落語「にゅう」の舞台を行く
   

 

 柳家喬太郎の噺、「にゅう」(にゅう)より


 

 駒形に半田屋長兵衛という茶器の目利きがいた。

 「貴方お迎えが来ました。中橋の万屋土左衛門さんです」、「金に飽かして、道具を買って見せびらかしているという。その様な所には行きたくないな。誰か代わりはいないかな」、「貴方に変わる人なんていませんよ」、「そうだッ、八吉(やきち)を遣ろう」、「ダメですよ。バカですよ」、「バカは知っているよ。主人だ」。
 「こないだも、地主の婆やさんが坊ちゃんをあやしていたんですよ。そしたら、八吉が坊ちゃんの口に何か入れているんです。よく見たら八吉のかかとの皮ですよ。また、温厚な源兵衛さんを怒らしたんですよ。あんな奴を遣っちゃいけませんよ」、「それを聞いたら、益々行かせたいね。私の名代では無く半田屋長兵衛として行かせるんだ。こんなバカだったのかと、二度と呼びに来ないだろう」。
 「こっちに入りな。立っていないで座りな。源兵衛さんを怒らせたんだって」、「教えてやったんだ」、「お前がか?」、「源兵衛さんが痔で困るというので、銭亀を紐で吊して、おケツの周りで振ってご覧、『亀(雨)振って痔(地)固まる』。源兵衛さん怒った」。

 「今日は半田屋長兵衛になって使いに行ってきな」、「この店、譲ってくれるんだ」、「店は譲らないよ」、「向こうに行ったら表から入るんだ。土左衛門さんに会ったらチャンとお辞儀するんだ。そしたら、見せてくる物が有る。松花堂のすすぎの三聖だ、まず箱から褒める。箱は小堀権十郎様、松花堂無類の作でございます。かよう名品を見ますと目の修行になりますと、卑下をする」、「髭をする?」、「向こうが驚くからおやめよ。そうすると『先生、お引き取りは?』と聞いてくる、値打ちを聞いているんだな。そこで”にゅう”を付けてやんな」、「?」。
 「お前奉公に来ていて”にゅう”を知らないなんて・・・、道具屋の符丁でキズを言うんだ。キズを付けるんだ」、「破いてしまうのか?」、「絶対にするな。これはご祝儀には使えません。孔子に老子に釈迦で、釈尊が入っているので祝儀には使えません残念なことです。これが”にゅう”を付けると言うことだ」、「にゅ~う~う」、「解っていないのだな。その後で腰の物が出る、少しだけ抜いてみる、あげものだと言ってにゅうを付ける。その後にお薄が出るが作法なんか気にしないで飲む。その前に口取りと言って季節の栗饅頭が出るだろうな」、「好きだけれど、1個か」。
 ヒダの抜けた袴を前後逆に履いて、雪駄と草履をびっこに履いて、ぼうぼうの頭で出掛けた。「出来たが、これが私か・・・。つらいが、二度と呼びには来ないだろう」。

 表から行けば良かったが、庭から回って、建仁寺の綺麗な垣を壊して入っていきます。中庭の萱門の閂(かんぬき)を壊して入っていきます。手入れされた下草を踏みつけ、苔むした所で滑って、手にした松の枝を折って、灯籠を倒してしまった。囲いの部屋で土左衛門さん銀のサジで香道を楽しんでいた。張り直した障子に指で穴を開けて覗いた。何か食べていると勘違い。

 「誰だね。穴なんか開けて覗くのは」、「半田屋長兵衛~」、「アッ、先生ですか。裏から来るなんて・・・、これが風流なんですね。どうぞお入り下さい」、「半田屋長兵衛~」、「分かりました。庭のそれは先生が・・・、風流ですね。今日は先生のお話を伺って・・・」、「話は有りますよ。銭亀に紐を結わえてお尻の周りで振らすと、亀振って痔固まる。ははは」、「何でございましょう」、出がけに聞いてきたことを、無秩序に並べて話した。
 「何のことでございましょう。チョットはばかりに・・・」、土左衛門さん何が何だか分からないので、はばかりに逃げて行った。「逃げて行っちゃったよ。そうだ、先っき食べていたの食べちゃお~」。
 香炉の所に行って、銀のジャジで、思いっきり火をすくい上げ、「これだこれだ、煙が出ていて旨そうだ」、思いっきり口の中に入れたものですから、「アチチ、アチチチ・・・」、部屋に戻ってきた土左衛門さん、これを見て、「風流は難しい。先生、その様な物をお口に入れたらキズが出来ますよ」、
「いやいや、にゅうが出来ました」。

 



ことば

柳家 喬太郎(やなぎや きょうたろう);(1963年〈昭和38年〉11月30日 - )は、東京都世田谷区出身の落語家。社団法人落語協会所属。本名は小原 正也(こはら まさや)。日本大学商学部経営学科卒業。出囃子は「まかしょ」。紋は「丸に三つ柏」。通称「キョンキョン」(自称)。
 日大落研では度胸をつけるために「ストリート落語」をしたり、失恋して最も傷ついた相手の女性の名を叫ぶなどの荒修行をおこなった。落語づけの毎日で、老人ホームの慰問や成人式の催しで落語を演じ、そのため自分の成人式には出なかったということさえあった。4年生の時には関東大学対抗落語選手権で優勝した。また、大学在学中に本名でフジテレビ「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」に「悪い下宿人」として出演している。
 1989年(平成元年)10月、人情噺で知られる柳家さん喬に入門する。新作落語の旗手である三遊亭圓丈から強い影響を受けながらも、正統派の落語を学ぶためにさん喬を師匠に選んだといわれている。初高座は1989年12月29日、新宿末広亭で「道灌」を演じた。 喬太郎は、「夜の慣用句」や「ほんとのこというと」「午後の保健室」などをはじめとする数々の新作落語で知られるが、師匠譲りの古典落語も巧みに演じる。現在では人気落語家の一人に数えられる存在である。
 1998年(平成10年)、NHK新人演芸大賞の落語部門で新作落語「午後の保健室」を演じ大賞を受賞し、一躍名を知られることとなった。2000年(平成12年)3月に林家たい平とともに12人抜きで真打に昇進した。 2003年(平成15年)、春風亭昇太らとともに「SWA(創作話芸アソシエーション)」を旗揚げした。2009年(平成21年)発行の『今おもしろい落語家ベスト50』(文春MOOK)では第1位に選出された。2013年(平成25年)6月5日、東京お台場のライブハウス"Zepp DiverCity"で開催された初の落語会に桃月庵白酒、柳家三三とともに出演、「そば清Q」を演じた。

 1989年(平成元年)10月 - 柳家さん喬に入門、前座名「さん坊」。
 1993年(平成5年)5月 - 二つ目昇進、現在の「喬太郎」に改名。
 1995年(平成7年)- 「第一回高田文夫杯お笑いゴールドラッシュII」優勝。
 1998年(平成10年) - 平成10年度「NHK新人演芸大賞」落語部門大賞受賞。
 2000年(平成12年) - 平成11年度「彩の国落語大賞」技能賞を受賞。
 2000年3月 - 真打昇進(12人抜き)。
 2002年(平成14年) - 平成13年度「彩の国落語大賞」大賞を受賞。
 2004年(平成16年) - 平成15年度 国立演芸場「花形演芸会」銀賞受賞。
 2005年 - 2007年 - 平成16年度・17年度・18年度国立演芸場「花形演芸会」大賞を3年連続で受賞。
 2006年(平成18年) - 平成17年度 文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)を受賞。
 2014年(平成26年) - 落語協会理事に就任。

 ウイキペディアよりピックアップ

駒形(こまがた);江戸浅草寺の南方、駒形堂付近の地区名。今、駒形一~二丁目(東京都台東区)・駒形橋などの名称が残る。こまかた。
 「きみは今、駒形あたり ほととぎす」 吉原の高尾太夫が仙台公に宛てたラブレターの名句が残る駒形です。
 右写真、「駒形堂」。奥が隅田川、その右に駒形橋が有る。

目利き(めきき);器物・刀剣・書画などの良否・真贋(シンガン)を見分けること。鑑定。また、その人。

中橋(なかばし);現在の中央通りと東京駅から出る大通りが交差する「通り三丁目交差点」に有った橋。江戸時代後期の切り絵図(地図)には既に川も橋も無く、江戸の初期には有ったと言うが、切り絵図には「中橋広小路」との町名が有るだけです。
 ここから北に行くと距離の起点日本橋です。この道は、南に行くと京橋を超えて、今の銀座、新橋を超えると、京都まで続く東海道です。

 

上図:『江戸名所図会 1巻』より「中橋(なかばし)」 斎藤長秋(さいとうちょうしゅう)編 長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5~7年(1834~1836)刊。 

土左衛門(どざえもん);(享保1716~1736頃の江戸の力士、成瀬川土左衛門の身体が肥大であったので、世人が溺死人の膨れあがった死体を土左衛門のようだと戯れたのに起るという) 溺死者の遺体。
 この噺では、同名の中橋の万屋土左衛門さんです。

名代(みょうだい);人の代りに立つこと。代理。また、その人。

■銭亀(ゼニガメ);クサガメまたはニホンイシガメの幼体のことで、ペットとして飼われることがある。夜店の屋台などで売られている時点では体長が数cmであるが、成体まで成長できれば20cm程度まで大きくなる。陸と水を作った入れ物で、煮干しなどを与えて飼育される。丸い甲羅が江戸時代の硬貨である銭に似ていることから、銭亀と呼ばれた。海亀、亀の子と並んで夏の季語でもある。俳句などに取り上げられていることから、少なくとも江戸時代(このころの銭亀とはニホンイシガメをさす)には広く知られていたことが分かる。銭亀とはもともとニホンイシガメの幼体のことであったが、現在はニホンイシガメの数が減少しているため、クサガメ の幼体を銭亀とよんで販売している。両者とも、尾が長いことだけ共通している。

 

 写真、ゼニガメ。

小堀権十郎(こぼり ごんじゅうろう);江戸前期の茶人。徳川幕府の旗本。名は政尹、号は篷雪。小堀遠州の三男。はじめ母方の姓浅井氏を名乗るが、のち小堀氏となる。父の後を承け、千石を領した。茶道・書道を父に学び、また画・狂歌にも秀でた。元禄7年(1694)歿、70才。
 父小堀遠州(こぼり‐えんしゅう。1579~1647)。江戸前期の茶人・造園家。名は政一。宗甫・孤篷庵と号。近江国の人。豊臣氏および徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。遠江守であったので遠州と称。茶道を古田織部に学び、遠州流を創め、徳川家光の茶道師範。和歌・生花・建築・造園・茶具の選択と鑑定に秀でた。

松花堂(しょうかどう);江戸時代初期の僧侶(石清水八幡宮の社僧)で文化人であった松花堂昭乗がその晩年の寛永14年(1637)に構えた草庵の名称。現在の京都府八幡市、石清水八幡宮のある男山の東麓に泉坊という宿坊があり、その中にこの草庵があった。
 男山には石清水八幡宮に所属する宿坊が多数建っており、「男山四十八坊」とも呼ばれたが、明治初年の神仏分離で宿坊はすべて撤去され、松花堂も旧所在地の南方に移築。現在は「松花堂庭園・美術館」(京都府八幡市八幡女郎花43番地)という文化施設となっており、財団法人やわた市民文化事業団が管理運営している。現・松花堂は、移転前の旧地とともに「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されている。右写真、松花堂庭園。正面に見えるのが 萱門。

三聖(さんせい);世界の三人の聖人。 釈尊・孔子・キリスト。この噺では、孔子に老子に釈迦。

にゅう(「入」と言う字を充てる);道具屋の符丁でキズを言う。

道具屋の符丁(どうぐやの ふちょう);各同業者同士が分かる合図の隠語。あいことば。例えば値段等の数の数え方などは業者内でしか分かりません。当然道具屋仲間の符丁も有って、「にゅう」もこの一つです。
 「ション便は出来ない」、落語「道具屋」に出てくる有名なフレーズで、ひやかしの客を言います。

祝儀(しゅうぎ);祝いの儀式。特に、結婚式。

お薄(おうす);薄茶 ともいう。大寄せの茶会や禅寺のもてなしには、一人一椀ずつの薄茶を点てる。茶事の折には薄茶の前に「干菓子」(ひがし)を出すが、濃茶を出さない茶会やもてなしでは生菓子を出すこともある。

建仁寺垣(けんにんじがき);竹垣の一。四つ割竹を垂直に皮を外側にしてすきまなく並べ、竹の押し縁(ぶち)を水平に取り付け、しゅろ縄で結んだもの。建仁寺で初めて用いた形式という。けんねんじがき。

 上写真、公園の外壁に設置された、建仁寺垣。

萱門の閂(かやもん かんぬき);庭園・数寄屋の露地の入り口などに設ける茅葺(ぶ)きの簡素で風雅な門。
 その門の扉に施されたカギ。門戸をさしかためるための横木。門扉の左右にある金具に差し通して用いる。かんぎ。城門の内側には大きな閂が有ります。右写真、内側から見た、かんぬき。

はばかり;便所。

香道(こうどう);香をたいて楽しむ芸道。香合(コウアワセ)・薫物合(タキモノアワセ)などの香遊びは、室町末期から茶道の創成と重なりながら、文学と結びついた組香中心の香道に成長した。
 沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道。近年、文化の復興が目覚ましい中国や台湾、韓国などで「中国香道」「台湾香道」「韓国香道」などと「香道」という文言を使用しているが、「香道」自体は日本独自の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。 香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。大自然の恵み、地球に感謝し、そして彼らが語りかけてくる事を聞き取らなければならないと考えるのである。
 香匙〈こうさじ〉 匙の部分は銀などの金属製で、花の形などさまざまある。柄は象牙・桑・唐木。長さ16cm位。香木を香包よりすくい、銀葉にのせる。決してこれで炭を取り出して口に入れてはいけない。



                                                            2019年10月記

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