落語「抜け裏」の舞台を行く
   

 

 四代目三遊亭円遊の噺、「抜け裏」(ぬけうら)より


 

 長屋と長屋の間に路地が有りまして、『路地の風 曲がりくねって 吹きにけり』という一茶の句も残っています。長屋に住む人は身上も軽ければ身も軽かったので、落語の材料になりました。

 「大家さん、おはよう」、「おはようござい」、「何だぃ、皆そろって」、「家賃の催促かと思って・・・」、「そんなことじゃないんだ。皆の知恵を借りたいんだ。竹さん、何かあるかぃ」、「腹を揺するとガバガバするほど有るよ。唐土の孔明、楠木正成、真田幸村なんか、俺の前では尻尾を丸めて逃げ出すね」、「実は、長屋の路地なんだが、ここを抜けると電車の停留所が有って、近道なんだ。うるさいだろう」、「うるさいだけじゃ無いんだ、家の中を覗いて悪口言うんだ。また、どぶ板がうるさいんだ」、「どぶ板をコンクリの蓋に変えたいが金を出してくれないか。直ぐ直すよ」、「金は・・・」、「みんな陰気になったな。で、知恵を出して欲しい」、「路地の両側に人が立って5円で切符を売るんだ。回数券も出して通行料金を取ると収入になるよ」。
 「他には無いか」、「人が入れなければ良いんでしょ。入り口に高い塀をこしらえるんです」、「いい話だが、中に住まっている皆はどうするんだ」、「そうか。そこまで考えていなかった」。
 「他には・・・」、「長屋があるから、路地がある。路地が無ければドブも無く、ドブ板も要らない。風が強い日に火事が出れば、長屋も路地も無くなって静かになる」。
 「ダメだよ。鈴木の旦那、何か名案はありますか?」、「両入り口に、『路地内に猛犬おります。危険、通行無用』と張り紙を出すんだ。他に道はあるから通らなくなる。それでも入る人が居たら、犬の鳴き真似が上手い人が居るだろう。その人に鳴いて貰う。恐いと思っているところに鳴かれるから、二度と通らない。噂が立って、誰も通らなくなる。愚案を採用してくれるかぃ?」、「俺は犬の鳴き真似が上手いから、鳴き声をやるよ」。

 「婆さん、今日は誰も通らないな」、「いやいや、洋服を着たのが通るよ」、「婆さん、良っちゃんを呼んできて」、「任しておきな。『ブルブル、ワンワン』、逃げて行ったよ」、「上手いね。慌てていたよ。半纏を着た人が来た」、「あんなの一声だ『ブルブル、ワンッ!』、慌てて逃げて行ったよ」、「今度は若い娘だ」、「吉永小百合みたいで好きなんだ。『ワン』」、「何だい小さな声で・・・」、「婆さんが入ってきた。いけ好かない婆さんだ、頭を染めやがって、鳴かないで食らいついてやろうか。大家さん、見てみたら・・・」、「あれは家の婆さんだ。また入ってきた」、「休みなしで入ってくるね。喉がいがらっぽくなっちゃた。飲むものないかね」、「台所に行って、水でも飲んできな」、「冷たいね、酒は無いのかね」、「私は下戸だから無いよ。な~、婆さん」、「甥の岩公が来たときに買ってやった焼酎がコップ一杯分余っている」、「それで良いです。頂きます」、「呑んでいる場合では無いよ。次から次と入ってくるよ。早く鳴きなよ」、「お替わり」、「無いよ」、「もう半分」、「無いよ。早く鳴きなよ」、「『ニャ~ォ』」、「お前は犬だ」、「犬だとは何だッ(バチンッ)」、「殴ったね」、「これだけのことやってんだ、家賃タダにするとか、祝儀を出すとかしないんだ」、「お前は酒癖が悪いな。殴ったり、突いたりして・・・。良っちゃん、お前は酔った上で何も知らずにやっているんだろう」、「いいえ、みんな焼酎(承知)の上です」。

 



ことば

四代目 三遊亭 圓遊(さんゆうてい えんゆう);(明治35年(1902)2月12日 - 昭和59年(1984)1月9日)、東京都中央区京橋越前堀出身。生前は落語芸術協会所属。本名は加藤 勇(かとう いさむ)。出囃子は『さつまさ』。
 日本橋箱崎の尋常小学校を卒業後、浅草の下駄屋に奉公に出た。その後下駄の行商、陸軍糧秣本廠の臨時工などを経て、大正11年(1922)11月に六代目雷門助六に入門し音助となる。大正13年(1924)春ころに二つ目に昇進し、おこしと改名。大正15年(1926)5月、六代目都家歌六を襲名し真打に昇進。
 その後昭和金融恐慌による経済不況もあって、昭和5年(1930)ころに柳家三太郎として品川区西小山で幇間に出る。その後戦争により花柳界が禁止されたため、昭和18年(1943)に二代目桂小文治の門下で初代桂伸治として落語界に復帰。戦後、昭和21年(1946)に四代目三遊亭圓遊を襲名。落語芸術協会の大看板として、またTBSの専属落語家として活躍した。
 芸風はあくまでも本寸法でありながら、聴衆に大御所風の威圧感を与えない軽快な語り口と独特の艶を帯びたフラで人気を博した。楽屋では同輩、後輩の誰かれとなく語りかけ、賑やかに笑わせていた。笑わされ過ぎて高座に上がれなくなった者もいたという。古き良き江戸の「粋」の精神を体現するかのような存在であった。 得意ネタは『野ざらし』『堀の内』『たいこ腹』『味噌蔵』など。 昭和55年(1980)10月5日に愛弟子の四代目三遊亭小圓遊に先立たれるという不幸に見舞われ高座からも遠のき、引退同然のまま昭和59年(1984)1月9日に亡くなった。81歳没。

五代目柳亭燕路(りゅうてい えんじ);昭和の初めに創られた、この演目「抜け裏」の作者。他に「長屋の算術」が有ります。(1886年12月28日 - 1950年6月25日)、はじめ竹本玉太夫(たまたゆう)という名の義太夫語り、1911年11月に二代目三遊亭圓遊の門下で新遊、1916年2月に三遊亭圓輔、1917年12月に若圓遊、1918年10月に四代目春風亭柳枝の門下で四代目春風亭柳條、1932年6月に晴志、再度柳條を経て1943年11月に五代目燕路を襲名。 享年64。本名は竹田新之助。

抜け裏(ぬけうら);抜小路。通り抜けられる裏道。ぬけみち。長屋によっては袋小路と言って、行き止まりの所もあります。長屋内の私道ですから外部の人が当たり前のように通行する公道とは違います。

路地(ろじ);表通りと比べて、人家・長屋の間の狭い道路。

身上(しんしょう);身代(シンダイ)。財産。家計。くらしむき。

大家さん(おおやさん);そのよび名から長屋の持ち主のように思われがちですが、じつは土地・家屋の所有者である地主から、長屋の管理を任されている使用人で、家守(やもり)、家主(いえぬし)ともよばれていました。現代で言う管理人です。豊かな地主は多くの長屋を持ち、それぞれに大家を置いた。
 その仕事は、貸借の手続き・家賃の徴収・家の修理といった長屋の管理だけでなく、店子と奉行所のあいだに立って、出産・死亡・婚姻の届け出・隠居・勘当・離婚など民事関係の処理、奉行所への訴状、関所手形(旅行証明書)の交付申請といった、行政の末端の種々雑多な業務を担当していました。  それだけに店子に対しては大いににらみをきかせ、不適切な住人に対しては、一存で店立て(強制退去)を命じることもできました。
 大家の住まいは、たいてい自分が管理する長屋の木戸の脇にあり、日常、店子の生活と接していましたから、互いに情がうつり、店子からはうるさがられながらも頼りにされる人情大家が多かったようです。
 (「大江戸万華鏡」 農山漁村文化協会発行より)

唐土の孔明(もろこしの こうめい);諸葛亮(シヨカツリヨウ)の字(アザナ)。三国時代、蜀漢の丞相。字は孔明。山東琅邪の人。劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅をよく補佐し、有名な出師表(スイシノヒヨウ)を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。(181~234)

楠木正成(くすのきまさしげ);南北朝時代の武将。河内の土豪。1331年(元弘1)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城にこもって幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。のち九州から東上した足利尊氏の軍と戦い湊川に敗死。大楠公(ダイナンコウ)。(1294~1336)

  

 皇居二重橋前にある楠木正成公の騎馬像。

真田幸村(さなだゆきむら);安土桃山時代の武将。昌幸の次子。名は信繁。幸村は俗伝。関ヶ原の戦の後、父と共に九度山に退去。冬の陣に大坂城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣に戦死。(1567~1615)

尻尾を丸めて逃げ出す;負けて逃げることにいう。

電車の停留所(でんしゃの ていりゅうじょ);電車とは路面電車のことで、都電と言われ都民の足として利用された。現在は荒川線が残るのみで、全て廃止され地下鉄に移行された。JRや私鉄の電車のことではありません。
 その都電の駅。右写真、江戸東京たてもの園。

猛犬注意(もうけんにちゅうい);昔は個人の住宅の門に、よくこの様な標識が付けてありました。お座敷犬を飼っている家にも貼ってあったように記憶しています。ま、泥棒除けの呪いのような物で、最近は貼る家も少なくなってしまいました。

どぶ板(どぶいた);下水の流れるドブの上に蓋として乗せた板。 
 右写真、深川江戸資料館。路地の中央にドブが掘ってあって、その上に木の板を乗せています。

半纏(はんてん);羽織に似るが襠(マチ)も襟の折返しもなく、胸紐も付けない衣服。ねんねこ半纏の類。また、職人が着る印(シルシ)半纏の略。

下戸(げこ);酒が飲めない人。広辞苑によると、酒を飲める人(上戸)から言わせると、
○下戸と化物は無い
本当に酒を飲めない者はいないの意。狂、宝の瘤取「いやいや―といふ程に、先づ盃を持て来い」
○下戸の肴(サカナ)荒し
下戸は酒を飲まないので、よく肴を食いあらすという意。
○下戸の建てたる倉もなし
下戸は酒を飲まないから金がたまりそうなものだが、そうかといって蓄えて倉を建てたという話も聞かない。

焼酎(しょうちゅう);蒸留酒の一種。日本酒製造の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留したもの。または米・麦・粟・黍(キビ)・稗(ヒエ)・玉蜀黍(トウモロコシ)・甘藷・馬鈴薯・糖蜜などを原料として造り、水で薄めたもの。飲料とし、また、各種の酒類製造の原料に用いる。
 噺の中では、「チビチビ楽しんで飲む酒ではなく、酔えば良いという酒だから、一気に飲んでしまおう」と言っています。炭酸で割ったり、お茶やトマトジュース、梅干しで割ったりするのも、元来無味無臭の味わいないものを味付けして呑んだ便法なのでしょうが、現在は、それだけで旨み充分な焼酎が出て来たので、割らずに基のまま味わいながら呑むことが出来ます。



                                                            2019年9月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system