る限り、この噺「深山がくれ」を含めても九州を舞台にした噺は4話しか有りません。その伝で行くと貴重な噺の一つです。

噺家山(はなしかさん);噺の中の架空の山です。こんな名前の山を日本中探しても何処にもありません。山賊が隠れ住むほどの、奥深くにある山と言うことなのでしょう。落語のジョークです。

女頭目の山賊(おんなとうもくの さんぞく);山賊は山間に本拠地を構えて集団生活をし、平野部の農村や街道を往来する人間や物資を襲う盗賊。ヨーロッパ、アメリカ、中国には事例が多い。日本では古くから政治支配の及ばない地域が少いので、固定的に本拠地を構える盗賊集団は成立せず、単なる追いはぎのことを山賊といった。映画や小説で山賊のように扱われる野武士は、領主化を目指したり、戦国大名に動員されて武力行使した地侍 (じざむらい) の集団で、必ずしも職業的な盗賊ではなかった。その山賊の頭が女であった。

庄屋(しょうや);庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。

山賤(やまがつ);山仕事を生業とする身分の低い人。きこりや杣人(そまびと)などをいった。その人達が住む家。自分を卑下して言った語。

シャク(癪);種々の病気によって胸部・腹部に起る激痛の通俗的総称。さしこみ。「男の疝気(せんき)に女性の癪は持病」だと言われます。癪の合い薬は世間では、男のマムシ指で患部を押すと良いとか、または男の下帯(ふんどし)で身体を縛ると良いとか言われます。
 男女の仲で、女性の意が男性に通じないときは、女性が都合良く癪が起きます。この時も口に水を含んで、直接女性に呑ませると治ることが多くあります。これは、空癪と言うこともあります。

印籠(いんろう);一般的に扁平な長方形の三重ないし五重の小ばこから成る容器。左右両端に通した緒に緒締(オジメ)・根付(ネツケ)をつけて、帯に挟む。古くは印や印肉を入れたが、江戸時代は薬類を入れた。蒔絵・螺鈿(ラデン)・彫漆(チヨウシツ)など、とりどりの意匠とあいまって、精巧な工芸品となる。

 東京国立博物館蔵

黒塗りの足駄(あしだ);雨の日などにはく、高い二枚歯の下駄。高下駄。現代では差し歯下駄(げた)の歯の高いものをいうが、古くは下駄の総称。「足駄」は足下(あしした)あるいは足板(あしいた)の音便(おんびん)から出たとされている。これは、平安時代には僧兵や民間の履き物であったし、中国では仙人の履き物ともされた。この履き物は室町時代になると一般化し、『七十一番職人歌合(うたあわせ)絵巻』のなかには、足駄つくりの絵がみられる。当初の形は、長円形の杉材の台に銀杏(いちょう)歯を差し込んだ露卯(ろぼう)下駄の高(たか)足駄か、歯の低い平(ひら)足駄であった。露卯下駄は歯の臍(ほぞ)(へそ)が台の上に出たものである。この形をしたものは、江戸末期まで地方文化の遺産として残った。江戸末期になると、江戸では差し歯の高い下駄を高下駄、歯の低いものと連歯(れんし)下駄を下駄といい、大坂では足駄の名前は廃れて、差し歯も連歯のものもすべて下駄というようになった。最近は、足駄は雨のときに履くので雨下駄といい、歯の低い差し歯物を日和(ひより)下駄といっているが、元来は江戸末期のころ、日中に履く庶民のものであった。

左絵:『伴大納言絵詞』にみる足駄 平安時代の絵巻に描かれた足駄(あしだ)。歯の下側が広がる銀杏歯(いちょうば)であることがわかる。『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』(部分) 模写国立国会図書館所蔵。

 

大長刀(おおなぎなた);薙刀。長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具で、当初は「長刀」(“ながなた”とも読まれた)と表記されていたが、「刀」に打刀という様式が生まれると、「打刀」を「短刀」と区別するために呼称する「長刀(ちょうとう)」と区別するため、「薙刀」と表記されるようになった。
 江戸時代になると、薙刀術は槍術や剣術とともに武芸としての地位を確立した。薙刀を扱う武術流派も増え、各藩で稽古が行われた。また、薙刀術は武家の女子の教養や護身術としても受容され、「薙刀は女性が主に使う武器の一つである」というイメージが生まれることとなった。なお、「武家の女子が扱うようになったため必然的に薙刀全体が小振りな造りになっていった」という趣旨の説が存在するが、江戸時代の女子の薙刀稽古について詳細に述べた史料自体が稀でありその実態は定かではない。
 大薙刀は武具の長大化が流行した南北朝時代に多く作られた。大薙刀とは「大友興廃記」にあるように「大長刀の柄は一丈(約2m)、身は六尺あまり(約1.8m)」という異例もあるが、大体に刃も柄も旧来の薙刀より大型のものを言い、小薙刀は 旧来のように柄の短い(地上に立てて人の肩から耳のあたりぐらいの長さ)ものを言い、刃の長さだけで大小は言わない。

 

 楊洲周延画による巴御前。巴御前は薙刀を持って戦っています。

紅蓮の炎(ぐれんのほのお);盛んに燃え上がる炎の色にいう語。

御簾(みす);ぎょれん、とも読ます。宮殿や社寺で用いる場合のすだれの呼称。材料によって葦簾、茅 (かや) 簾、菰 (こも) 簾、玉簾などの名がある。竹は黄色に染め、周囲に萌黄の縁をつけ、その上辺の広い部分を帽額 (もこう) といった。巻上げるときに使う鉤 (かぎ) のついた紐が上から垂れ、その紐には白、赤、黒に染め分けた房がついている。寝室ではひさしの内側に掛け、母屋では外側に掛けるなど、日よけとしてではなく、むしろ境界に用い、また風寒をさえぎり、外見を避けるのに用いられた。

森宗意軒(もり そういけん);(?~1638)島原の乱の指導者の一人。小西行長の旧臣で、関ヶ原の合戦後天草に土着。島原の農民の窮状を見かねて乱を起こした。原城落城時に戦死したという。

  父は西村孫兵衛(森長意軒)。先祖の代から、河内国石川郡の水分五社大明神の南木大明神で神司を勤めていた。 宗意軒は号であり、幼名は傅之丞。傅之丞は武士となって三左衛門と称し、小西行長へ奉公に出たという。文禄・慶長の役時に、行長の荷物を運ぶ船宰領(船頭)となって朝鮮へと渡航した。しかし途中で難破し南蛮船に助けられ、南蛮へ行く。オランダにも行き、6~7年間を過ごした。 その後、中国で入廟老という者に火術、外科治療の法、火攻めの方法などを伝授した。日本へ戻ってきた時にはすでに行長は刑死しており、そのため高野山にしばらく身を潜めた。大坂の陣では真田信繁の軍について戦うが落城し、肥後国天草島へ落ちのび森宗意軒と改名して住んだ。 島原の乱で戦死。弟子に田崎刑部がいる。 熊本県上天草市大矢野町中柳地区に森宗意軒神社がある。
 写真:現在は天草五橋二号橋の近くで眺めのいい場所に住んでいた。上天草市大矢野町。

大身の槍(おおみのやり);槍の一種で、日本独自の進化を遂げた槍。 穂先が1尺(30.3cm)以上のものを指し、その長大な穂先を利用した薙ぎ払いも可能で、扱いは難しいが乱戦においては無類の強さを誇る。
 通常の槍の倍近い重量に、太く鋭い穂先、凄腕の槍使いの三点が折り重なるだけに、絶大な威力を発揮した。「天下三名槍」を振るった本多忠勝・福島正則・後藤基次らが、まさにその代表といえよう。 特にその長く大きな穂先は突くだけでなく斬撃にも対応出来るため、これを利用した薙ぎ払いなどを駆使し、乱戦では無類の強さを誇ったという。

金銀財宝(きんぎんざいほう);金貨と銀貨。かね。金銭。財貨と宝物。宝。たからもの。

  

婆は川で洗濯(ばばはかわでせんたく);日本昔話の桃太郎、最初の出だしに、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」のパリディ。

 


                                                            2019年9月記

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