落語「春の雪」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭円歌の人情噺、「春の雪」(はるのゆき)より


 

 文政の6年、暮れの12月25日に出火しました火事、麹町から外堀を越えて、神田川まで焼き尽くす大火になりました。火事場は大混乱。
 「甲州屋の婆やのお福さんじゃないか、何泣いてるんだ」、「お嬢様が居なくなっちゃったんだよ。どうしましょう?」、「霊岸島の寮に逃げることになっているんだろう」、「私ゃ、帰れないんだよ。お嬢さんを見失ったんだよ」、「兎に角、早く霊岸島に行って、大勢で探すのが先じゃないか」、「はい」。

 神田和泉町の材木問屋甲州屋助右衛門は類焼で丸焼け。これをチャンスに山奥の材木を買いにやらせていたが、孫娘”お蝶”が行方知れずになっているのを知ると、人間が変わったようになって、20数人の店の者、出入りの者、人足達が探したが見つからなかった。
 「鳶頭、未だ見つからないのですか」、「状況が状況ですから・・・。幕府への年300両の冥加金、その上、私ら町火消しの者にも節季にはお心遣い感謝しています」、「だったら、この時こそ働いてくれるのがスジだろう」、「焼死者や行方不明者が大勢出ています。一人に関わっていられないのです」、「そうかい、そうかい、この歳になって初めて世間の冷たさが解ったよ」。
 「甲州屋の旦那に会いたいと言う人が来ています」、「入れてやんな」、「私は、小柳町の自身番の佐助でございます。こちらが甲州屋の旦那様ですか。お嬢様が見つかりました。ご無事でね~」、「何処に居るんだぃ」、「婆やのお福さんが見付けて、焼け跡までお連れしました」、「では、そこまで連れて行っておくれ」。嬉しいとはこのことで、地に足が付かない状態です。

 「お爺ちゃ~んッ」、「そんなに首を絞めたら、爺ちゃん死んじゃうよ。お福、何処でお蝶を見付けたんだぃ」、「はい、お嬢様を見失った和泉橋から、名前を呼びながら歩いてくると、柳原の土手下から女の人に手を引かれて上っていらっしゃいました。思わず抱きしめて、怪我は無いかと調べました。怪我もなく怯えても居ませんので安心いたしました」、「良かったな~」、「その女の人にお礼を言いました。『このお子さんは貴方のお子さんですか?』というので、いえ、甲州屋さんのお孫さんですというと、『お渡ししましたよ』と言って、所も名前も言わずに、何度も声を掛けたんですが人混みの中に・・・」、「で、お年頃は?」、「二十二三で・・・」、「お顔立ちは?」、「手ぬぐいを口にくわえて吹き流しにして、化粧の濃い人で、私を見ると逃げるように行ってしまいました」、「二十二三の女性か、それだけでは探しようがないな」。

 霊岸島の寮では、お蝶が無事だったというので、焼け出された家とは思えぬ明るさです。「この寝顔、少しも怖さを感じていないな。恐かったかと聞いたら『お姉ちゃんが、抱いていてくれたから恐くは無かった』と言うんだ。伜や、探し出して充分なお礼をしなくちゃな~」、「お礼と言いますが、考え物ですよ。2年前の大火の時、京橋の薬問屋の一人息子が行方知れずになりました。その時投げ文で、『子供は預かっているから、100両と引き替えで渡す』と言うので、100両持参すると金だけ取られて子供は帰ってこず。騙されたのでございます」、「それがどうしたと言うんだ」、「だから、その女もお蝶をさらって金にするつもりじゃなかったんですか」、「まさか、お前・・・」、助右衛門、口ではこー言ったが、もしかしたら・・・、と言う気持ちもあった。

 翌日の昼過ぎ、八丁堀の町同心で定廻りの加太参七の屋敷を訪ねた。孫の経緯を述べ、その女性を探してくれるように願った。
 年が明けて文政の7年の正月、参七が岡っ引きを一人連れてやって来ました。
 「甲州屋、捜している女が見つかったぞッ」、「ありがとうございます。で、何処のどなた様で・・・」、「その前に、念を押しておきたい事が有るんだ」、「何なりと、大事な孫娘の命の恩人ですから」、「甲州屋に応じたお礼をしてやるかぃ」、「家が燃えた人でしたら、建ててあげましょう。また、生活が困っていたら、当面はお手伝いいたしましょう」、「さすがは甲州屋だ。これで安堵した。そんな大仰な事で無く、女ひとりを地獄から救って欲しい」、「と、申しますと・・・」、「夜鷹なんだ」、「えッ、夜鷹ッ」、「顔色が変わったな。卑しい女に一晩中抱かれて居たのが気になるか」、「いえ、そんな事は・・・」、「化粧が濃く、手ぬぐいを吹き流しにしている、あすこは夜鷹の稼ぎ場所だ。本所から来るのは、手ぬぐいを吹き流しにしている。鮫が橋から来るのはゴザを抱えている、その違いがある。本所の吉田町を洗ったら、ホウロク横町に住むお竹が逃げ遅れて柳原土手で小さくなっていたと言うんだ。その時、泣きながら歩いて来た、お宅の孫娘が居たので・・・。聞けば身延の百姓の娘で国に同じぐらいの子供を置いて江戸に出て来たんだ。残してきた子供と同い年の子を、火の粉を除けながら、一晩中抱いていたと言う訳だ」、「そうでございますか。その夜鷹は甲州屋の孫娘と知って・・・」、「知っちゃ~いないよ。自分の子供と同じ年頃だから・・・」、「家族を呼びますから今暫くお待ちください」。

 締まり屋の息子の意見で、皆を押さえつけたようです。「旦那、子供の服装をみれば大家の娘だと解ります。後で押しかけることも出来ます。チョットお待ちください。夜鷹なら2両も出せば充分と存じます。ね~、おとっつあんッ」、「夜鷹のお竹の借代は1両もあれが済むんだ」、「そうですか、それでは1両で良いんですか」、「チョットお待ち、その1両もおいらの一存で断ろう。びた1文も要らないよ」、「何かお気に障りましたか」、「お前達は、夜鷹と聞いて、その心まで卑しいと思うのだろうが、お前さん達の方がよっぽど汚いようだな。自分の子じゃ無いのに、一晩中火の粉から逃げ回った、お竹の気持ちが分からないのか。渋々1両貰った金より、今の仕事をさせておく方がよっぽどお竹の為になる。俺はもう、用は無い。アバよ」。

 それから3日程経った後です。吉田町から、自由になった夜鷹のお竹が旅支度姿で、一人参七の言葉をかみしめてやって参りました。「お竹、霊岸島の方に頭だけは下げて行きなよ。5両もくれたのも甲州屋のお陰だ。国に帰ったら地道に働き、甲州屋のことは忘れるんじゃ無いぞ。あの子の名前はお蝶と言うんだぜ」。他のことは何にも聞かせませんでした。

 白い物がチラチラと落ちてきた春の朝でした。




ことば

村上 元三 (むらかみ げんぞう);(1910年3月14日 - 2006年4月3日)、小説家。この落語「春の雪」の作者。(96歳没)。
 1934年、「サンデー毎日」懸賞小説で選外佳作となった『利根の川霧』でデビュー。浅草の剣戟俳優・梅沢昇の脚本を書いているうち、梅沢の紹介で小説家・劇作家の長谷川伸を知り、師事する。
 1941年には長谷川主催の雑誌「大衆文芸」に掲載された、『上総風土記』で直木賞受賞。 戦後に朝日新聞夕刊に当時タブーであった剣豪小説『佐々木小次郎』を1年程掲載。大衆文学復興の旗手となる。北方もの、人物評伝もの、伝奇もの、海洋冒険もの、芸道もの、股旅もの、お家騒動ものと、多彩な作品を執筆した。代表作に『水戸黄門』『勝海舟』『次郎長三国志』などがある。
 1954年下半期から1989年下半期まで、30年以上の長きにわたり直木賞の選考委員を務めた。2015年現在、最長在任記録となっている。
 1966年度NHK大河ドラマとして放映された『源義経』では自ら脚本も担当している。

 1934年 サンデー毎日大衆文芸賞佳作入選
 1941年 第15回直木賞
 1965年 NHK放送文化賞
 1974年 紫綬褒章
 1981年 勲三等瑞宝章

文政の6年、暮れの12月25日の火事;江戸は火事早い所でした。特に冬場の乾燥した北風、俗に”赤城下ろし”と言われた強風にあおられ、大火になることが多く、明暦の大火では10万人以上の焼死者が出る大災害になっています。小さな火事でも多発して、大岡越前守の時に、江戸に火消し制度を作りました。それでも、冬場の江戸は火事が多かった。江戸の火事については、落語「二番煎じ」に詳しい。
 この噺の文政の6年、暮れの12月25日の火事は、噺の中のフィクションです。と思ったら、徳川の公式記録・続徳川実記によると、『12月25日、江戸に大火、外桜田から麹町・赤坂まで延焼』と有ります。
また、同年8月17・18日江戸の風水害、大津波起こる、とあります。災害が多かった年です。

 作者不詳ですが、明和九年、目黒行人坂の大火直後に画かれたもの

麹町から外堀を越えて、神田川まで焼き尽くす大火;噺と現実の被災地は少し違うようですが、噺の筋に沿っていきます。

 

「鎭火安心圖巻」は、国立国会図書館特別文庫の所蔵史料。 右側の風呂屋の2階では慌てて逃げる用意をしている。左側の蔵には土で目塗りしている。町人達は家財道具を運び出しています。 

霊岸島の寮(れいがんじょま りょう);東京都中央区東部、隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川一、二丁目にあたる。
 江戸時代初期には北の箱崎島 (現日本橋箱崎町) とともに江戸中島と呼ばれたが、南北の新川の開削により分離。1634年幕府は蝦夷(えぞ)地物産会所を設置、塩ザケ、コンブなどの専売を営んだ。地名は寛永元年(1624) 霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来。寺は明暦の大火後、深川に移転し、霊巌島とも書いた。以後町家、門前町として発展した。また海上交通の拠点でもあり、上方からの酒を扱う問屋が集中していた。現在でも当時の面影が残っていて酒問屋は多く、商業地区となっている。
 寮とは、この霊岸島にあった、別荘。避難用別邸。

神田和泉町(かんだいずみちょう);江戸時代は武家地であり武家屋敷が存在していた。明暦の大火直前の『新添江戸之図』では、西から順に伊勢国津藩藤堂和泉守家上屋敷、信濃国松本藩水野出羽守家屋敷、旗本中根壱岐守の屋敷が確認できる。中根家は次代で次男正章が中根宇右衛門を名乗って分家し、屋敷を継いだ。江戸時代中期には北東部に出羽国庄内藩酒井左衛門尉家中屋敷が加わり、水野家屋敷が移転した。
 安政6年(1859)神田於玉ヶ池から藤堂家屋敷北の伊東玄朴邸に種痘所が移転した縁故で、明治元年(1868)7月、藤堂家屋敷跡に医学所仮病院が設置され、横浜軍陣病院の機能が移転、大病院と称した。大病院は幾多の変遷を経て東京医学校となり、明治9年(1876)本郷本富士町に移転した。 明治42年(1909)3月、第二医院跡に三井慈善病院(現・三井記念病院)が設立された。
 最初にも書いたが、ここは武家地で町人地では無いので、噺の材木問屋甲州屋はこの地には無かった。

鳶頭(とびかしら);鳶の者の長。かしら。 現代の鳶頭のルーツを遡ると、江戸時代の町火消制度に辿りつく。享保3年(1718)、南町奉行大岡越前守が「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」と発令。武士による武家火消し(大名火消し・定火消し)だけが存在していた江戸の町に、このときはじめて町人から成る町火消組合が誕生した。
 鳶の中で「鳶頭」と呼ばれるのは各組の三役(組頭・副組頭・小頭)で、彼らは赤い半纏を着ることが許される。

冥加金(みょうがきん);江戸時代の雑税の一種。本来は商・工・漁業その他の営業者が幕府または藩主から営業を許され、あるいは特殊な保護を受けたことに対する献金をいったが、のち幕府の財政補給のため、営業者に対して、年々、率を定めて課税し、上納させた金銭。

町火消し(まちびけし);享保3年(1718)10月に、町奉行大岡越前守忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。
  町火消には、はじめ町の住民があたり、これを「店(たな)人足」といいました。当時は破壊消防が中心でしたから、これに慣れない素人があたるのでは効果もあがらず、怪我人も少なくありませんでした。また、町民はそれぞれ生業を持っていましたし、自己の財産を守らなければなりませんでしたので、店人足に出るのを避けるようになりました。このため町では、破壊消防に慣れた鳶職人を雇って店人足に混ぜて使うようになりました。のちにはこの鳶職人が町火消の主体となっていき、町では鳶職人を町抱え、または組抱えにして常備するようになりました。
  町火消の装備や鳶職人の賃銭は、地主が所持家屋敷の規模に応じて負担する町入用から支出されました。町火消が江戸の消防組織の中心となっていくにしたがい、その費用も増大していきました。
 農山漁村文化協会発行「大江戸万華鏡」より防火対策と消防システムから引用
 上図:江戸の町火消しの活躍風景。

節季(せっき);盆・暮または各節句前などの勘定期に差し入れ、祝儀を出した。

小柳町(こやなぎちょう);東京都神田区小柳町(こやなぎちょう)、1933年の関東大震災後の町名改正に伴って廃止された。現在は千代田区神田須田町の一部となっている。神田須田町の靖国道路の中央線ガード下辺り。柳原土手にある柳原神社の近くの町で、氏子町会です。

自身番(じしんばん);江戸時代の江戸・大坂・京都などで各町内の警備のため設けられていた番所。町方により維持されていた。はじめは各町の地主が自身で順番に詰めたところからこの名がある。のち家主や雇人が詰めるのが普通となった。江戸では市中を二十一番組に分け、組ごとにいくつかの番小屋を町の要所に設け、その費用は町入用より支出した。その数は嘉永三年(1850)には994ヵ所であった。
  自身番の多くは屋根に火の見を設けてある。枠火の見で、建て梯子(はしご)をかけ、半鐘を吊してあった。総高は二丈六尺五寸、枠の高さは三尺五寸、幅三尺五寸四方、一丈五尺の建て梯子を枠内に建てたものである。自身番屋内に纒(まとい)・鳶口(とびぐち)・竜吐水(りゅうどすぃ)・玄蕃桶(げんばんおけ)などの火消道具が備えてある。半鐘の合図で火消人足らが町役人とともにまず自身番屋にかけつけ、ここで勢揃いしてから火事場におしだした。
 右図:屋根の上に火の見を乗せた自身番。消防博物館より

和泉橋(いずみばし);東京都千代田区を流れる神田川に架かる、昭和通り(国道4号)の橋。左岸(北側)は神田佐久間町1丁目および神田佐久間河岸、右岸は神田岩本町および岩本町3丁目となる。
 本橋の北側に伊勢国津藩藩主の藤堂和泉守の屋敷があったことからこの名がついた。寛永年間の江戸図には「いつみ殿橋」の名で記されている。 現在の昭和通りにあたる道は当時は狭く、和泉橋通りの名で呼ばれていた。現在でも通りを北に200mほど行った東側に神田和泉町の地名が残る。

柳原の土手(やなぎはらのどて);神田川の神田万世橋から下流の柳橋まで、神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.3km弱の土手に柳が植えられ、その通りに、土手を背にして床店が並んでいた。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。
  明治になっても、古着(現在でいう既製品を含む)を扱う店は、呉服屋(越後屋など正式に着物を仕立てて売る)と比べて、圧倒的な数の差があり、ちなみに、明治9年(1876)、東京府内の呉服屋188軒に対し、古着屋は2231軒もあったと記録されています。 現在の秋葉原、柳原土手の露天商で、土手下に古着屋がひしめきあっていて、そこには江戸の庶民だけでなく出張のお侍や旅人、同業の古着屋が寄ってきて着物を仕入れました。
  この市場の主な機能は、小売店や旅商人を相手にした、いわゆる卸売であった。それと平行して、個々の床店における素人相手の小売も行われていたことはほぼ間違いない。このように、売り手・買い手ともにプロフェッショナルな商人である以上、これまで喧伝されたような詐欺的な商売の横行といった状況は、そんな商売が一部にはあったとしてもありえない。こうした柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある富沢町(日本橋富沢町)市場と肩を並べさらにはそれを凌駕する卸売市場として発達を遂げていた。明治前半にはこの柳原土手通りの市場をもとに岩本町古着市場がつくられ、ここが東京の古着流通における最大の拠点となった。現在の岩本町、馬喰町、横山町の衣料品問屋街です。
 落語「長襦袢」より孫引き

 

 上図、「柳原土手」。『吾妻遊』 喜多川歌麿画。 土手際に床店の古着屋が並んでいます。

八丁堀(はっちょうぼり);東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる地域内。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年幕府によって、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになった。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれにちなむ。

町同心(まちどうしん);江戸時代、江戸の町奉行所付属の同心。年番方・本所見廻・養生所見廻・牢屋見廻・吟味方・例繰方(れいくりかた)・高積(たかづみ)改など町奉行の各課に配属され、主管の与力を補佐したが、隠密廻・定(町)廻・臨時廻などのように、同心だけで管轄することもあった。
 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた。江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織り姿で懐手、帯に差した十手の朱房も粋な庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
  初期には江戸町奉行板倉四郎右衛門勝重の配下として与力10人、同心50人から始まって後、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増員し、両町奉行所に別れて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。

定廻り(じょうまわり);定町廻り。江戸時代、町奉行配下の廻り方同心の一隊。南北両町奉行所同心各4名からなり、江戸の町方を大体四筋に分け定まった道筋を巡回し、犯罪の捜査および犯罪者の逮捕に従った。隠密廻り・臨時廻りとともに三廻りと呼ばれた。
 江戸時代、大坂町奉行所の一分課。与力・同心のうち交代で任命され、市内を巡察し、犯罪の捜査・摘発にあたったもの。

岡っ引き(おかっぴき);江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などで警察機能の末端を担った非公認の協力者。
 正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州では目明かし(めあかし)、上方では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。岡とは脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから岡っ引と呼ばれた。また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった。 本来「岡っ引」という呼び方は蔑称で、公の場所では呼ばれたり名乗ったりする呼び方ではないが、時代小説や時代劇でこのように呼ばれたり表現されたりすることが多い。
 岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。

身延の百姓の娘(みのぶのひゃくしょうのむすめ);身延町は、山梨県の南部に位置し、中央を北から南に日本三大急流の一つである富士川が流れ、その支流として、早川、常葉川など大小の河川が流れ込んでいます。平坦部分は富士川沿いと支流の中流域から下流域及び合流付近に広がっており、富士川の東側をJR身延線が、西側を国道52号が南北に通っており、国道300号が町を東西に延びております。
 また、富士川を挟んで東西それぞれに急峻な山岳地帯が連なっており、町の北には西嶋和紙の里が、南には身延山久遠寺が、東には下部温泉郷や富士五湖のひとつである本栖湖があります。
 落語「鰍沢」で立ち寄った地で、江戸時代交通が不便で地域の発展が阻害されてきた。田も作れず、貧しい暮らしが続いたので、子供も居るのに江戸に出されたが、夜鷹になってしまったお竹が悲惨です。

夜鷹(よたか);江戸の”夜鷹(よたか)”が京では”辻君(つじぎみ)”、大坂に行くと”惣嫁(そうか)”と名が変わります。暗い所から「チョイと、お前さん、遊んでいかない」と声を掛ける女子衆(おなごし)です。
 江戸で、夜間、路傍で客をひく下等の売春婦の称。夜鷹という実在の鳥の鷹は夜行性で、夜になると活動したので、そこから夜の辻君を夜鷹と言った。行商の蕎麦屋を、深夜徘徊する鳥の夜鷹だからとか、夜鷹が深夜食べる蕎麦だから夜鷹蕎麦とも言われた。その頃の川柳に「客二つ つぶして夜鷹 三つ食い」、蕎麦が16文で三杯分と、夜鷹の稼ぎ2人分48文が等しかった。
 化粧が濃く、手ぬぐいを吹き流しにしている、柳原の土手は夜鷹の稼ぎ場所だ。本所から来るのは、手ぬぐいを吹き流しにしている。鮫が橋から来るのはゴザを抱えている、その違いがあった。
 落語「秋葉っ原」に詳しく出ています。

本所の吉田町(ほんじょ よしだちょう);墨田区蔵前橋通り、落語「中村仲蔵」で歩いた報恩寺橋。その西側、石原四丁目中央。そこから出張するのが、両国の薬研堀、神田の筋違い橋、駿河台、護持院が原、それにここ柳原の土手。大事なことは夜になっても人通りはあるが、一応静かな所を適地とした。
 右上図;花・月・雪から「三美人・雪」豊国画 吉田町に立つ夜鷹。

鮫が橋(さめがばし);新宿区南元町東部。赤坂御所(当時・紀伊和歌山藩中屋敷)の南元町交差点前の鮫が橋門に小川が流れていてそこに架かった橋を鮫が橋と言った。御所の西側の坂を鮫が橋坂と言い、下がりきった所が鮫が橋、そこを右に曲がると鮫が橋○○町という町が並んでいた。そこから同じように夜鷹は番町、四ツ谷堀端、牛込桜ノ馬場、愛宕下、それに柳原の土手に散って行った。
 
右図;歌麿描く夜鷹。こんな綺麗な夜鷹は通常居ません。

春の朝(はるのあさ);この噺は全て旧暦での噺です。春は立春からですから今の暦で2月4日、その翌日が正月です。梅は咲いたでしょうが、まだまだ寒さは抜けきっていませんので、小雪がちらつくこともあるでしょう。お竹の心は梅の花のように春満開です。



                                                            2019年10月記

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