落語「はなの都」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「はなの都」(はなのみやこ)より


 

 陽気が良くなってくると、寝ているような、起きているような、ポーッとするようなものです。

 「喜六そこで何をしている?」、「捜し物をして・・・」、「家の中で何か落とし物をしたのか。何を探している」、「仕事を探している」、「んッ?そうか。お前も遊んでばかり居ないで仕事をしなければいかん。どんな仕事を探しておる」、「寝ていて食べられる仕事はないかと・・・」、「??・・・、有る、有る、動物園に行ってライオンの檻に入って寝ていたら食べられる」、「食われてしまってはダメだ。寝ていてお金が入って、女の子から『あれぇ~』なんて言われるような・・・」、「そんな仕事があったら。他人に言うか。わしがやるわ」。
 「神様信心したらどうだ」、「寝ていて美味いものが食えるか?」、「能勢の妙見山にはすごい人だかりだった。何か御利益があるのだろう。茶断ち、塩断ちをしたり、裸足詣りをしていた人があったな」、「だったら、私は高下駄詣りをします」、「言っておくが、3日や1週間ではダメだぞ。百日詣りしなければ・・・」、「では妙見さんに行ってきます」。

 高下駄履いて、丁度100日目。朝早くから信心です。山肌を下の方からモヤが上がってきます。ウトウトとするような良い天気です。扉が開くと妙見さんが現れ、「善哉、善哉。これ喜六、我に願(がん)を掛け、その功によって、”長短の団扇”を授ける。長なる団扇で扇ぐときは鼻が高くなり、短なる団扇で扇ぐときは鼻が低くなる、ゆめゆめ疑うことなかれ。これにて金儲けの道を考えよ」、「ハックション。居眠りしていたのか。今変な人が現れて、長短の団扇と言っていたな。ここに汚い羽根で出来た団扇があるぞ。試してみよう。これはすごい。これで金儲けをしろと言ったな」。

 やって来ましたのが天満の天神さんで、黒山の人だかりです。「お祭りですか」、「今お詣りに来ますのじゃ。親の池善右衛門のお嬢さん」、「親の池?」、「あんた、大阪の人では有りませんな。鴻池さんの何倍も金持ちの親の池さんです。お嬢さんが良いお婿さんを探して欲しいとお願いに来るんです」、「あッ、あれですか。綺麗なお嬢さんですね」、「社務所は何処ですか?」、「この突き当たりです」。
 「ここは社務所ですか」、「そうです」、「私、飾り物の職人です。先ほど見たら、錆びているのが有ります。無料で磨かせてください」、「それはご奇特なことで」、「昼は仕事が有りますので、夜中に・・・」、「では夜、裏を開けておきます」。
 喜六さん、本殿に入り込み金物を磨かなくて大の字になって寝てしまった。夜が明けると、一番にお詣りに来たのが、親の池のお嬢さんの御一行。真ん中のお嬢さんめがけて、賽銭箱の隅から長団扇で仰ぎだした。お嬢さんの鼻が伸びに延びて、本殿奥で七回り半、とぐろを巻いた。お嬢さんはビックリ、それ以上にご両親もビックリ。天神さんでお払いや祝詞を上げましたが治りません。その間に喜六さん逃げ帰ってきました。お嬢さんは長い鼻を、並べた駕籠に乗せて屋敷に帰って来た。
 お嬢さん大広間で、肩で息をしています。大阪中の医者や祈祷師に診せましたが治りません。喜六は親の池の屋敷、斜前の空き家を借りて、大きな看板を出した『お鼻修繕所・高くは低く、低くは高く、これ人生最大の幸せ』、不思議な看板を上げたものです。

 「旦那さん、前にお鼻修繕所が出来ました」、「ま、銭が目的な者でしょうが、診て貰いなさい」。
 「治るが料金は一寸5両だ」、「やっぱり」。
 善六さん部屋に入ると、お嬢さんの前にうずたかく鼻がとぐろを巻いていた。「こんなに伸ばすことは無かった」、「えぇッ?」、「何でも無い。憑きものが有るのであろう。私が封じてやろう。それにはお供えに、天丼二つと鰻丼二つ、それに渋いお茶とお新香。お嬢さんがビックリするといけないので目隠しを。それから皆は隣の部屋で、覗くでないぞ。覗くと鼻が伸びる」、丼を全て平らげ、も~良いだろうと短い団扇で扇ぐと元通りの鼻に。喜六、奥に手を叩くと、「番頭ですが、よろしいでしょうか。あッ鼻が無い。ハナが無い、はなが無い」、まるで、桜の時期、嵐の後の上野のお山みたいです。これはお礼の印として、千両箱三つです。三千両。

 「源兵衛さん、千両箱が三つです。千両箱はそこに置いて帰って良いよ」、「千両箱のおもちゃか」、「本物ッ。源兵衛さんに言われたようにお詣りすると神様が出て来て・・・、この結果になりました。源兵衛さんにお礼がしたい。で、何がしたい?何が着たい?何が食べたい?」、「羊羹1本丸かじりしたい」、「そんな事より、芸者、太鼓持ち上げて遊ぼう」、「遊んだことが無い」、「だから行きましょう」。
 「あの橋を渡ると新町です」、「賑やかだな~」、「大きな見世に上がろう。若い衆、上がっても良いか」、「一杯飲み屋なら川向こうに有ります。えぇ、金が有るならどうぞお上がりください」。
 「芸者も大勢来たな。太鼓持ちも来たか。向こうで知らん顔している芸者二人こっちに呼んできてくれ。暑いか?煽いでやろう。ほ~ら、涼しくなっただろう」、窓を越えて新幹線みたいに見えなくなってしまいました。
 「一八、何処まで伸びたか見に行こう。弁当作ったから行くぞ。(お囃子韋駄天が入る)♪ドッコイサノサ、ドッコイショデコラサ、コラサノサァ」、「旦那何かにつまずきました」、「それはホクロだ」、「一八、あすこに綺麗な人が大勢居るな」、「京都の舞妓です」、「海が見えてきた」、「あれは、琵琶湖です」、「キラキラ光っているのは?」、「名古屋の金のシャチホコ」、「良い臭いがしているな~」、「静岡のお茶です」、「ドッコイサのコラサ。早く来いよ。あすこにお湯が沢山出ているが・・・」、「熱海」、「船が沢山有るぞ」、「横浜」、「お線香の臭いがしてきたぞ」、「高輪の泉岳寺」、「待て待て、終点だ。ここは?」、「東京です」、「大阪から東京まで鼻の上を走ってきたのか」。
 「(下座が東京音頭に)♪キラキラ光るのは隅田川、あの高いのが東京タワーです。あの高いビル群が新宿」、「あの賑やかなところは、上野広小路」、「皆がワイワイやってるな」、「本牧亭で小南が下手な落語やってます」、「あの山は?」、「上野の山です」、「威張ってるのは?」、「西郷さん」、「広い所で皆集まってるな」、「夜桜見物です」、「へえ~~、夜桜、さすがは”はなの都”だ」。

 



ことば

はなの都(はなのみやこ);華の都の美称。はなやかな都。また、花が盛りと咲いている都。 「 -パリ」 。落語では、鼻と花と華を掛けています。

高下駄(たかげた);歯が上下方向に長いもの。普通の下駄より高さがあり、履くと身長が高く見え、高下駄と呼ばれる。歯が厚いものを書生下駄と呼んだり、歯が薄いものを板前下駄と称する。
 一本歯も有り、山道を歩くための下駄であり、山の中で修行する僧侶や山伏などの修験者が主に用いた。このことが由来となって天狗が履いていたとされ、「天狗下駄」とも呼ばれる。昔は越後獅子など芸能や曲芸をする者がバランス能力を見せるために履いた。

能勢の妙見山(のせの みょうけんさん);大阪府豊能郡能勢町野間中661 能勢妙見山。観光地と違い山奥に有るので参拝道は大変です。鎮宅霊符神と妙見大菩薩は同体で、もとは北辰=北斗星・北極星の信仰に始まるものです。 太古の昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、中国の道教では鎮宅霊符神、仏教では妙見大菩薩と呼ばれ、国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきました。 妙見大菩薩は日蓮宗以外でも、真言宗・天台宗また神道などに取り入れられています。
 妙見大菩薩の神格化する北極星は、常に北を指しています。昔から旅人の指針として仰ぎ見られてきたことから、人生の道を導き開いてくれる開運の守護神として深く信仰されてきました。
 東京別院:東京都墨田区本所4-6-14。山奥の本社と違って行き易いところに有ります。勝海舟の父親小吉が祈願したところで有名。2月の水行は若い僧侶達が水を頭からかぶる荒行で有名です。
 写真:東京別院で行われる水垢離。

茶断ち、塩断ち(ちゃだち しおだち);一般に祈願や禁忌観念から、ある種の食べ物などを断つことをいう。普通は病気を治す祈願として食断ちをすることをいう。茶断ち、塩断ちなどが行われているが、果物で梨(なし)断ちを行う例がしばしば聞かれる。これは歯痛を治す祈願に多くみられる。全国各地に歯痛に効験のある社寺があって、これに梨断ちをして祈る。断ち物の種類には魚や鳥というのもあり、いずれも祈願者の好きな物というのが多い。好きな物を断って祈るので効果があると信じられている。

裸足詣り(はだしまいり);強い祈願の気持ちを表すため、はだしで神仏に参拝すること。

百日詣り(ひゃくにちまいり);「百日詣 (もう) で」に同じ。100日間、同じ神社・仏寺に欠かさず参って祈願すること。百日参り。古くは百日間参籠することもあった。百夜参り。

善哉(ぜんざい);善いと感じてほめ、または喜び祝う語。よいかな。

長短の団扇(ちょうたんの うちわ);長なる団扇で扇ぐときは鼻が高くなり、短なる団扇で扇ぐときは鼻が低くなる

天満の天神(てんまのてんじん);大阪市北区天神橋二丁目1番8号 に鎮座する神社(天満宮)。別名に大阪天満宮・天満天神・浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれている。 毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。
 白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した際、その西北に守護神として大将軍社を創建したのが当社の始まり。 延喜元年(901)に菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、この地にあった大将軍社に参詣した。そして、延喜3年(903)に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始める。 天暦3年(949)に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によってこの地に天満宮を建立させた。以後、当社は天満宮が中心の神社となる。

 上写真、天満の天神さん

親の池善右衛門(おやのいけ ぜんえもん);鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)のパロディー。江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前。 家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とする。初め酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。
 上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。

社務所(しゃむしょ);神社の事務を取り扱う所。

祈祷師(きとうし);神仏にいのること。呪文をも含めてすべての儀礼の要素中、言語の形をとるもの。原始的には、対象や内容について別に限定なく、宗教的経験が自然に発露する独白のようなもの。「加持祈祷」。
 祈祷師はその祈祷を行う神官・僧侶。

千両箱(せんりょうばこ);江戸時代、金貨を保管した箱。初め千両を収めたことからの呼称。普通、一分判金または小判金25両包みのもの40個を入れる。木製で鉄帯を格子状に打ちつけてある。
 右写真:千両箱を持ち上げる少女。総重量14kg
江戸東京博物館。

芸者(げいしゃ);歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓(ゲイギ)。芸子(ゲイコ)。

太鼓持ち(たいこもち);人に追従してその機嫌取りをする者。太鼓たたき、から出た言葉で、遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男。幇間(ホウカン)。末社(マツシヤ)。太鼓。この職種の男も落語の世界では主役になったり脇役になったり、随所に顔を出します。

新町(しんまち);現在の大阪市西区新町一~二丁目に存在した遊廓。豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の五曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されています。
 落語「土橋漫才」より孫引き。 新町の廓地図有り。

京都の舞妓(きょうとの まいこ);舞を舞って酒宴の興を添える少女。芸者にまだ成り切らない、若い娘芸者。若いだけで芸が未熟な半人前の芸者で、玉代(料金)も半額だったので半玉とよばれた。締める帯がだらりの帯で見分けが付く。おしゃく。

琵琶湖(びわこ);滋賀県中央部にある断層湖。面積670.5平方kmで、日本第一の湖。湖面標高85m。最大深度104m。風光明媚。受水区域が広く、上水道・灌漑・交通・発電・水産などに利用価値大。湖中に沖島・竹生島・多景島・沖の白石などの島がある。近江の海。鳰(ニオ)の海。
右写真:琵琶湖南端。琵琶湖大橋を望む。

名古屋の金のシャチホコ(なごやの きんのしゃちほこ);金鯱が乗った、名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
 1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。 しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730年(享保15年)・1827年(文政10年)・1846年(弘化3年)の3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。 
 徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。現在の金鯱は復元されたもの。一対に使用された金の重量は88kg。現在の鯱の大きさは、雄2.62m、雌2.57m。
右写真:名古屋城の金のシャチホコ。

■静岡のお茶(しずおかの おちゃ);静岡県で生産されているお茶(緑茶)であり、そのブランド名である。牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は日本国内第一位である。 宇治茶、狭山茶と並んで日本三大茶とされる。 江戸時代に入ると慶長年間より、御用茶を駿河の足久保や大河内から江戸の将軍家へ届ける下命があった。また東海道沿道では参勤交代の武士を始め多くの旅人が行き交い茶の消費や江戸への出荷も増えた。
右写真:茶摘み風景。

熱海(あたみ);静岡県の市。静岡県の最東部に位置し、神奈川県と接する観光温泉町。
  海から熱い湯が湧き出ていたことや「あつうみが崎」とも呼ばれていたことなどから、江戸時代までには「熱海」表記が定着した。1924年(大正13年)に国鉄の熱海線(国府津~熱海間)が開通し、さらに1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通して沼津と連結され、東海道線が(現・御殿場線のルートから)熱海を経由する現ルートへと切り替わったことで、交通の便が劇的に向上し、また関西方面からの来遊客も加わるようになったことで、これ以降熱海への来遊客は目覚しく増えるようになり、またその内容も湯治から団体旅行中心となり、それに対応すべく旅館・各種施設も増えたことで、熱海は「湯治場」から「温泉観光都市」へと変容していくことになる。
 東海道新幹線が開通し、熱海駅は開業後10ヶ月の1日平均乗降客数が8092人で、東京・新大阪・名古屋・京都についで第5位となる。また、その前後の1960年代(昭和30-40年代)頃には、伊豆スカイライン・熱海ビーチライン・熱海新道・熱函道路といった各方面をつなぐ道路も整備され、熱海美術館・熱海城・熱海後楽園などの各種施設も開館するなど、より観光地としての地位を確固たるものにしていく。そして1969年(昭和44年)には、年間の観光客数がピークの532万人に達した。写真下:熱海の町並み。温泉の湯煙は見えません。
  『金色夜叉』:尾崎紅葉(1897年 - 1902年、未完)を下敷きにした落語「金色夜叉」があります。

横浜市(よこはまし);関東地方南部、神奈川県の東部に位置する同県の県庁所在地。日本で二番目の人口を持つ都市。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ374万人。人口集中地区人口は東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区の全域と港南区の一部)。 幕末に開港された横浜港を擁する港湾都市であり、外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。その過程で形成された横浜中華街などは観光地にもなっている。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。 横浜都市圏として企業・商業集積を持つ一方で、東京都へ多くの市民が通勤・通学するベッドタウンでもある。
 江戸時代末期には、神奈川沖・小柴(旧・六浦湊外周部)で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。実際には神奈川湊の対岸にある横浜村(現在の中区関内地区)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。安政6年6月2日(1859年7月1日)に開かれた横浜港は「金港」とも呼ばれ、生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として急速に発展。横浜を日本の代表的な国際港湾都市へと発展させる礎となった。
 現在は鉄道駅、東海道線横浜駅からは、海も船も見えない。また新幹線・新横浜からではなお見えない。

 上写真、横浜から海に向かって埋め立てがなされ、その地を”みなとみらい21”と言い、新しいビルや、ホテルが建ち並ぶ未来都市になっています。当然海も見えますし、船を見ることも出来ます。

高輪の泉岳寺(たかなわの せんがくじ);東京都港区高輪2-11-1。
 萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546~1621)を迎えて開山となしました。
 山号の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されています。 寛永18年(1641)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604~1651)の命により現在の高輪の地に移転再建されました(一説に移転は正保年間〈1644~1648〉とも)。 この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の五大名が尽力して完成したその因縁により、爾後この五大名が共に檀越となり外護の任に当っています。
 また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の吉良邸討ち入り(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになった。

 上写真、泉岳寺、四十七士の墓所。何時行っても線香の煙が絶えません。

隅田川(すみだがわ);東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
 明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称された。江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれ、また、「宮戸川」などとも呼称されていた。

 上写真、遊覧船が走る隅田川。赤い吾妻橋と奥に見えるアサヒビールの建物とその奥に東京スカイツリーが見えます。

 落語の舞台にも登場しています。その一部として、
 「文七元結」- 文七が吾妻橋から身を投げようとする場面がある。
 「唐茄子屋政談」- 吾妻橋から身投げしようとした若旦那が叔父に助けられる。
 「たがや」- 川開きの花火でごった返している両国橋の上が噺の舞台。
 「永代橋」- 実際にあった落橋事故を題材にした粗忽噺。
 他には、「宮戸川」、「もう半分」、「髪結新三」、「刀屋・(おせつ徳三郎・下)」、「船徳」、「巌流島」、「小猿七之助」、「権助魚」、「佃祭」、「花見小僧・(おせつ徳三郎・上)」、「花見酒」、「水たたき」、「身投げ屋」、「両国八景」、「やかんなめ」、が有りますね。また、隅田川河畔の浅草寺を舞台とした多くの噺が有ります。

東京タワー(とうきょうタワー);東京都港区芝公園4丁目2-8。右写真。
 日本の「塔博士」とも称される内藤多仲(ないとう・たちゅう)らによって設計された。 高さは333mと広報されており(海抜351m)、塔脚の間隔は88.0m。総工費約30億円、1年半(1,974,015時間/543日間)と延べ219,335人の人員を要して1958年12月23日竣工。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔。重量については約4000tとされる。
 テレビおよびFMラジオのアンテナとして放送電波を送出、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信する他、東京都環境局の各種測定器なども設置されている。

高いビル群の新宿(しんじゅく);東京都新宿区西新宿。西新宿の範囲は新宿駅の西口から、渋谷区と中野区の区境付近までで、日本でも屈指のターミナル駅である新宿駅の西側一帯の地域。繁華街のほか新宿新都心(副都心)と呼ばれる超高層ビル街がある。超高層ビル群は日本最大級のオフィス街を形成しているが、周辺には再開発されていない古くからの住宅街も存在する。都庁がここに有り、ビジネス高層ビル群やホテル、デパートなどが林立している。写真下、新宿高層ビル群。

上野広小路(うえのひろこうじ);江戸幕府が明暦3年(1657)の明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種として上野や両国などに設置された。火災の類焼を食い止める役割を果たした。 現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。上野広小路は、現在の上野公園(旧寛永寺)周辺で、現在の上野公園入口から松坂屋に至る一帯。歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道で、沿道に食料品店、料理店などが並ぶ繁華街であった。現在の中央通りと不忍通りの交差点には、忍川しのぶがわが流れており、三つの橋が並んでかけられていたことから三橋と呼ばれた。松坂屋、三橋は錦絵にも描かれた。山下は、東叡山の下の意味。現在のJR上野駅構内と駅前広場にあたる。元文2年(1737)の火災ののち火除け地となり、町屋は開かれず、商店や見世物小屋が立ち並ぶ歓楽街となった。写真下:上野広小路。左奥が松坂屋、写真手前が上野公園。

本牧亭(ほんもくてい);東京の定席のひとつ、鈴本演芸場は江戸時代に開設された「本牧亭」の流れをくみ、160年の歴史を誇ります。 日本の寄席演芸の歴史とともに歩んできたといえます。この界隈は不忍池が現在より張り出しており、あたりの地形が横浜に似ていました。また、近隣には金沢というお菓子屋さんがあり、このことが横浜の本牧を連想させることから、「本牧亭」と名付けられたそうです。 明治時代になり、本牧亭の席亭は苗字を鈴木としました。この苗字の「鈴」と本牧亭の「本」を合わせてとって講釈場の名前を「鈴本」と変更しました。名前は後に「鈴本亭」さらに「鈴本演芸場」と変遷していきます。 元々の「軍談席本牧亭」は現在の鈴本演芸場の裏手にありましたが、1923年の関東大震災の後に現在の場所に移りました。 その後、1971年にビルに建て替え、現在の鈴本が落成しています。写真右上、鈴本演芸場。
 本牧亭は1990年(平成2年)1月閉場。 現在廃業して、その跡は飲食店になってしまい、当時の面影は全くありません。

西郷さん(さいごうさん);西郷隆盛像(さいごう たかもりぞう)は、日本の武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828年(文政11年) - 1877年(明治10年))の顕彰を目的として上野公園に建立された銅像。
 明治31年(1898)の建立で、筒袖に兵児帯姿、わらじばきの像は高村光雲(1852 - 1934)の作。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合、遠近法で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。東京タワーや西新宿の高層ビル街と並ぶ、東京の象徴的光景となっている。
 右写真:上野公園の西郷さんの銅像。

夜桜見物(よざくらけんぶつ);上野の山の桜は、天海僧正(1536 - 1643)が、江戸城鎮護を祈願して寛永寺を創建した時、上野の山の随所に桜の木を植えたことに始まる。桜の名所として知られるようになったのは元禄年間(1688 - 1704)。
 上野観光連盟は、第二次世界大戦後の物資難時代に上野の山に桜の木を千二百五十本植えたり、つつじを一万株、八重桜三百本と、これらは皆地元の人たちが資金を出し合って上野の山へ植栽したもの。

 写真、上野公園の花見風景。



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