落語「はなの都」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「はなの都」(はなのみやこ)より
■はなの都(はなのみやこ);華の都の美称。はなやかな都。また、花が盛りと咲いている都。 「 -パリ」
。落語では、鼻と花と華を掛けています。
■高下駄(たかげた);歯が上下方向に長いもの。普通の下駄より高さがあり、履くと身長が高く見え、高下駄と呼ばれる。歯が厚いものを書生下駄と呼んだり、歯が薄いものを板前下駄と称する。
■能勢の妙見山(のせの みょうけんさん);大阪府豊能郡能勢町野間中661
能勢妙見山。観光地と違い山奥に有るので参拝道は大変です。鎮宅霊符神と妙見大菩薩は同体で、もとは北辰=北斗星・北極星の信仰に始まるものです。
太古の昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、中国の道教では鎮宅霊符神、仏教では妙見大菩薩と呼ばれ、国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきました。
妙見大菩薩は日蓮宗以外でも、真言宗・天台宗また神道などに取り入れられています。
■茶断ち、塩断ち(ちゃだち しおだち);一般に祈願や禁忌観念から、ある種の食べ物などを断つことをいう。普通は病気を治す祈願として食断ちをすることをいう。茶断ち、塩断ちなどが行われているが、果物で梨(なし)断ちを行う例がしばしば聞かれる。これは歯痛を治す祈願に多くみられる。全国各地に歯痛に効験のある社寺があって、これに梨断ちをして祈る。断ち物の種類には魚や鳥というのもあり、いずれも祈願者の好きな物というのが多い。好きな物を断って祈るので効果があると信じられている。
■裸足詣り(はだしまいり);強い祈願の気持ちを表すため、はだしで神仏に参拝すること。
■百日詣り(ひゃくにちまいり);「百日詣 (もう) で」に同じ。100日間、同じ神社・仏寺に欠かさず参って祈願すること。百日参り。古くは百日間参籠することもあった。百夜参り。
■善哉(ぜんざい);善いと感じてほめ、または喜び祝う語。よいかな。
■長短の団扇(ちょうたんの うちわ);長なる団扇で扇ぐときは鼻が高くなり、短なる団扇で扇ぐときは鼻が低くなる
■天満の天神(てんまのてんじん);大阪市北区天神橋二丁目1番8号 に鎮座する神社(天満宮)。別名に大阪天満宮・天満天神・浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれている。
毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。
上写真、天満の天神さん
■親の池善右衛門(おやのいけ ぜんえもん);鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)のパロディー。江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前。
家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とする。初め酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。
■社務所(しゃむしょ);神社の事務を取り扱う所。
■祈祷師(きとうし);神仏にいのること。呪文をも含めてすべての儀礼の要素中、言語の形をとるもの。原始的には、対象や内容について別に限定なく、宗教的経験が自然に発露する独白のようなもの。「加持祈祷」。
■千両箱(せんりょうばこ);江戸時代、金貨を保管した箱。初め千両を収めたことからの呼称。普通、一分判金または小判金25両包みのもの40個を入れる。木製で鉄帯を格子状に打ちつけてある。
■芸者(げいしゃ);歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓(ゲイギ)。芸子(ゲイコ)。
■太鼓持ち(たいこもち);人に追従してその機嫌取りをする者。太鼓たたき、から出た言葉で、遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男。幇間(ホウカン)。末社(マツシヤ)。太鼓。この職種の男も落語の世界では主役になったり脇役になったり、随所に顔を出します。
■新町(しんまち);現在の大阪市西区新町一~二丁目に存在した遊廓。豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の五曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されています。
■京都の舞妓(きょうとの まいこ);舞を舞って酒宴の興を添える少女。芸者にまだ成り切らない、若い娘芸者。若いだけで芸が未熟な半人前の芸者で、玉代(料金)も半額だったので半玉とよばれた。締める帯がだらりの帯で見分けが付く。おしゃく。
■琵琶湖(びわこ);滋賀県中央部にある断層湖。面積670.5平方kmで、日本第一の湖。湖面標高85m。最大深度104m。風光明媚。受水区域が広く、上水道・灌漑・交通・発電・水産などに利用価値大。湖中に沖島・竹生島・多景島・沖の白石などの島がある。近江の海。鳰(ニオ)の海。
■名古屋の金のシャチホコ(なごやの きんのしゃちほこ);金鯱が乗った、名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
■静岡のお茶(しずおかの おちゃ);静岡県で生産されているお茶(緑茶)であり、そのブランド名である。牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は日本国内第一位である。
宇治茶、狭山茶と並んで日本三大茶とされる。 江戸時代に入ると慶長年間より、御用茶を駿河の足久保や大河内から江戸の将軍家へ届ける下命があった。また東海道沿道では参勤交代の武士を始め多くの旅人が行き交い茶の消費や江戸への出荷も増えた。
■熱海(あたみ);静岡県の市。静岡県の最東部に位置し、神奈川県と接する観光温泉町。
■横浜市(よこはまし);関東地方南部、神奈川県の東部に位置する同県の県庁所在地。日本で二番目の人口を持つ都市。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ374万人。人口集中地区人口は東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区の全域と港南区の一部)。
幕末に開港された横浜港を擁する港湾都市であり、外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。その過程で形成された横浜中華街などは観光地にもなっている。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。
横浜都市圏として企業・商業集積を持つ一方で、東京都へ多くの市民が通勤・通学するベッドタウンでもある。
上写真、横浜から海に向かって埋め立てがなされ、その地を”みなとみらい21”と言い、新しいビルや、ホテルが建ち並ぶ未来都市になっています。当然海も見えますし、船を見ることも出来ます。
■高輪の泉岳寺(たかなわの せんがくじ);東京都港区高輪2-11-1。
上写真、泉岳寺、四十七士の墓所。何時行っても線香の煙が絶えません。
■隅田川(すみだがわ);東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
上写真、遊覧船が走る隅田川。赤い吾妻橋と奥に見えるアサヒビールの建物とその奥に東京スカイツリーが見えます。
■東京タワー(とうきょうタワー);東京都港区芝公園4丁目2-8。右写真。
■高いビル群の新宿(しんじゅく);東京都新宿区西新宿。西新宿の範囲は新宿駅の西口から、渋谷区と中野区の区境付近までで、日本でも屈指のターミナル駅である新宿駅の西側一帯の地域。繁華街のほか新宿新都心(副都心)と呼ばれる超高層ビル街がある。超高層ビル群は日本最大級のオフィス街を形成しているが、周辺には再開発されていない古くからの住宅街も存在する。都庁がここに有り、ビジネス高層ビル群やホテル、デパートなどが林立している。写真下、新宿高層ビル群。
■上野広小路(うえのひろこうじ);江戸幕府が明暦3年(1657)の明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種として上野や両国などに設置された。火災の類焼を食い止める役割を果たした。 現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。上野広小路は、現在の上野公園(旧寛永寺)周辺で、現在の上野公園入口から松坂屋に至る一帯。歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道で、沿道に食料品店、料理店などが並ぶ繁華街であった。現在の中央通りと不忍通りの交差点には、忍川しのぶがわが流れており、三つの橋が並んでかけられていたことから三橋と呼ばれた。松坂屋、三橋は錦絵にも描かれた。山下は、東叡山の下の意味。現在のJR上野駅構内と駅前広場にあたる。元文2年(1737)の火災ののち火除け地となり、町屋は開かれず、商店や見世物小屋が立ち並ぶ歓楽街となった。写真下:上野広小路。左奥が松坂屋、写真手前が上野公園。
■本牧亭(ほんもくてい);東京の定席のひとつ、鈴本演芸場は江戸時代に開設された「本牧亭」の流れをくみ、160年の歴史を誇ります。
日本の寄席演芸の歴史とともに歩んできたといえます。この界隈は不忍池が現在より張り出しており、あたりの地形が横浜に似ていました。また、近隣には金沢というお菓子屋さんがあり、このことが横浜の本牧を連想させることから、「本牧亭」と名付けられたそうです。
明治時代になり、本牧亭の席亭は苗字を鈴木としました。この苗字の「鈴」と本牧亭の「本」を合わせてとって講釈場の名前を「鈴本」と変更しました。名前は後に「鈴本亭」さらに「鈴本演芸場」と変遷していきます。
元々の「軍談席本牧亭」は現在の鈴本演芸場の裏手にありましたが、1923年の関東大震災の後に現在の場所に移りました。
その後、1971年にビルに建て替え、現在の鈴本が落成しています。写真右上、鈴本演芸場。
■西郷さん(さいごうさん);西郷隆盛像(さいごう たかもりぞう)は、日本の武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828年(文政11年) - 1877年(明治10年))の顕彰を目的として上野公園に建立された銅像。
■夜桜見物(よざくらけんぶつ);上野の山の桜は、天海僧正(1536 - 1643)が、江戸城鎮護を祈願して寛永寺を創建した時、上野の山の随所に桜の木を植えたことに始まる。桜の名所として知られるようになったのは元禄年間(1688 - 1704)。
写真、上野公園の花見風景。
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